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郡山(安積)地方関連の古代歴史考察

2018.03.14 04:41

http://www5.plala.or.jp/obara123/rekisi_10.htm 【郡山(安積)地方関連の古代歴史考察】より

郡山(安積)地方の古代郷土の歴史は石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代など未だ解らない事が多い。しかし先人も、今も、これらを調査研究されている方々が次々と、成果を発表されているので、将来郷土の歴史が、明らかになる事であろうと思う。郡山市に於いては、各先輩が編纂された「郡山市史」始め多くの書籍等がある。叉「郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団」による、発掘で出土する品々を見ると、古代の夢は益々膨らむのは私一人だけではないだろう。郷土の歴史に興味をもって、「郡山市公民館市民学校」等や「あさかの学園大学」で学んだものを私なりに纏めてみた。

                              2001/6/10         小原隆夫

         旧石器時代以後の郷土の歴 史

古代郷土の遺跡

福島県では原瀬笠張遺跡(二本松市原瀬)40万ー60万年前の安山岩の石器(スクレイパー)3点玉髄整等1点が出土。西郷村大平では無土器時代の岩窟住居(2万ー3万年前)の遺跡がある。二本松市 原セ笠張遺跡では三つの文化層(地表約7m下)から石器が出土したとされたが、H7年より捏造されているとの事から、再調査を郡女大柳田俊雄教授外の皆さんが行ない、我が国考古学者が揃って偽物と結論され、国の指定を取り消された。しかし須賀川の乙字ケ滝、岩瀬成田に旧石器遺跡が調査されている。会津地方は、太古の昔から文化の合流点で太平洋側と日本海側の特徴を示す、ナイフ型石器が 100点以上発見されている。   塩坪遺跡 高郷村

郡山市に13カ所から旧石器が発見されている。

大平遺跡     郡山市熱海町中山字大平

滝口遺跡     郡山市熱海町中山字滝口

平石遺跡     郡山市熱海町中山字平石

熱海遺跡     郡山市熱海町高玉字熱海

中当遺跡     郡山市熱海町高玉字中当

出子山遺跡    郡山市熱海町出子山     尖頭器

安子ケ島遺跡   郡山市熱海町安子ケ島

玉川遺跡     郡山市熱海町玉川

蝦夷坦遺跡    郡山市大槻町         蝦夷坦

福楽沢遺跡    郡山市大槻町福楽沢     刃器

北小泉遺跡    郡山市富久山町北小泉    バックブレイド

野田遺跡     郡山市三穂田町野田

安子ケ嶋三の谷遺跡

現代の考古学は進歩している

東北地方に人が現れたのは、約50万年前と言はれている。年代測定方法は、地層研究や火山噴火による年代測定法(噴火灰中の硝子質)地磁気研究、カーボンC14の放射能をCPU利用し計算する方法(Cの半減期73,000年)珪酸(プラントオパール)検出方法等で有名な東北大教授 芹沢長介先生が上高森遺跡(宮城県築館町高森)遺跡で出土した石器(石刃・石斧)を47万年前の物品だと証明されたと田中正能先生から聞いている。歴史の調査方法は、現代の歴史学は文献史学ばかりでなく考古学 歴史地学 民俗学 その他隣接諸学で総合的に調べる必要であると言う。東北地方に季節風・やませ等で九州南部の鬼界が嶋火山灰・姶良火山灰が運ばれているのを検出されている。

現代から約500,000年前頃を旧石器の始まりと考え、旧石器時代は縄文草創期時代(12,000年前位)と重なるが、独断で続く各時代の範囲を仮定した。縄文時代を約9,000から10,000年間、弥生時代はBC700~AD300年の10,000年間位、古墳時代は2世紀~7世紀位、飛鳥時代を6世紀~8世紀位の目安で年表を作って見た。 (別表を参照下さい)

旧石器時代の区分 石器時代(旧石器時代 50万年~2万年前)

旧石器

1 a

1 b

1 c

2 a

2 b

3 a

4 a

         縄文時代以後の郷土の歴 史  (縄文時代 西紀前1,000年頃より1万2,000年前位前后か)

大平山元遺跡から出土した(青森県蟹田町)世界最古級の土器片発見(H10.7)は、縄文草創期(約1万2000年前) 土器を45,000年前も古いと名古屋大の年代測定資料研究センター中村俊夫氏が算出されたと聞いた。縄文草創期が45,000年以前も古く、約1万6500年の違いあるとは、私は大変驚いた。

縄文時代の住まいの条件は現代と同じだと言う。日当たり良く、風当たりが少なく、水が豊富で、交通の利便性を考えた所を生活の場所に選んでいる。

 食物    自然食 クリ クルミ ヤマブドウ サルナシ ニワトコ イヌヒエ ヤマゴボウ等

        栽培物 ヒヨウタン ゴボウ マメ アカザ エゴマ等

 衣類    獣の皮利用     針は山鳥の骨、ウツギの枝等を焼いたり煎った物で作ってる

 竪穴住居  早期は三本柱住居 埋 めカメ 石組炉

縄文人の生活の知恵は煮沸道具の土器(焼物・カメ・ドンブリ)等が、青森県山内丸山遺跡他から多数出土している。縄文土器は全国各地に数多く出土している。 私達の郷土郡山地方でも縄文土器は、亀田・富岡・大槻等の遺跡から沢山出土して居り、これらを補修復元整理したものを郡山市麓山の歴史資料館等で見ることが出来る。叉発掘現場を見学も可能だが係員の指示に従って貴重な遺跡を損傷しないよう心がけたい。

縄文草創期(約1万2,000年前)には土器・弓矢等の発明がなされ使用されている。

縄文前期から中期かけての道具類は細工が上手になり、石槍、石刃、矢ジリ、石棒等や吹き矢のやじり(コガネ萱ヲ加工)を男の仕事とし、女の仕事は土器作り、食物の栽培や火の守り、家事等の分担が出来ていたと考えられる。

縄文後期・晩期の頃は食物の栽培は主として焼畑農耕をしたと思われるが、気象、季節、天候等を年間を通して知る必要から、巫女が必然的にうまれ、一族の守護者や祭司司会者が発生したのではないだろうか、叉村作り・環濠集落の発生と共に団体共同生活における指導者が生まれ大きくなり部族豪族が発達して、部族間の争いと信仰や権力の中央集中に進んでゆく。

福島県内の遺跡

縄文草創期(約12,000年前か1万年前)

東北地方に縄文土器ハ発見されていないと聞く。福島県も縄文草創期の縄文土器は同様と思う。

東京ナスナ原・長野=石小屋・新潟=室谷・広島=馬渡・長崎=泉福寺等カラ出土シテル

縄文早期(約9,000年前 10,000-6,000)

一ツ松遺跡 郡山市田村町川曲 黒石川の高台で約8000年前の朱彩土器の破片発見(H9.9)市埋蔵文化発掘調査事業団によると田戸下層式土器で朱彩土器は県内最古の草創期の物と言う。

 この他土器破片5点が出土し外に約7,000年前の住居跡10棟と約4200年前の住居跡

30棟が標高差12mノ斜面に三段に分かれ並でるのを(H8ヨリ)発掘している。

平地で、ひな壇状に住居跡が発見されたのは珍しいという。

郡山市富久山町鳴神遺跡 竪穴式住居跡12号住居跡

郡山市熱海町水無遺跡 二ノ谷遺跡 北山遺跡

郡山市亀田 古亀田遺跡

郡山市大槻町 城ノ内遺跡 縄文前期(約6000-5000年前) 縄文時代ノ温暖期ガピーク

郡山市曲木沢遺跡 郡山市富久山町堂坂 縄文前期(約6000年前)ノ土器出土

東山田遺跡 郡山市田村町山中 土器出土

郡山市逢瀬町三森遺跡

郡山市熱海町中山西ノ内遺跡

郡山市中田町柳橋遺跡

縄文前期(約6,000年前 6,000-5,000) 縄文時代ノ温暖期がピーク時

 曲木沢遺跡 郡山市富久山町堂坂 縄文前期(約6000年前)の土器出土

 東山田遺跡 郡山市田村町山中 土器出土

 下ノ平遺跡 福島市 吾妻山麓の谷間に狩猟用の落とし穴約400発見 6000年前の大規模な狩場か

縄文中期(約5,000年前 5,000-4,000)

