高志国
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-02-05.htm 【第四節 ヤマト勢力の浸透 二 四つの国造 高志国造】 より
高志国造については、これを越後に考える有力な学説のあることはすでに述べたが、いろいろな点で不合理なので、やはり越前国内にあったものとして議論を進めたい。
「国造本紀」には「志賀高穴穂朝御世、阿閇臣祖屋主田心命三世孫市入命定賜国造」とあり、『紀』孝元天皇七年二月丁卯条は「兄大彦命(孝元皇子)は、是阿倍臣・膳臣・阿閇(閉)臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣・凡て七族の始祖なり」と記す。これは北陸と関係深い阿倍臣や越国造がみえる史料として、とくに有名である。しかし「国造本紀」が記すのは阿閇臣であって、阿倍氏ではない。『紀』の雄略紀には阿閇臣国見、顕宗紀には阿閇臣事代の名がみえるが、さして有力な氏族ではない。
『新撰姓氏録』右京皇別に、阿閇臣を「大彦命男彦背立大稲輿命之後也」としているが、それに続けて、「伊賀臣、大稲輿命男彦屋主田心命之後也」「道公、大彦命孫彦屋主田心命之後也」とみえ、彦背立大稲輿命―彦屋主田心命の系統として、阿閇臣・伊賀臣・道公の三氏がみえる。先に「石黒系図」では武内宿系となっていた道公が、ここでは大彦命系として登場している。
このようにかなり錯綜した系譜になっているが、これらの伝承の背後にいくらかでも史実を読みとろうとすれば、大彦命後裔とはいえ、阿閇氏を始祖としている伝承は、安易に無視しない方がよいように思われる。
さて高志国造を越前国内に考えるとすれば、ほかに国造の配置をみない丹生郡を考えるのが有力であろう。丹生郡は、王山・長泉寺山古墳群(鯖江市)の存在によって、越前で最も早く開けた地域の一つと考えられるが、そののちとくに巨大な古墳の築造をみず、また数代にわたって継続した大古墳群も認められない。したがってこの地においては、在地豪族の発展よりも畿内豪族の移住が考えられる。なお和銅元年(七〇八)に初めての越前国守としてみえる高志連村君(編九九)を高志国造の後裔とする考え方もあるが、時間的隔たりが大きいので、明確な判断は困難である。したがって、丹生郡に国造を求めるとすれば、天平五年に丹生郡大領として名のみえる佐味氏(公三)の可能性が強い。佐味氏は、上毛野氏と同祖で崇神天皇皇子豊城入彦命の後裔と伝えるから、孝元天皇系の阿閇氏とはまったく系統を異にするわけである。
一方、先の孝元紀にみえる「越国造」を、高志国造と同一視し大国造(広域国造)として扱う論考もある。これを斉明紀にみえる「越国守」「越国司」の前段階のものとして、越全体の広域国造とみなす説にも一理はある。しかし、かりに斉明紀が七世紀後半の実状を示すものとしても、それをさかのぼる時代に越全体がヤマト朝廷の支配下に広域政治圏を形成していたなどとは考えられない。おそらく六世紀段階では、ヤマト朝廷の権威は越中あたりまでしか及ばず、しかも各地の豪族を通じての間接的支配にすぎなかったであろう。このような情勢のもとで越国造が存在したとすれば、やはり越前の一部にとどまり、三国国造や角鹿国造と比肩するものでしかなかったろう。
さらに、『紀』は「越」、『記』は「高志」というように統一された表記になっている。それゆえ「国造本紀」の高志国造と『紀』の越国造は、対応した同一の呼称であるとも考えられる。したがって、「国造本紀」の阿閇氏同祖説も、成り立つ可能性もあるのではなかろうか。その時期は、崇峻紀にいう「阿倍臣を北陸道の使に遣わして、越等の諸国の境を観しむ」(編五八)とある崇峻天皇二年(五八九)以前であろう。
要するに、若越地域の各国造の成立は、最も早い若狭国造は五世紀後半ごろからであり、これに次ぐ角鹿・高志・三国国造は六世紀になってからのことと考えられる。もとより、いったん成立してのちも一つの氏族が一貫して国造であった場合だけとは考えられず、前述の錯綜した系譜関係をみても、おそらく複数の氏族が時期を異にして国造にあたる場合もあったであろう。
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高志の大王・継体天皇が近畿を侵略する為の拠点としたのが、近江の国・高嶋です。長距離移動が船に頼っていた時代に、琵琶湖から大阪湾に連なる淀川水系を支配する事は、近畿征服の最重要課題でした。
