過去の詩・現在の詩 ②
https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a053.html 【過去の詩・現在の詩】より
11 本歌と末歌への分裂
万葉の歌は誰かによってつくられたのでしょうけれども、やはりその地方でもてはやされたんじゃないかというふうに思われます。それがいつの間にか、神楽歌といいますか、神遊びあるいは神舞いの歌に転化していった。それが後世になると神楽歌のなかに入り込んでいくわけです。神楽歌のなかに入り込んでいった場合には、ひるめ歌という神楽歌のひとつの舞の形式に付随して歌われる歌に転化しています。そうしますとどういうふうに転化するかというと、いまの「さ檜の隈 檜の隈川に 駒止めて しばし水飼え 影をだに見む」という歌はふたつに転化していきます。一つはひるめうたの本歌。つまり問答歌として今の歌が、言ってみれば二つにこの場合には分裂しているわけです。本歌と末歌ということに分裂しています。その分裂している本歌のほうを言いますと
いかばかり よきわざしてか 天照るや 昼目の神を しばしとどめん
しばしとどめん
というふうに変わっています。
何がどうなっちゃったのかといいますと、川のほとりに馬を留めて、しばらく止まって水を飲ませてやってくれて、それをお前の姿をよそながら見て慰みとするからという恋歌というものが、ひるめの神様の姿を目の中に留めておこうという歌にまず変わっているわけです。「いかばかり よきわざしてか 天照るや 昼目の神を しばしとどめん しばしとどめん」というのが本歌になっています。
末歌は
いずこにか 駒をつながん 朝日子が さすや岡辺の玉笹のうえに 玉笹のうえに
というふうに変わっています。これはどこかに馬を留めよということなのです。朝日がさしている丘のほとりの笹の葉がたくさん茂っているそこのところに馬を留めようという歌に変わってしまっているわけです。
何がおかしいのかといえば、最後のところがおかしい。「玉笹ののうえに 玉笹のうえに」という表現がおかしいと思うのです。どうしておかしいかというと、本歌とまるで無関係だということはもちろんなのですけれども、古今集にあるひるめうたで、「さ檜の隈 檜の隈川に 馬留め」という歌の一種のなまりとして、「さ檜の隈」というのが「笹の隈」に転化したわけです。
そうしたら今度は、神楽歌の末歌の中ではこの「笹の隈」という、本当は「さ檜の隈」といえばそれは檜の隈という地名に対して接頭後をのせていった意味のある表現ですけれども、それを「笹の隈」というふうに言ったら、それはそのなまり言葉だという以外に何の意味もないのです。本来的な意味は何もなくて、ただなまりだという意味で「笹の隈」と言っているのですけれども、神楽歌の中の、「笹の隈」の「笹」という言い方はなまりなのです。「さ檜の隈」のなまりである笹というのがいつのまにか、意味として詩の中に入り込んでしまうわけです。そして「いずこにか 駒をつながん 朝日子が さすや岡辺の 玉笹のうえに 玉笹のうえに」というふうに、そこから連想されて「玉笹のうえに」というような表現が出てくるわけです。
この転化の仕方の中にも、正当な意味合いでの意味の転化というのは何もないので、まったく偶然に「さ檜の隈」というのを「笹の隈」というふうに訛っているうちに、その「笹」という言葉に意味をかけて、今度は笹の葉っぱが茂っている「玉笹のうえに」と意味が取り換えられて、そして神楽歌の中に転化して入ってくるというような形になってしまいました。
この間にたとえば、やはり数百年の時間があるとしますと、この時間の中で何が詩の、時代の流行というものを転化、変化させるか。そして、流行であるのにも関わらずもとの感情をただせば、詩の核にあるもとというのは本歌としてそれがある。それがどのように転化するとかいうことの中には少しも法則性はないのです。
しかし、形式的な転化の仕方はある。何が転化されるかということの中に法則性がないということが、いわばはやり歌というものと、いわば同時代的な詩の表現というものの中にある差異としてそれを考えることができるということ、そういうさまざまな問題を、過去の詩の中に想定することができるわけです。
12 詩の言葉の空間の複雑さ
ですから、もし現在の詩のあり方ということと同じような意味合いで過去の詩のあり方というようなものを問い直そうとするならば、問い直し方、再現の仕方というのは大変複雑な陰影の立て方をしていかないとできないということが言えると思います。
だから、ある詩が日付として新しいか、同時代であるかどうかということは、詩の新しさ・古さと少しも関係のないということが言えると思います。あるいは、ある詩の内容が、形式というものが同じ時代に書かれていたとしても、まるで片方が古代的な形式の様相をたくさん保存しながら書かれているということもあり得るわけですし、また、まったくフォルム自体がわからず、どうなるかわからない展開の仕方をしながら詩が書かれているということもあり得るわけです。
これを等しく、過去の同時代の詩、あるいは現在の同時代の詩というふうに理解しなければいけないということの複雑さ──詩の言葉の空間の複雑さ──というのが一つあり得ると共に、あるいはまったくこれを同時代の詩として考えたら、考え違いをしてしまう、日付としては同時代の詩ということがあり得るのだということもまた、かなり複雑な陰影を、過去の詩と現在の詩というものの中に提起するということが言えると思います。
このことはぼくには相当大きな関心でして、これは詩ということを離れてしまいますとたとえば歴史ということなのです。歴史というのはどういうふうに再現したら本当の再現になっているのか、どういうふうに再現したら本当の再現にはなっていないのかという問題は、やはり大変陰影のある問題を本当は提起するわけです。
だから、その問題をよく再現できない場合には、いわば現在の再現の仕方というものに対して、どういう原型を提起してくるかというようなことに対して、やはり惑わざるを得ないというようなことが出てくるわけです。これは詩の問題ということを離れて、歴史の問題と考えても、歴史の現在をどう再現するのかということと同じ意味合いで、過去をどう再現するのかということは、多くの問題を提起します。現在をどう再現するのかということができていなければ、やはり過去をどう再現するかということはうまくできないのだということが、逆にいえば言える問題だということなのです。やはり、現在をどう再現するのかということと同じような意味合いで過去をどう再現するのかということが、ぼくなどには大きな関心になっている一つなのです。
詩の問題としても依然としてそうで、やはりぼくは割に過去の詩に関心をもっているほうなのですけれども、その過去への関心の持ち方、あるいは過去の詩の再現の仕方ということについては絶えずやはりイメージを修正していかないとならないということに本当によく当面します。それはあたかも現在というもののイメージ、総体的なイメージを確定していくのにたくさんの修正を絶えずいつでもしていないとわからなくなってしまうようなことと、まったく同じ意味合いとしてぼくの中ではある問題なのです。
今日は、詩の形式としての過去の詩・現在の詩ということと、また同じ意味合いでぼくの関心のありどころから過去の詩と現在の詩ということについて関心のありどころというようなことを一応お話ししてみたわけです。
もし時間があるならば、何か皆さんの意見なり何なりお聞きしたいと思います。一応これで終わらせていただきます。
13 質疑応答1
(質問者)
