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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 92 (13/03/21) 旧大里村 (6) Metorima & Wakiinaguni Hamlets 目取真/湧稲国集落

2021.03.14 13:35

旧大里村 目取真集落 (めとりま、ミドルマ)

旧大里村 湧稲国集落 (わきいなぐに、ワチナグニ)



旧大里村 目取真集落 (めとりま、ミドルマ)

目取真は、1737年 (元文2年) に、稲福、大城と共に玉城間切から編入された集落で、1908年 (明治41年) に稲嶺、湧稲国と共に字高平に統合されて、目取真区となる。


集落は三方を丘陵に囲まれているので、集落が拡張する余地はあまりなかったのだが、近くに大里グリーンタウンが建設され、周囲の生活環境が向上し、その影響を受け、少しずつではあるが人口は増えている。1880年では旧大里村では大城、稲嶺二次いで人口が多く、1960年では沖縄戦で人口が激減した跡増加し、1880年とほぼ同じレベルまで人口は戻り、大城に次いで人口が多かった。しかしその後、旧大里村で、大規模の住宅地建設が行われ、現在では人口については旧大里村では7位まで後退している。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


目取真集落で行われている年中祭祀は下記の通り。かつて集落に点在していた拝所を上門杜に合祀しているので、非常にシンプルになっている。御願の行事の数もかなり絞られているようだ。


目取真集落訪問ログ


3月11日に訪れて稲嶺集落の東にある丘陵を越えたところに目取真集落を訪れる。



伊久田井泉 (イクダガー)

稲嶺集落と大住宅地のグリーンタウンの境のゴルフ線習場の東の畑地に井戸跡がある。目取真集落の北側の外れになるのだが、稲嶺集落住民もイクラ井泉と呼んで使用していた。目取真集落の他、稲嶺集落等によっても拝まれている。この辺りは目取真区の発祥の地の古島 (フルシマ) といわれている。いつの時代かは分からないが、この古島から丘陵を越えて現在の集落の場所に移住してきた。


上門杜 (上門森、イージョーモー)

古島があったとされる場所から丘陵を登った頂部にある小山が上門杜 (イージョーモー) で、集落からみて北方にあたる。目取真集落には多くの拝所が点在し、御願を行う際、かなりの時間がかかっていた。そこで、戦後、1948年 (昭和23年) に、これらの拝所をまとめて、この上門杜で祀るようになった。上門杜には殿 (トゥン) が1つ、殿の左右に祠がある。殿の祭壇 (写真左下) には上段に4つ、下段に3つの香炉が置かれている。祭壇の左には二つの火の神 (写真右中) が祀られて、野呂殿内と白井 (根屋) と書かれている。入り口には、門番の役目とされる戸柱 (トゥハシラ 写真右下) がある。

殿に向かって左側にはいくつもの祠がある。これが集落に点在していた拝所を合祀したものだ。祭神名が書かれてあり、左から前之川 (メーヌカー)、野呂殿内 、野呂殿内、中之御岳、中之御岳、榮山、中森小 (ナカムイグヮー)、白井の8つが祀られている。野呂殿内と中ノ御岳では、各々2つあるのだが、これは、上門杜に勧請する際に、名称不明の拝所があり、それも共に、ここに祀ったそうだ。

殿の右にも同じような祠が置かれている。ここも祭神の名が刻まれている。左から大當原 (オータイバル)、中ノ御岳 (地頭)、暑無 (アチ二シ)、公方 (クボ―)、六孫主 (ルクマグシュー)、百名前 (ヒャクナメー)、大里世 (ウフザトユー)、上ノ主 (イーヌシュー)、与茶 (ユンチャ) の9つの拝所が移されてきている。この中で、暑無 (アチ二シ) は琉球国由来記にあるアキニシ嶽 (神名:イノメツカサノ御イベ) 、与茶 (ユンチャ) はヨミチヤノ嶽 (神名: 若ツカサノ御イベ)、 公方 (クボ―) はコバウノ嶽 (神名: コバウモリ御イベ) に相当すると考えられている。


ウタンムトウノーシ

右の祠群の前に一つ祠がある。これも移設されているのだが、元々は麓の集落にある (この後に訪れた) 白井井泉 (シロイガ-) のそばにあったという。どのような性格の拝所なのかは書かれていなかった。


