円空の巡錫と貞伝
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近世の我が国を代表する仏教彫刻家に円空がある。この円空の作像は近世の蝦夷地の神道および仏教の展開に大きな役割を果 たした。
円空は寛永九年(一六三二)美濃国(現在の岐阜県羽島市上中島)に生れた。若年のころ洪水で母を失い、その供養のため十八歳で仏門に入り天台宗の僧となり、伊吹山山内の平等岩で修業をし、同宗寺門派に属した。円空は宗祖行基菩薩の行願を慕い、修験道の優婆塞聖(うはそくひじり)として諸国を巡って作像行脚(あんぎゃ)することを志した。
円空の作像は寛文三年(一六六三)ころからといわれ、翌四年には白山神社に参籠(さんろう)作像し、同五年には蝦夷地に向って発足したと思われ、秋田県内にはその際の作製と思われる作像が残されている。その後津軽地方を経て寛文六年蝦夷地に渡航したと考えられていたが、最近になってそれを裏付けする史料が発見された。この史料は市立弘前図書館所蔵の『津軽藩庁日記 寛文六年正月』の項に次のように記されている。
正月廿九日
一圓空と申旅僧壱人七町ニ罷在候處ニ、御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而、其段申渡候所今廿六日罷出、青森へ罷越し、松前へ参る由。
此の年円空は三十五歳である。その前年秋田から北上して津軽西沿岸部に作品を残して弘前入りをしたが、勿論入国鑑札を持たず、破れ衣に彫刻道具のみを持った行脚僧(あんぎゃ)の姿は津軽藩の役人にとっては胡乱(うろん)(怪(あや)しい者)な者としか見られなかったのであろう。七町という町に滞在していた円空に対し、正月二十六日退去するよう命じたところ、これから青森に向い、そこからさらに松前に渡海することを申し出ている。
したがって松前に渡海したのは、寛文六年四月か五月である。松前に入国する場合各藩発行の出切手と、松前での身元引受人が必要であったが、このような遊行僧であるのにどうして入国が出来たか不明である。しかし、広尾郡広尾町禅林寺に一体の観世音菩薩像が残されており、その背面 には墨書で、「願主松前蠣崎内蔵(くろうど) 武田氏源広林(ひろしげ)敬白 寛文六丙午夏六月吉日」と記されている。松前内蔵広林は松前藩主の同族で、幼年の藩主の続くなかで事実上藩政を切り廻していた筆頭家老である。この広林が自分の知行地である広尾禅林寺に納める像を、円空に彫らせているところを見ると、恐らく何らかの形で広林が円空とかかわり合をもっていたと思われる。この像は六月に完成しているので、二、三か月間は松前に滞在していたと考えられ、その間に、松前馬形神社の六尺余(一・八二メ-トル余)の観音像を刻んだと思われるが、この像は明治六年の福山枝ケ崎町出火の大火で焼失している。
六月から七月初旬にかけて蝦夷地内の作仏行脚(あんぎゃ)のため、松前を出発した円空は、礼髭村観音堂、吉岡村観音堂の来迎(らいごう)観世音菩薩像等を刻んだ後、木古内、札刈、泉沢、茂辺地、富川、戸切地、大中山、汐首、砂原、山越内、礼文華岩屋等で彫像して、最終目的地である有珠善光寺に至った。ここでは善光寺奥の院である洞爺湖観音島(虻田町)に参籠して観音像を製作したが、その像の背後には陰刻で、「うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩像内 寛文六年丙午七月廿八日 始登山 円空 花押」と記されている。従って七月末には、この奥の院で、菅江真澄の『蝦夷之手布利(えぞのてぶり)』に記されている「のほりへつゆのこんけん」、「しりへつのたけこんげん」、「うちうらたけこんげん」の三体の像を刻んで善光寺に納めてもらうように頼んで南下し、その途中寿都海神社の像を八月十一日に完成させ、八月末には松前に帰着したものと考えられる。九月には桧山地方の西海岸を北上し上ノ国石崎村、上ノ国、江差、乙部、熊石村を経て太田岬岩上の岩屋に参籠して、多くの作品を残した。菅江真澄の『えみしのさへき』では、太田権現社(久遠郡大成町字太田)の岩屋に祀られている多くの円空作像を見、さらに蝦夷地での見聞を体験しようと、寛政元年(一七八九)四月太田に向かって松前を発足した。この文中で真澄は、路傍の木の根に刻んだ斧ぼりの仏像に、衣を着せて手向けしているのもおもしろく尊かった。
