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たくさんの大好きを。

眠らない街で会いましょう (文

2021.03.09 05:08

「ちょっとはそこで頭冷やしてろ!」

 肩を突かれて、店の外に追いやられると、乱暴に扉が閉まる音が響いた。

赤や青や光の渦が汚いものも飲み込んでいく。

こんな風に地べたに座り込み、片足からヒールが脱げかけていても、少しだけの関心を向けながらまた誰もが足早に過ぎていく。

 流れる人の波をスローモーションのように感じながら、ぼんやりと眺めていると、綺麗に磨かれているハイヒールの先が視界の先に映り込んだ。

「大丈夫? 立てる?」

 誰かに声をかけられるなんて思っていなかったから、掛けられた言葉に直ぐには反応できずに確かめるように顔を上げると、差し出された透き通るような白い手と、少しだけ眉を下げて心配そうに覗き込む薄茶色の瞳に出会う。

とても色素が薄い人だと思った。

 いつかの日に遠目で視界に映り込んできた時には確かこの街では誰もが知っているあの大柄な男と一緒だった。

あの時とは少し印象が違う。

 色づく頬は白い肌によく映え、濃く引かれたルージュは整った顔立ちを引き立てている。

人で溢れかえったこの街を、跳ねるように、眩しいほどに健康的な屈託のない笑顔を浮かべていた様が、鮮明に脳裏に過った。

「か、おりさん?」

鳶色の瞳が、大きく見開かれる。

「あたしのこと、知ってるの?」

「前に……見かけた事があったからーー」

「……でも、名前? ……ね、あなたは?」

 バンと扉が勢いよく跳ねる音とともに、ヒステリックな声が不快感を伴いながら耳に届き、思わず香が顔をしかめる。

「お前なんかに指名だとよ! さっさと入ってきやがれ!」

 店の黒服と思われる男の投げ捨てるような言葉に、よろよろと立ち上がる少女の前に、スッと香が立ちはだかる。形の良い眉がピンと上がり、白い頬に施された化粧とは違う、色が増していく。

「やめなさいよ。こんなまだ幼い子相手に」

「なんだあ? お前!」

今にも掴みかからん勢いで、黒服の男が威勢を張る。

「揉め事になるとそっちが困ると思うんだけど? この子、まだ18にもなってないんじゃない? どうして働かせてるのかしら」

 黒服の男が一瞬言葉に詰まりながら、舌打ちをして苦々しく香を睨みつける。

街の喧騒を背に揉め事など日常茶飯事だとばかりに、香は瞳を逸らさず顔色を変えない。

 少女は思う。

どうしてこんな風に私という会ったこともなかった人間の為にしなくてもいいはずの面倒に向かっているんだろう。

 心は虚無だ。

正直どんな扱いを受けようと、今が過ぎれば良かった。

 熱さなんかいらない。繋がりなら携帯の中に詰まっている。それで充分なのに。 

「……じゃああんたがこいつの代わりに店に出てくれるのかよ? それならこいつを解放してやってもいいぜ。あんた上玉だし、うちのオーナーも二つ返事だと思うぜ?」

頭の中で算段した答えは、稼げる方に狙いをつけろ。だったらしく、変わり身の早さなど当然だとばかりに、提案を投げつけてくる。

 この街はそんな街だ。

隙間を縫うように上手く渡り歩ける者ほど生き残る。

 まあ、よくあるパターンよね。と香が独りごちる。

ただ、対象が自身だということに苦笑いが漏れる。訳あっていつもとは違う格好をしている事で、夜の女というカテゴリーにふるい分けされている事が慣れなくて、ため息が溢れた。 

「確かにこの子が望まないかもしれない揉め事を起こすのは、得策じゃないのかもね。ねえ、あなたいくつなの?」

 感情の見えない瞳を向けた少女の口から答えは紡がれない。 

「ねえ? このままここで警察沙汰になることをあなたは望むの? 少し色々聞かれるかもしれないけど、自由になれるわよ」

早くしろと黒服の男が苛立った様子で二人を見据える。

「お前に入った指名客が待ってんだよ。早く決めろよ」

「煩いわね。警察沙汰になったら困るくせに。少しぐらい待てないの?」

「客は待ってはくれねーんだよ!」

「……分かったわよ。無理やりなやり方はあたしも嫌だから、とりあえず今はこの子の代わりにお店に出るわよ。でも指名客なのにあたしでいいの?」

「相手の客は綺麗な顔した女なら誰でもいいって奴だから大丈夫だろ。そこはあんたが上手いことやってくれんだろ?」

 舐めるように下から上まで視線を這わせていく黒服の男に不快感が募っていく。ちらりと少女の表情を伺うが、相変わらずの無気力な様子に腹を括る。

「できるかわかんないけど、相手に合わせてみるわよ。だから、この子はもう働かせないでよね」

 少女の意思はわからない。もしかして香の行動は迷惑なだけなのかもしれない。でも見過ごせないものは仕方がない。

(まあ、いっか……なんとかなるでしょ)