今帰仁と久高への遥拝所

右の祠群の東側の山の端には今帰仁への遙拝所がある。目取真集落ではは9年に一回、今帰仁村の今婦仁グスク内外の拝所へ参拝に行く習慣になっているそうだ。この祭祀を「今婦仁ヌブイ」という。今帰仁のすぐ前にある石は久高島への遙拝所だそうだ。


トウムインケー

右の祠群の奥の林の中に、旧東風平町の富盛への遙拝所があるという。東冨盛前腹という門中により拝まれている。東富盛前腹の人が富盛から養子として目取真にきた際、この遙拝所を造ったという。遙拝所への道はあるのだが、途中からは雑木に覆われて、それ以上進むことはできないので断念。この遙拝所は東富盛前腹だけのものなので、村としての手入れはされていないのだろう。


ニーブ井泉

上門杜の祠への参道脇には井泉があった。ここは拝所は、上門杜へのウマチーなど御願で用いた柄杓やマカイ (食器) を洗う場所だったそうだ。


白井井泉 (シライガ-)

上門杜の南東の集落方面に100m程降りたところにに白井井泉 (シライガ-) がある。金網で柵が施され、木々が生い茂って、ガイドブックがなければ井戸とは分からないだろう。先ほどの上門杜に合祀された根屋 白井はこの場所にあった。この井戸は大内腹の人たちが使っていたという。この集落の門中リストでは大内腹は見当たらなかった。この分家が載っているのか、絶えてしまったのだろうか? 井戸の前の民家では鶏が買われている。本土で最もよく見かける白色レグホーンはここ沖縄ではあまり見かけず、このような鶏が多い。

井戸の前には神屋があった。上田の前にはコンクリ―ト製の祠が置かれている。神屋内部にはいくつもの香炉が置かれそれぞれに祭神の名が書かれている。手持ち資料には屋号地図がなく、どの門中の神屋かは分からない。


安次嶺神屋

上門杜から丘陵の尾根に走る道路を南に下るともう一つ神屋があった。どこかの門中の屋敷だったのだろうが、今は空き地となって木々が生い茂っている。その中に神屋があった。安次嶺門中の神屋と書かれている。安次嶺門中はこの目取真の10ある門中の一つ。


新垣腹の神屋

安次嶺神屋の東に新垣腹門中の元屋 屋号新垣の神屋がある。新垣腹は目取真ノロを出していたので、嶽元 (タキムトウ) になるのだろう。内部は綺麗に整頓されている。


神屋

新垣腹の神屋のすぐ側に別の神屋があった。神屋の中にある火の神、祭壇が非常にきれいになっていた。この近くに住んでいる同じ門中の人が面倒を見ているのだろう。


目取真公民館

南北に延びる集落の中間にある公民館。かつては村屋 (ムラヤー) でここにも酸素ボンベの鐘が吊るされていた。 


村井泉 (ムラガー)

公民館の敷地内に井戸がある。村井泉 (ムラガー) だ。以前は住民の生活用水だったと思う。給水菅が設置されているので、今も使われているのだろう。農地は少し距離があるので農業用ではないだろう、飲料水は今は水道だろうし、多分、公民館の庭の水やりに使っているのかもしれない。


馬駄井泉 (ンマラーガ-)

公民館の擁壁に馬駄井泉 (ンマラーガ-) がある。元は勝連井泉 (カッチンガ-) と呼ばれていた。馬駄井泉という呼称は、ノロが祭祀場へいく時に馬にノロの荷物等を載せて先導する神役である馬駄の屋敷のあったことによるそうだ。塀をわざわざこのような形にしてまでも、井戸を残した程、大切にされた井戸だったのだろう。


大當井泉 (オータイガー)

集落から外れた北西部の畑の中に大當井泉 (オータイガー)。上門杜に大當原 (オータイバル) の拝所が合祀されていたが、この場所が大當原 (オータイバル) と呼ばれるところで、ここに拝所があったのだろう。井戸は集落の10の門中の一つの宮城腹の人々が使用していた。


目取真農村公園 (馬場跡)

