疑 史 アヤタチとサンカ
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-572.html?sp 【疑 史(第35回) アヤタチとサンカ(1)】より
オリエント由来の多神教を奉じるイスラエル支族の1部が大洋を航海し(アマベとモノノベ)、あるいは内陸を移って(秦氏)日本に渡来した。彼らはその後どうなったか。アマベの勢力は早くから減退したようだが、これは天孫軍に反抗したことが根本的原因であろう。
【上田伝承】は、次のように伝える。
「朝鮮カラ追ハレタル 騎馬族ガ 日本ヲ襲ヒ 海人ラハ 朝鮮カラ来タル 応神天皇ナドニヨッテ 海ヅタヒニ ヘキ地ヘト 追ハレタノガ 海人トノコト」(『吉薗周蔵手記・別紙記載』)。
朝鮮半島南端に駐屯していた辰王は、南下してきた同族に追われて日本に渡来し、宇佐でイスラエル支族・秦氏の女婿となった。辰王と宇佐氏との間にできた応神天皇が東征し、アマベらの古王国に侵攻するが、モノノベ氏の祖ニギハヤヒと縄文族ナガスネヒコの連立政権大和王国もその1つだった。
アマベが東征軍に抵抗したとの上田伝承は、『日本書紀』応神紀の「3年11月、処々の海人ざわめきて命に従わず。即ち安曇連の祖の大濱宿禰を遣わして平らげせしめ海人の宰となす」とあるのに対応する。思わぬ所に古伝承の裏打ちが見つかるのである。
応神3年の反乱(実は防衛)の主体は海民というより、海民支配者のアマベだったから、各地の弥生稲作集落イセも反抗の拠点となった。近江守山の伊勢集落が突然廃墟となったのも、この時の兵火によるものであろう。応神軍に味方してアマベの騒擾を平定したのは、海人族の1派の大濱宿禰で、安曇連の祖となった。筑前国儺県(ナノアガタ)を本拠とする安曇氏は海神ワタツミの後裔を称し、住吉三神を奉じるから、ホアカリを祖神とするアマベとは同じ家系ではないが、ワタツミがホアカリの岳父というから、極めて近い縁戚関係にあった。大濱宿禰の天孫族への加勢は、宇佐の秦氏の工作とみるべきか。
応神紀に「5年秋、諸国に令して海人及び山守部を定む」とある通り、古来アマベの支配下にあった全国の海民は、この時に初めて部曲に指定され、安曇氏がその宰(ミコトモチ=支配者)を拝した。私的部民の安曇部を有していた安曇氏は、以後海人の宰をも兼ねる。
天孫族の襲来に当たり、海人族は安曇とアマベに分かれて親天孫・反天孫の両側にヘッジしたらしい。戦国時代の真田家を連想するが、真田の本家たる信濃の海野・滋野氏も根源は安曇氏であろう。イスラエル族の特色たるヘッシ策を採ったことを見ても、海人族の民族性の見当は自ずからつく。
天孫に反抗したアマベはどうなったか。『古事記』の応神条に「海部、山部、山守部、伊勢部を定めた」とある。伊勢部は伊勢神宮に海産物の御贄を奉る小規模な海人集団であるが、今も残る伊勢部柿本神社の祭神は海神系でなく、天照大神などのホアカリ系である。伊勢部の名からしても、この宰たり得る者はイセの社にホアカリを祀ったアマベ以外にはあり得ない。アマベの1部は伊勢部の宰となった筈である。
海人部の宰となった安曇連(宿禰)は、海直(アマノアタエ)と改称し、この結果アマベとアマが併存して紛らわしくなった。山守部の宰の山部氏が延暦4年に山氏と改姓した例と似るが、安曇連の場合は自ら海直と改称することで、敵方に回っていたアマベの遊民を吸収し、海人族の再統合を図ったものだろう。
しかしアマベの1部は海辺に行かず、山岳に入ってアヤタチとなった。上田伝承が「アヤタチ トハ 怪立 ト書ヒタル由。ツマリ アヤタチハ 追ハレル者ノ中カラ 選リスグッタル者ノ 集団デアル由。ヘキ地ノ海二行カヅ 山中ニ 入ッタノデアル由」と語るように、海人の中から選抜された者が山中に入り、伝統の錬金術を修めて天孫族に対抗し、アヤタチと称した。怪しく(本性を晦まして)立つ(生き抜く)ことを原則としたので、これを漢字にすれば「怪立」となる。
上田伝承のアヤタチ説により、図らずも明らかになったのが謎の民サンカの由来である。サンカ研究家で知られた三角寛は「サンカは出雲族で、純粋の大和民族を自負する。頭領アヤタチ(乱破)は丹波山中で一族の統率と子弟の教育に当たり、補佐にミスカシ(透破)とツキサシ(突破)がいる」と指摘して、「世間はサンカと呼ぶが、彼ら自身はそれを嫌いミヅクリと自称する」と述べた。同じく研究家の後藤興善も、サンカは他称と述べたが、三角と異なり「彼らの自称はショケンシである」とした。自著の中で彼らをサンカと呼んだ三角は、彼らの自称をミヅクリ(箕作)と断じたが、ショケンシなる語の存在すら触れなかった。三角寛のサンカ研究には、何かを隠そうとする偽史臭が漂う。
九州の山地に住み山子(ヤマンゴウ)と呼ばれた山民も、ショケンシと同族と思われるのだが、彼らの自称についても未詳である。山子は素より、ショケンシも正統的な名称とは思いにくいが、「世間師」の字を当てて、広く世間に通用している。種田山頭火の日記や宮本常一伝『旅する巨人』、さらに小佐野賢治伝『梟商』にも出てくるから、ショケンシの方が用語としては正しいと思うので、当分この語を用いることにする(因みに伝記著者は、宮本も小佐野も父は世間師と述べる)。