太田山のいわくら(神の御座所)もやや近くなったのであろう。高くそびえたって、とてものぼることもできないような岩の面 に、二尋(ひろ)(十二尺)あまりの鉄の鎖をかけてあり、これをちからにたぐりのぼると、窟(いわや)の空洞にお堂がつくられてあった。ここに太田権現が鎮座しておられた。太田ノ命(みこと)をあがめまつるのであろうかと思ったら、ここは於多(おた)という浦の名であるが、なまって太田(おおた)というのであった。ヲタは砂というアヰノことばで、砂崎があったのだろうか。奥蝦夷の国には砂路沢(ヲタルナイ)というコタン(村)もあると、人が言っていた。斧で刻んだ仏像が、このお堂内にたいそう多く立っておられたのは、近江の国の円空という法師がこもって、修業のあいまに、いろいろな仏像を造っておさめたからである。また別 の修行者も、近ごろこの窟にこもって、はるばると高い深谷をへだてた岩の面 に注連(しめ)を引きまわし、高足駄をはいて山めぐりをしていた。その足駄 がなおのこっている。小鍋、木枕、火打箱などが岩窟の奥においてあるのは、夜ごもりの人のためであるとか。神前の鈴をひき、ぬ かずいて拜んでから、外に出て、いささか岩の上をつたっていくと、また岩の空洞があったが、そのなかにも円空の刻んだ仏像があった。
『えみしのさえき』(東洋文庫 菅江真澄遊覧記 2)による。
と記している。天台宗の修験僧にとって岩窟は聖なる修業の場であり、また円空にとっては彫像製作の場であり、このような岩窟を捜しながら作像の旅を続け、この太田山岩屋には多くの彫像を残したほか、熊石町字泊川にも円空滞留洞窟と名付けられた洞穴があったり、さらに蝦夷地礼文華の小幌岩屋にも五体の円空仏が祀られていた。また有珠善光寺に於いても本堂に二体、その傍の小祠に三体、さらには各地に奉斉する彫像八体も、善光寺奥の院といわれる小幌岩屋で製作したといわれ(五来重筆 『円空佛』)、そのうちの七体は寛政十一年(一七九九)松田傳十郎によって背銘の霊山に納められたといわれている。このようなことから見ても円空にとって岩窟は極めて神聖な作像の場であった。
安永七年(一七七八)七月、日本国内の廻国納経行脚途上の木喰行道が太田山に登拝し、その岩屋に並ぶ円空の彫像に感動して作像行脚を志したといい、その十二年後には菅江真澄が、同じ岩屋を訪れ円空仏と対面 している。その際残した写生画を見ると、立木や枯木にも彫像を刻んでいて、数えきれない程の作品が残されていた。これらの作品も年と共に減り、太田山の場合大正十一年六月二十八日修験者の火の不始末によって岩窟内の円空仏の総てを焼失し、また、明治以降本道でも行われた排仏棄釈(はいぶつきしゃく)(神仏の明確でない像を破棄する)令によって、吉岡村観音堂に祀られていた円空仏のように破棄を命ぜられて、海に投棄され、それを拾った住吉家がのちに函館市浄土宗称名寺に寄贈されていたり、七飯町大中山富原家のように同地神社の管理をしていて、この排仏棄釈によって神社神像としては適当ではないので、個人管理となってその侭伝えられているもの、あるいは野火や保管方法が悪く滅失したものもあって、現在北海道に残されている円空仏は次のとおりである。
1、観世音菩薩立像 熊石町字根崎 躯高 九二センチメ-トル 根崎神社所蔵
2、来迎観世音菩薩座像 熊石町字泊川 〃 五八センチメ-トル 北山神社所蔵
3、来迎観世音菩薩座像 熊石町字相沼 〃 四五センチメ-トル 相沼八幡神社所蔵
4、来迎観世音菩薩座像 乙部町字豊浜 〃 二〇センチメ-トル 本誓寺所蔵
5、来迎観世音菩薩座像 乙部町字三ツ谷 〃 三一センチメ-トル 漁民研修センター所蔵
6、来迎観世音菩薩座像 〃 四五センチメ-トル
7、来迎観世音菩薩座像 乙部町字元和 〃 一八センチメ-トル 元和八幡神社所蔵
8、来迎観世音菩薩座像 乙部町字鳥山 〃 四四センチメ-トル 地蔵堂所蔵
9、阿弥陀如来座像 江差町字泊 〃 三八センチメ-トル 観音寺所蔵
10、来迎観世音菩薩座像 江差町字尾山 〃 四五センチメ-トル 岩木神社蔵