  大畑貝塚跡 いわき市小名浜港南端丘陵地 獣骨製釣針・貝・鮪・鰹・真鯛等骨出土

 法正尻遺跡 耶麻郡磐梯町

 石生前遺跡 柳津町 火焔形土器出土

 郡山市富久山町山王舘遺跡 浅鉢型土器・三角柱状土製品・三角土製品ヤ土偶・石鏃・石斧等出土

 郡山市大槻町隠居面遺跡 長方形竪穴住居跡・多数ノ縄文土器・土偶出土

 渕ノ上遺跡 郡山市安積町笹川地内 複式炉竪穴住居跡

 琵琶首沢遺跡 郡山市熱海町

 下郷遺跡群 郡山市逢瀬町河内 土器出土 大集落跡

縄文後期(約4,000年前 4,000-3,000) 秋田県ナド大規模環状列石跡

  野中遺跡 郡山市富久山町堂坂 118基の土杭発見、木ノ実等の食糧倉庫跡と縄文中期の土器モ出土

  下羽宏遺跡 郡山市中田町高倉 縄文式堀立柱建物跡29棟と奈良・平安時代の竪穴住居跡等出土

  三貫地貝塚 新地町 縄文人骨100体以上出土 東日本最大規模カ

  熱海遺跡 郡山市熱海町 駅前カラ五百川マデノ広い面積 S39発掘調査

  馬入新田遺跡 郡山市湖南町 注口土器

  高倉遺跡 郡山市日和田町

  穴沢舘遺跡 郡山市西田町穴沢 S56発掘調査

  馬場小路遺跡

  河内遺跡群ノ桜木

縄文晩期(約3,000年前 3,000-2,400)

  鳴神遺跡 郡山市富久山町福原 縄文の落穴・古墳時代竪穴式住居跡土器出土

  雇沢遺跡 郡山市中田町高倉 下羽広(シモハビロ)遺跡カラ倉庫建物跡30棟出土約2,500年前

  一人子遺跡 三穂田町駒屋

  宮前遺跡 大槻町宮前

  舟津遺跡 郡山市湖南町 注口土器

         弥生時代以後の郷土の歴 史  (弥生時代 約2,400年前頃から古墳時代まで)

弥生時代は稲作りが伝来して食糧生産が集団化し金属(銅)文化が生まれてきた。郡山(安積)地方の歴史上で、特に注目されているものはまだ混沌としていると言う。弥生時代を年代別に大きく別けると、次の4期としている。

弥生早期(約2,400年前) 縄文晩期との区別が解らない

弥生前期(約2,300年前) 北九州で米作り始まる

弥生中期(約2,100年前) 吉野ケ里遺跡 佐賀県神崎町が゙有名

弥生後期(約1,900年前) 邪馬台国卑弥呼が中国の魏国に使いを送る(239年)

稲作文化

米、稲作り農耕が弥生時代の特長の一つで稲作伝来経路は中国揚子江沿岸から伝わったらしい。約8,000年前の中国浙江省河母渡遺跡(揚子江沿岸)より炭化米7tと水田跡・角制農具が出土している。ここが原産地と考えられている。我が国に伝来した、短粒のジヤポニカ種は北方ルート(揚子江ー黄河ー山東半島ー朝鮮ー日本)を通り、長粒のインデカ種は南方ルート(河南ー雲南ー東南アジヤ ー ビルマ)と言う。青森田舎館砂沢や九州板付には2500年前渡来と言われたが三内丸山遺跡発掘で6000年前に稲作がされている事がわかった。

米の特性のひとつは、一粒の籾が90粒から110粒に結実する穀物で、粟・稗等より粒子が大きく、美味で、加工は簡単、しかも長期貯蔵が可能である。 焼畑農耕では、陸稲栽培ができるが、収量は水稲栽培にかなわない。稲作にかかる古代信仰では(赤米黒米=神撰)安定した食糧の生産による稲作信仰(畑作信仰)が生じ、それから水と山の信仰となり金属文化の発生となる。出雲系の諏訪信仰(田植え行事)都都古和気信仰などがある。

 「十五夜の供物」 「松・竹・梅」 「玉・鏡・剣」

豪族の発生と戦争

縄文中期頃から水田耕作により集中労働力や土木作業など集団とリーダーが出来てくる。持つ者と持たない者(労力、米など)富の量の差別が生じ、富の収奪(戦争)争いが始まり負けた者は戦利品として労働力を求められた。強い者が権力を誇示するため古墳(墓)作りが行われる。

金属文化の発生

銅文化=大国族が作ったとかんがえられる。郡山市では笹原川、谷田川の流域に鉱鐸跡が多い。

鉄文化=天孫族が作ったとかんがえる。(日本武尊、鹿島信仰・桙衡神社)

国譲り=天孫降臨 神話 大国主命(大和三輪山 大祖オオカミ神社 )出雲に島流し(二世紀)

弥生土器の特長

縄文土器にくらべ形状がシンプルになり、文様は工字文・直線文・渦文・線文が目立つようになる。東日本に多く伊勢湾付近で少なくなる。気候の湿度や感光度の関係か解らない。

弥生時代の遺跡

池上曽根遺跡(大阪和泉市) BC50年頃の大型神殿跡下層から建物2棟を発見(H9.2)

登呂遺跡(静岡県)

加茂岩倉遺跡 (島根県加茂町岩倉) 銅鐸39ケ出土(H8.10.14)

荒神谷遺跡 (島根県斐川町) 九州系祭祀具・銅剣358本銅鐸6ケが10年前に出土

稲吉遺跡 (鳥取県定江町) 銅鐸ヤ弥生絵画土器

大岩山遺跡 (滋賀県野州町) 銅鐸24個出土

梅ケ畑遺跡 (京都市) 銅鐸 4個出土

池上曽根遺跡 (大阪市和泉市) 大型建物跡は紀元前50年頃伐採と判明

纏向石塚古墳(奈良県桜井市大田) 纏向(マキムク)型前方後円墳(H8.12)の調査で築造時期は220年頃 これは耶邪台国卑弥呼の弥生時代土器だけで「ふき石・特殊器台型」わ発見されてないと聞いている。

福島県の遺跡

窪田遺跡(只見町) 縄文後期カラ弥生中期ノ住居跡密集 土器ハ北関東ノ弥生土器ト同じ

勝口前畑遺跡(福島市) 勾玉の未完成品大量出土 大規模工房跡か?

天神原遺跡(楢葉町) 土器棺・土抗墓等発見 2基の墓より勾玉・管玉多数出土

番匠地遺跡(いわき市) 県内初の水田跡 1区画14-20平方メートル

塩川館ノ内遺跡 耶麻郡塩川町 会津に豪族が居た事を確認できる。

四隅突出形周溝墓 東北地方デ始メテ出土(弥生後期約2000年前) H8.10.14

出雲系

須佐野緒命ー大国主命(大黒様) ー事代主命(えびす様)

                    ー建御名方命 諏訪神社 信濃、北陸、会津

                    ー味耕高彦根命 都々古別神社 近津神社 東北南部

民族行事=会津諏訪の俵引き (藁筒(ツトコ)種籾交換用の小俵)

近津都々古和気神社の正月11日御田植え行事 会津佐須美神社の御田植え祭

近津神社は、天孫族へ国譲りした大国主命の子供である味耕高彦根命(アチスキタカヒコネノミコト)が弥生時代(約2,500年前)頃 阿武隈川右岸部に米作をしたことが(仙台荒浜 古墳)遺跡調査で判明

郡山地方の西暦元年頃の遺跡 

御代田、琵琶沢(2,000年前)川田白旗、成田延命寺、駒屋一人子(1,500年前)富田腰巻(1,000年前)があり富岡、成山、笹川、大槻町の柏山遺跡や福楽沢遺跡から籾痕のついた土器が出土している。これらの遺跡から郡山地方では稲作農耕が2,000年前から始まっていた事が解る。