目取真公民館の前の沖縄県道17号線を渡ったところが目取真農村公園になっている。細長い広場が伸びている。かつてはここが馬場 (ウマイ―) だった。ここで集落の綱引きの祭りが行われている。公園内には展望台があり、そこにも酸素ボンベの鐘がつるされていた。

展望台から見た目取真集落。写真左は県道17号線から丘陵斜面に広がっている。写真右は県道17号線と目取真農村公園との間を更に下った斜面に広がる集落。


火森小 (ヒームイガ-)

目取真農村公園がある丘の先端には森がある。そこには火森小 (ヒームイガ-) と呼ばれ、拝所がある。ここで 1月16日の綱引後、綱の一部を八重瀬岳に向けて焼き、火の厄払いをする。この森の拝所を探そうと、中に入ったのだが草木が胸の高さまで生い茂り、とても見つけることはできないだろうと断念。


根屋 (ニーヤ)

次は県道17号線の下に広がる集落を散策する。公民館から坂道を下った所に根屋 (ニーヤ) と呼ばれる神屋がある。東当森門中の元屋 屋号東当森前の神屋だそうだ。東当森門中はこの集落の門中リストには出ていないのだが、根屋と呼ばれるぐらいなので村の有力門中のはず。リストにあった10の門中の何れかの腹になるのだろう。


前之井泉 (メーヌカー)

根屋 (ニーヤ) の近く南側に前之井泉 (メーヌカー) がある。上門杜に合祀されていた。ここにあった香炉は上門杜に移されている。この井戸は以前はタマシラシガーと呼ばれていた。タマシラシは 「玉孵だし」と書くそうで 、ノロが身に付けていた勾玉を洗っていたことに由来するそうだ。初めて知った。


シーシ井泉

根屋 (ニーヤ) の北側にシーシ井泉がある。井戸の隣が屋号 大森小だったので、大森小井泉小 (デームイグヮ―ヌカーグヮー) と呼ばれている。


神屋

この目取真集落では多くの神屋があった。他の集落より多いような気がする。大体が敷地内の入り口付近に離れとして建てられている。これは、外から拝みに来る人の便を考えての事なのだろう。まだ人が住んでいる神屋を撮影するのは少し気が引けるのだが、それ以外にも多くの神屋が空き地に建てられていた。人は村から出ていくのだが、祖先崇拝の信仰のベースはここに残している。


与茶井泉 (ユンチャガ-)

集落の東は一面畑になっている。北の方から3つ井戸が残っている。一番北にあるのがこの与茶井泉 (ユンチャガ-) だ。東富盛腹や新垣腹の人々が産井泉 (ウブガー) として使用していた。


前原井泉 (メーバルガ―)

与茶井泉 (ユンチャガ-) から南に進んだ畑の中に前原井泉 (メーバルガ―) があり、卞門腹の人々が産井泉 (ウブガー) として使用した。


地頭田井泉 (ジトゥラガ-)

畑の南側には地頭田井泉 (ジトゥラガ-) がある。地頭代が使用した井泉と伝わっている。五月ウマチーのカーウビーの際、地頭田井泉で拝み前原井泉を遙拝するか、もしくは前原井泉で拝み地頭田井井泉を遙拝するそうだ。目取真集落にある井戸は門中ごとに分かれていたようだ。村の共通の井戸は公民館にある村井泉 (ムラガー) だったのだろうか?


マグソーの殿 (トゥン)

目取真集落から湧稲国集落に向かう途中に殿 (トゥン) と井泉 (ガ-) がある。マグソーモーと呼ばれる小さな丘の森の跡にある。丘の上に上る道らしきものがあるのだが、草木が深く途中までしか行けず、殿と井泉の拝所は見つけられなかった。この場所は目取真なのだが、稲嶺集落の人たちによって拝まれているそうだ。



旧大里村 湧稲国集落 (わきいなぐに、ワチナグニ)

1804年に首里金城の親泊筑登之親雲上元正と元知之兄弟と上知筑登之親雲上寛正がこの湧稲国に帰農し、屋取集落を造ったとされている。第二次屋取が実施された尚温王時代の事。先住の農民たちにの農業技術を指導し、貧困農民たちの救済活動も行い、住民のために尽くしたという。この行為により首里王府からは1806年に褒賞され、位を与えられている。集落の門中の半分程は親泊門中関係の様だ。