ユリイカの2月号かなにかに黒田三郎の追悼特集がありまして、そのなかで、飯島耕一さんとかが、あの人は戦後の恋愛詩の5人の内に入るだろうとか、たとえば、茨木のり子さんなんかは、岩波のジュニア版のなかで、黒田三郎の恋愛詩集というのは戦後で一番じゃないかみたいなことを言っていますし、飯島耕一さんは、もし戦後らしい抒情詩人を一人だけ挙げよといったら、やはり、黒田三郎なのではないか、黒田さんをまず挙げておいて、そのあと、田村さんとか、加島さんとかの名を思い出すのではないかと言っていますけれど。「荒地」の中で、吉本さんは黒田さんをどのように見ているかを。
(吉本さん)
ぼくもあの人の恋愛とか、「胸のボタンにはヤコブセンのバラ」とかあるでしょ、ものすごく好きで、恋愛詩人として僕はということではなくて、あの人は「荒地」という詩のグループの中で、市民という、これは戦争中と戦後の、あるいは、戦前と戦後のイメージを対比させないと、意味合いがよく出てこないと思うのですけど。
市民という概念を非常に重要視した、あるいは確立した、詩人なんじゃないかと思うんです。市民意識と言ったらいいんでしょうか。みなさんの年代だと市民意識なんていうのは当たり前だというか、自然に身に付いちゃっている部分があるんですけど。戦争中までのことを考えると、市民という概念を確立することはものすごく大変なことなんです。
そういう意味あいからいうと、中原中也みたいな詩人というのは、市民意識以前なんです。そういう意味あいからいうと、あの人には市民意識というのはないんだということになるでしょ。つまり、市民意識がなくても、本質的な詩人があるという、中原中也の中にはあることがあるんですけど。
しかし、たとえば、ヨーロッパの本質的な詩人というのはいるでしょ、つまり、ボードレールでもいいし、ランボーでもいいんです。そういう人と中原中也と何が違うかというと、つまり、ボードレールとかランボーというのは、市民意識というのは前提なわけです。だから、アンチ、否定的な意味でしかここの中にないんです。ないから問題にならないんだけど。それは前提にあるんだということを踏まえないボードレール論とか、ランボー論はダメだと思います。つまり、ボードレールとか、ランボーのなかに、本質的な詩人だけを言っているような論はダメだと僕は思います。
そうじゃないです、そこはヨーロッパと違うところなんです。だから、小林秀雄のランボー論というのは、そういう意味ではダメだったと僕は思います。それは本質的な詩人という意味あいで言ってしまうと、市民というのがないんです。だから、市民以前しかないので、たとえば、中原中也というのは、市民以前というものと、それから、本質的詩人とが、ようするに結合した詩人なんです、そういう見方からすると。それはランボーとか、ボードレールとまるで違うことです。中原中也とはまるで違うのです。
本質的な詩人という意味あいで似ているように思えても、まるで違う、その違いということの重要さということを黒田さんという人は初めて確定した人なんです。戦後初めて確定した人なんです。戦後詩人として、初めて確定した詩人なんです。
だから、あの人の恋愛観もそうですけど、あの人の良い詩があるでしょ、わかりやすくて、しかもいい詩があるでしょ、その詩は全部、一定の安定感といったらおかしいのですけど、一定の社会意識としての安定感というのがあるでしょ、表現の中に、言葉の中にあるでしょ、そのことが重要だと思います。そのことが黒田さんの大きな意味合いだと思います。
つまり、その市民という概念を初めて、戦後にしか確立しなかったですから、戦後の詩の中にしか確立しなかったというのを確立した。そのことが重要だと。つまり、詩人というものの中に、一人のなんでもない普通の現代の社会、資本主義をべつに否定もしないけど、肯定もしない、殊更、肯定しているわけでも、否定しているわけでもない、しかし、秩序そのままで、とにかく、大多数の生活人というのがあるでしょ、生活人の意識というのが、ひとりでにこのなかに入っていって、それは前提として、そして、詩を書いているという、そういう書き方、そういう詩というのを初めて確立した、戦後ということは、近代史で初めて、戦前にはないのです。市民という概念はないのです。
詩人の中にはましてないのですけど、初めからひねくれているわけだから。大多数の生活人の生活の仕方とか、その時の感性、そんなものは初めから放っぽり出されたやつが詩なんか書いて、詩人というふうになったわけですから、だから、初めからないのです。
そのことは、本質的な詩人というのは、自然的に市民社会というものに対して、市民社会の意識に対して、本質的にアンチなんだけど、だけども、ヨーロッパにおけるアンチ秩序、アンチ社会という詩人というのは、必ず市民意識というのは腹の中に入って否定しているわけだから、あるいは、成熟した体系があって、それで否定しているわけです。これは日本の近代詩人というのはそうじゃないんです。初めから社会をひねくれていくわけです。
そのことに対して、黒田さんは初めて、市民意識といいますか、大多数のなんでもない秩序を否定もしない、社会の否定も何もしない、そのかわり偉そうなことも言わない。そういう人の生活人の生活意識というのは非常に重要だということを初めて言った人だし、また、そのことをいつでもここのなかに踏まえて詩の表現の仕方をしている人です。それを初めて確立した人です。それは恋愛詩に限りません。そのことが黒田さんの意味じゃないでしょうか、意義じゃないでしょうか。ぼくならそういう追悼文を書きますけどね。(会場笑)
(質問者)
たとえば、市民というのは、ヨーロッパのもので、黒田三郎さんもヨーロッパのやつを本歌取りみたいにして、ただ受け売りをしているとも言えるのではないでしょうか。
(吉本さん)
もっと本質的な言葉というものをあれするでしょ、日本の現代詩というのはさ、いまの人はみんな受け売りじゃないですか。全部そうです。受け売りの言葉しか使えないですから。まだ使えないです。使えるようになるには大変なんです。いっけん使えそうになるのですけど、しかし、たいへんなことだと思います。
つまり、その時にはなくなるんです、歌人がいたり、現代歌人がいたり、現代俳人がいたりというのは、それはなくなっちゃうんです。ほんとうに言葉が使えるようになったら。まだ、使えないから、そういうのがまだいるんです。だけど、ほんとうに使えるようになったら、必ずそれはなくなっちゃう、そんなこと言ったら、皆まがい物です、まがい物でしか書けない。
つまり、根源的な言葉というのがあるんです。根源的な言葉というのにどうしても入ろう入ろうとしていくわけです。そうすると、早急に入ろうとするから、それぞれの仕方でまがい物の詩を書いているわけです。現代詩人というのはそれぞれの仕方でまがい物の詩を書いている。
しかし、モチーフはそうじゃないんです。あるひとつの根源的な言葉に到達したいわけです。それはたえずそう思っているんです、書いている人は。だけども、それぞれの仕方でなかなかうまくいかない。一人自体のあれでそうなるというものじゃないんです。これは表現…。
言葉は自然物である部分があるように、なかなか自然物と同じように変わらない部分があるんです、言葉のなかには。だから、変わらないんです、なかなか変えられないんです。一人二人の詩人が強引な言葉遣いをあみだしてみたとしても、なかなか変わらないです。
だけども、どんな人だってそうなんです、みんな、根源的な言葉というのを使いたいんです。使いたいというか、そこに到達したいんです。だけども、なかなか到達できないんです。それぞれの仕方でそれをやって、それぞれの仕方で、それぞれの経路でまがい物をやるでしょうね。だから、そういう意味で黒田さんだってそうかもしれないけど、それは、しかし、そういう意味だったら皆そうですよね。