ここで活躍したのが、高志の国・能登の海人族「安曇氏」でした。日本海航路を開拓し、中国大陸、朝鮮半島、北部九州、出雲とダイナミックに活動していた航海術が、近畿征服にも大いに発揮されたのでした。
今回は、安曇氏が日本海から琵琶湖に入った経路や、周辺の遺跡、志賀という地名などについて考察します。
琵琶湖1
日本海から琵琶湖へのルート
継体天皇と安曇氏が近江の国・高嶋に入った経路は、遠敷郷(現在の福井県小浜市)から緩やかな峠を越えて琵琶湖に入ったと考えられます。
このルートは、近世には『鯖街道』と呼ばれ、若狭湾で取れた魚介類を奈良や京都まで運ぶのに使われていました。また、飛鳥時代、奈良時代には遣隋使や遣唐使が中国から帰って来るルートでした。その名残りが、小浜の「お水送り」、奈良の「お水取り」の儀式として、現代にも受け継がれています。
さて、この小浜から高嶋に至るルートには、継体天皇が近畿侵略したのと同じ時代の遺跡が、数多くあります。
主な遺跡として、まず、福井県小浜市近郊の十善の森古墳です。金銅冠(こんどうかん)や武器、銅鏡、玉類、装身具類、馬具類など数多くの豪華な副葬品が出土しています。
次に、滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳です。こちらも、金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類などの豪華絢爛な副葬品が発見されました。
これら二つの古墳は、どちらも六世紀初頭なので、継体天皇の時代と一致します。そして、新羅の王族の墓の出土品とよく似ています。安曇氏による日本海ルートを利用して、中国大陸から継体天皇を支援しに来ていた王族達の墓だった可能性があります。
琵琶湖1-1
鯖街道の古墳
海洋民族・安曇氏との関わりは、地名に残っています。
小浜から遠敷川を遡り、峠を越えると、麻生川という小川があります。これは、下流の安曇川に流れ込む支流です。『安曇川』、その名の通り、安曇氏との関係を匂わす名前です。
麻生川は小川なので船で下る事は困難です。安曇川に入ったところで、ちゃんとした船で、琵琶湖へ下って行く事が出来ます。
能登半島の安曇氏は、継体天皇と共に日本海から峠を越えて、この地で船を造り、琵琶湖へ、そして淀川水系全域へと乗り出して行ったのでしょう。
ちなみに、安曇川下流域は現在でも「安曇川町」という地名が残っています。また、前述の鴨稲荷山古墳も、この安曇川町の中にあります。
琵琶湖2
安曇氏ゆかりの地名
ここまでで、能登の海洋民族・安曇氏が滋賀県高嶋とのつながりがある事が分かりますが、もう一ヶ所、重要な地名があります。安曇川町の隣にある「志賀町」です。なぜ、「志賀」という名前にこだわるかと言うと、 能登半島の安曇氏の拠点も「志賀町」、北部九州の安曇氏の拠点も「志賀島」だからです。 この町自体は、近世に名付けられた町名ですが、古代に於いては琵琶湖自体を「志賀」と呼んでいたという説があります。また、滋賀県という名前も、志賀からきているとも言われています。
能登半島、北部九州、近江の国、単なる偶然とは思えません。
琵琶湖3-1
安曇氏と志賀という地名
ちなみに、万葉集第一の歌人・柿本人麻呂は壬申の乱で荒廃した近江の国を次の様に詩っています。
『さざなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔のひとに またも逢はめやも』
琵琶湖3-2
柿本人麻呂の詩
近江の国・志賀の歴史を辿ると、豪族・志賀氏によって統治されていたとされています。この豪族もまた中国大陸からの渡来系で、後漢の献帝の末裔の一族とされています。出自に関しては、どれだけ信憑性があるかは分かりませんが、後漢の末裔という点で興味深いです。九州・志賀島で発見された金印「漢委奴国王」は『後漢書』に記されていたものですので、「志賀島という場所だからこそ」という必然性があったのでは?・・と想像が膨らみます。
近江の国・高嶋には、高志の大王・継体天皇ゆかりの場所も多くありますが、それと同じくらい、海洋民族・安曇氏ゆかりの地も多くあります。高志の国・能登や、北部九州という特定の地域だけでなく、高志・九州・朝鮮・中国という非常に広い範囲をネットワークとしていた海洋民族で、その一部が近江の国から近畿地方に流れ込んで行ったのかも知れません。