田=水稲栽培は弥生時代の郡山市は沖積原(阿久津・阿久土・安子島)湿地・谷地・河川上流沿岸に多く用水堰も作られた。

安倍近津神社(福島県郡山市安積町荒井字北井)

祭神 味耕高彦根命(アチスキタカヒコネノミコト)と安倍継守の二神

天保12年(1841)二本松藩地誌(大石良種著)相生集に記載っている。「延暦10年(791)9月5日安積郡大領(郡司)に糧納献上して、外正8位から外従5位下叙任とある」

我母神社(福島県郡山市安積町荒井字東北井)  祭神 我母神と白翁神の二神

我母神 「女神で伊勢7 熊野7 湯殿山48回参拝し北井を開拓シタトツタエラレル」

白翁神 「我母神と夫婦神といわれ共に北井を開拓」

弥生時代の大和朝

弥生時代は(BC400-AD300) 約700年間位?の時、群小国家が乱立状態を集約統一されて行ったものと思われる。

「古代天皇の都」 鈴木 亨著(歴史と旅 編集長福島県生)による歴代天皇の跡地。

鳥越憲三郎先生の葛城王朝説

1代 神武帝(ジンム)=畝傍橿原宮(ウネビカシワバラノミヤ) 橿原神宮

2代 綏靖帝(スイゼイ)=葛城高丘宮(カズラキタカオカノミヤ) 一言主神社

3代 安寧帝(アンネイ)=片塩浄孔宮(カタシオウキアナノミヤ)

4代 懿徳帝(イトク)=軽曲挟宮(カルマガリノミヤ)

5代 孝昭帝(カウショウ)=夜上池心宮(ワキノカミイケゴコロノミヤ)

6代 孝安帝(コウアン)=室秋津島宮(ムロアキツノミヤ)

7代 孝霊帝(コウレイ)=黒田廬戸宮(クロダイオリノミヤ) 廬戸神社

8代 孝元帝(コウゲン)=軽境原宮(カルサカイノミヤ) 剣上嶋上陵

9代 開化帝(カイカ)=春日率川宮(カスガイサカワノミヤ) 率川神社

三輪王朝滅亡説

10代 崇神帝(スジン)=磯城瑞籬宮(シキミスカキノミヤ) 箸墓古墳

11代 垂仁帝(スイニン)=纏向珠城宮(マキムクタマキノミヤ)

12代 景行帝(ケイコウ)=纏向日代宮(マキムクヒノシロノミヤ) 山辺道上陵

13代 成務帝(セイム)=志賀高穴穂宮(シガタカアナホノミヤ)

14代 仲哀帝(チュウアイ)=志賀高穴穂宮(シガタカアナホノミヤ) 近江穴穂神社

応神王朝説

15代 応神帝(オウジン)=軽島豊明宮(カミシマトヨアカリノミヤ) 応神天皇陵

16代 仁徳帝(ニントク)=難波高津宮(ナニワタカツノミヤ) 大阪市天王寺区 仁徳天皇陵

17代 履中帝(リチュウ)=磐余種桜宮(イワレワカザクラノミヤ) 奈良県桜井市 若桜神社

18代 反正帝(ハンゼイ)=丹比柴籬宮(タジヒシバガキノミヤ) 河内松原市上田町 柴垣神社

19代 允恭帝(インギョウ)=茅淳宮(チヌンミヤ)

20代 安康帝(アンコウ)=石上穴穂宮(イソガミアナホノミヤ) 奈良県天理市田町 貴船神社

21代 雄略帝(ユウリャク)=初瀬朝倉宮(ハツセアサクラノミヤ) 桜井市黒崎 白山神社

22代 清寧帝(セイネイ)=磐余甕栗宮(イワレミカグリノミヤ) 桜井市東池尻 御厨子神社

23代 顕宗帝(ケンソウ)=近飛鳥八釣宮(チカアスカヤツリノミヤ) 飛鳥 弘計(オケ)神社

24代 仁賢帝(ニンケン)=石上広高宮(イシノカミヒロタカノミヤ) 奈良県天理市 石上神宮

25代 武烈帝(ブレツ)=泊瀬列城宮(ハツセナミキノミヤ) 桜井市出雲 十二所神社

応神王朝断絶説大伴金村擁立

26代 継体帝(ケイタイ)=樟葉宮(クスハノミヤ) 大阪府枚方市樟葉 貴船神社

27代 安閑帝(アンカン)=鈎金橋宮(マガリカネハシノミヤ) 桜井市 金橋神社

28代 宣化帝(センカ)=桧隈廬入野宮(ヒノクマイオリノノミヤ) 桜井市 於美阿志神社

蘇我稲目・物部尾興の大連擁立

29代 鈞明帝(キンメイ)=磯城島金刺宮(シキシマノカネサシノミヤ) 桜井市三輪山 磯城島金刺宮跡

30代 敏達帝(ビタツ)=訳語田幸玉宮(オサダサキタマノミヤ) 桜井市戒重 春日神社

31代 用明帝(ヨウメイ)=磐余池辺雙槻宮(イワレイケベノナミツキノミヤ) 桜井市東池尻 春日神社

蘇我氏擁立(馬子)

32代 崇峻帝(スシュン)=倉橋柴垣宮(カラハシシバガキノミヤ) 桜井市唐橋 崇峻陵ト金福寺

33代 推古女帝(スイコ)=小墾田豊浦宮(オワダトヨウラノミヤ) 奈良県明香村豊浦 広厳寺

34代 叙明(ジョメイ)=百済宮(クダラノミヤ) 奈良県北葛城郡広隆町百済 百済寺

35代 皇極女帝(コウギョク)=飛鳥板葺宮(アスカイタブキノミヤ)

大化の改新(中大兄皇子・藤原鎌足外が蘇我氏を討つ)

36代 孝徳帝(コウトク)=難波長柄豊崎宮(ナニワトヨサキノミヤ) 大阪市上町台 難波大極殿跡

37代 斎明女帝(サイメイ)=飛鳥川原宮(アスカカワハラノミヤ) 奈良県明香村 弘福寺

38代 天智帝(テンチ)=大津宮(オオツノミヤ) 滋賀県南志賀町 近江神宮・南志賀廃寺跡

39代 弘文帝(コウブン)=大津宮(オオツノミヤ) 滋賀県南志賀町 弘文陵

     壬申の乱(大海皇子に大友皇子(弘文天皇在位8ケ月25才)敗北し政権交代)

40代 天武帝(テンブ)=飛鳥浄御原宮(アスカキヨミハラノミヤ) 奈良県 桧隈大内陵

41代 持統女帝(ジトウ)=藤原京(フジワラキョウ) 奈良県 桧隈大内陵に合葬

42代 文武帝(モンブ)=藤原京(フジワラキョウ) 奈良県

        古墳時代以後の郷土の歴 史   (3世紀ー7世紀) 約400年間位?