ショケンシは弥生期に渡来したらしい。天性農耕を好まず土地に定着しなかったが、古来その職掌は、竹細工や川漁・果樹園の番・用水池の見張り・薬草の採取・芸能など農業周辺の作業で、それから見ても、雲南以来ずっと倭人に随伴してきた周辺種族と思われる。長い歴史の間に、ショケンシの中から外部に流出した民がいて当然で、或いは倭人との混血により農民に転化していった人口も数知れず、あくまでも固有の生活様式を守ってきたものが純粋のショケンシとして残ったのではあるまいか。
日本に渡来したアマベは、海民のために沿岸適地に海部郷を設け、稲作民のために各地にイセ集落を建設した。東征軍に反抗したためイセ集落を焼かれ、アマベの多くは僻地の海辺に逃れたが、1部は丹波山中に入ってアヤタチと称え、ショケンシの子弟を訓練して諜者とし、同族の勢力維持と天孫族への対応を図った。上田伝承は、モノノベもウサ(秦氏)もアヤタチの基となったと言うが、同種族とはいえ、東征軍と戦い降伏したモノノベや天孫族に味方した秦氏が、直ちにアヤタチ活動に加わったとは考えにくく、これは年を経て、アヤタチの地位が変化した時と思う(後述)。
三角がアヤタチ(乱破)はサンカの頭領と説くのに対し、上田伝承は「アヤタチ(怪立)とはアマベらが錬金術を修業する時の名前」と伝える。両者のアヤタチの観念は同じでないが、統一的な解釈も可能で、その根底には次の考え方がある。
(1)雲南の水稲農民が長江を下り、江南の海岸で越の海民と混淆して農耕漁労民となった、これが倭人。
(2)江南の海辺に流移したアマベは、ここで倭人の指導者となり、倭人を率いて日本に渡来した。
(3)ショケンシは雲南以来、倭人の周辺で倭人と共生してきた山岳民族である。
上田伝承では、正しい発音はサンカァで、サンワとも言う由である。サンカなる呼称が文献に登場するのは意外と遅く明治初期らしいが、新造語ではなく戦国時代の「乱破」「突破」に通ずる古語らしい。隠語性からして少数派を指すもので、人口の多数を占める倭人側から呼んだ語と見るべきである。なお、山窩は当て字らしいが、山中で錬金術を修する行者の隠語ならば山窩の当て字は却って相応しいと思う。
山窩とは誰を指したのか、その答えは既に出ている。丹波穴太村の上田家の血を引く外科医・渡辺政雄は「ウチラはアヤタチの家柄」と言い、同じく上田の血を引くと称する月海黄樹は著書『秀吉の正体』において、自ら山窩の血筋と明言している。これからして、山窩とは本来アヤタチを指したことは明らかである。ところが、山窩(アヤタチ)がショケンシを統率する様を外部から見た者が、これを一体視し、その結果山窩の観念が拡張し、世は山窩といえばむしろショケンシを意味するに至ったものと思える。
仄聞するに、山高には「地山窩」と「上田山窩」の別があるようで、両者は対立観念と見たい。前者の正確な意味は分からないが、後者はアヤタチの血筋がアマベから秦氏(上田姓)に交替したことを意味するのではないかと思う。
蓋し、応神政権は列島統治のスタッフとして、朝鮮半島から多数の秦氏集団を招聘した。これは秦氏(実は呂氏だと思うが)が率いた交易・技術民で、その構成員は秦人と称する雑多な人種であった。同族でもアマベと異なり、秦氏が天孫族と親和したのは、半島時代すでに民族的共生関係にあり、交易・生産に携わる秦氏の用心棒を天孫族の辰王が勤める関係が成立していたからであろう。天孫族と秦氏は日本でも共生し、前者は政権を確立し、後者は商権を握った。
天孫族と組んで経済権力を確立した秦氏は、やがて同族のアマベとモノノベを併呑、吸収していく。その際アヤタチがアマベから秦氏に交代したものと考えるが、理由はアヤタチが上田姓を名乗ることである。そもそも上田姓は信州上田の地に因むもので、養蚕・機織に関連した苗字であり、真の出自は秦氏と思う。秦氏は宇佐から東遷して西京・太秦(うずまさ)を拠点にしたが、分派は更に東行して相模の秦野を経由し、信濃の上田に至る。この地こそ秦氏が開いたシルクロードの東端で、明治時代に唯一の高等蚕糸学校を置いた所以である。秦氏の1派は上田の地で反転、西帰して丹波穴太村に移り、アマベの家系に入ってアヤタチとなった。その際、姓として故地に因む上田を称したと見れば、上田山窩とは「本来のアマベ系ではない上田系の山窩」を意味をすることになる。
時代が変わり権力が天孫族から諸豪族に移るにつれて、アヤタチ活動も成果を生んだ。秦氏(上田氏)がアヤタチに就いた時には山窩も権力側の一端を占めていたが、アヤタチ上田氏が独自の経済能力で、その地位と力を更に高めたものではなかろうか。傍証として酒造業のことがある。『吉薗周蔵手記』には「江戸時代の酒造業は、サンカの名主級の特権として許された」との伝聞を記すが、ここでサンカとは本来の語義たるアヤタチを意味する。酒造業といえば松尾大社を祀る秦氏が代表で、酒造特権を有するサンカの観念はアマベ・モノノベではなく、特に秦氏と結びつくことになる。それに加え、酒造特権を江戸幕府から得たこと自体が、当時山窩が到達した地位と権威を自ずから物語っているのである。