11、来迎観世音菩薩座像 江差町字柏町 〃 三八センチメ-トル 柏森神社所蔵
12、十一面観世音菩薩立像 上ノ国町字上ノ国 〃一四五センチメ-トル 観音堂所蔵
13、来迎観世音菩薩座像 〃 四〇センチメ-トル
14、来迎観世音菩薩座像 上ノ国町 〃 七五センチメ-トル 郷土資料館所蔵
15、来迎観世音菩薩座像 上ノ国町字木ノ子 〃 五二センチメ-トル 光明寺所蔵
16、来迎観世音菩薩座像 上ノ国町字石崎 〃 四八センチメ-トル 石崎八幡神社所蔵
17、阿弥陀如来座像 上ノ国町字石崎 〃 四〇センチメ-トル 西村初男氏所蔵
18、来迎観世音菩薩座像
(本地観世音菩薩) 松前町字白神 〃 四六センチメ-トル 三社神社所蔵
19、来迎観世音菩薩座像 福島町字吉野 〃 四八センチメ-トル 吉野教会所蔵
20、来迎観世音菩薩座像 木古内町字木古内 〃 五〇センチメ-トル 佐女川神社所蔵
21、来迎観世音菩薩座像 木古内町字札刈 〃 四五センチメ-トル 西野神社所蔵
22、来迎観世音菩薩座像 木古内町字泉沢 〃 四七センチメ-トル 古泉神社所蔵
23、来迎観世音菩薩座像 上磯町字茂辺地 〃 五〇センチメ-トル 曹溪寺所蔵
24、来迎観世音菩薩座像 上磯町字富川 〃 五三センチメ-トル 富川八幡神社所蔵
25、来迎観世音菩薩座像 上磯町字会所町 〃 四九センチメ-トル 上磯八幡神社所蔵
26、来迎観世音菩薩座像 七飯町字大中山 〃 五二センチメ-トル 富原喜久夫氏所蔵
27、阿弥陀如来座像 函館市船見町 〃 四二センチメ-トル 称名寺所蔵
28、阿弥陀如来座像 戸井町字汐首 〃 四四センチメ-トル 観音堂所蔵
29、来迎観世音菩薩座像 砂原町字会所町 〃 五一センチメ-トル 内浦神社所蔵
30、来迎観世音菩薩座像 八雲町字山越 (推 定 で き ず) 諏訪神社所蔵
31、来迎観世音菩薩座像 寿都町字磯谷町 〃 四四センチメ-トル 島古丹海神社所蔵
32、観世音菩薩座像 伊達市字有珠 〃 五八センチメ-トル 善光寺所蔵
33、来迎観世音菩薩座像 苫小牧市錦岡 〃 四七センチメ-トル 樽前神社所蔵
34、観世音菩薩座像 広尾町字中通 〃 一一センチメ-トル 禅林寺所蔵
35、来迎観世音菩薩座像 釧路市米町 〃 四三センチメ-トル 厳島神社所蔵
36、観音座像(頭部欠落) 豊浦町字礼文華 小幌岩屋所蔵
37、観世音菩薩座像 長万部町字長万部 〃 四五センチメ-トル 平和祈念館所蔵
これら蝦夷地で寛文六年から七年にかけて作像奉斉された像以外に、明治以降本州から持ち込まれた円空像は六体あり計四十三体以上の円空仏が存在する。
円空仏の作像傾向は、蝦夷地に向かって作仏行脚を続けていた寛文五年(一六六五)の秋田県男鹿市や能代市、青森県田舎館村、弘前市に残されている十一面 観世音菩薩立像を見ると、全体の組立や条帛(じょうはく)(着物のひだ)や裳裾(もすそ)(着物)の状況などは不自然で、正に初期の拙劣を感じさせる作品が多い。また、津軽から本道にかけて多く残されている作像は観音像と呼ばれる仏の座像が多いが、この像は来迎観世音菩薩座像と呼ぶのが正しいと五来重氏は、その著『円空佛』で述べているので、その説に従うこととした。
さらに同氏は、この来迎(らいごう)観世音菩薩座像の型式は津軽から北海道にかけて分布する一つの様式を完成させたものとしており、その特色は、
それは満月相にうれいをふくんだ伏目、ひくく彎曲(わんきょく)しているがするどく隆起する鼻梁、口元は微笑をふくみ頸はなく、通 肩(つうけん)の衣帯をゆるくかけ、これを細い線刻衣文の並行線でかざる。手は膝の上で定印をむすび、多く小さな蓮 台をのせる。台座は岩座または臼座に筋彫蓮弁の二重台座。洞爺湖観音はこの様式のなかで、化仏(げぶつ)をつけ宝髻(ほうけい)の上から白衣をかむり、高い岩座だけの台座にのっている点がことなるのである。
と述べているが、私はこの一連の来迎座像で、明らかに定印(指と指の組み合わせ)を結んでいるものを阿弥陀如来座像とし、定印の上に蓮鉢を置いたものを来迎観世音菩薩座像とした。