(質問者)
現代というのが、たとえば、詩の個人としてやらないで決まっているのと、時代的な詩の演説みたいなところからもってくると、現代というのはどんなふうに言えるんですか。
(吉本さん)
あなたの現代という概念がどういうふうに指しているのかよくわからないんですけど、現在ということですか。
ぼくは漠然と感じていることで小さく括れば、ようするに、詩を書いている人が、詩を書いている人というのは詩人もそうだし、詩を書いている人があまり変わり映えしないでしょ、しないっていうこと、そのことが問題なんじゃないですか。だから、変わり映えしないから、彼の個性、彼の人間、彼の生活、彼の職業、そんなの誰をとってきても皆、それほど変わり映えしないから、括弧で括れば、みんな(A)で括れちゃう、そうだったら、べつに(A)というのはいらないじゃないですか、つまり、人間というのはその人の個性とか、内面性とか何もいらないじゃないですか、ということがいまの詩の問題じゃないですか。
つまり、その人らしい詩を書くとか、表現するとかいうことのなかには、あまり意味がなくなっちゃってきつつあるということが非常に大きな問題なんじゃないでしょうか。それがもっと問題になってくれば、もっときつくなるでしょうけど、きつくなってくるんじゃないでしょうか。つまり、自分が自分以外のものでありえないということに、だんだん詩人が苛立ってくるんじゃないでしょうか、もっときつくなれば、非常に苛立ってくるんじゃないですか。
いまのところは、それが言葉の問題としてだけ、その問題がきつつあるけど、やがてそれは、生活の問題であり、存在の問題でありというふうになって、存在の問題として変わり映えがないよというふうになっていくというところに、きつさがだんだんいきつつあるというのが現在なんじゃないでしょうか。そのことが現在の詩の大きな問題なんじゃないかというふうに、ぼくは思いますけど。
(質問者)
小林秀雄の本居宣長論に対して天皇制とかなんとか、だから、森鷗外の『澁江抽齋』では、『澁江抽齋』というのは、真ん中辺で真面目臭くて、以降、奥さんが次から活躍しだすみたいな、もし、澁江抽齋がその時代の、たとえば、江戸時代の典型の人だったら、決めつけただけでは否定しきれない部分というのが、小説の中にあると思うんですけど、『本居宣長』というのを天皇制という網ではこぼれるほうがすごく多いのではないかと思うんです。
(吉本さん)
つまり、本居宣長という学者ですか、学者とか、思想家というものじゃなくて、それを書いた小林秀雄。それは、小林秀雄でしょ、つまり、本居宣長じゃないでしょ。小林秀雄が天皇なんていうのは僕はおかしいと思ってます。あなたが言ったっておかしくないです。あなたが天皇というのはいいじゃないかとか、スターじゃないかと言っても、そんなのはちっともおかしくないです。だけど、小林秀雄が言ったらおかしい。
なぜならば、天皇ということに傷ついているはずですから、傷ついてつまずいているはずですから、つまずいて、死にそうな目にあっているはずですから、だからおかしいと僕は言っているわけです。本居宣長という学者、思想家から、そんなものを取り出してきたらおかしいということです。それを自分のことのように自分の事としてそれを取り出してきているのはおかしいと僕は言っている。
あなたが取り出してきたっておかしくないです。それから、あなたがこれから、天皇というのは全日本国民の柱であると、あなたが言ったっておかしくないです。つまずいたとか、傷ついたとか、そういう死ぬ目に遭ったとか、そういうあれはあなたにはないから、それはいずれにせよ、どう考えようと切実ではないわけです。切実であるかもしれないのは、あなたが天皇をこう考えるために切実であるかどうかというのは、これからの問題であって、いまのところどう考えるかといったら、切実じゃないのだからどうでもいいことなのだと僕は思います。
だけれども、小林秀雄がそうだといったらおかしいのです。おかしいということをあなたは知らないかもしれないけど、おれは知っているわけだから、だから、おまえはおかしいと、ほかのことがどんなにできたって、ゼロだよ、ゼロというよりマイナスだよと言っているわけです。
つまり、どうして死に目に遭ったことに対して死ぬ気で考えたことがないんだということを僕は言っているわけです。おまえは死ぬ気でそのことを考えたうえで言っているか、言っていないじゃないか。だけど、ぼくは死ぬ気で考えたことを言ってきています。だから、ぼくはそう言うわけです。
だけど、小林秀雄は死に目に遭ったということについては変わりないわけでしょ、ぼくと、そう変わりないわけです。しかし、それだったら死ぬ気になって考えてきたらよかろうと、死ぬ気になって考えてきたらそうは書けないじゃないですか。否定するにしろ、肯定するにしろ、もっと屈折もあるし、それから、経路もあっていいじゃないですか、こんな言い方はないでしょという、こんなことを言うみたいだったら、ほかのことをどんなに立派に言ってもダメだよ、お終いだよということなんです。ようするに、ぼくが言いたいことはそうなんです。
それはあなたがどう考えたっていいんです。それは、神さまだと思ったって、日本国の柱だと思おうと、あるいは、憲法の規定どおり、象徴だと思おうと、それはなんでもいいのですけど、ただ、自分がそう思ったことの報いというのは、これから出てくる。それはそうなんです。ぼくもまた、天皇についてこう言った、こう否定したということの報いはこれから受けるかもしれない。しかし、それは覚悟の上だし、自分なりに考え尽してそうなっているんだから仕方がないわけです。
だけど、小林秀雄は一生懸命考えなくて、ただ判断を中止してきて、いまどきになって何を言っているんだ。なんだあいつは、二十年前、三十年前と同じことを言っているのということを、ぼくは言っているわけです。だったら、それはほかのことができていたってそれはダメですよということを、ぼくはそう言いたいわけです。
本居宣長もそうなんだけど、それはまた違うことです。それは時代として、つまり、同時代の中に本居宣長というのを再現していかなくちゃいけないです。べつに、神話の神様を宣長が自ずから言ったからといって、それをどうだというふうに、それは反動だとかなんとかいうふうに否定することはできない、そういうことは違うことです。
だけど、それは小林秀雄が言ったらおかしいと、ぼくはそういうことを言うわけです。でも、あなたが言ってもおかしくないです。べつにおかしくないことですから、どのような肯定のされ方をされようと、それはおかしくないんじゃないでしょうか。あまり傷ついていないわけですから、全然、雲の上というか、別の世界の、時々、週刊誌の中に出てくる意味しか、あなたにはないわけですから、それはどう考えてもいいと思いますけど。だけど、小林秀雄は、それはそうはいかないと僕は思います。
14 質疑応答2
(質問者)
「過去の詩・現代の詩」という演題だったわけですけど、実際に詩をつくられる立場からして、詩の公準というのは時代を超えてあるものとお考えですか。
(吉本さん)
そういうふうに考えないですけど、言葉というものの現在の水準、水準というのは水平線といってもいいし、地平線といってもいいのですけど、言葉の現在的な水準とか、地平線とか、そういう概念はありうると思っているわけです。そういう概念があると僕は思っているわけです。
具体的にこれだとか言うのではなくて、それは詩を書く人みたいに、言葉の専門家みたいなものが、一生懸命やっていくことのなかで、言葉の現在的な水準とか地平というのは、刻々と作り変えられてあるわけですけど。
