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奥の細道(須賀川)

2018.03.12 09:03

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno09.htm 【奥の細道(須賀川 元禄2年4月22日~29日)】 より

 とかくして越行まゝに*、あぶくま川*を渡る。左に会津根*高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる*。かげ沼*と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川*の駅に等窮*といふものを尋て、四、五日とヾめらる*。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず*。 

風流の初やおくの田植うた(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)

無下にこえんもさすがに*」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ*。

 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有*。橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて*、ものに書付侍る。其詞、

 栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと*、行基菩薩*の一生

         杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。

世の人の見付ぬ花や軒の栗(よのひとの みつけぬはなや のきのくり)

4月22日、矢吹から福島県須賀川市へ。相良等躬宅へ。ここで早速、「風流の初めや奥の田植歌」に始まる芭蕉・曾良・等躬の三吟歌仙。

4月23日、「世をいとう僧」こと可伸を訪ねる。

4月24日、等躬宅の田植えがあった。午後からは可伸の庵で、「世の人の見付けぬ花や軒の栗」に始まる七吟歌仙。雷雨。

4月25日、等躬は物忌み。

4月26日、小雨。杉風宛に書簡執筆。

4月27日、くもり。三つ物。芹沢の滝見物。

4月28日、朝は曇。今日、須賀川を発つ予定であったが、矢内彦三郎が来て延期となる。午後、彦三郎宅を訪問。

4月29日、須賀川を後にする。快晴。石河の滝を見物。途中、本実坊・善法寺などに立ち寄って、夕方郡山に到着して一泊。

風流の初めや奥の田植歌

 等躬への挨拶吟。みちのくに入って耳にする田植歌は、俳諧風流の神髄だ。世辞を込めて須賀川をほめた句。

「風流のはじめや・・」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)

世の人の見付ぬ花や軒の栗

 どうみても栗の花というのは美しいものとは言い難い。しかし「西の木」と書くぐらいで西方浄土に縁が深いという。「世の人の見つけぬ」というのにはそういうアンビバレントな感想が込められているのかもしれない。蕉門の僧侶可伸はこの木の下で世を捨てた生活をしていた。弟子への挨拶の吟。

 なお、この句は『俳諧伊達衣』および『真蹟歌仙巻』では、次のようになっている。

   桑門可伸は栗の木のもとに庵

   を結べり。伝へ聞く、行基菩

   薩の古は西に縁ある木なりと、

   枝にも柱にも用ひ給ひけると

   かや。幽棲心あるありさまに

   て、弥陀の誓ひもいと頼もし

隠れ家や目だたぬ花を軒の栗  芭蕉

まれに蛍のとまる露艸   栗斎

これに対して『伊達衣』(等躬編)に可伸は次のように述べている。

   予が軒の栗は,更に行基のよすがにもあらず,唯実をとりて

   喰のみ成しを、いにし夏、芭蕉翁のみちのく行脚の折から、

   一句を残せしより、人々愛る事と成侍りぬ

梅が香を今朝は借すらん軒の栗   須賀川栗斎可伸

可伸の栗の木は芭蕉の一句ですっかり有名になってしまったのがここから分かる。

与謝蕪村筆「奥の細道画巻」(逸翁美術館所蔵)

隠者可伸と栗の木

可伸の庵跡 (写真提供:牛久市森田武さん)

可伸庵跡にある「世の人の見付けぬ花や軒の栗」

 須賀川へは相楽さんを尋ねるのを楽しみにして行きました。さすが、等躬さんの末裔だけあって、話す言葉も上品で、素敵な奥様でした。

 奥様によると、苗字は「相良」では無く、「相楽」であること。芭蕉さんは相楽家に7日間滞在したが、家も土蔵もその後に建てられたもので、当時のものは、年に2度咲く樹齢400年のモクセイの木(下の写真)だけだそうです。また、「風流の初やおくの田植うた」について、私は、客人をもてなすために、座敷歌としての「田植うた」を披露したのか、長年気になっておりました。相楽さんは、作家の森敦さんの説ですがと断って、道中で実際に見て聞いたことを句に読んだのだろうと言っていました。(文と写真提供:牛久市の森田武さん)

 

とかくして、越行まゝに:このようにして白河の関を越えて、の意。

あぶくま川:阿武隈川<あぶくまがわ>。福島県白河市に発し、福島県中通り地方を北上し福島市から宮城県角田市を通過して岩沼市で仙台湾に注ぐ。芭蕉一行は、この流域に沿って北上した。建設省東北建設局地図参照

右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる:<みぎにいわき・そうま・みはるのしょう、ひたち・しもつけのちを・・>と読む。須賀川から見ると磐城、相馬、三春方面は北に向かって右側に位置し、茨城や栃木県方面は山によって隔てられている。

会津根:会津磐梯山 。

すか川:須賀川<すかがわ>。須賀川市は、福島県のほぼ中心 部、白河市と郡山市の中間に位置し、阿武隈川と釈迦堂川の 流域に拓けた。鎌倉時代以降は二階堂氏 の城下町として400年間、その後幾多の変遷を経て奥州 街道屈指の宿場町として盛えた。