「ば〜か。何やってんだよ、こんなとこで」

 一番バレたくなかった相手の声を頭上から受けて、香の顔が軽く引きつる。

このタイミングでここにいるはずがないんだけど? と無言のままで深い黒の瞳の方へと顔を上げると、仏頂面の見慣れた顔に出会う。

「……特に何も。ここは気にしないで、大丈夫だから」

「な〜にが大丈夫だよ? お前わかってんの?  今は潜入中なんだけど。オシゴト中。だよな?」

 不自然な程視線を合わさない香の顔をぐいと覗き込みながら、呆れたように獠が言葉を吐く。

「獠…だって……」

「あん?」

 消え入りそうな香の声にわざとらしく反応する目の前の男がなんだか憎らしいが、仕事中なのは事実なのでいつものように啖呵は切れない。

「りょ、獠だって! 空き時間にナンパでもしにいってるんじゃないの? そ、それに! 次の指定時間まではまだあるはずでしょ?」

「ほーー、そうくるか? 呼んでもお前が反応がねーからまた攫われでもしたかと見に来たんだけど」

「え!?」

獠の言葉に、あたふたと焦りながら耳元のリングタイプのイヤーカフに手を当てる。

「な、何にも聞こえなかったけど」

「あ?……ったく、肝心な時に使えないもん渡しやがって!冴子のヤツ」

苦い顔で、チッと獠が舌を鳴らす。

「ちょ、ちょっとおまえら一体なんなんだ!?

 早くしろよ! あんたが相手にしなきゃいけない客が待ってんだよ!」

 突然に男が現れた途端、繰り広げられた応酬に気圧されていた黒服の男が、明らかに威勢を失いながらも二人の間に割って入る。

ゴリーー

 背中から圧倒的な黒い塊の感情を受けながら、黒服の男の後頭部に押し当てられたものの感覚に、本能的に嫌な汗が流れていく。その正体を男が推し量り、息を呑む。

(これはーー!? なんでこんなものーー)

(まさかーー!?)