だから、誰のどれが現在的な水準で、これは水準以下であるというふうになかなか言うことができないのですけど。そういう概念はあっていい、考えていいと、ぼくは思っています。しばしば使っています。
(質問者)
言葉単体に対してですか、ひとつの言葉に対してですか。それとも、言葉が組み合わされて、ある表現されたものに対する水準ということですか。
(吉本さん)
そうです、表現の水準なんです。あるいは、眼に見えない言葉の飛び交っている流布され方の水準なんですけど。それは漠然とそういう概念を僕は想定して使っていますけど。その水準というののいちばん先端の場所というものをイメージでいえば、刻々につくられつつあるというふうに思っていますけど。刻々につくっているのは誰なんだといったら、まず第一に詩を書く人とか、小説を書く人とか、つまり、少なくとも、言葉について、絶えずあれしている人が、たぶん、先端のところを刻々と作り変えつつあるだろうなと思っていますけど。
15 質疑応答3
(質問者)
2つ聞きたいのですけど、『悲劇の解読』なんですけど、ひとつは、≪音声聞き取れず≫吉本さん自身は誰を想定されていたか。もうひとつは、先ほどの詩のことと関連しちゃうんですけど、本の最後のところで小林秀雄の意識は最初にある意識じゃないのか、最後に行きついたのかもしれないけど、最初にあるんじゃないかという、≪音声聞き取れず≫オナニストじゃないか、自意識の球があって、その内側に天皇が、本居宣長とか、いろんな詩があるんだけど、実際は小林さんの自意識の球体の内側から見ただけじゃないのか、あなたが行きついた意識は、やっと行き着いたなんて言っているけど、ぼくはそう解釈したんだけど、結局、願望ですよね、そうすると、小林秀雄なんかオナニストじゃないのか、そういうふうに取ったんだけど、そういう人にあなたオナニストだよと言っても、関係ない人ならいいですけど、実際に、生活とか、働くということで、ぼくの言い方が悪いのだろうけど、≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
こうじゃないでしょうか、小林秀雄というのは、ぼくはどう思っているかといったら、批評というもの、日本の文学、歴史のなかで、近代批評といいましょうか、つまり、批評という概念を、それとして確立した人だと思っているわけです。
それ以前にも、もちろん、明治時代から批評というのはあるわけです。作品がでると、夏目漱石氏の何々はこうであるというような批評が出るみたいなことは明治時代からもちろんあったわけです。そういうのをもっぱらしていた人もいるわけです。だけれども、それは僕らが考えているような批評というものと違うわけです。
つまり、批評が自分として世界を持って、それは作品に触れたり、作品に立ち入ったりすることであるかもしれないし、あるいは、作者に立ち入るということであるかもしれないのだけど、そういうことをぜんぶ捨象しても批評として世界が残るという、そういう意味合いでの批評を初めて確立した人だというふうに思うのです。
だから、これを肯定するにしろ否定するにしろ、僕なんかもたくさんの影響を受けてきましたけど、誰でもがどこかで出発点とするというか、原点とするみたいな、そういう意味あいの存在だというふうに僕は思っています。
だから、劇画の世界でいえば、手塚治虫みたいなものじゃないでしょうか。手塚治虫の作品は嫌だという人はたくさんいるわけでしょうけど、しかし、やだと言ったって、ある時期にその影響を受けて、それで持った世界があるなということがわかって、そこに自分も世に出ていくかというような体験ということを考えれば、誰しもがどこかで片隅に置いているというような、そういうのと同じ意味合いで、やっぱり、小林秀雄という存在が存在しているというふうに僕は思っています。
小林秀雄という人はそういう影響もたくさん受けたし、たくさんのことを学んだけれど、しかし、本質的にいって、あるところからどうしても肯定することができない世界のなかに、じぶんが入っていったと思います。
肯定することができない世界というのは、天皇がどうしたこうしたというのは、それはひとつの具体例に過ぎないのですけど、大きなことはあなたのおっしゃったことと関連するわけだけど。つまり、世界の大きさというものと、自意識の大きさと言ってもいいのだけど、内面と言ってもいいです、内面の大きさというものは同じなんです。内面の大きさと同じ大きさで世界というものが描かれるわけです。それはダメじゃないかと僕は思っていたとおもいます。そこが問題なんだと思います。
つまり、我々は意識を行使する、ごく日常の時間の中で、毎日生きていく生という形、あるいは、生活でもいいし、あるいは、存在という形でもいいですけど、存在というかたちで意識が触れていく範囲というのは、たしかに非常に狭いんです。しかし、たぶん、直接に触れられる世界というのは、事実の世界としては狭いんですけど。一般的に、通俗的に生活圏と呼んでいるものは大きな事実の世界として触れられる事実の世界、それ以上の世界というのは触れられないのです。
だけれども、我々が世界というのを描くなら、もっと遠くまで描くわけです。まったく触れたことのない世界をも描きうるわけです。もっと極端な場合でいえば、まったく触れたことのない世界で、あるいは、見たことも、もちろん聞いたこともない世界で行われた、あるいは起こったことに対しても感覚的でありえたり、また、情緒的でありえたり、あるいは、心情的でありえたりするということもありうるわけです。
その心情的でありえたり、感覚的でありえたりすることが正確か否かということは、また別の課題になりますけど、正確であるか、被害妄想であるか、あるいは、誇大妄想であるかは別として、しかし、まったく意識が触れたことのない世界、あるいは、具体的には触れたことのない感覚が触れたことのない世界とか、目に見たことがないとか、生活が触れたことのない世界についても、我々は描くことができるのです。あるいは、それを超えて世界を描くことができる。その世界から被害を受けることもできる、あるいは、情緒を受けることもできるということがあります。
そのことの問題というのが、小林秀雄の場合には、あるところまではそうであったにもかかわらず、あるところからそういうふうに世界を見ることをやめてしまって、自意識と同じ大きさにしか世界を描かない、あるいは、世界というのは自意識と同じ大きさしかないと、だから、超えられた世界、あるいは、事実の世界を超えられた世界、超えた世界、そのことを事実の世界に触れたと同じ意識の範囲で描くというのは、そういう世界に入っていっちゃったじゃないかということを僕が言いたかったわけで、結局、そういうことを言っているんだと思います。
そのことで小林秀雄から僕が学んできたそのことが尽くされるわけでもなんでもありません。学んできたことがそういう言い方のなかに尽くされることはできないかもしれないけれど、その尽くされない部分は小林秀雄論じゃなくて、それ以外の部分で見てくれというふうに、ぼくの場合はそう言うより仕方がないです。それ以外の部分、ぼくのやったことのなかで、ぼくが小林秀雄から学んだこととか、受けたあれとかというのはどういうふうにそれが展開されているかということは見てくれと僕は言いたいので、小林秀雄論のなかでは、そういうことが途中から、つまり、世界が自意識と同じ大きさになっちゃっているじゃないか、それはごく出発の初期に、たとえば、ランボー論を書いたときに、小林秀雄の中にあったものと、ある意味で同じになっちゃっているんじゃないかということを言っているのだと思います。