この村は屋取集落なのだが、集落を巡り、他の屋取集落とは異なっていることに気づく。今まで訪れた屋取集落にはほとんど拝所がなかった。それで、集落独自のノロは存在しなかった。人口も明治時代から戦前までは、それほど多くはなかった。一方、この集落には、数々の拝所がある。ノロも存在した。推測できるのは、この地には既に住民が小規模の集落があり、首里からの帰農士族に集落に近い農地を開放したのではないだろうか。他の屋取集落は先にあった集落からはかなり離れた荒れ地をあたえられ、元々の集落住民との交流は皆無で、後に屋取集落が独立するという過程が一般的だ。ここは元々の小規模集落内に帰農者が移住し、先住の人たちとも交流し、昔からあった拝所なども受け入れたと考えられる。先住舎と帰農者がうまく融合した稀な例と思われる。集落は区画化はされておらず、屋取集落之特徴である農地と民家が点在している構造になっている。


1880年 (明治13年) から沖縄本土復帰までは人口は屋取集落としては多い集落であった。それ以降は、人口は2010年まで人口減少が続いたが、それ以降はコンスタントに増えている。これも他の屋取集落之ケースとも異なっている。かつての屋取集落は人口が減っていくケースと広い農地があることから大規模な集合団地や住宅地となり激増するケースに分かれる。この湧稲国集落付近に集合住宅団地などもないが、人口は何とか維持している。

民家の分布を見ても、民家が分散していることがわかる。

大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: ワコンノ森 (所在不明)、知花之嶽
  • 殿: ワコンノ殿 (殿)、アツチヤマノ殿 (消滅)


湧稲国集落で行われている年中祭祀は下記の通り。これを見るとこの集落は純粋な屋取集落ではなく、元々昔からあった集落に帰農士族が合流して屋取集落を形成し、以前からの祭祀行事はそのまま継承したと思われる。二月ウマチーが行われている。これは稲に係わるウマチーで、ほとんどの集落では5月と6月の稲のウマチーしか行っていないので、珍しい例だ。清明祭で拝まれている重要な墓が後原のプルソージがある。後原も屋取集落でそこから移住してきた門中も多かった。


湧稲国集落訪問ログ



タンパラ井泉 (カー)

目取真集落から湧稲国集落に向かい、集落の東の端にタンパラ井泉 (カー) がある。屋号 真漢那の側にあった。 資料にしたがって、現地に着いたのだが、井戸がある場所は木々で覆われて、とても中には入れる状態ではなかった。この井戸は水質はよく、水量も豊富で、大きな石積みが残っていたという。


湧稲国古島

タンパラ井泉 (カー) から湧稲国集落の公民館に向かう途中に、かつて湧稲国集落があった古島の地域がある。民家はほとんどなく一面畑になっている。稲嶺集落を訪れた際に稲嶺古島の隣が、目取真か湧稲国の古島だったと書かれていた。これは明確にはなってはいないのだが、可能性としては2度移住をしたことになる。これはこの湧稲国のような屋取集落では例がある。屋取集落は首里や那覇の士族が帰農したもので、耕作地に満足がいかない場合は、」また別の地に移住していった。資料には、この湧稲国集落には9つの門中がリストされていたが、そのうち7つの門中の当世墓は旧東風平間切の後原にある。後原も首里士族の屋取集落なので、屋取士族がここに分家か移住してきたと思われる。ただ、この古島が屋取集落として移住してきた地なのか、元々住んでいた人たちの古島だったのかは書かれていない。


古島井泉 (フルシマカー) /アッチャマへの遙拝所

古島には古島井泉 (フルシマカー) が形式保存されている。琉球王国時代、湧稲国ノロが使用した井泉と伝わっている。2006年に改修されるまでは、石積みの井戸で湧水もあった。湧稲国集落の行事で拝まれている。また、稲嶺集落の門中祭祀でも拝まれるというから、稲嶺集落とハ何らかの関係があったのだろう。湧稲国ノロン管轄地域には稲嶺集落の一部も含まれていた。古島井泉の拝所の隣に祠がある。これは2004年に、祠の後方の丘の上にある拝所「アツチヤマ」への通拝所として設けられた。アツチヤマは、アッチャマ、アッチャマヌ殿、ウサチ殿とも呼ばれ、アッチャマ井泉という井泉もあったという。現在、アッチャマは地形が変化し消失している。「アッチャマ」は由来記「アツチヤマノ殿」に相当するとみられる。