これら道内に残されている円空作の仏像のなかで、字吉野所在吉野教会に保存、奉斉されている来迎観世音菩薩座像は、同作中の傑作と賞讃されている尊像で、古来礼髭観音堂から現在に伝承されて来たものである。躯高は四八センチメ-トルと座像の標準の高さをもつ桧木の半割木の作品である。螺髪(らはつ)(髪の毛)は烏帽子(えぼし)形に組み、円形豊の顔相の中に杏仁(きょうにん)形の目がある。唇はやや下向気味に微笑の相を現わし、ふくよかな体躯に軽く納衣(のうい)(ころも)を着せた如くに彫り出され、手は法界定印(ほっかいじょういん)を結んだ上に蓮鉢を載(の)せて、結跏趺坐(けっかふざ)の型式をとっている。さらにこの像の台座は二重蓮弁台座になっていて、その下にさらに岩座が荒いタッチで刻まれていて、正に蝦夷地で構成された来迎観世音菩薩の典型的なものであるばかりでなく、保存状態も極めて良好である。町はこの像を平成二年七月十三日福島町有形文化財に指定し、保存の万全を期している。
また、函館市船見町称名寺に所在する阿弥陀如来座像は元吉岡村観音堂本尊であったことが『福山秘府諸社年譜并境内堂社部』に見られる。この像は明治初期の廃仏棄釈によって海に捨てられたものを、同村の住吉家が拾い保存し、のち同家から称名寺に寄贈されたといわれている。本像も吉野教会の来迎像と同じく保存が良く、両像が同年代に彫像されていて、北海道を代表する円空仏の双璧をなしている。
円空仏は鉈(なた)彫、鉈造りと言われ、彫像は荒いタッチで刻まれている。しかし、それは年代的に熟練して行った過程でのことであって、蝦夷地での円空仏像は省略もあるが、これが一型式となっていて、非常に丁寧に作り上げられた作品であり、木割等には斧や鉈を用いたとは思われるが、面 部や体躯等は鑿を用いて仕上げをしている。円空の場合一躰の像を造建するのに、一日は木材の調達と作仏構想を立て、二日、三日で彫刻、四日目には完成し、開眼法要を行ったといわれるが、それは木彫習熟後であって、蝦夷地の初期作像ではもう少し日程を要していたと考えられる。
円空仏は微笑を浮べ、常に村人達を温かく護ってきたといわれ、近親感を持って親しめる仏様であった。なかには寺社から子供達が外に持ち出し、共に遊んだと言われている。熊石町字相沼八幡神社や、上磯町字茂辺地曹溪寺の仏像などは、その擦過傷のため彫刻の跡が見えない程に痛んでいる。果 たして子供達が付けた傷だろうか。これは実は村内の病送りに常に利用され、その結果 生じた傷であると考えられる。近世の時代疱瘡(天然痘)や流行病(はやりやまい)(感冒やはしか)、伝染病が一度起きると、その予防方法も確立されておらず、一度発生すると大蔓延し、特に抵抗力を持たない子供達は、ばたばたと死んで行った。このような場合村人たちはひたすら神仏に加護を求めなければならず、観音堂や地蔵堂に集まって、百万遍の数珠を廻し、鉦を叩いてその退散を祈った。また、病送りと称しておこわ(赤飯)を焚き、これを米の空俵の蓋(ふた)(さんぶた)に載せて曳き、村中の婦人が鉦を叩いて行列を組み、村堺に運んで病送りをした(その村によっては船の模型を造り、供物を添えて海に流した)。その際円空仏が病送りに一役買わされて、縄をかけられ一緒に曳かれて行った時の傷跡が、それであると考えられる。
福島町内にあった二体の円空仏の保存状態が極めて良好であるのは、住民が円空仏の慈悲を感得し、これをひたすら祈り護ってきたからに外ならない。
【貞伝作像】 貞伝とは青森県東津軽郡今別町浄土宗本覚寺第五世住職良船貞伝上人のことである。享保元年(一七一六)住職として入寺した貞伝は、本堂の再建、多聞天堂の建立など仏門の振興に大いに努力したほか、余暇を木彫、鋳造に趣味を持ち、多くの仏像を造った。その代表的なものに有珠善光寺秘仏となっている如来像があるが、本覚寺にも多くの作品を残している。また貞伝は鋳造による万体仏の作製を発願し、銅と亜鉛を混合する簡単な方法で、高さ五・五センチメ-トルの阿弥陀如来立像を鋳造領布した。
この像は持つと不思議と幸運をもたらすということで、漁民の多くがこの像の分賦を受けた。福島町からも海を渡ってこれを今別 まで拝領に行く人が多く、現在本町には字三岳太田昌徳宅、字月崎木村フミエ宅、字日向富山福政宅、字白符高橋善蔵宅、字吉岡神田巳之丞宅、字吉野新山キエ宅、新山長三郎宅の七体の像が保存されている。