小林秀雄のランボー論というのは、先ほどもちょっと言いましたように、ぼくは何がダメなのかというと、やっぱり、自意識の問題としてしか、詩の問題を掴んでいないからだというふうに僕には思えるんです。だから、まるで違うんです。ものすごく誤解するんです。だから、誤解だとおもいます。ランボーについての誤解だと思います。
ランボーについての誤解だなんていうのは、ぼくは専門じゃないですから、そんなことを言うとあれですけど、しかし、ぼくにはわかることがあるように思うんです。そのわかることというのは、背景がわかるんです。背景がイメージとしてわかるような気がするんです。それがまるで考慮されていないんです。
そうすると、みんな自意識の問題になっちゃうんです。純粋さの問題とか、倫理の問題とか、みんな自意識の問題になっちゃうんです。自意識の純粋さ、生粋さとか、そういう問題になっちゃうんです。
そうじゃないです、ランボーの純粋という意味は、そういう意味じゃないんです。もちろん、そういう意味合いも中に含まれているのですけど、そういう意味合いに尽きるものじゃないです。純粋という概念がそうじゃないです。だから、とてつもない俗物が純粋なんです。我々の概念でいう俗物が純粋でありうるわけなんです。
つまり、そのことの問題が、だから、俗物と我々が貶すでしょ、云い捨ててしまうことの中には2つのことがあるんです。我々の中に、近代以前のものがあるんです。市民社会とか、そういう市民社会みたいなものが、ぼくらの中には本当の意味では入ってない部分があるんです。市民社会というのを避けた部分のところでやれば、俗物だというふうに言っちゃうんです。言っちゃう面があるんです。俗という意味あいをそういうふうにとったら、まるで違う概念です。
小林秀雄はランボーを理解したというふうに思っているかもしれないけど、ほんとうは僕はわかっていないと思う。なぜ、わかっていないかというと、俗ということとか、純粋とかは、不純とか、純粋とか、それから、倫理とか、善とか、悪とか、それから、社会とか、そういうことがわかっていないからです。
わかっていないというのは、頭ではもちろんわかっているのでしょうけど、腹の中からにはわかっていないんです。ほんとうにはわかっていないんです。それは僕らには本当にわかっているところがあるんです。でも、ぼくらにもまだわからないところはあるんです。だから、俗物ということで決めつけちゃうんです。だけれども、その俗物と決めつけるときの俗という概念のなかには近代以前のところから言っている部分が多分にある。
だから、そこが問題なんだけど、しかし、小林秀雄の場合には、俗という概念がまったく欠落しているんです。ランボーにある俗という概念、近代という概念でもいいんです、あるいは、近代社会という概念でもいいんです。そんなものは殊更いわなくても、腹の中に入っていることと、入っていないこと、それが見えないこととはまるで違うんです。そこのところへ、小林秀雄は結局、帰っていってしまったじゃないかということを言えれば、ぼくは小林秀雄論の場合には十分であったわけです。ぼくが言いたいのはそこのところであったということなんです。
それから、そのことと関連するわけだけど、ぼくも全部じゃないけど読みましたよ、『悲劇の解読』というものの序文とか、そういうのに触れた人が書いているものを、全部じゃないですけど、読みましたけど、ぼくはつまらないことのような気がするの、つまらないことのような気がするというのは、何かというと、そんなことよりも、ぼくが言いたかったことは非常に単純な簡単なことなんです。いま、批評という概念が奇態に瀕しているということを言いたかったんです。批評という概念を保持するのが難しいことを言いたかったんです。
どこからむずかしいかというと、ぼくが書いているとおり、学問研究・文学研究という概念があるでしょ、文学を読む、探求する、追及する、あるいは、文学を解読するという、そういう概念があるでしょ、それから、作品、もっとはっきりいえば小説です、小説という概念と、その両方から浸透されていて、批評という概念は危なくなってくるよということを言いたかったわけです。
だから、批評という概念を全うするということは、これを持続的に全うするということは、もう非常に不可能になっているよという、厳密にいうと、そういうのを全うしてきたという人はそんなにいないんだよと、いるかいないかというぐらい難しいことなんだよということを僕は言いたかったわけです。
何人か書いている人のを読みましたけど、大部分に感じた不満というのは、ぼくは中身を読んでもらいたかったので、要旨を読んでもらいたかったわけじゃないんです。それは冗談としまして、つまり、文学という概念があるんです。ぼくはそこで言いたかった文学という概念をまるでわかってくれない、理解してくれないじゃないかということを感じました。
つまり、どういうことかというと、文学という概念がどうやって成立するか、べつに頭で成立するわけでもなんでもないのです。頭で成立するわけでも、感性が鋭いからいい文学者になるというわけでもないんです。あるいは、いい詩人になるとか、いい詩が書けるというわけでもないのです。そういう意味で書けると思っているのは間違いなのです。それが間違えだということを確かめるためには長い年月がいるんです。
たとえば、荒川さんが感覚で詩というのは書くんだよというふうに言ったって、それは短い年月を取ってくるとそれでいいのですけど、長い間やってみないと詩というのは本当にそうかどうかというのはなかなか言えないのです。そのことが問題なんです。
そうすると、何が文学で何が文学でないかという場合に、そんなものじゃなくて、ぼくが言いたかったのは、それは悲劇なんだと言いたかったのです。悲劇というのはどういうことかというと、ピンからキリまであるんです、悲劇というのは。それは小林秀雄から宮沢賢治まであるんです。近代文学の概念のなかでもそれだけあるんです。
それは約めてしまうとどういうことかというと、たとえば、こういうことなんです、簡単にいっちゃえば、ここでいっちょう頭を下げて、日常の挨拶を、こんにちはとか、どうもご無沙汰しましてとかっていう挨拶をできるかできないかということがあるでしょ。このなんでもない挨拶をできないがために生涯を狂ったとか、あるいは、そういうふうに俺はできないんだというふうに、できないものだから、なんかうまくいかないんだ、人との関係とか、この社会で食っていくのにうまくいかないんだとか、そういうことはたくさんあるでしょ。
そんなのはたった簡単なことで、できる人にとっては、つまり、市民にとっては簡単なことだけど、御無沙汰してますとか言うこととか、朝会ったらおはようございますと言うことなんか、簡単だといえば簡単な事なんです。だけれども、それを言えないために、運命が狂うとか、極端にいうと、そういうことというのはあるでしょう。
つまり、そういうことに対してどこかで落とし前をつけようということなんです。落とし前をつけようということから、言葉というのは始まったんじゃないのか、つまり、文学なんていうのはそういうことじゃないのか、つまり、日常のたわいないこと、ここでにこりとひとつ笑えば相手はうまくやってくれたかもしれないのに、どうしてもそこで笑えなかったんだというようなことというのはあるでしょ、そういう些細なことがあるでしょう。しかし、些細なことが、非常に重大な内面性の問題を提起してしまうことがあるでしょう。そのことにどこかで落とし前をつけようということを抜きにして、文学ということの表現というのが本質的に成り立つかどうかということ、そのことを言っているんです、ぼくは。
