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Pascul(パスカル)~京都大学フリーペーパー~

「クズ」はどのように作られるのか?

2015.04.08 14:54


1: 「クズ」とは?

 ここで「クズ」を定義したいと思う。 


ⅰ社会性の欠如

ⅱ社会への不参加

ⅲ社会的に期待されている能力の欠如 


この三点のどれか一つを満たしているときその人は「クズ」と認定されるのではないだろうか。 


まずⅰについて考えてみる。「社会性」とは何か?具体的には社会を形成するうえでどのような能力が必要になるのか。たとえばそれはおそらく、「協力」や「責任をもつ」などの社会に出る際に必要とされる能力を指している。


ⅱについて、社会への不参加は会社に行く、学校へ行くなど社会的に義務と考えられているような行動様式への不参加。よく見てみるとⅱはⅰの前提になっている。


そして最後にⅲについて、例えば日本の30代の男性は会社に正規労働者として雇われていて、その年代にふさわしい給料以上を受け取っていることを期待されている。その人が何歳で性別が男か女かという生物的な要因に対して社会的に期待されているもの(資質、経済力、結婚の有無など)が存在するのである。


つまり「クズ」と認定されないためには社会に参加しその上で社会性を身につけなければならず、そしてその人に期待されているもの以上のものを持っていなければならないのである。(ここで強調して言っておきたいことは先に述べた定義に基づいて「クズ」を定義したため、読者が思う「クズ」とは違っているものになっているかもしれない)


ここで「クズ」という言葉が読者に不適切に受け取られてしまう可能性があるので「逸脱者」という言葉を用いたいと思う。もう一度この「逸脱者」を社会的に形成されたイメージから逸脱するものと簡単に再定義し直す。


たとえば私たちは「男性」に対して雄大、積極性、寡黙などのイメージを持つことができ、このようなイメージから逸脱するものの総称を「逸脱者」とする(「逸脱者」のすべてが「クズ」ではない)。これからⅲを中心にして話していきたいと思う。 



2:「逸脱者」の形成 

さて「逸脱者」はどのようにして社会的に形成されるのだろうか?  ここでブルデューの例について考えていきたい。 


例えばブルデューの分析によると、「美術館に行く」ことやどんな文学作品を好むかというような「文化的日常行為」には階級・階層により偏りがある。そしてこうした文化的行為が文化の序列に基づく「文化の正当性」のもとで、支配層をより一層権威づけ、下層を排除する力を持つのである。


ここで使っている「文化」とは個人が所有する文化的「資産」のことであり、身体化された様態(話し方、感じ方、ふるまい方など)・客体化された様態(絵画・書物・辞典・機械・道具など)・制度化された様態(学歴・資格など)まで含む。


ブルデューによればこの「文化」は親から子へ家庭や学校を媒介として再生産するというのである。


ここで例えばあなたの父親が医者であったとしよう。そのような家庭では母親が教育ママであるかもしれない。家庭では休日に美術館に行き、親と子の間では敬語を使って話さなければいけないのかもしれない。その後子供が弁護士になり、結婚して子供ができて休日には美術館に行かず、子供に敬語で話しかけることがなかったとしても「変換」というプロセスを通じて世代間再生産が起きているとブルデューは指摘するのである。


つまりエリートたちの「文化」と大衆の「文化」は異なっており、「文化」は、親の世代から 子供の世代へと家族の中で継承されるから、エリートの「文化」を独占する上層階級が再生産されるということになるということである。


こうして階層秩序は世代が変わってもある程度再生産するであろう。 さてここで「逸脱者」について考え直したい。「逸脱者」はⅲを満たしている人々であり、実はこれはブルデューの言う被支配階級の「文化」を持っている人々のことではないだろうか。


「逸脱者」は支配者階級‐被支配者階級構造の中でブルデューの言うように家庭、学校を通して再生産されるのである。 



 3:「逸脱者」は悪いのか?

今まで述べてきた「逸脱者」は家庭や学校で再生産されるもの中心であった(「逸脱者」は「クズ」の一部である)。


そこでこんな例を考えてみたい。


「アラフォーで独身女性」という集団について考えてみるとこの集団に対して弱者や落ちこぼれを見るような視点が存在するように思える。まさしく「逸脱者」である。社会でこのような人々はしばしば悪者に仕立て上げられ描かれることが多い。


しかしこれは間違えである。エリートの「文化」を再生産させ権威づけ、「逸脱者」の「文化」を貶めて排除することにより社会は維持され再生産されるのである。よってこの構造のもとでエリートの「文化」を権威づける要因となっているのである。


そしてこの構造はいつまでも変わらないわけではない。


学歴というハイエラルキーの頂点にいる京大生もいつか「エリート」と見なされなくなる時が来るのかもしれない。