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白河の關

2018.03.09 05:41

http://www.uraken.net/rail/travel-urabe42.html 【白河の関~福島県白河市~】 より

○白河市の概要

福島県南部にある都市。県南の中心都市で、奥羽三関のひとつ白河関と寛政の改革を指揮した松平定信の居城・白河小峰城で有名。市は阿武隈川の上流域に広がり、南は栃木県に接する。1949(昭和24)に白河町と大沼村が合併して市制施行。54年に白坂村、小田川村(こたがわむら)の、55年に五箇村(ごかむら)を編入し今に至る。面積は117.67km2。人口は約4万8000人。

1.東北への入り口、白河

 今回は、福島県南部に位置する白河市、その中でも特に全国的に有名な白河の関、そして寛政の改革で有名な老中・松平定信の居城でもあった小峰城を特集いたします。第1回目は、白河の関と、それに隣接する白河関の森公園です。

 その前に白河市の玄関・白河駅を御紹介。すぐ後ろに小峰城が建つこの駅は、1921(大正10)年に建てられた木造の近代建築。可愛らしい三角屋根が印象的な駅となっています。

 ただし、新幹線は一駅手前の新白河駅に止まるので要注意。また、城はすぐ後ろにあるというのに白河駅、及び新白河駅共に市内中心部から離れた場所に位置し、駅前は寂れています。バスも本数が多いとは言い難く、あまり公共交通は発達していないのが現状です。

 それでは、白河の関(跡)を見ていきましょう。

2.白河の関~有名だがアクセスが悪い~

 さて白河の関は、「関」ではありますが江戸時代の関所ではなく、早くて5世紀前半、少なくとも645年の大化の改新の時に文献に出る事から、そのあたりに蝦夷の南下を防ぐために建てられた砦です。主として8~9世紀頃に機能していたようです。

 その後、大和朝廷は東北をどんどん制圧していき、正確な時期は不明ですが、白河の関は機能を失い廃れます。ただし、その後も東北(陸奥)への入り口として人々の記憶に受け継がれます。平安末期に栄えた奥州藤原氏の領土の境界であった他、特に歌枕に読まれることが多く、

 都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

 という能因法師の一句が大ヒットし、平安時代以降、西行法師をはじめ一遍、宗祇など和歌や仏教で有名な文化人がこの地を訪れています。

 また源義家、源義経もここから東北へ入っています。

 しかしその後、白坂越えと呼ばれるルートがメインストリートになってしまい、こちらは忘れ去られ、僅かに民間の伝承の中に白河関が伝えられるようになります。

 その後、江戸時代では松尾芭蕉が奥の細道の旅の途中で立ち寄っています。旅の途中で白河関のあった場所の伝承を聞いたようで、この地(旗宿という地名のようです)の近くに立ち寄る事が出来ました。さらに、寛政の改革でお馴染み、白河藩主であった松平定信は、白河の関の場所を研究して、「ここだ!」と確かめ、現在地に碑を建立しております。

 現在白河の関は、白河神社(771(宝亀2)年に、天太玉命、住吉明神・中筒男命、玉津島明神・衣通姫命を祀ったという由来)という、神社が建っている他は、特に復元された物などはなく、先ほどの松平定信建立の碑の他、空堀が往時をしのばせています。

 なお、白河神社の建物は、伊達政宗公によって元和元年に改築奉納されたと伝えられる・・・と記しているホームページが少数ありますが、実際の所をご存じの方は教えてくださいませ。

この空堀というのが重要で、つまり「砦」としての白河関の役割というのをよく伝えてくれます。

 そんな歴史を感じられる素晴らしい場所なのですが、残念ながら、この白河の関までのメインアクセスであるバスの本数がほとんどありません。ゆえにタクシー利用となりますが(約20分)片道3000円と、非常にお高いのが難点です。つまり、白河市と言っても、ここは中心部からはかなりの距離なのです。道路が空いているので、20分で着くには着くのですが。

 しかし景色は絶景です。特に秋の紅葉シーズンに最適でありましょう。


http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/utamaku/siraseki_u.html 【歌枕紀行 白河の關】より