だから、吉本というのは『悲劇の解読』というので、ある種の文学というものは必ずそういうことに対する落とし前ということから、文学というのが始まっているんだということ、そのことが良い悪いじゃないです、あるいは、それが良いのか悪いのかということは、それが文学の価値をどうつけるかとは別に、その落とし前ということにあいつは固執しているんだということ、そのことを言えばよかったんです。言ってくれれば、あいつは読んでるなとこっちは思うのに、そのことが言えなければ、読んでないなぁというふうに思っちゃうんです。
それが文学に対する考え方が違うということ以前にある問題です。読めるか読めないかという問題です。読み取れるか読み取れないかという問題であって、そのことはちゃんと口を酸っぱくして、それは、そのことばかり書いているわけだから、そういうことなんです。あるでしょう、中原中也っていうのはどうしようもない奴だったということがあるでしょう。
それは言葉の問題じゃなくて、どうしようもなかったんです。若くして自分を天才だと思っちゃったわけです。思いこんじゃうでしょ。詩を作るより田を作れと喩えたし、田を作れというのを徹頭徹尾、若い頃、14,5の頃から軽蔑して、詩を作れということであれして、今度は市民がよく通う、中学から高校行って、大学行ってという、それも軽蔑してやめて、何して食ってるかというと、親から金をくすねて食っていて、それでも、おれは天才だと思っているわけです。そう思っているわけです、そう思いこんでいるんです。
大抵の人は大なり小なり皆、中原中也であるわけです。みんな思い込んでいるわけです。詩なんか書いているやつはぜんぶ思い込んでいるわけです。だけど、中原中也まで思い込める人は少ないのです。途中でへぇと目覚めるわけです。なんだおれはダメだと、それほど天才じゃなかったと思うわけです。思って詩なんかやめたという人もいますよね、歌をつくる人もいますし、事業家になる人もいるわけです。
だけど、文学というのはどこから始まるかということが問題なのであって、そのときに、やっぱり俺はダメだったというところから文学というのは始まるわけです。だから、みんな、じぶんの悲劇を隠しているわけです。どんな凡庸な文学者だってみんな隠しているんです、じぶんの悲劇を。
それは、なぜかというと、文学なんていうのはそれから以外に始まるわけがないのだから、だから、とうとう、若いころ天才だと思ったけど、ダメだということがわかってきたよというところから、それがわかってきたら、初めて一丁前になるわけです。一丁前の詩を書く奴になるわけです。だから、みんな、一丁前の顔をして詩を書いているやつは全部、そういう悲劇をしているわけです。
もっとひどいやつは、じぶんを天才だといまでも思っているわけです。それは中原中也みたいな人なんです。そうすると、どうしようもないわけです。こいつは頭は鋭いから、うかうかしたことを言うと、すぐ屁理屈をこねる。どうしようもない。喧嘩はするし、とにかく人付き合いは悪いし、威張るし、つまり、どこから見たって取り柄がない。それでもまだ天才だと思っているわけです。それで他人に迷惑をかけて暮らしているわけです。それでだんだんへばってくるわけです。へばってきて死んじゃったと、だから、表現という、言葉というものに隠された、そういう悲劇というのがあるでしょう。
それから、悲劇そのものがあるでしょう。つまり、宮沢賢治とか、ぼくが『悲劇の解読』で取り上げた人はみんなそうですけど。悲劇を隠さなかった人です。ぜんぶ隠さないでやっちゃった人です。仕方なしに貫いちゃった人です。
しかし、そこまでいかなくたって、ごくふつうのそこらへんの文学者だって、みんな隠しているわけです、悲劇を。隠してあれしたから、一丁前の顔をして、詩とか小説を書いているわけだから、みんな隠しているわけです。その隠しているという問題を、言葉の問題に対して、対立づけなければ、対抗づけなければ、それは文学を解したことにならないでしょうということを言っているわけです。ぼくはそう言っているわけです。
それは文学観として、それに反対であろうとなんであろうと、それはいいのですけど、そのことは読めなければならないと僕は思います。だけども、それは読んでいないです。ぼくが言っていることはそれだけのことです。それは非常に単純なことです。そのことは批評という概念がどうしても取り避けることができないんです。隠している悲劇、隠されている悲劇、それから、悲劇を隠さなかった人、それから、悲劇に気がついてそれをやめた人、やめて生活人になってしまった人、そういう人も問題です。つまり、文学から離れてしまった人の問題、そのことをぜんぶ解せなければ、それは文学でない。文学の批評にはならんでしょということ、ぼくはそういうことを言いたいわけです。そのことの問題なんです。ぼくの言っているのはそれだけのことだと思います。
で、ぼくは『悲劇の解読』のなかでは、悲劇を隠さなかった人、傍からみれば皆、はた迷惑な奴ばっかりです。比較的それが少なかったのが小林秀雄だと思います。小林秀雄だって傍に恩恵を施したかもしれないですけど、でも悲劇はちゃんと隠されています。
最もはた迷惑だったのは、たとえば、それは太宰治であり、宮沢賢治だと、これははた迷惑であったに決まっているんです。市民社会に対してはた迷惑だったんです。ことに近親の人ははた迷惑だったに決まっているわけです、そんなことは。だから、そのはた迷惑だったことというのはあるでしょ。
それから、宮沢賢治じゃなくても、詩とか、童話なんてやめちゃった人というのはたくさんいます。じぶんが殊更、天才でも何でもないことに気がついて、気がついてからほんとは始まるわけですけど、ほんとは文学なんて始まるわけですけど、そこのところでやめてしまった人もいるわけです。
やめるというのは、そのことはちっとも悪でもなんでもないし、つまらないことでもなんでもないことなんです。だけど、その選択の持っている意味あい、意味というものは、やっぱり、それが潜在的に問題にできなければ、それは文学に対する批評にはならないでしょということが言いたいわけです。ぼくはそうだと思います。そのことだと思います。序文でも、そのことの問題だと思います。それでよろしいですか。
16 質疑応答4
(質問者)
『悲劇の解読』のなかで、宮沢賢治のやつを読んで、『青年は荒野をめざす』というのは三文小説家の書く嘘っぱちだ、青年は無償をめざすとか、そういう宮沢賢治が無償をめざすところでは、すごく印象に残っていて感銘深いのですけど。宮沢賢治の対社会的な面が、もうちょっと読んでいてピンとこないのです。
(吉本さん)
…が少ないという意味だったらよくわかるのですけど。ぼくが言いたかったのは、無償ということがどういうふうにでてくるか、それから、宮沢賢治の思想的な部分にでてくるかということが一番したかったです。いちばん言いたかったことです。
(質問者)
社会的な面をよく読ませてくれる人が吉本さんしかないみたいな部分があるじゃないですか。
(吉本さん)
そんなことないですよ。たくさんいるんです。宮沢賢治の様々な追及というのは、いろんな面からとことんやられてきていますから、たくさんありますよね、そういう追及というのは。それぞれ特色をもってありますけどね。じぶんのモチーフのところでやればいいという感じで、それ以上のあれはないのですけど、そういうことはもしあれだったら、いままでの人のあれが足りないということでしたら、自分でやっちゃえという。
17 質疑応答5
(質問者)
≪音声聞き取れず≫、自分が天才だと思っちゃう変わり目があるでしょ、その境界点がひとつの形ではないでしょうか。