 答え合わせのように、脳に浮かんだ可能性に驚愕の表情が浮かぶ。

この街の犯してはならない禁忌を、自らが踏み付けていた事を悟り、発した声はただただ狼狽の色に満ちている。

「し、シティーハンター!? じゃあ……この女はーー」

「そ。おれのパートナー。で? 本気でおれの相棒を働かせちゃったりするのかなあ〜?」 

 おどけた口調だが、瞳は冷たく光る。

何度だって聞かされてきた。

命が惜しければ決して逆らうなと。

 狂気にも似ている瞳の奥の光に、目の前の男の本気を悟り、じりと後ろ側へと自然足が後退りする。

 カツンと小さな鈍い響きと共に、地面に転がる廃棄されていたデッキに足を取られて、黒服の男の体勢が揺らぐ。

逸らすことができなかった視線が逸れた事で冷静さを少し取り戻す。体制を整え、落ち着けと一つ息を吸った。

「……知らなかった事とはいえ、失礼をしました。こちらとしては元々の女を返して頂ければ、それで結構です」

 香の横で立ち尽くすう少女を視界に入れて、淡々と男が話を進める。

少女は特段興味なさげに俯き、掌の中に握られたスマホの画面をじっと見つめている。

まるで人ごとね、と香の眉が緩く弧を描く。

「それはダメ。この子どう見ても未成年よね? それにあんな風にぞんざいな扱いをするような人がいる所に、知らぬ顔で置いていける訳ないじゃない」

挑むように獠に向き合う、引かない香の意思に、はあ……と面倒臭そうに獠が頭をガシガシと乱す。

「……て言ってるんだけど? うちの香ちゃんが」

間延びした声に、黒服の男の口元が歪む。 

「…これはうちとその子との契約の問題です。いくらあなた方といえど、ルールを無視されては困ります」

「フン! どーせ、嘘ばっかりで固めてある契約でしょ? だってまともならそもそもこの子を雇えるはずないじゃない」

「……あなたにそこまで口を挟む権利が?」

「ないわよ。けど、この子に決められないならあたしがまるごと預かるわよ」

「……言いましたね」

「言ったわよ」

屈強な男の睨みにも一切怯むことなく、勝気な瞳を揺らしながら香が言い切る。

「ったく……お前こうなると引かねーからなあ。なあ、店長いるか?」

「奥にいますよ」

「悪いけど、案内してもらえるかな?」       「獠!?」   

戸惑った様子の香が声を上げて獠のスーツの裾を握りしめ、視線を重ねる。

「お前、その子とここで待ってろ」 

「りょーー」

抗議の声など聞かぬとばかりに、唇を塞ぐ。

甘さではなく軽い熱を持つ交わりは、周りの時間をも攫っていく。少女の視線をも縫い付ける。

「待ってろ」

離れ際、香の耳元で囁くように告げると、毒気を抜かれたような黒服の男と共に店の中に消えていく。

残された香には余韻というなの熱がじわりと広がり、灯された火照りに、

「なによ……もう…」

と、印だけを与えていった男へと呟きが漏れる。片側から視線を感じて振り向くと、先程までの無気力な様とは違う、あどけない表情の少女が居た。

「大丈夫?」

「……うん」

返答があった事に、ほっと安堵感を覚えて、思わず笑みが溢れる。

「よかった。ごめんね、なんだか余計にややこしい事になっちゃったかもしれなくて。でも……あなた、この店で働いていたのよね?」

 コクン。と少女が小さく頷く。

「働ける年じゃないわよね?いくつ?」

香の言葉に肩がぴくりと動き、少女が俯きながら答える。

「……十六」

顔を上げようとしない少女に、ねえ、と柔らかい声が届く。

「あなたがどうしてここにいるのかなんて聞かないから。ただあたしはあなたがここにいたいのかどうか知りたいだけ」

 そう言って笑う香に、少女の心の何かがはらりと剥がれていく。

 