影沼:福島県岩瀬郡鏡石町付近にあった沼で当時蜃気楼の立つことで有名であった。

等窮: 等窮は等躬<とうきゅう>の間違いまたは文学的粉飾

四、五日とヾめらる:4、5日どころか、須賀川には7泊8日の長逗留をした。

長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず:<ちょうどの・・かいきゅうにはらわたをたちて・・>と読む。長旅に心身もつかれ、美しい風景に夢中になって、古来の詩人たちのことなど思い出されて、何だかボーとしておりました、の意。

無下にこえんもさすがに:<むげにこえん・・>。なにも句を作らずに白河の関を越えるのもどうかというので 、の意。

脇・第三とつヾけて三巻となしぬ:脇は連句の第二句目、第三は同じく第三句目をいう。こうして等躬らと三巻の連句を巻いたというのである。『俳諧書留 』参照

世をいとふ僧有:可伸<かしん>。世捨て人。俳号は栗斎という俳人でもあった。芭蕉は、この頃、こういう人物に強いシンパシーを感じていたのである。

橡ひろふ太山もかくやと閒に覚られて:<とちひろうみやまもかくやとしずかにおぼえられて>と読む。西行の歌(『山家集』)に「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落る橡ひろふほど」を引用。「閒に」は「静かに」と同義 。

行基菩薩:<ぎょうきぼさつ>。(668-749) 奈良時代の僧。和泉の人。俗姓、高志氏。道昭・義淵らに法相教学を学ぶ。のち諸国をめぐり、架橋・築堤など社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。その活動が僧尼令に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力し、大僧正に任ぜられ、また大菩薩の号を賜った。(『大字林』。

栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと:栗という字は、西の下に木と書いて西方浄土に縁があるというので縁起のいい木だ、といったのは法然 上人(『法然上人行状絵図』)。行基は、芭蕉の勘違い。

全文翻訳

このようにして白河の関を越え、やがて阿武隈川を渡った。左の方角には会津磐梯山が高くそびえ、右手には磐城・相馬・三春などの地方が続く。常陸・下野などとは山々によって隔てられている。影沼というところを通って行ったのだが、今日は空が曇っていて物影は映らなかった。

須賀川では等躬を訪ねて、四、五日逗留した。顔を見るや否や等躬は、「白河の関を越えるときどんな句さできたべか?」と尋ねる。私は「長旅に心身ともに疲れ、しかも景色にすっかり心を奪われ、白河での数々の歌人たちの想いに腸も千切れるほどで、はかばかしい句もできずに終わってしまいましたよ。それでも、何も残さずに関を越えるのはどうかとも思ったので、

 風流の初やおくの田植うた

と詠みました」と言うと、これを発句として脇・第三と続けてついに三巻の連句を巻いた。

この須賀川の宿場のすぐ傍に、多きな栗の木の下に庵をあんで、隠遁生活をしている僧がいるという。西行法師の歌「山深み岩にせかるゝ水ためんかつかつ落るとちひろふほど」の深山の閑寂さとは、さぞやこんな具合なのだろうと思えたので、懐紙につぎのような言葉を書きとめた。

栗という文字は西の木と書いて、西方浄土に縁があるというので、行基菩薩は一生涯、杖にも家の柱にも栗の木を用いられたという。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


https://sky.ap.teacup.com/yotchan/1744.html 【「須賀川歩き(8)神炊館神社」  芭蕉句碑】 より

  おたきや様 巡りて 春の顔となり

芭蕉と曽良が参詣した諏訪神社は、神炊館(おたきや)神社のこと。

「おたきやじんじゃ」とはなかなか読めない。

全国でも唯一の社名とか!

初代国造・建美依米命(たけみよりめのみこと)が新米を炊いて神に感謝したことから命名されたそうだ。

郡山への途次、名所・「乙字ケ滝」へ立ち寄ることにした芭蕉たち。

降り続く雨で阿武隈川の水かさが増し、川渡りが難しくなったため、出発を翌日に延期した。

で、4月28日(新暦6月15日)の昼過ぎから矢内彦三郎宅へ。

帰りに十念寺、諏訪神社(神炊館神社)に参詣したのだった。

なかなか立派な石灯篭が立ち並ぶ参道の横に「おくの細道」記念碑が建っていた。

はめられていた二枚のパネル。

ひとつは芭蕉が諏訪神社に奉納した俳句。芭蕉の肖像画が添えられていた。

 

 うらみせて 涼しき瀧の心哉   芭蕉

その横には、「曽良随行日記」。

  

 元禄二年四月二十八日

 発足ノ筈定ル。矢内彦三郎来テ延引ス。昼 過ヨリ彼宅ヘ行テ及暮。

 十念寺・諏訪明神 ヘ参詣。朝之内、曇。

大きな石灯籠三基は元禄のものとか。

芭蕉も見ていたかも知れませんねえ・・・。