それからもうひとつは、先ほどの小林秀雄の話で、吉本さんの考え方は、小林秀雄の≪音声聞き取れず≫、相撲の土俵でいえば外枠にこだわっているような自意識、AでいえばAバーをとったような、そういったものを自分で探して見つけて批判しているのだから、アンチテーゼとしても成り立たないし、逆に言えば、小林秀雄のコンプレックスみたいな、そこから何も新しいものが生まれないじゃないかということから、結局、小林秀雄の逆のことを言っていれば、逆というか言っていないことを言って論が成り立つから、そこから何か新しいものがでるかどうか、そのひとつの形になっちゃうと何もならない。逆に小林秀雄さんのほうが立派で、その対立としてどうも成り立たないんじゃないかという、そこらへんどうでしょうか。
(吉本さん)
それは僕もあなたのおっしゃることに賛成です。そういうふうにしかなっていなかったらダメなんでしょうねと思います。一から十まであなたのあれに賛成です。ぼくがもしそうでしかなかったとしたら、ぼくのほうがダメです。ちっとも小林秀雄よりよかったことにもならないし、また、新しいものを出したことにもならないと思います。ただいちゃもんつけているだけという意味あいしかないですから、だから、一から十まで賛成します。
それからもうひとつ、それもまた型になっちゃうじゃないかという、そうなんです。ただ、それを型にするかしないかという問題はもう誰の責任も負わせることができなくて、その人の責任なんです。その詩人の責任なんです。それを型にしちゃうか、また、その型を壊すものを絶えず自分が突きだしていけるかということは、その人の問題なので。
(質問者)
言葉をひとつの時間のパラメーター、それを型にしちゃうと時間が止まっちゃうから、そういうふうな考え方なんですか。
(吉本さん)
そうです。もう少し付け加えますと、型というのが重要な分野というのはあるんです。民謡とか、俗謡とか、流行歌とか、唱歌とか、そういうものの中では型というのはわりに重要なんです。重要なものだと思います。つまり、わりに民俗的なもの、あるいは、もっと習俗的なもの、そういう表現というのは型が重要なんです。型が重要なわけではないんですけど。型の強力さとか、型の力強さというので、人を打つのはそうなんです。
だけど、個々の作家が、つまり、詩人なら詩人によってつくられる、大なり小なり、個々の詩人の、個々の最大限の言葉の努力によって作られるみたいな、そういう世界は、あまり、型は絶えず壊されていくという形で転化して進んで行くわけですけど、俗謡とか、民謡とか、流行り歌とか、歌謡とかというのは、型の強力さというのがしばしば人を打つわけです。
それはたとえば、演歌なら演歌というのがなかなか滅びないという型の強さ、それから、テレビやなんかでも、水戸黄門とか、最後になるともうすぐ「頭が高い」と言うだろうなと思うと、ちゃんと言う、それでも明日もまた見るというのがあるでしょ。そうすると、型はわかっている、しかし、あの型は強力なんです。何かというと、あれは物語の原型というのを強力に護持しているからなんです。
物語の原型というのは何かというと、そういうある登場人物とか主人公がいると、それが方々遍歴したり、さまざまなできごとに出遭うわけです。それが辛い目に、悲しい目に、ひどい目にどんどんどんどん遭っていって、それでフッと、何かあったときにフッとそこから抜け出して助かるとか、救われるとか、それから、そういうのがギリシャの時から物語の原型なわけです。
それは様々であり、神さまが普通の人のなりをして、方々に行って、馬鹿にされて、ふつうの人から傷めつけられるのだけど、あるときフッと何かをきっかけにして、神さまだということがわかるとか、王子様が乞食の恰好をして、諸国を遍歴して乞食として傷めつけられるのですけど、あることをきっかけとして王子だということがわかって、それから幸福になるとか、それがギリシャ悲劇の悲劇というものの型なんです。その型というのはたとえば水戸黄門などで強力に定義しているわけです。だから、もうわかっていたって、あの野郎はいまに必ず「頭が高い」と言いだすに違いないとか、印籠を出してこうやるに違いないと思っているとちゃんとそうするでしょ。それでもまた来週の水曜日に見る、視聴率が高いわけです。
つまり、それはなぜかというと、ああいうのは型なんです、型の強さとかいうものは、ある原型というものに触れているわけです。これは時代的にも原型なんですけど、あるいは、人間の心の原型みたいなものがあるでしょ。人間の心というのはそうでしょ、つまり、ある言葉に対応する場合に、非常に事柄自体が難しい場合であっても、散々つらいめにあったり、しょげたり、悲しんだりして、散々痛めつけられて、どうしようもなくなっちゃったときに、フッと出ちゃうのが人間の原型でしょ。心の原型でしょ。それから、ふるまいの原型でしょ、あるいは、生活の原型でしょ。だから、その原型が物語の原型として、つまり、ギリシャ悲劇ならギリシャ悲劇としてあるわけです。
だから、それは人間の心の原型というのを踏まえているかぎり、型というのが強力であるということが、わりに民俗的な流行歌謡とか、そういうものに流布されている物語、そういうものにとっては型が人を打つんです。
ところが、ある時代の専門のといったらおかしな言い方ですけど、ある言葉なら言葉の、芸術なら芸術に携わろうとか、絵画に携わろうとか、小説を書こうとしているというような、それは個の力でもってやろうとしている、そういう人にとっては、型というのは絶えず壊すべき問題なんです。それを壊せなければ必ず負けるんです。
なぜならば、必ず通俗的なものに負けるんです。通俗的な小説とか、通俗的な物語とか、大衆小説とか、大衆歌謡とか、そういうものの強さというのに必ず負けてしまうんです。なぜならば、そういう型は無意識のうちに原型というもの、人間の心の原型というもの、あるいは、悲劇という物語の原型というものを無意識のうちに踏まえているからです。
ところが個々の一人が、あなたがたとえば詩を書こうと思った場合には、もうそんなのは原型なんて踏まえてはいないのです。あなたの持ち物だけで、内面の問題だけで、詩なら詩を書こうとしても、そういう人にとっては、強力な型というのは敵なんです。敵と言ったらおかしな言い方ですけど。それにのせられたらかなわないんです、絶対にかなわないんです。流行されているものにかなわないんです。
だから、それに対して絶えずそれを壊すということがようするに詩を書くことであり、小説を書くということであり、絵画をやることでありということは、たえずそうなんです。一人の人間が心でそう思って、自分で意識してそうしようと思ってやるのは、たえず型を壊さなければいけない。壊すことが重要なんです。一瞬でもそれを壊さなければ、あるいは、壊すことをやめて型に従属したならば、じぶんが通俗化するか、じゃなければ通俗的なものに負けるんです。必ず負けるんです。
だけど、もし逆にあなたが大なり小なり大衆的な意味あいで、その強力な意味をもったそういうもののジャンルというものに、あなたが自分を打ち込んでいこうとするならば、それは型というものを大なり小なり踏まえなければダメなんです。
型の強さというものは、歴史の強さというものがあるんです。人間の言語の歴史の強さ、それから、人間の心の歴史の累積というのがあるんです。だから、型を踏まえるということは、少なくとも、大衆的な意味あいのジャンルの芸術において、あなたがやる場合には、必ず型を踏まえなければいけないです。あるいは、型を意識しなければ絶対ダメなんです。それを踏まえるか踏まえないかということが大きな問題になってしまう、また、それを意識するかどうかは大きな問題なんです。