 先程のひりつくようなやり取りに、自然目が離せなかった。あの男の人は以前見かけたあの人だろう。パートナーだと言っていた。

ーーシティーハンター    

 この店で聞いた噂が街で見かけたあの二人だと知ったのは、随分経ってからだった。

『XYZってね、あの二人を呼ぶおまじないなのよ』

 詳しい意味は知らない。どうしても助けて欲しい時に縋るおまじないだと聞かされた。

 どうでもよかったけれど、偶然見かけたキラキラとしていた彼女の事は、こんな街にはアンバランスでとても印象に残っていた。

 キラキラと輝いていた彼女は、今日は艶っぽくてなんだかとてもこの街に溶け込んでいる。

「私を連れて行ってくれるの?」

「あなたが望んでくれるならね。大丈夫。きっと獠が話をつけてくれているはずだから」

「りょ…う? あの人? さえばりょう?」

香の丸い瞳が大きく見開かれる。

「あなた、どうして?」

「だって聞いたことあるもの。有名だよ。この街じゃ」

何故そんな顔をされるのか分からないといった

様子で、さらりと少女が答える。

「ん? そっか……まあ、ある意味あいつ、この街で知らない人いないかもね」

「恋人?」

「え?」

 極端的な問いかけに香の頭がフリーズを起こす。

「な、な、なんで?」

「だってキスしてた」

 ストレートな物言いはこの年頃特有なのかもしれない。聞きたいことを違うことなく投げかけてくる。

 一転、大人の香と少女の立場が入れ替わる。

あたふたと目が泳ぐ香は艶やかさをどこかに置き忘れている。

あれは……その……だからっ!と真っ赤になりながら眉を下げる香に、少女の顔に笑顔が浮かぶ。

「…やっと笑った」


 キイと扉を押す音と共に、先程連れ立って消えていった獠がのっそりと顔を出す。  

黒いスーツを身に纏った獠は、悔しいけれど見惚れてしまうほどにいい男だと思う。

熱だけ残していった事に、疼く思いがふつりと胸を撫で拗ねたようにプイと顔を逸らす。

「香? なーに拗ねてんだよ」

 なんでもお見通しなのが腹も立つし、心地がいい。

「拗ねてないわよ。人前であんな事されて怒るならともかく」

「ふーん?……足りなかった?」

 ニヤリと口角を上げ、肩を抱いて香を腕の中に囲う獠は、雄の顔を隠さない。

「な…!? そ、それより大丈夫だったの?」

 この腕の中は自身の場所だと甘やかすように教え込まれてからもう随分と立つが、まだこうやって簡単に胸は跳ねる。跳ねた気持ちを隠すように獠の言葉を促す。

「まあな。おまえが後先考えねーから、いっつもおれ、大変なんだけど? しなくていいヤロー達とオハナシもしなきゃいけなかったしい?」

 口を尖らせ、不貞腐れる獠に、ごめん……と香が反省の色を落とす。

「俺が来なきゃ、お前代わりに連れていかれてたぞ?わかってんのか?」

「わかってるわよ」

「わかってねーよ」

 コツンと軽く額を小突かれて見上げると、少し困ったように瞳を細める獠に、またもう一つ胸が跳ねた。

「……そろそろ行くぞ。あんまり戻らないと、冴子がキャンキャン煩いからな」

 そう言いながら、香のイヤーカフを指の背でなぞる。 

「ん……。そうだね、行かなきゃ。それで、獠、話はどうなっーー」

 獠の人差し指が、香の口に添えられ、少女の方へと視線を移す。

「あー、それは後でな。今説明してる暇ねーから」  

「……分かった」

大人しく香が頷く。

「この子どうすんだ?」

「もういいんだよね? 戻らなくても」

「まあな」 

 獠の言葉に、香の顔が綻び、くるりと少女の方に向き合い伝える。

「もう自由だからね。帰らなくちゃいけない場所、ある…よね?」

 少女は黙ったまま、香の顔をじっと見つめるが、目蓋を落としてまた無気力さを纏う。

少女の変化に気付いた香が確かめるように伏せた瞳を覗き込むと、縋るような震える瞳に出会う。

 隠した本音が少し見えた気がした。

危うさに揺れる瞳と無気力のアンバランスが、この街に飲み込まれていきそうで、瞬時に判断をする。

「獠」

「パス」

「まだ何にも言ってないわよ!」

「お前がそんな顔するときは嫌な予感しかねーんだよ」

 勘のいい男は相変わらず先読みが上手い。

それでも拒絶の言葉は、完全に突き放す冷たさは含んではいない。

 しかめ面をして香の次の言葉に牽制を見せるが、獠は優しいのだ。冴羽獠という男は、とても分かりにくいが最後にはその手を差し伸べる。

「置いてはいけない」

「……仕事中だろうが」

「それでも」

 こんな時に引かない香の性格はよく分かっている。分かっているが故に、ちっと舌打ちを獠が打つ。

「お前な」

「ごめん」

「俺は知らないからな」

 呆れた中にも諦めの色を混ぜながら、獠が背を向け歩き出す。

「時間だ。行くぞ」

「うん」

 その背に遅れないようにと少女の手を取り、目的の場所へと歩みを進める。握る手から伝わる温もりは、こちら側に在るべき存在ではないはずだから。

 

 眠らない街の、色や音や人が溢れる間を泳ぐように通り過ぎていく。見失わないように。優し過ぎる男に甘えた分だけちゃんと、と唇を結ぶ。繋いだ手も離さない。大丈夫。と願いながら少し強く握りしめると、羽織っている上着をギュッと掴む少女の指先が視界の端に映る。香の口元が少し緩む。

  