室の八島を見たあと、東武線で栃木駅に戻り、ここからJR両毛線に乗り換えて、小山へ。さらに新幹線に乗り換え、新白河に着いたのは、午後三時を過ぎていた。栃木から百キロ足らず北へ来たに過ぎないのに、急に風が涼しくなったような気がした。

関跡までは駅から十キロほど。バスの発車時刻には間があったので、タクシーに乗る。行先を告げると、運転手はいきなり歌を朗唱しはじめた。

都をばァ~霞とともにィ~たちしかどォ~秋風ぞ吹くゥ~白河の関

「なぁんて歌にはあるけど、実際行ってみるとねぇ」と、六十近いかと思える坊主頭の運転手は訛りの強い話し方で言う。「なんにもないところで、がっかりするよ」。

この種の親切な忠告はもう「耳タコ」の私は、苦笑するばかりである。

「考古学が趣味か」これも、よく聞かれる質問。「いや、そうじゃなくて、和歌に興味があって」と答えると、大抵訝しげな反応を示される。「歌碑とかあるでしょう。まあ、写真でも撮れればいいんですよ」などと付け加えると、ようやく納得してもらえるのである。

歴史に詳しいその運転手は、戦国時代の山城の話などもしてくれる。二十分ほどで関跡に着く。周辺には駐車場なども整備されていて、車で乗りつける観光客もちらほらいた。

白河の関跡

白河の関について、くだくだしい説明は不要だろう。やはり、『おくのほそ道』から引用しておきたい。

心許(こころもと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(たより)求しも断(ことわり)也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨(いばら)の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

この短い一節に、歌枕としての白河の関の歴史は尽きている。芭蕉は、文中に以下のような名歌を織り込んでいるのである。

たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)

都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因)

見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関(季通)

東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関(印性)

白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)

都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(源頼政)

消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(家隆)

また、「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れし」とあるのは、平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで褻(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。

国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。

  所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、

  能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折いつなりけむと

  思ひ出でられて、なごり多くおぼえければ

白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり

芭蕉は、白河の関に至って「旅心」が定まった、という。ここが陸奥の入口であるせいばかりではあるまい。この地にあって常に「風騒」(風雅にほぼ同じ)の心をとどめ、和歌を詠み、「冠を正し」たという古人たちへの思いが、芭蕉の心から迷いや躊躇いを取り去ったのである。

ところで芭蕉が訪れた頃、関は疾うに廃絶されて、跡形もなくなっていた。関跡が現在地に定められたのは、芭蕉の旅より百年以上も後の寛政十二年(1800)、白河藩主松平定信によってである。定信は古絵図や古歌、老農の話などから関跡を白河市旗宿のとある小丘にもとめ、「古関蹟」碑を建てた。

定信の推定が全く正しかったことは、昭和三十四年から始まった同地の発掘調査によって証明されたのである。

傾いた陽射しが漏れる杉林の中の小道を歩く。小さな神社が祀られ、空濠の跡が保存され、歳月に削られた歌碑がいくつか建っている。それ以外は、鬱蒼と杉が生い茂るばかりの、どこにもありそうな小さな丘である。タクシーの運転手が言った通り、「なにもない」と言えば何もなかった。でも「ある」と思えば、濃密すぎるくらいの歴史の堆積があった。いや、歴史というより、言葉であり、古人の「思ひ」であろう。歌枕とは、歌人たちが憧れ、詞によって作り出した幻想の空間である。むろん、地上にある現実の場所なのだが、古歌に心をよせる者にとっては、幻想の空間が重なり合って存在しているのである。私はその「感じ」を、たとえば芭蕉とさえ何程か共有していることを、確信できる。

白河関跡

人づてに聞きわたりしを年ふりてけふ行き過ぎぬ白河の関(橘為仲)

都いでて逢坂越えし折までは心かすめし白河の関(西行)

都にも今や吹くらむ秋風の身にしみわたる白川の関(宗久)

その夜は郡山まで行って泊まった。