ノロ殿内 (ドゥンチ) の井泉 (カー)

古島井泉 (フルシマカー) の北側には森があり、そこへの道が畑の中にある、そこを進むと井戸跡がある。ノロ殿内の井泉で、この先にノロ殿内がある。この井戸も、別称、古島井泉と呼ばれている。


ノロ殿内

ノロ殿内の井泉から、更に奥に道が続いている。この道の行き止まりにノロ殿内がある。神屋の祭壇に香炉が1つ、床には火ヌ神の香炉が紀られている。ノロ殿内の前には形式保存された井戸跡もあった。琉球国由来記に、湧稲国ノロは湧稲国村と稲嶺村を管轄するノロで、次の所で司祭したとある。湧稲国村ではワコンノ森 (神名: スエノ森ノ御イベ)、知花之嶽 (神名: オシアゲ森ノ御イベ)、ワクン之殿、アツチヤマノ殿、稲嶺村では、根所火神、稲嶺之殿で祭祀を行っていた。稲嶺、湧稲国の両村では稲穂祭の折に殿回り (トゥンマーイ) が行われていない。それは、昔、富盛の城主の伊茶謝按司は、容顔美麗であった湧稲国ノロに思いを寄せていたが、ノロはその申し出を断っていた。稲穂の三日崇べ (ンチャタカビ) の日、ノロが寒水川で神衣装を洗濯し、干していた時に、伊茶謝按司はノロの元へ行き強く同意を迫った。ノロはその威勢に恐れをなし、その年の殿廻りをやめ、それ以降も行わなくなっり、それが以降、踏襲されるようになったという。 ノロ殿内家は米国に移住し、現在は、区と門中によってノロ殿内では年9回のが行われている。また稲嶺集落でも、1月の初起しと6月のウマチーでも他8ヶ所 (知花之嶽、ノロ殿内ヌ井泉、古島井泉、生母井泉、カニマン御嶽、佐久間等) の拝所とともに祈願されている。


神アシャギ (男神)

集落内東部の古島への道に神アシャギ の拝所がある。戦後に設けられた拝所で男神といわれる。かつては、屋号 東大前 (アガリウフメー) の屋敷内にあったが、2006年にここに移設された。


神アシャギ (女神)

神アシャギ (男神) の傍の畑の中にも神アシャギがある。これは、屋号 門小 (ジョーグヮ―) の畑のそばにある拝所。戦前からあった拝所で祭神は女神という。カシチーナーチャー (カシチーの翌日) の際に、ここで雨乞いの祭紀が行われていた。 


湧稲国公民館

古島の南側に公民館がある。公民館の前に拝所が置かれている。


湧稲国農村公園

湧稲国公民館のまえは湧稲国農村公園になっており、ゲートボール場がある。以前はここが何だったのかは書かれていなかった。


殿 (トゥン) / 地頭火之神

公民館の前にあるコンクリート製の拝所は殿 (トゥン) と 地頭火之神だ。殿はかつて石の祠で、農村公園広場の西側にあったが、祠は1978年に改修され、2004年に現在地に移された。琉球国由来記のワクン之殿に相当するとみられている。ワクン之殿では稲大祭三日崇が行われていた。殿 (トゥン) の左側には地頭火ヌ神がある。湧稲国を治めていた人が祀られていたという。湧稲国の地頭は糸満市の真栄里から来たという伝承がある。地頭火ヌ神も元は農村公園広場にあったが、ここに移設されている。


村井戸 (ムラガー)

公民館の前の広場の脇に村井戸 (ムラガー) が形式保存されて拝所になっている。詳細は不明。


生母井泉 (ンブガ―)

公民館の裏に別の井泉跡がある。生母井泉 (ンブガ―) と書かれている。他の集落では、産井、産井泉と書かれている。生母井泉と書かれていたのは初めて見た。産水 (ンブミジ) や若水 (ワカミジ) を汲んだ井泉で、湧稲国の井泉の中で古島井泉の次に古い井泉といわれている。


佐久間 (サクマ)