我が国の古墳時代は、3世紀頃から7世紀の半ば当たり約400年間位が古墳時代と言われている。歴史に表された、東北の記録では阿尺国造の設置あたりからを前期と仮定すると、7世紀の半ば大化改新頃までの間を、安積の古墳時代として見てみる事にしたい。近年各地で発掘がなされ考古学も進歩し新しい発見がある。この時代の墳墓に副葬品から模造石器・土器等の生活用品や剣等の武具装飾品が見られ特に埴輪が出土している。古墳は朝鮮径由で伝わってきたと考えられる、人が、死後再生を願う再生観思想信仰があり、仏教が伝来し薄葬令により火葬がおこなわれるまで続いたと思われる。安積地方の昔からある地名に壇とか塚が付いた場所は古墳の在った場所といわれる。

   古墳前期(3世紀ー4世紀) 会津大塚山(前方後円墳)

   古墳中期(5世紀)  正直古墳群・御代田古墳

   古墳後期(6世紀ー7世紀) 大槻古墳群

阿尺国造の設置

安芸国造は、天湯津彦命の天孫十代成務天皇(四世紀後半)に従神十代 阿尺国造(アシャカコクゾウ 西暦 350-650年)が任命されたとされている。 国津神と天津神 日本書紀、古事記(700年)歴史でなく神話

四道将の派遣軍

四道将の派遣軍は、崇神天皇10年(皇紀573年)に、四道将軍を派遣したものとされるが、北陸道に、 父・大彦命(古四王神社)が派遣され、東山道に、子・建沼河別命が派遣されて、相津(会津)で父子が出合い地名となったと言われているが、安積でも、郡山市舞木の直毘神社に笠縫邑(道陸神)と記録が残っているが、四道将軍の派遣軍がきてるのかは不明である。

   国造設置(皇紀131年ー190年) 皇紀年号と西暦年号の差660年 

    白河、岩瀬、安積、信夫、亘理、伊具(伊久)、標葉(楢葉)

郡山の古墳文化

稲作が発展し、水の重要性は水路等土木工事も進み 労働力が集中と支配者の権力が増し、地方豪族が発生する。縄文人の信仰は、稲作りに関連して、蛇神信仰や、植物再生観が先祖崇敬となる。豪族の墳墓は権威の象徴又勢力のシンボルとなって居る。安積地方の古墳は、首長クラスの墓と思はれる。占地は己の支配が一望の場所である山頂部(本県の場合西紀350年前)を選び、その後、山麓部に移る(400年中)平坦地には(550-700年中)に合葬形態や横穴式の古墳があらわれる。安積地方に古墳群集中しているはなぜであろうか、郡山市の大槻町や田村町等その他を含めて約300の古墳が有るのは、県内一で、郡山はこの時代から、稲作りが盛んな農業生産地であり、古墳の多くあるのは、豪族がいた豊かな象徴ともいえる。

時代が移り個人墓が共同墓に巨大墳墓から小規模墳墓に変わり、大化の改新以後天皇勢力の薄墓令による中央権力や仏教渡来で火葬が流行し、古墳は無くなって行く。

3世紀後半近畿地方に多くの古墳が出現した

箸墓古墳=奈良県桜井市

蒲倉古墳群=郡山市 直径10 &15m 円墳

大安場古墳=郡山市田村町大善寺字大安場 前方後方墳 全長82m H7発掘

清水内遺跡=郡山市大槻町字人形壇東 25棟の竪穴式住居跡に1棟から鍛冶屋跡が有る。

古墳時代の臼や壷 タカツキ等祭祀土器が出土 H8発掘

4世紀中ー後半

大仙陵(仁徳陵)古墳=大阪府堺市 日本最大の古墳

会津大塚山古墳=会津若松市 S39年発掘 前方後円墳全長114m直径45m 副葬品多数出土した。

桜井古墳=福島県原町市 東北最大規模の前方後円墳

天王壇古墳=福島県安達郡本宮町 大量ノ埴輪出土 女性人型・甲冑形・猪形・犬形等

6世紀

経塚古墳=会津坂下町 会津で唯一埴輪が出土 円筒形・人物・馬・鳥・家等

清戸迫横穴=双葉町 奥壁に赤色顔料で壁画あり、渦巻文・冠・帽子人・乗馬人・弓射人・鹿・犬等

蝦夷穴古墳=須賀川市 副葬品豪華 金銅整頭推太刀・鈴・馬具等東京国立博物館に収蔵されている。

郡山の古い地名   

大蔵壇原(久留米)、名倉、針生、小原田、香久池、岩代国府が設置された地名が残っておる。安積地方には22代清寧天皇(480-484)の時に、渡来人がこの地に住んだと言う説があり、白翁神=白髪部(シラカベ)の名が神社として残っている。陸奥の朝廷領は国府を設定して安積国造の管掌下に置かれた。三蔵制(朝廷用年貢蔵)内蔵・斎蔵・大蔵の名残や、采女白丁制(地方豪族の司祭権、女の司祭巫女)等、中央勢力の増大は、信仰統一策までも郡山(安積)地方でも行われていたと考えられる。

郡山市の赤木古墳は、大正時代に逢瀬川の改修工事で壊されたが、これが阿尺国造の墳墓ではないかと言われている。

       飛鳥時代以後の郷土の歴 史  (飛鳥時代 (C593~C713) 約120年間)

縄文以後の郡山は、稲作文化の弥生から発生した地方豪族の小国家に分かれたが、大和朝廷の中央集権化が強大に進んでゆく。地方豪族が権力争いの中で、安積地方は、特に大型古墳に表わされる顕著な事例は少くない。今後発掘調査や、考古学の進歩により、何かが出現するかもしれない。

大和朝廷の継体帝(皇統断絶説=大伴氏擁立)

武烈帝(489~506)が没し、近江の豪族(坂田郡朝妻郷 米原市附近で神功皇后・息長帯比売の子孫が父方出身地)と越前三国の娘の間に生まれた子男を、河内の馬飼首荒籠が、大伴氏の使者となり、仁賢帝の皇女「手白香」に入婿する。大伴金村(河内)の後援で、大阪府枚方市楠葉附近において継体帝となり即位(526)磐余の宮(イワレニミヤ奈良県桜井市)に遷都する。翌年(527)大伴金村八(河内)の国際的汚職が発生する。継体帝29年(531)に没、摂津の高槻市郡家にある今城塚古墳が墳墓と言う。

     26継体帝ー27安閑帝ー28宣化帝

大和朝廷の欽明帝(物部氏・蘇我氏擁立)

飛鳥地方は、香久山・耳成山・畝傍山の三山に囲まれた奈良盆地にあり、日本大和朝最初の都となった。都は時代とともに、世代天皇は難波・滋賀等に遷都するが、再び奈良盆地に戻って藤原京や平城京となり京都長岡京・平安京に遷都するまで存在した。飛鳥時代の大和朝廷は地方豪族の勢力を統一して発展して行くが、朝鮮任那の日本府を失い、大伴氏・物部氏が失脚滅亡し、仏教を捧信する蘇我氏が勢力を伸ばしてくる。厩戸皇子(聖徳太子)は推古天皇の摂政として十七条の憲法を制定(AD604)し遣随使を派遣したり法隆寺を創建する。中国では隋から唐の時代となり、遣唐使が派遣(AD630)された。蘇我氏の勢力が強大になりこれに対抗して斎明天皇の時、中大兄皇子・藤原鎌足等が大極殿の変を起こし大化改新を行ない律令国家に移る。

大宝律令の制定

大宝 1年(701)陸奥国より采女・兵衛禁止令 大宝2年(702)

大和朝廷の関係豪族

  阿部氏・紀氏=水軍として活躍

  物部氏=猪名部(イナベ 造船)のボス 西日本に主勢力

  大伴氏=馬飼部(ウマカイベ馬喰)のボス 東日本に主勢力 馬は輸送交通伝達手段に使用

  蘇我氏=官司経営官僚操縦が上手仏教で思想統一 欽明帝を擁立

          蘇我稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿

氏 の 話

橘、藤原、源、平の4氏 大伴氏、物部氏、阿部氏(東北・北陸・北海道)の3氏

    阿部比羅夫=海賊 宗像3女神 隠津島神社

大化改新(西暦645)

中大兄皇子(天智天皇)が藤原鎌足と共に蘇我一族を倒した革命で、唐の政治諸制度に習い、天智・天武・持統の三世の治世ほぼ半世紀を白鳳時代ともいわれてる。

唐制中央集権国家 土地、人民、武器、信仰

  年貢ー経済基準   男子良民6才になると6反歩の土地を付与 (国分田)

               女子に6分の4反歩、 奴卑に6分の2反歩を付与し

  年貢(租、庸、調)を取る制度を作る(6年毎査定)

