グアヤサミンの美術館で感じたこと、痛みと祈りの共同体 ー ふたこわたる公式ブログ「人々よ、自分の祖国を取り戻せ!」
エクアドル最終日は、首都のキトに移動して観光でもしましょう、ということになりました。
ガイドさんがオススメの場所として連れて行ってくれたのがオスワルド・グアヤサミン(スペイン語発音だとフアヤサミンのほうが近いかな Oswaldo Guayasamin)の邸宅美術館。
僕はうっかりすっかり、気楽な観光のつもりで行ったのですが、ものすごいインパクトで、旅の総仕上げみたいな展開になりました。
僕の中で、いろいろなピースが必要な場所におさまる体験だった。
(グアヤサミンの美術館から見るキトの街並み)
フアヤサミンは先住民の家系で、キトで生まれたラテンアメリカを代表する画家。エクアドルのピカソなどと呼ばれたりします。その作品は、「涙の後の時代」「怒りの時代」「優しさの時代」の三つの時期に大別されます。
子供の時に路上で遊んでいたら、目の前で親友の頭が銃弾に撃ち抜かれた、という事件に始まり、彼の繊細な感性は世界中の人々の痛みに触れていきました。そんなわけで作品の多くは、そうした社会の悲劇・・・、人種差別や戦争などの人類の歴史の悲惨な側面に抗議するメッセージを持っています。
例えば美術館の中央の円い天窓。その周りには未完成の壁画があります。
この絵はボリビアのポトシ銀山にインスパイアされて描かれたもの。ポトシ銀山ではかつて大量の銀が採掘され、一時は本国スペインのマドリード以上に絢爛豪華な街になっていたと言われています。しかしそれは先住民の強制労働者によって支えられていて、そこで犠牲になった人の数は450万人と説明がありました。
4 and a half million って・・・いくつだっけ??450万?ほんと???としばらく信じられず聞きなおしてしまったほどです。
男たちは強制労働に駆り出され、女性たちはレイプされ、鉱山の中で生まれてから一度も太陽を見ることなく一生を終える強制労働者も少なくなかったとのことでした。
この話を元に、フアヤサミン美術館の円い天窓の周りには、太陽の光と自由を求める人たちが描かれています。
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そして他の作品の多くも、ラテンアメリカを中心に悲劇的な出来事をモチーフに描かれています。
そしてそれがなんというか、まったく説教じみていないのね。芸術作品として昇華されている。でも、ものすごい迫力。
痛みや怒り、恐怖、悲しみ。そういうものがズドンと伝わってきました。それを正面から表現している。
そうするとそれは、祈りになる。
この美術館は、「チャペル(人間教会)」とも呼ばれていて、無宗教の祈りの空間になっていました。そうとは知らずに入ったのですが、入ってすぐに、そこに展示されている大きな作品たちの迫力にただならぬものを感じていたら、そういうことだった。
ここは、人類の歴史に残る痛みと、それに対する祈りの空間。それがなんというか、僕のハートに押し寄せてきました。
それで涙に暮れながら祈らずにはいられなかったんだけれど、でもあとでこっそり一人で祈りに行ったのでした。
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そういう時に僕の中に、その祈っている姿を見られたくない気持ちと見られたい気持ちが同居するのね。
これ、なんなんだろうなと前から思っていたけれど、今回よくわかりました。
見られたくない気持ちはわりとわかりやすくて、批判的に評価されたり、軽く扱われてきたから。
僕が世界に起こっていることについての痛みについて語るときに、子供の頃からしばしば出くわした場面。
様々な出来事についての悲しみや、苦しさや、怒りを語るとき。
そんなときに出会う反応は、「なに大げさなこといってんの?」「それよりまずは身近なこと、足元のことを大事にしなきゃね。」みたいな、ちょっとバカにしたような反応や、「へ〜、なんかすごいんですね(あなたはちょっと変わった人種なんですね)」と距離を置かれるような反応、「なにかっこつけてんの?」「なにいい子ぶってんの?」みたいな攻撃的な反応などなど。まあ過去形というか、今でもあるんだけれど。
子供のときの僕は、自分が当事者じゃないことに関しても、ものすごく痛いほどに感じることが昔からよくあった。でも、それは多くの場合、「ものすごい痛み」として受け取られることはなかったし、その無理解の壁にいつも出会って、どんどん孤独になっていったのでした。
そういう体験をするのはもうイヤだ。
僕の中の傷ついた子どもはすっかり怖がっているのでした。
そして上に書いた、祈っているのを見られたい気持ちの方はというと。
「いい子ぶってんのかな」「かっこつけてんのかな」などと子どもの頃は考え込んでしまっていたし、その後は考えないけれど、めんどくさいから一人で痛がってたり、痛みを感じるのをやめたりしていました。心を閉じるという意味ね。
だけれど今回、フアヤサミンの絵を見て、彼が見ていた世界、彼が絵を描くということをし続けた(作品数は数千点もある)気持ちなどを、僕なりに感じ取ってみたときにふと気付いたの。
彼は描くことを通して、痛みと祈りを共有したかったんだ。
そう、そしてそれは、僕の望みでした。(実際の彼がどうだったかはわからないけど)
僕は、この痛みと祈りを共有したい。
こんなに地球が破壊され、こんなに人々が痛めつけられている。
そのことに僕はこんなにこんなに胸を痛めている。そしていのちがもっと大切に扱われ、人々が、自然界の存在が、もっと傷付けられないですむ世界をこころから願っている。
その思いや祈りはなんというか、僕の中にどうしようもなく存在している。
その痛みや祈りを持ったままでは、僕は居場所を与えられない気持ちで子供時代を過ごしてきたけれど、僕はこの痛みと祈りを共有してくれる人を求めているんだとわかったのでした。
この痛みと祈りを感じている僕が、そのまま「そうなんだね」って受け入れられる居場所を求めている。
それが「祈っている姿を見られたい」という、ちょっと遠慮がちで歪んだ形で漏れ出ていたことがわかりました。
僕はこうした思いを持っていられる家族を作っていこうと思いました。そしてこの痛みと祈りを共有していていいつながりを、さらにそういう「世界」を作っていこう、と思ったのでした。
だってそれは自然でまっとうなだけでなく、人がそのこころを痛めるという力を発揮できるよう、お互いを支え合うっていうことなんだもの。
あなたもぜひ、そんな仲間に加わってください。
こころをこめてご招待します。
そんな思いで外に出たら、キトの街には美しい夕焼けが訪れていました。
■11月19日 アマゾン&アンデス先住民を訪ねる旅 シェア会
https://www.facebook.com/events/1895872040643992/
今後の予定
■好かれる勇気 大好きな人に好かれて生きる
11/19 名古屋
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12/24 東京
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