「あのさ」

「うん?」

 少し先を行く暗闇と同じ色のスーツを纏う存在を瞳で追いながら、片側から聞こえる声を逃さぬようにと耳を澄ませる。

 頭上にあるスピーカーからは、注意文のような決まり事を促す声が絶え間なく流れてきて、今日はやけにピーピーと雑音が混じっている。   

「私……まだ帰り…たくない」

「……そっか」

 どこへなのかは示されていないが、少女の言葉に香が頷く。

 今は仕事が優先だ。意思だけ聞ければ充分だと思った。

「ちょっとだけ、あたしに付き合ってね。その後のことは終わったらゆっくり話しましょう」

「香! 少し早まりそうだ。急げ」

 獠の声に弾かれるように前を見つめると、携帯電話を片手に、

「ったく、窮屈だよな」

とネクタイを緩めながら、瞳で香を呼ぶ。

絡み合う視線の熱の意味をちゃんと聞かせてほしいと、こんな時にこんな場所で思うなんて、

それぐらいお互いに隠さなくなっている。

   アスファルトを軽く蹴り、少しでも近づこうと高鳴る気持ちと駆け出した香の手をキツいぐらいに少女が握りしめる。まるで引き止めるかのように。

「……どうしたの?」 

「なにもかも嫌になったの」  

 揺れる。

「誰も一緒に居てくれなかったの」

 飾りのない言葉は、時に息を呑むほど真摯で交ざりがない。 

「あなたが……」

「……」

「私と一緒に居てくれる人なの?」

届いたのだろう。

獠がこちら側を振り向く。

少しだけ時が止まった気がした。

言葉は再度紡がれる。縋るでもなく、けれども冗談の類ではないだけの本気の瞳を乗せて。

「私はあなたがいい。お願い」

腕を強く掴まれる。

「……香。もういいだろ? 行くぞ」 

「でも……」

 掴まれた手から苛立ちが伝わる。分かっている。これ以上の面倒事を今、背負い込むわけにはいかないことは。それでもーー

「……置いてはいけない」 

「香!」

少女は香だけを見つめている。

ほんの少しだけ重なった気がした。

あの頃のあたしに。

アニキを失って、獠がいなかったらきっとこんな風な瞳をしていたのかもしれない。

あたしは出会えたから

きっとあれは奇跡だ


「私と一緒にーー」

 呟いた言葉を終わりまで聞くことなく、香が少女を引き寄せる。

「大丈夫だから」

 繋いだ手の先で、少女がコクンと頷く。


 きっとこの街はこんな気持ちをいくつも見てきたんだろう。

「アホ。勝手にしろ」

 一呼吸おいて、くしゃりと乱雑に頭を撫ぜられる。撫ぜられながら、言葉にしない優しさを受け取る。

 繋いだ手の温もりはこんなにも温かい。離しちゃいけない気がする。

「行こう」

 少しだけ止まった時の振り子を戻すように、勢いをつけるように力強く手を引いた。







連れて行かれた場所は、歌舞伎町の外れにある、螺旋階段を上がったところにある店だった。

どこも大して変わらないし、例え違っていたとしてもそれもどうでもよかった。

何故こんなに無気力なのかは分からない。気づけばそうだった。小さい頃はもっとマシだったような気もする。でもそれも本当にどうでもいいことだった。

私はただ今を生きていければよかったし、

携帯や少しのお金や、眠れる場所さえあれば、何も望まなかった。


『待ちなさい! どこに行くの?』 


ママは泣いて止めた。パパは知らぬ顔をする。

面倒を起こすなと厳しく言われて、ある日、本当にとても疲れて、いい子の顔を全部捨てた。

だって携帯さえあれば、誰かと繋がっていられるし、働く場所だって簡単に見つかる。

携帯の中には沢山の推しがいたし、仲間もいたし、それが全てだった。

さっきみたいに、誰かに怒られても何も響かない。早く終わればいい、それしか思わない。

だけど、今この手を繋いでくれている人の手のひらはとても温かくて心地いい。

いつも握りしめている携帯の冷たさとは違う、なんだろう、不思議な感覚で視界が何故か滲む。


ぽたり。

優しい人の手に私の涙が落ちる。

私は泣いていた。

涙の意味は分からない。

ただ温かかった



「…香、行くぞ」

「あ、うん……大丈夫?」

香さんと呼ばれたその人が心配そうに覗き込んでくる。涙は止まっていた。触れそうなぐらいに近づいた髪先からとてもいい匂いがして、香さんの手を思わず強く握りしめた。

さっき、獠と呼ばれた人が僅かに眉をひそめる。

「香」

「うん。ごめんね、少しここで待っててくれるかな?」

香さんは私にそう伝える。 


優しい温もりが離れていく。

行かないで。

私を一人にしないで。


声にならない声を掬い上げるように香さんが、瞳を細めながらそっと頬に触れた。

「こんな可愛い顔に傷でも付けてたら、さっきの男にハンマーお見舞いしてやろうかと思ってたけど、大丈夫そうね。良かった」

笑った顔がとても綺麗で、目が離せない。

キラキラと本当に何か魔法みたいで、私の心はぎゅうと痛くなった。


不意にスーツの腕が伸びてきて、香さんの肩を抱いた。香さんがごめんね、と小さな声で耳元で囁き、二人で一緒に店のドアを開けて向こう側に消えていく。私は大切なものを取り上げられた子供のように、落ち着かなくて二人が消えたドアに近づき隙間から中の様子を知りたいと思った。

手にはやっぱり携帯を握りしめてはいるけれど、いつもみたいに推しの写真を見る気にはなれなかった。誰かのことが気になるなんて私が私じゃないみたいだ。

隙間から覗いた先に見える香さんは、お店に来ている客と言葉を交わしながら促されるように隣に座った。耳元まで近づいてきた顔や、触れようと伸びてきた手や足をやんわりと制しながら、香さんが耳元で何かを伝えると男の目が見開く。香さんがにっこりと笑う。

反対側の客と談笑する香さんのグラスに、さっきの男の手が伸びてきて、握られた白い小さな袋が見えた。さらりとグラスに落とされる。

あれはーー?