歴代天皇

葛城王朝説

1神武帝ー2綏靖帝ー3安寧帝ー4懿徳帝ー5孝昭帝ー6孝安帝ー7孝霊帝ー8孝元帝ー9開化帝

三輪王朝説

10崇神帝ー11垂仁帝ー12景行帝ー13成務帝ー14仲哀帝

応神王朝説

15応神帝ー16仁徳帝ー17履中帝ー18反正帝ー19允恭帝ー20安康帝ー21雄略帝ー22清寧帝ー

23顕宗帝ー24仁賢帝ー25武烈帝

皇統断絶説(大伴氏擁立)

26継体帝ー27安閑帝ー28宣化帝

百済系説(物部氏・蘇我氏擁立)

29欽明帝ー30敏達帝ー31用明帝(用明帝 崩 587年4月物部氏の滅亡)

32崇峻帝ー33推古女帝ー34舒明帝ー35皇極女帝

大化の改新(蘇我氏滅亡 中大兄皇子・藤原氏鎌足等)

36孝徳帝ー37斎明女帝(皇極重祚)ー38天智帝ー39弘文帝

新羅系説(壬申の乱 大海人皇子・藤原不比等)

40天武帝ー41持統女帝(藤原京)ー42文武帝(藤原京にて没 慶雲4年25才)

43元明女帝(平城京)ー44元正女帝ー45聖武帝ー46孝謙女帝ー47淳仁帝ー48称徳女帝(孝謙重祚)

49光仁帝ー50桓武帝(長岡京・平安京)

       奈良時代以後の郷土の歴 史  (奈良時代 (C710-C794) 約80年間)

「あおによし奈良の都は咲く花の匂うがごとき今盛りなり」 とうたわれた奈良時代は、中央政権が確立され天皇周辺の勢力争いがおこなわれたと言われ、女帝と鎖国の時代とも言われるが、天平文化が華やかに咲いた。奈良に遷都は、第43代元明天皇(女帝)で、第50代桓武天皇が京都に遷都するまでを、奈良時代と言う。関係する天皇は、42文武天皇・43元明女帝・44元正女帝・45聖武天皇・46孝謙女帝・47淳仁天皇・48称徳女帝・49光仁天皇・50桓武天皇となる。

郡山(安積)郷土の歴史に関係のある奈良時代の事例を上げれば次のとおり。阿尺国造から安積(郡山)の名が出来た。和銅6年(713)地名嘉字使用令(西暦713)により、阿尺国が安積となる説がある。

    1村50戸(竪穴住居)が原則で、安積では太田村50軒 成田村63軒の例がある。

石背イワシロ国府(県庁)が置かれる 

養老2年(718)陸奥国、石城国、石背国となる説 (白河、石背、会津、安積、信夫の5郡)で、石背国の国府の場所は、郡山市内方八丁と言われている。東に阿武隈川と北に逢瀬川がある八丁四方の場所(1丁は約100米)、現在は薬師堂(火葬場跡)には、諏訪神社等が残っている。

島根県出雲国府跡、岩手県胆沢城跡、と同じのもの多い。四神(青龍・東、白虎・西、朱雀・南、玄武・北)と南北に聖流が西から東に流れている場所を選んでいる。

安積軍団(郡衛)設置 天平9年(746)

奥州6軍団の内の一つ。安積軍団は大槻に所在した。会津、信夫、いわきより常備千人づつ駐屯したといわれている。天平18年12月15日(西暦746)の日附が書いてある会津帰国指令の木翰が、多賀城遺跡より出土している。

  白河、安積、行方、小田、玉造、宇多、6軍団の中心が安積

郡山市清水台付近から平安初期の布目瓦が多く発見されて、安積の郡衛である事が確認されている。安積地方は、神護年間(765-770)約10年で陸奥に一本化された後に岩代国となる。

福島地方の渡来人

中国や朝鮮の渡来人集団(百済、高句履、加羅)が、6世紀頃から渡来し、東北地方には、渡民実辺策により移住させて、大和朝廷から衣食住の生活保証を支給されたと思われる。彼らは 窯業 馬産 養蚕絹 玉 金を作る技術を持った人の集団で、産物を中央政権が租税として徴したものと考えられる。渡来人の生活した地名は現在も、白の付く地名が多いという。 白清水、白髪、白江等。郡山地方の渡来人は、安積郡より安達郡が別れた、延喜2年(902)頃渡来したと考える。郡山の古名は延喜式に拠ると「葦屋」言うが渡来人の集団地かもしれない。 兵庫県芦屋市の芦屋は、渡来人の集団地といわれている。 渡来人は仏教徒で、崇拝する仏像や寺を持っている。

 安達の鬼 鬼ー神業の人 唐木明神ー南杉田郡山台地内

 帳付明神ー針 道

 熊木神社(高麗)ー本宮

 

地名の由来

現在は何々の何丁目何番地と変わっている場所も、古い土地名は調べてみると面白い。郡山市の郡山とは郡衛所在地をさす場合が多いのでそれが地名となったのではないか。(郡衛跡説)

 茨城筑波山周辺の新冶郡は、郡衛跡を新墾(ニイハリ)=新治となった 例

 針生=墾付(ハリフ)ー針生 舘生から針生となった 例 

 帳付明神=五百川沿岸熱海横川から日和田高倉まで6ヶ所ある ハリフの例

 小原田=古墾田(コハリタ)ー小荒田ー小原田

 三 春=御墾田(ミハリタ)

 名 倉=名代(ナシロ)特定の皇子皇女の分輿領、子代名代の倉庫の跡か

  香久山、香久池が近くにある (奈良は竜門山系南端 郡山は大槻舌状地南端)

 大蔵壇原=(古墳に関係あり)久留米開墾   

大化改新により土地は国家公有なる。のちに、荘園制度が定められ管理を地方豪族に委ねられる。 

  大蔵=朝廷の財政倉庫、 内倉=家庭費、 斉倉=祭礼費  

  高倉、名倉、小倉の地名は朝廷に関係ある地名。

奈良時代からの郡山の地名では、晴門田=腫門田(病院) 兵庫田=武庫 銀白=金庫(プラチナ) 燧田=カガリ火 高石=望楼 水門町=河岸 阿弥陀町=阿弥陀堂跡 薬師堂=方八町ノ薬師堂跡 達中場=塔頭(タツツウ) 堂前=堂前町 鐘堂(今ノ金透学校ノ場所) 名倉(天皇族支配地で名代を派遣地)高倉・小倉も同じ、香久山・香久池(奈良と同地名)等が残っている。

国分寺

国分寺は8世紀の半ば天平13年(741)聖武天皇の詔により建立される。本家は奈良で日本全国に建立される。国分寺を建てるの場所は瓦葺の建物である事と、人家に近く南向きでお参りが便利な高台で、遥かに見える清浄な場所とされている。郡山市の国分寺跡は,堂前町如宝寺のあるところがそうではないかと言われているが、付近には堂前、堂後、鐘堂、達中場(塔頭)の地名ある。安積弘隆寺(天台宗)が在ったという。現在の如宝寺は江戸時代に善導寺と共に中町から移された。

国分寺=郡寺で国管理である。定額寺や勅願寺とも異なる。

私寺は貴族・豪族が一族の繁栄や幸福を願うためにスポンサーとなり建てたもので、13世紀になってようやく庶民対象の鎌倉仏教(偶像破棄)に発達する。

万葉集にある県内の地名を詠んだ和歌(西暦749ー759年雄略天皇の時代)

   安積山1、会津嶺1、安達太良3、 真野萱原1、松川浦1、計7

養老6年4月(西暦722年)陸奥百万町歩開拓令

   対外失政ー東北開発(例 明治の士族授産、昭和6東北開発)