生母井泉 (ンブガ―) から、細い道が丘の方に伸びている。おそらく、拝所への道だろうと進む。道の途中に佐久間 (サクマ) がある。根屋 (ニーヤ) とか神屋とも呼ばれている。祭神は、大里グスクに関係し、湧稲国の国元 (クニムトゥ) といわれる佐久間子 (サクマシ―) とされ、祠内に位牌が祀られている。祠は金城門中の屋号金城が管理してきた。金城では男子が生まれず、浦添の親泊家の次男が養子入りしたという。稲嶺集落や門中等も拝んでいる。祠の側にある小さな祠は遙拝所で村落祭祀で雨が降った際はここに拝むという。佐久間子が葬られていると伝わる墓が、旧具志頭村の後原にある。この湧稲国の門中の半分は親泊門中関係でその当世墓は後原のブルソージにある。


ウタキ

更に道を上に進むとウスクガジュマルの木の根元にウタキという拝所がある。「ウスク木の下」とも呼ばれている。寄棟造りの祠の屋根部と思われる切石が地中に埋もれている。


子之方 (ニヌファ) / カニマン御嶽

道の終点にもう一つ拝所がある。ユチンバン (集落の東西南北を位置づける拝所) の1つで、子ヌ方 (北方) から入ってくるヤナカジ (厄) を払い除けるために祈願する場所で子之方 (ニヌファ) 。この拝所は比較的新しく、1977年頃に住民からの要請で兎之方、牛の方、西の方、辰の方の神と共に造立された。その隣には拝所があり、稲嶺集落住民にカニマン御嶽と呼ばれ、拝まれている。


正頭井泉 (ソージガ-)

公民館の西の畑道に井泉跡。かつてはガジュマルの木があり、その下が拝所になっていた。煙突のように長い土管が井戸の形式保存として香炉ともに設置されている。


酉之方 (ウーヌファ)

集落からみて西にあるユチンバンの一つ。酉ヌ方 (西方) からはいってくる厄を払い除けるという。農道整備にともない、2008年に個人の敷地内から現在の地へ移されている。


ヤージグワーの井泉

酉之方 (ウーヌファ) の南の畑の中に井泉がある。かつては石積みの井泉だったが、今はなくなってしまい石と香炉乃ブロックがあるだけだ。


南風原井泉への遙拝所

集落から見て東の畑の付近はには南風原井泉を遥拝する場所だそうだ。。遥拝の対象の南風原井泉の位置は不明となり、ここの道沿いから遙拝されている。


辰之方 (タチヌファ)

集落の南東の工場の傍に3つ目のユチンバンの辰之方 (タチヌファ) がある。首里への遙拝所という。また、ムラに入ってくるヤナカジ (厄) を払いのけるという。拝所への入り口は工場の敷地内にあるので、そこで働いている人に聞き教えてもらった。


知花之御嶽 (チバナヌウタキ)

辰之方 (タチヌファ) の近くに「ウガングワモー」と呼ばれる小山がある。その山の森の中にに知花之御嶽 (チバナヌウタキ) がある。数百年前、戦で負傷し逃げて来た知花里之主を村人が手当てをしたが、亡くなったためにこの場所に埋葬し祀ったと伝わっている。御嶽には急な階段があるのだが、木々で覆われ、枝をかき分けて進み到達。琉球国由来記の知花之嶽 (神名: オシアゲ森ノ御イベ) に当たると考えられている。 


兎之方 (ウーヌファ)

知花之御嶽のそばには4つ目のユチンバンの兎之方 (ウーヌファ)がある。兎ヌ方 (東方) から入ってくる厄を払い除けるという。


午の方 (ンマヌファ) [未訪問]

5つ目のユチンバンである午の方 (ンマヌファ) は集落の南西部の丘の上にあるのだが、見落としてしまった。グククムヌメーヌ御嶽とも呼ばれているそうだ。午ヌ方 (南方) から入ってくる厄を払い除けるという。左の香炉は個人により拝まれているそうだ。


これで今日は二つの集落を巡り終えた。今日は天気も良く、文化財を巡っている途中に色々なハイビスカスなどが咲いていた。沖縄はもう夏がはじまっている。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 湧稲国区公民館建設記念誌 (2008 記念誌編集委員会)