そう思った瞬間、香さんの手が引かれて、あの人の胸に抱き寄せられた。

その場の誰もが時が止まったように動きをなくして、グラスに粉を落とした男の手首を軽々とあの人が強く掴み、変な方向に曲げている。

ここから見ていても痛そうで、「うわあああーーー!」と、耳に響く叫び声に体がびくりと揺れる。反射的に逃げるようにドアから離れて、壁にもたれて座り込んだ。私が知っている世界じゃないみたいで、怖くて足も震えが止まらない。あの人はとても怖い瞳をしていた。

香さんが心配で震える体をぎゅっと抱きしめながら、もう一度ドアの向こう側を覗くとあの人の側で静かに立つ姿が目に入る。怖くないのかな。そう思った時に、螺旋階段をたくさんの人が駆け上がってきた。


「君! 危ないから離れて!」

鋭い声に驚いて振り向くと、私の体をぐいと真横に押し出して、バタンと大きな音でドアを開きながら、何人もの大人達が店の中に入っていく。

訳がわからずその場に座り込んでいると、ドアの向こう側で声が飛び交っていて、しばらくすると香さんの隣に座っていた男が、さっき店に入っていった何人もの人に連れられて店から出ていく。

私はぼんやりとその男を見た。なんとなく目が合った気がして、じっと見つめると、男が私を見てニヤリと笑っている。額からは血が流れている。赤い血。私は息が止まりそうになった。

静止したように動けない私に、

「あら? この子は」

「あん? あー、さっきな。ちょっと別件で居合わせて、香が連れてきたんだよ」

「ねえ、この子未成年よね?」

未成年。という言葉に放心状態の少女の瞳が僅かに揺れる。

「さ、冴子さん! 実はね、いざこざに巻き込まれていたから連れてきたの。置いていくわけにも行かなかったから…だから、この子は何もーー」

庇うように隣に立ち、少女の肩を香がそっと抱く。

「……そう、分かったわ。香さんがそう言うなら……でも、もうこんな時間だから後で家まで送っていくわね」

「家?」

香の横で、少女が動揺を見せる。

「そうよ。帰らなくちゃね」

静かだが諭すような冴子の口調に、少女の顔から色が消えていく。


ああ、まただ。

と、香は少女を強く抱き寄せる。

「大丈夫よ」

ゆっくりと少女が顔を上げる。優しい笑顔に触れる。

「私……」

「戻れっ!!」

「うわっ!」

激しいやり取りと共にあたりの空気が一変する。ガンガンと乱暴に階段を踏み鳴らす音が響き、転がるように少女の目の前に、連れて行かれたはずの男が現れた。

手には鋭く光るナイフを握りしめて。

男は少女に目標を定めて、血走った目で駆けてくる。

少女の全身が硬直したように固まり、男の行動を凝視するように目を見開いた。



ママ! 助けて!


私は怖くて怖くて、目を瞑ることもできずに、男を見ていた。

ナイフを人に向けるなんて、そんな事があるなんて、と経験したことない出来事に、体は動きたくても全然動かない。

声にならない声で叫んだのは、あの日背を向けたはずの存在だった。

怖い。怖い。

私はもうママにもパパにも会えないかもしれない。

目の前の男はギラギラとした目をしている。ナイフの先は鋭く尖り、私にどんどん迫ってくる。ぶわっと恐怖が更に全身を駆け抜ける。


私の手からスマホがカタンと滑り落ちた。


右横から強い衝撃を受ける。気づけば少し離れた床に倒れていた。手の甲がじんじんと痛む。

ヒュン!バシッ!バシッ!

「うあああっ!」

重く響く衝撃音のようなものと獣のような叫び声と、カチャンとナイフが床に落ちる音が重なる。落ちたナイフは指先に届くぐらいの距離にあって、痛いぐらいに胸の鼓動が早くなっていく。

何が起こったのか分からない。見上げると、香さんが私の前に立ちはだかり、男が右手を押さえてうずくまっている。額からは血のようなものが流れていて、その赤の色がリアルに視覚に迫ってくる。

これは夢の世界や、ゲームの中じゃなくて現実なんだと、赤い血のように目の前が真っ赤になっていくような気がした。


「大丈夫?」

強く抱きしめられた。「震えてる」そっとそう言いながら、右手で私の頭を優しく抱く。私の頭の中はパニックで、縋るようにしがみついて泣きじゃくっていた。「ママ、ママーー」ごめんなさい。ごめんなさい。あの日ママは泣いていた。私は背を向けた。そして考えないようにした。何も感じなくなってきた。でも時々怖くなった。あんなに普通な事が嫌いだったのに、失くしてみれば後ろを振り返るのが怖かった。

友達。学校。家。当たり前にあったものが、私にはもうない。どこにも行けないから、どこでもよくなった。でも本当はーー

「怖かったよね。ごめんね、こんな事に巻き込んでしまって…ごめんなさい」 

私は気づいた。頭の中が混乱していて、必死にママの名を呼んでいたけど、ここにいるのは、抱きしめていてくれているのは香さんだ。

優しい人は眉を下げて、悲しそうに瞳を伏せている。何度もごめんねと呟くその声は少し震えている。違う、違う。でも言葉は声にならなくて、私は香さんの胸の中で小さく背を丸める事しか出来なかった。