根岸遺跡 いわき市

奈良・平安時代ノ磐城郡役所跡 大規模ナ建物跡ノ外蓮華文様ノ瓦・杯

関和久官衛跡 泉崎村

奈良・平安時代ノ白河郡役所跡 30棟建物跡・「白」・「郡」ノ墨書土器が出土

大和朝廷の東北経営の進展

大和朝廷は東北蝦夷を押さえる為、長い時をかけて飛鳥時代から東北陸奥を攻略している。日本海側は、蝦夷を懐柔して(647)越後に淳足柵を設け、(648)越後に磐舟柵を設置し(658-660)に渉り、阿倍比羅夫が水軍を率いて遠征(712)出羽国を設置(733)秋田城設置している。太平洋側は(724)に藤原宇合の遠征して陸奥国府鎮守府を多賀城に設置したが、蝦夷の抵抗は烈しく長い間何回も征伐を試みた。安察使大伴駿河麻呂・紀 広純陸奥守は大伴真綱・道島道楯・石川浄足と(780)伊治砦麻呂の乱をつぶしても、呼応する豪族は多く蝦夷のアテルイは戦略に優れた指導者で10倍もの遠征軍を破り、藤原継縄を征東大使に任じたがそれも効果無く藤原小黒麻呂や副将軍百済王俊哲が大部隊を引き連れて攻立てたが、戦果は作文通りとはいかなかった。大伴家持が(785)、多治府宇美(788)鎮守将軍、紀 古佐美参議でも収まらず、征夷大将軍坂上田村麻呂の二回は及ぶ遠征で出羽国と陸奥国の蝦夷を降伏させる。

その後小規模な蝦夷の挙兵がつづいて征夷大将軍文屋棉麻呂が遠征した。

坂上田村麻呂(758-811)弘仁二年没享年54才

応神天皇時代の帰化漢人 坂上苅田麻呂(永世禄)と阿久和姫の子が田村麻呂で、桓武帝の時代に宮中武官として蝦夷征伐を二回行っている。功により正二位中納言没後正一位大納言を贈られた。京都に田村町将軍塚がある。京都清水寺の観音信仰は有名。田村麻呂の子孫は、東北制定の基点として安達郡・常陸国・越後国・田村郡に居住した。

  得功ー永世・大功ー三世・中功ー二世・小功ー一世

  正二位=80町歩 正五位以上=春秋季節禄

田村麻呂に関する地名

福島県田村郡は、後年に藤原氏領となり田村庄司が置かれ、東国新皇と称した平 将門(神田明神)の子孫が、千葉県下総相馬から移住し、一族は居住地を、石川郡・安達郡(阿武隈川東岸)に残している。永正元年(1573)三春に城を移した田村清顕も平氏を名乗らず田村氏を名乗っている。

平 将門を守護神とした火雷天神=玉川村や火雷神社=三春町にある。

大隅川(阿武隈川)=大熊川・御代田の板滑(田村麻呂の渡河地点)・徳定の産清水(田村麻呂の産湯を使った水、百日咳に効くという)・丈六=一丈六尺の阿弥陀仏・田村大元神社=田村町山中(大元明王奉紀宮中修法正月七日)・大滝根山=大滝丸(大高丸)征伐・船引=田村麻呂の戦死者葬儀場(舟=棺)・赤木=田村麻呂が戦勝祈願した阿尺国造古墳・高柴木馬=田村麻呂の軍馬(外来種馬か?日本在来馬は駒)伝説・宇津峯=星ケ城・東堂山=観音毘沙門不動勝軍地蔵・小松神社=常葉町・大鏑矢神社=船引町・明石神社=船引町堀越・堂山王子神社=船引町七郷・入り水観音=滝根町・堂坂観音=冨久山小泉・田村森神神社=手代木・矢の根清水 等由来の名が多く存在する。

蝦夷征伐は二回来ている。胆沢城・柴波城を作ったと言われているが衣川(奥六郡蝦夷地)以北には行ってない。

●坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)

 758~811(天平宝字2~弘仁2)平安初期の武将刈田麻呂の子。その家は東漢(やまと)麻呂は「赤面黄鬚」(せきめんおうしゅ,赤ら顔に黄色のひげ),腕力人に優れ,怒ってはったとにらめば猛獣も倒れるが,にっことほほえめば赤子もなつくと称された。桓武天皇はその将帥の器たるを認め,折から進行中の北辺のエゾ経営戦の指揮官に起用した。田村麻呂は初代征夷大将軍大伴弟麻呂のもとで副将軍として,自ら10万の兵をひきいて794年(延暦13),胆沢の会戦に大勝,803年(延暦20)には自ら征夷大将軍として,再び胆沢に出兵,完全勝利をおさめ胆沢城を造り,鎮守府をここに移し,北方経営の基地とした。エゾ経営はかれのもとで最終的に安定するので,かれは「北天の化現」(北方守護神の生まれかわり)と仰がれた。

    〔参考文献〕高橋崇『坂上田村麻呂』吉川弘文館

       平安時代以後の郷土の歴 史   (平安時代 ( C794-C1192) 約400年間)

平安時代の区分

平安1期=8世紀末~0世紀初 「古代律令制」の奈良時代から地方支配拠点の郡司に変動没落と、藤原氏の他氏排斥による政界支配が進む。九世紀後半に唐風文化から国風文化に昂揚する。

平安2期=10世紀初~11世紀後半 藤原北家による摂関政治が展開し、この時代を「王朝政治」といわれ、女系尊属優位の一部貴族に政治経済格差が生まれ支配構造が変わる。

平安3期=11世紀後半~12世紀 政治は斜陽摂関家から院政期に変わる。

上皇(院)が政治の実権を握り父系尊属優位となる。源平両氏の起用が武士集団の棟梁ができ、貴族集団の棟梁である上皇(院)との対立となる。

摂関政治と家の風習

藤原氏は代々自家の女を後宮に入れ、その所性を皇位につけ、自らは外戚として摂関の地位を確保した。摂関は天皇の最も親しい身内として、政権を担当した。当時の結婚は男性が女性の家に住み込む形で行われるのが一般的で、年頃の娘を持つ親は適当な婿を物色し男が同意すれば文通交際ができる。男は夜密かに女のもとに通いて泊り朝は我が家に帰る。毎夜是を繰り返し両者同意しれば「露顕」(トコロアラワシ) と言って女の家で男に餅を食べさせ女の一族と対面し女の家に住み着くのが一般的であった。衣食住は女の世話になり、子が生まれると妻の父母が養育し夫婦生活は妻の一家により支えられる。男は結婚式は一回とは限らず他の家の女とも同じようにしてそれぞれに子は女の許に託される。このように親は息子夫婦と暮らさずに娘夫婦と同居して孫を養育するので、異母兄弟は成長期に離れ離れに暮らすので感情の交流は薄かったと言う。天皇の結婚は貴族の娘が内裏に参入するから嫁入りの形に見えるが、諸家が内裏の中に局をもうけ才識兼備の女を付け娘をおくりこんで貴族と同様な婿取婚の風習であると言える。

平安朝の東北政策と東北地方の荘園所領

天皇領ー白河・安積・安達

朝廷領ー白河・岩城

摂関家領ー宮城・山形

興福寺領ー小手保

貴族領ー岩瀬郡・田村庄等がある。

所領管理荘園の管理は、国司を遥任制で決め、国司はその配下の代官に支配させた。 委任を受けて財武力を付け中央政権の意に反抗する地方豪族単一政権に対し、平安朝は蝦夷征伐を命じ「夷を以って夷を征す」政策を再々実行している。しかし、国司は転んでも只起きないで益々財力戦力を貯えて行く。地方豪族は是により不輸地の私有田 墾田・治田・門田を所有し、地方の社会不安、輸送手段不安、年貢促進確実にし治安維持、開拓等を任され財力戦力は豊かになってゆく

安積八郡より安達郡 延喜6年(西暦906)に分置

   小野 (小野町)、   丸子 (船引町)、

  小川 (守山)、    芳賀 (笹川御代田)、    

  葦屋 (郡山大槻)、

  佐戸 (小浜針道)、  入野 (岳)

小野小町 平安前期の女流歌人

秋田美人の祖といわれる小野小町について、福島県でも次の伝説が有り、小野タカムラが陸奥開発のため赴き、地元の長者の娘メズラコとの間に小町が生まれたと言う伝説が田村郡小野町にあり、小町にまつわる史跡が数多くある。