だけど、現代詩なんて少なくともやろうという人はそうじゃないです。型というのを絶えず壊そうとする。持ち物をぜんぶ捨てよう、捨てようと思うわけです。じぶんの持ち物というのは、自分と何かある出来事とか、それだけあればいいというふうに、だいたいそういうところでやるんです。持ち物はぜんぶ捨てるし、壊すということでやっていくわけです。そういうことで、未知の開かれた世界というのに挑戦していくわけですけど。
そういうジャンルもあるし、そういうやり方もありますし、それから、現代の小説でも原理的な小説というのはあるでしょ、それはいま言いました、決まっているんです、物語の型というのは、小説の型というのはぜんぶ決まっているんです。だいたい、人間の心の型なんです。
つまり、ある主人公がいて、なにかひでぇ目に遭って、どん底に陥って、それから、どうしようもなくなって、死ぬか生きるか、破滅するかしないかとなった時に、フッとなにか道が開けるようになったというのが、だいたい、どんな悲劇でも悲劇の型なんです。だから、あらゆる小説はみんなその型をほんとは潜在的に踏まえているんです。
そのうち、わりに前衛的な小説というのは、その型を抜いていくわけです。重要なところをいくつか抜くわけです。抜いてできているのが、前衛的な小説なんです。日本にはあまりないというか、ヨーロッパはやるでしょ、新しいことをやるでしょ、それはなにかといったら、ギリシャ悲劇の物語の型というのから重要な型の定義を抜くんです。省略したり、抜くんです。それがようするに非常に前衛的な小説、そういうふうに理解された方がいいです。つまり、小説というのはそういうものだ、どういう型もないような、初めも終わりもないような、尻尾もないような、何を書いているんだこれはという小説というのは、そう思えても、しかし、それは重要な悲劇、ドラマ、あるいは物語というものの型から重要な定義をいくつか抜いてできているんだという、ちゃんと抜いてあるというか、抜いていることを本人が意識したかどうかは別として、抜いているところでちゃんと型に対して、物語の原型、あるいは、悲劇の原型に対して、ちゃんと対決しているんだというふうに考えたほうがいいです。そういうふうに理解したほうがいいです。つまり、非常に前衛的なわけわからないこれはというのがあるでしょ、小説でも、翻訳のなかでも、それは翻訳がまずくてわからないのもありますけど。だけども、それはちゃんと踏まえているんです。物語とか、語りという、悲劇というもの、ドラマというものの原型をちゃんと踏まえている。踏まえて重要な部分を抜いてるんです。抜くに際しては、ただ素知らぬ顔をして抜いてありますけど、必ずそれは対決して抜いているんです。だから、自分の内面の中にある悲劇的原型というものに対して、物語の原型に対して、それに対決しながらそれを抜いているんです。その抜き方が作家なんです。そういうふうに理解されたほうがいいです。それだから、型というのは必ずしもある部分では重要でないことはないのです。そういう問題なように思います。
18 質疑応答6
(質問者)
≪音声聞き取れず≫、いまの歌謡のなかでも、最もリアリティの少ない。ぼくが戦後詩を読んだ時には、≪音声聞き取れず≫
(吉本さん)
あなたはそうおっしゃるけど、ぼくはシンガーソングライターみたいな、あるいは、新進歌謡曲みたいな、そういう人の作詞のなかでは、ぼくは何人かの一人だと思えますけど。たとえば、さだまさしとか、松任谷由実とか、とにかく2,3人の人の中に、ぼくは入ると思っていますけど。作詞だけをみて、そのなかに入るくらいのうまさだなというふうに、ぼくの評価はそうなんです。
だから、ホームドラマのなりそこないみたいな、そういうあれじゃないかという評価は、ぼくは納得しがたいです。つまり、詩の場合でもそうですけど、詩人の場合でもそうですけど。そういう言われ方というのは、この詩人は社会思想的なことを作っていないからダメじゃないかというのとさして変わり映えのない評価の仕方じゃないかなというふうに僕にはおもえます。
ぼくはあまりそういう評価の仕方というのをとりたくないです。つまり、主題というものに積極性とか、消極性があるという考え方は、とうの昔に消し飛ばしたというふうに僕自身は思っているわけです。完膚なきまでに消し飛ばしたと思っているわけですから、ぼくはそれとあまり変わらないんじゃないかという気がするから、ぼくの評価の仕方は違いますから、ぼくもそんなにたくさん読んでいないですけど、でも、いちおうそういう人達の類の、残されて集められたようなものというのは、わりに読んでいると思うのですけど。
ぼくは2,3人の中の一人だとおもって挙げているので、取り立てて特別な理由はないんです。たぶん間違いないと思うんです。何人かのうちの一人くらいのうまさはあるんじゃないかと思っています。
19 質疑応答7
(質問者)
さきほど、現在の詩について、表現として停滞しているということで、存在という言葉をチラッと出されましたよね。それと今日の表題で「過去の詩と現在の詩」ですか、さだまさしというものに対してひとつの規制的な言葉を発想する形式ですね、発想形式を問題にしていたと思うんです。≪音声聞き取れず≫、あるいは、精神医学的な問題になるような状態を契機として出てきたような発想形式というのは、そこから出てきて、現在はそれにもう頼っている。それ自体がひとつの既成性になってしまっているというふうに考えると私は思うんです。先ほどの存在の無ということをチョロッと出されたのはどういう意味あいのことなのか。
(吉本さん)
具体的にいうと、どういう詩で言えますか、たとえば、精神医学的なパターンみたいなものは。
(質問者)
たとえば、シュールレアリズムでもいいですし。
(吉本さん)
そうすると、いまのあれでいうと飯島さんとか、そういう人たちの詩ですか、岡さんとか。
(質問者))
私はあまり詩をやっていないものですから、たまたま書店でチラッと眺めた時に、言葉のつながっていくものを眺めていると、そういうものを感じて。
(吉本さん)
ぼくの思うには、日本のいまの詩人でいえば、飯島さんとか、岡さんとか、そういう人、わりにシュールレアリズムの影響をたくさん受けてきた詩人は、詩が書きやすいんじゃないかなという、漠然たる感じを持っていますけど。書きやすく、書いてるんじゃないかなって、あるいは、書きやすくなっているんじゃないかなって感じを持っているんですけどね。
だから、そうじゃなくて、言葉というものを欲張るというんでしょうか、言葉というものに存在感から流行感まで、つまり、効力感とか、その中間にある言葉の持つ機能を全部の言葉に負わせないと収まりがつかないみたいな感じ方で言葉を使ってきた詩人には書きにくくなっているように思いますけど。また、書きにくくなっていくような気がしますけど。
そのときに、その書きにくくなっていくなり方がどういうふうにしてそうなっていくのかといったら、生活感も、社会感も、それから、その外枠自体も社会自体もさして変わり映えがしないし、母機もなくなっていく、それがついに存在感自体もまた動きがなくなって、どうしようもなくなっていくというような感じ方になっていったときには、言葉に様々な機能をぜんぶ負わせなきゃ収まりがつかないように詩を書いてきた人たちというのは、詩が書きにくくなっていくんじゃないかというのが、ぼくは実感的に感じている感じ方なんですけどね。だから、やがてしかし、そういうふうになってくるような感じを持っていますけどね。だんだんそうなっていくに違いないなという感じを僕自身はもっているということなんです。だからもっと具体的に、この詩人が書いているような詩というふうにあれしてくださると大変わかりいいんですけど。だいたいよろしいですか。(会場拍手)