「香」

あの人の声が静かに降りてくる。

スーツの上着をさらりと脱いで、香さんの肩を包み込む。その仕草に心臓がトクンと鳴った。

優しいから。私にも分かるぐらい、香さんが大切なんだとその全部で分かる。

私は出ない声を振り絞った。届いて欲しかった。

「私……香さんは何にも悪くない。私が行きたいって、だから……」

香さんがふるふると首を振る。

「だからってあなたが怖い思いしていいわけじゃないもの…」

「で、でも!……」

やっぱり上手く話せない。どうしたら香さんの顔は曇らずに済むんだろう。無意識に下唇を噛み締める。

「大丈夫だ。香は分かってるさ。それでも自分が、って思う奴なんだよ」

くしゃりと頭を撫でられる。大きな手。

香さんが泣き出しそうな顔で私をまた抱きしめる。

私の心が内側からどんどんあったかく丸くなっていく。

変わりたいって、そう始めて思えた。

「あり…がとう」


私は家に帰ろうと思った。 




店は静けさを取り戻し、また通常に戻ろうとしている。何もなかったかのように回り出す時間はこの街では、特段珍しいことではない。

人と人との繋がりが気薄だったり、密だったりと都合よく顔を変えていく。

「お疲れ様、獠、香さん。おかげで現場を押さえる事ができたわ」

「でもほんと、どうしようもない奴よね。クスリで女性をどうこうしようなんて」

「だよな。そんなモン使うなんて、男として情けねーよな」

「…あんたは、別の意味で色々アウトだけどね」

含みを持った言葉で、香がジト目で睨みつける。 

「あのなあ……今回俺、すげーオトナだっただろーが! おまえの色々に付き合ってただろ?」

「……まあ、それは……」

分が悪くなった香の瞳が泳ぐ。

「ほれほれ、俺に言う事あるんじゃないのか?」

したり顔で迫るのがいちいち勘に触る。けれども強くは出れずに、無言を決め込もうと斜め下から視線を合わせる。無駄に顔がいいからつい見惚れてしまいそうになる。ブンブンと首を振る。これじゃあまたいいようにやり込められるの間違いなしなので、今度は片目を瞑ってもう一度斜め下から軽く睨む。

「…何やってんだ、おまえ。俺に見惚れても貸しをゼロにはしねーぞ」

「だ! 誰が! そ、それに貸しって何よ! あんたの貸しはやな感じしかしないんだけど……」

「わかってんじゃん、香ちゃん。そうだなあ……アレやソレとかお願いしちゃおっかな」

語尾にハートマークがつきそうで心底嫌な予感しかしない。嫌だ。今日はゆっくり眠りたい。



「あのね、帰ってやってくれる?」


はあ、と呆れた声でやり取りが遮られる。

助け舟だと香が冴子の方に視線を移すが、片眉が吊り上がり、どう見ても機嫌が悪い。

「冴子…さん?」

「私ね、今日は徹夜上がりなの。すごく疲れてるの。早く帰ってただ眠りたいの」

「は、はい! あの…」

戸惑い気味の香に、「香さんのせいじゃないのよ」とにっこりと笑い、素知らぬ顔の男を冴子が睨みつける。いい加減にしろ。と顔に張り付いているようで、ひきつりながらジリと獠が後ずさる。

「あの子は無事送り届けたそうよ。相手側からは随分前に捜索願いが出ていたみたいなんだけど、名前や歳を偽っていたせいで分からなかったようね。あなたたち二人にありがとうって伝えて下さいって伝言よ」

「…………」

帰れた。よかった。安堵の気持ちの裏側で、淀む気持ちは拭えない。忘れないであろう傷を残してしまったのは確かだと思うから。

「じゃあ私は行くわね。まだ処理が残ってるから。獠、あなたもほどほどにしときなさいよ。香さんの気を楽にしたいのは分かるけど、二人の時でお願いしたいわね」

唇の端を上げながら、冴子がじゃあね、と片手を振る。


「獠……」

二人だけの空間には、ほんの少し涙色の声が混じる。バツが悪そうに視線を泳がしている男の緩めたネクタイを掴み、引き寄せた。

まともに顔が合わせられずに、俯きながら伝える。重力に引き寄せられるように、丸い涙の玉が一つぽつりと落ちていく。


「ごめんな…さい。獠はダメだって言ったのに……あたしがーー」

「まあ、そうだけどな。それでも置いていけなかったんだろ? あのままだったらあの子はまたこの街のどこかでもっと酷いことになっていたかもしれない。結果、帰れたんだ。帰る場所にな。後は親の仕事と本人次第だろうな」

