大王対女帝21-イギリス欧大陸に出兵
2021.03.12 12:08
1758年4月、イギリスがとうとう9千人をハノーファーに派遣した。イギリス兵が大陸の土を踏むのは、ヘンリー8世以来である。ともかくイギリスの支援を得て、ハノーファーは、フランスをライン川の西に追い戻してしまう。そしてフリードリヒ2世は対ロシアで東へ。
8月25日にツォンドルフでプロイセン軍3万5千とロシア軍4万3千が大激突。双方とも万を越える被害を出したが、またもや兵站の理由でロシアが撤退したので、大王はすかさず勝利を宣言してまた欧州中に宣伝した。しかし「ロシア人を殺すのは味方に引き入れるより簡単だ」と婉曲ながら相手のしぶとさを認めている。
しかし10月、今度はオーストリアのダウン将軍が、ホッホキルキでプロイセン軍に霧の中の奇襲に成功、この勝利は女帝マリアの誕生日に伝えられ、彼女の一家を喜ばせた。しかしザクセン攻撃には失敗し、ドレスデンは、なおもプロイセンの占領下にあった。
精彩を欠くフランスでは、宰相のベルニが早期講和を唱えた。しかし戦争の実質責任者のポンパドゥール夫人はそんなことはできない。ベルニを更迭して、またも自分の子飼いの主戦派のショワズールを外務大臣にして、戦争を続行させた。彼はオーストリア派でアントワネットの婚儀も行うのだ。
下はツォンドルフの戦い