謡曲にある小野小町

  草 紙 洗= 小野小町と大伴黒主の和歌合わせ 京都京都御所内裏

  通 小 町= 深草少將恋い人もとに99夜通う 京都山城國八瀬市原野

  卒都婆小町=老いた小野小町が僧に昔を語る    京都山城國桂川のほとり

  関寺小町= 老衰の小町を関寺に招き慰める 滋賀近江国関寺

  鸚鵡小町= 老女小町鸚鵡返しで和歌を返歌 滋賀近江国関寺辺

平安の度量衡

この時代の度量衡の面積単位は、大らかな分数表現で半分(1/2)の外、「大半・小半」又は「太半・少半」ともいう。略して大・小とも記される事もある。一反は360歩 半は180歩 大は240歩 小は120歩 と大は2/3をさし、小は1/3を表す。

田地の一辺の長さを「尺・寸・分」でなく「尺・分・寸」と異形の形を用いている。小数(コカズ・セウスウ)=1以下の数量を表す単位は、「分・厘・毫・糸・忽・微・繊・沙・塵・埃」でなく「分・毫・厘」が普通で「稲何束何把八分六毫」のように表した。

多田満仲

源氏の祖多田満仲

源平の時代が近づいてきたので、ここで源氏の祖であり、摂津国に縁の深い多田(源)満仲(?―997)について簡単に触れておくこととする。

 源氏は複数の天皇が、皇子を臣籍に下す際に賜った姓である。中でも嵯峨源氏・清和源氏・宇多源氏・村上源氏が有名であるが、多田満仲は清和天皇の流れを汲む清和源氏の出である。清和源氏は、清和天皇(850―880)の第六皇子であった貞純親王の長男経基が源の姓を賜ったのが始まりとされる。なお、多田満仲は経基の子であった。

摂関家の走狗

当時の武士階級の社会的地位は極めて低く、その為、満仲はしばしば貴族達におもねる行動をとっている。969年(安和二年)に起こった安和の変では、藤原一族の意を受けた満仲が左大臣源高明(914―982)に皇太子廃立の陰謀ありと密告し、源高明はこのため大宰府に左遷され、藤原氏が政権を掌握することに成功している。また、後述する花山天皇の出家騒動でも藤原兼家の 意向を受け、警護役兼お目付け役を買って出ている。

このように、満仲の行動からは、後世の武士道とは全く相容れない狡猾な人物像が浮かび上がってくる。武士階級が成り上がって いく為には、摂関家の走狗とならざるを得なかったということか…。

しかしどうも、『告げ口』というものには極めて卑怯なイメージがある。時代は下って1177年(治承元年)、京都大文字山西麓にある鹿ヶ谷で行われた平家討滅の密議を平清盛に密告したのも、満仲から七代目の子孫に当たる多田幸綱であったというから情けない。行綱は当時多田源氏の統領であったが、源氏の統領が平家を討つ計画を自分で壊してどうするのかと言いたい。

 この密告により、密議に加わっていた後白河天皇の近臣であった僧西光も捕えられたが、こちらのほうが余程男らしい。西光は捕えられた後もなお清盛を罵ったため、拷問の挙句に口を裂かれ、朱雀大路で首を刎ねられている。そして密告されて捕まった他の者もそれぞれに酷い刑が待っていた。歌舞伎の題材として有名な俊寛は、この時鬼界ヶ島に流されている。これが世に有名な鹿ヶ谷事件である。

多田行綱はこうして平家方に立ったが、平家が追討されると今度は源氏方に戻った。機を見るに敏な行綱は、一の谷の合戦の際、源義経とともに平家と戦って武功を挙げている。イソップ物語の蝙蝠も、ここまでひどくはなかったが…。

多田御家人と多田神社

話を満仲に戻そう。多田満仲は多田新田城を中心に、川辺郡・有馬郡一帯に勢力を伸ばし、この範囲の荘官や地方豪族は多田御家人として多田満仲の配下になっていった。三田地方もまた、この頃は源氏の支配下にあったと言っていい。この頃、源頼信(968―1048、満仲の三男で河内源氏の祖。足利尊氏も新田義貞も源頼朝も共に河内源氏の出であり、この頼信の末裔である。)は蓮華寺を現在の長尾町宅原に建立している。即ち、荘も多田源氏の支配下であったのだ。高平という地名も、満仲の後裔である源高平の領地だったところから来ているとされる。現在の西宮市山口町にある丸山を居城とした山口氏も多田御家人であり、その麓の金仙寺はその菩提寺であった。

 多田満仲の長男が、酒天童子退治で有名な源頼光(948―1021)である。そして酒天童子退治の際に頼光に従った家来の一人が坂田金時であり、あの『鉞担いだ金太郎』の成長した姿とされている。

武勇に優れ、数々の伝説を残した源頼光も一方で摂関家への気配りは忘れておらず、藤原兼家六十歳の祝賀の折、馬を六十頭贈って驚かせたり、次の権力者藤原道長が土御門邸を新築した際には家具一式を贈ったりして涙ぐましい努力をしている。豪傑伝説で有名な源頼光のもう一つの顔である。

現在の川西市多田院字多田所にあるのが多田神社である。

 多田神社はその昔、多田院と呼ばれ、多田満仲がこの地に居を構えるのとほぼ同じ頃(970年(天禄元年))、天台宗の大寺院を建てたのがその始まりとされている。その後、986年(寛和二年)、満仲はこの多田院で出家することになる。法名を満慶という。彼の死後、この地に廟所も作られている。

平家の天下となるや、平清盛によって丹生山明要寺が興され、1180年(治承四年)に福原に都が移されると多聞寺を新都の守護として再建するなど、平家の影響力は世を覆い、有馬郡も平家色に染められていった。多田神社は源氏の祖である満仲の菩提寺であることから、平家が天下を握っていた時期には相当荒廃していたという伝承も残されている。

 源頼光

 土蜘蛛と戦う源頼光(歌川国芳 江戸時代)源 頼光(みなもと の よりみつ、天暦2年(948年) - 治安元年7月19日(1021年8月29日))は、平安時代中期の武将。俗にみなもと の らいこうとも。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘。幼名、文殊丸。妻は伊予守藤原元平娘、中納言平惟仲娘、能登守慶滋保章娘など。子は頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、嫡子は頼国。娘婿に藤原道綱。歌人の相模は養女とされる。 満仲の長子で、清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に大和源氏(奈良県宇野)の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏(大阪府羽曳野市)の源頼信がいる。

略 歴

生誕地は不明だが、本拠地の多田であるか、父の満仲は天延元年(973年)頃には平安京の左京一条に邸を持っていたことから、満仲邸であるともされる。若年の経歴は不明。同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられている。

 986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。992年には備前守に任官しているが、都に留まっており遙任であったと思われる。東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には、関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を送っている。

 990年、関白兼家の葬儀に際して、藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられる。長保3年(1001年)には美濃守を兼任、このときは遙任であったことを示す記録も無く、任国へ赴いていたと思われる。同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、親交があったと思われる。また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。

 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。没年は68、あるいは74。

人 物

土蜘蛛退治の場面父の満仲は摂津国多田に源氏武士団を形成し、頼光はそれを継承し、自らは摂関家の警護なども務めているなど武士としての性格も否定できないが、頼光は藤原摂関家の家司としての貴族的人物と評される傾向にある。

 一方で、後世に成立した『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』、室町時代になって成立した『御伽草子』などで、丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られる。説話では、母の一族の嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王や、藤原保昌などの強者の家臣がいたと言われ、頼光が実際に郎党を従えていたことを反映しているとも考えられている。また、古典『平家物語』では、精兵の一人として頼光の名が挙げられているなど、頼光に武勇的人物を求める傾向もある。