「…………」

叱られた方がよかったのかもしれない。淡々と紡がれる言葉は否定でも肯定でもなく、事実のみ告げてくる。

「俺は俺の考えがあって、おまえはおまえの想いがある。まあ、どっちにしろ無茶はするなよ。さっきの行動の方がよっぽど肝が冷えたぜ」

「さっき?」

「飛び出しただろ? ナイフの前に。おまえさ、あれ俺が少しでも反応遅れたらブスリ。だろーが。そっちを反省しろっての」

ピンとおでこを人差し指で打たれる。

「いたっ! だってあれはっ! 仕方ないじゃない。気づいたら体が動いてたんだから」

「アホ。やられたらどうすんだっつーの」

「やられるわけないじゃない! あたしがあんたを残していくわけない!」

どっから出てくるんだ、その自信は。と言われた側は思わず惚ける。

言い放った言葉はあまりに潔くて、受け手の獠の許容範囲を軽々超えてくる。

時間が止まったように感じる。返答が上手く喉の奥から出てこない。やられっぱなしだなと獠が観念したように笑った。


「あ、ごめん……反省しなくちゃいけないのはあたしなのに、またやっちゃった」

「…いーんでないの? それが香だしぃ〜。

男前が過ぎて、獠ちゃん着いて行くのが大変だけどな〜」

「なによ」

「そのうち、かおりさま〜とか言われちゃうんじゃねーの?あちらの界隈ーーいでっ!」

五センチのハイヒールで思い切り踏みつけられて、腹の変な場所から声が出る。地味に痛い。

「なんか言った?」

香の顔に青筋が走る。獠の顔が分かりやすく青ざめていく。

「…言ってません…」

縮こまり頭を垂れるナンバーワンスイーパーを横目に、頬を両手で軽くパンと弾いて、よし!と気合いを入れた様子の香が家路へと歩いて行く。



あの子の明日が笑って過ごせる日でありますように




「昔ね、兄貴が言ってたの。月に願い事をしちゃいけないって。だけど、今日はお願いしちゃおうかーー」

腕を掬われ、閉じ込められる。聴覚も嗅覚も、獠で埋め尽くされる。あたしはこの全部にとても弱いのに。


「しなくていい。槇村がやめろって言ったんだ。やめておけよ」

「獠……」

「願っても願わなくても、おまえの気持ちはちゃんとあの子に伝わってるさ」

月に願いを。でもそうすれば連れて行かれるのかもしれない。そんな迷信さえ信じるぐらい大切だったんだな、槇村、おまえは。


俺も怖いよ、そう思った。

ナイフの先に立つ香が視界に入った時には、肝が冷えたどころか、本当は視界がありえないぐらいに歪んだ。

だから確かめるように何度だってこの腕の中に閉じ込めよう。例え嫌だって言っても何度でも。

「おまえなんかに負けねーよ」

空で光る、その存在を香の視界に入らぬようにと、ジャケットで更に深く囲い込む。


「ちょ! 何にも見えない!」

「お! 前方にもっこりちゃんはっけーん! 行くぞ、香!」

「え? えええーー!? なんであたしまで!」


わあわあと喚く口をやんわりと塞ぐ。触れた二つの唇が深く重なると、香の両手がたらりと力なく垂れる。

熱い。香も俺も。

熱の在り方を確かめるように何度も何度もここが何処か忘れるくらいに絡み合っていく。


トンと胸を突かれる。

男前でとびきりいい女の彼女はご機嫌ナナメの様子だ。

「…もっこりちゃんはどうしたのよ?」

「あ? あー、残念。行っちまったな」

「……嘘つき」

「…そんなの前からだろ?」

「自分で言うなんてバカじゃない」

「うるせっ! はあ〜、疲れた。香、帰るぞ」

「あたしも疲れたな。帰ろう、獠」


名を呼び合いながら、自然、腕を絡ませる。


眠らないこの街で出会いと別れを繰り返して、それでも生きて行く。

腕には最上級の愛しさを携えて。

月でも何でもとにかく全部から守ってみせるさと、遠く輝く月に背を向けた。



2020.3.9

ずっとまえにとまっていたままだったお話がなんとか終わる事ができました🙇‍♂️前後を纏めてあります🙇‍♂️このお話は、二人がくっついた後数年後のちょっと落ちついた感じを書きたかったのと、第三者視点の二人が書きたいな〜と書き始めましたが、いつものことですが、あちこちし過ぎて随分時間が経ってしまったなあと思います💦語彙力なさすぎで、おんなじような文章とかあったらすみません🙇‍♂️

まだ途中のお話も何個かあるので、ちゃんと終われたらと思います。こんな拙いものを読んで頂いて本当にありがとうございました🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️