八幡太郎義家

父親の源 頼義は平喜元年(1053)陸奥守に任命(任期4年)され宮城県多賀城に本拠を置き親子は赴任する。頼義の長男で八幡太郎義家は石清水八幡宮で元服(七才)した。武家棟梁として平喜4年(1053)源 頼義から陸奥守引継ぎ任命される。奥州奥六郡は、胆沢城を本拠に、安部頼良(頼時)が中央政府外の独立地域として単一政権支配していた。源 頼義親子は中央政府の命により、蝦夷征伐を永承六年(1051)前九年の役を起こして善戦苦戦を繰り返し講和停戦した。平喜5年(1054)には、阿久利河合戦 厨川柵 河崎柵の合戦に敗走し多賀城も占領され、親子六人、福島県内を5年に亘り逃げまわる。兵募集・食糧確保・武器調達して再起し、康平五年(1062)出羽清原武則の助けを借りて安部氏を倒す。後三年の役(1083-1086)に介入し再度陸奥守となったが、朝廷から帰任を命ぜられ京都へ戻ったけど功認められず伊予守に左遷される。

 清和天皇=貞純親皇=源 経基=満仲=頼光(摂津源氏)=頼信=頼義=義家

        (臣籍降下)         |=頼親(大和源氏)

                       |=頼住(河内源氏)

福島県内で八幡太郎に縁の有る地名

郡山市地内では、休み石・御霊櫃峠・石筵(八幡太郎が茣蓙を敷いてやすんだと言われている)・八幡岳・鞍掛山・高旗山・額取山(安積山=八幡太郎が元服した地)・虎丸(八幡太郎の食糧調達に応じない郡山の虎丸長者は焼き討ちされ杉田へ逃げた伝説)

 虎丸長者ー郡山(吐迦羅丸)

 中丸長者ー多田野(葦屋)

 花輪長者ー針生

 朝日長者ー湖南(福良)

 駅長ー長者(頭に立つ人)田、畑、財宝を持ち地域支配、召し使い多数

 駅 雄野(泉崎)ー松田ー岩背ー葦屋ー安達ー岩湯日

 駅馬(ハユマ) 10匹 緊急用(兵乱、天変地変)現在の郡山市中町富士銀行付近にあった。 伝馬(テンマ) 5匹 官吏公用

有名な勿来の関(いわき市)に残っている、八幡太郎の和歌がある京都に帰る時詠んだ歌と言われている。源頼義も「夫木集」に安積逢瀬川の和歌を残している。安達郡東和町の木幡山の旗祭り(八幡太郎が安部氏と対陣した地)も有名である。

  陸奥守藤原登任(秋田氏の祖出羽を本拠)鬼切部(鬼首)で源氏を破る

  皇后御産による大赦奥羽支配 氏族共同体から惣領制に移る

源頼政

時代 平安時代末期

生誕 長治元年(1104年)

死没 治承4年5月26日(1180年6月20日)

改名 頼政、真蓮、頼円

別名 源三位入道

墓所 京都府宇治市平等院 岐阜県関市蓮華寺(首塚)ほか

官位 従三位、蔵人、右京権大夫、兵庫頭 内昇殿、備後権守、伊豆守

氏族 清和源氏・摂津源氏

父母 源仲政、藤原友実娘

兄弟 頼政、頼行、光重、泰政、良智 乗智、法性寺殿三河、皇后宮美濃

子   仲綱、国政、兼綱、頼兼、広綱 仲家、頼連、二条院讃岐ほか文学

源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将、歌人。摂津源氏の源仲政の長男。それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことなどから、源三位頼政(げんざんみよりまさ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。保元の乱、平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇る。だが、平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した。(以仁王の挙兵)

大内守護

頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。摂津国渡辺(大阪市中央区)を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵のようなもの)の任に就いていた。頼光は公家との交流が多いことから著名な歌人でもあり、その子孫たちも和歌をよくした。頼政もまた優れた歌人として後世に知られることになる。

 父仲政の頃から院と結びついた伊勢平氏の平正盛、忠盛が次第に台頭し、一方、摂関家と結びつき台頭していた河内源氏(頼光の弟頼信の系統)は同族の内紛を繰り返して勢力を後退させている。仲政は白河院、鳥羽院に仕え、一定の信任を得ていた。[1]。優れた歌人であり、歌集『蓬屋集』がある(一部現存)。

 青年期の頼政について史料は乏しいが、父の仲政が下総守に赴任した時に、これに同行している。保延年間(1135年-1140年)頃に家督を譲られ、保延2年(1136年)に従五位下蔵人に補任された。頼政は鳥羽院に仕え、寵妃の美福門院や院近臣の藤原家成と交流を持っている。

保元・平治の乱

鳥羽院政末期、後白河天皇と崇徳上皇が対立、鳥羽法皇が重篤に陥った際、美福門院へ頼りにすべき武士として名を挙げた一人に頼政の名がある。鳥羽法皇崩御後、保元元年(1156年)に保元の乱が起こると、頼政は天皇方に与し、勝者の側となれた。河内源氏は為義と嫡男の義朝が分裂し、為義とその子供の多くが処刑される大打撃を受けた。摂津源氏でも頼政の従兄弟の子である頼憲が処刑されている。

 保元2年(1157年)には頼政の兄弟の頼行が、突然罪を受けて流罪となり自害する事件が起きた。頼政は頼行の子の宗頼、正綱、兼綱を養子にしている。また、経緯は不明だが、保元の乱以前に関東で義朝の嫡男義平と戦い討ち死にした義賢の子の仲家(木曾義仲の兄)を養子にしている。保元3年(1158年)、頼政は院の昇殿を許されている。

 乱後の処遇に不満な義朝は後白河上皇の近臣の藤原信頼と結び、権勢家の藤原信西とこれと結ぶ平清盛に対抗。平治元年(1159年)12月、清盛の熊野参詣中にクーデターを起こして信西を殺害し、後白河法皇と二条天皇を内裏に確保して政権を掌握した(平治の乱)。大内守護の任にある頼政はとりあえずは京都を占拠した義朝・信頼に与するが、清盛が調略により上皇と天皇を内裏から脱出させて六波羅の陣営へ迎えると、独自の行動を取ることになる。

 12月27日、清盛と義朝の決戦が行われたとき、頼政は清盛に味方した。『平治物語』では義朝の軍勢が六波羅へ攻め込むため進撃する途中、六条河原のあたりで300騎を率いて控えていた頼政を見かけ、血気にはやる義平が「頼政は形勢を観望して裏切ろうとしている」と怒っていきなり頼政の陣に攻めかかり、その結果頼政は清盛に味方することになっている。結果的に頼政は勝者の陣営に属し、その一方で義朝は敗死して河内源氏は没落、事実上中央から消えてしまった。

平氏政権下での源氏の長老

頼政は平氏政権下で中央政界に留まり、源氏の長老の位置を占めた。仁安2年(1167年)、従四位下に昇叙。頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇、六条天皇、高倉天皇の三代に仕え、また後白河法皇の武力として活動している。安元3年(1177年)、院近臣の西光と対立した延暦寺大衆が強訴に攻めよせた時には平重盛らとともに御所の警護に出動している。

 歌人としても優れていた頼政は、和歌などの文化活動を行い、家集に「源三位頼政集」がある。また、晩年は官位への不満をもらす歌が多くなっている。頼政の位階は正四位下だが、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があった。70歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んでいた。治承2年(1178年)、清盛の推挙により念願の従三位に昇叙した。

 『平家物語』によると清盛は頼政の階位について完全に失念しており、そのため長らく正四位であった頼政が、「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという。

 史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時、頼政74歳。

 翌治承3年(1179年)11月、頼政は出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。

以仁王の挙兵

この頃、平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。治承元年(1177年)に鹿ヶ谷の陰謀事件が起きて法皇の関与が疑われた。そして、治承3年(1179年)11月、法皇と対立した清盛は福原から兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行、院政を停止して法皇を幽閉する挙に出る(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉と清盛の娘徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。

 これに不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子の以仁王(高倉宮・三条宮)である。彼は法皇の妹八条院暲子内親王の猶子となって皇位への望みをつないでいたが、安徳天皇の即位でその望みが全く絶たれてしまった。頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画する。

 挙兵の動機について、『平家物語』では仲綱の馬を巡って清盛の三男の宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。一方で、代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇、二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇、安徳天皇の即位に反発したという説もある[2]

 同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の子)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決める、だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱、兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。平氏打倒の意思を明らかにした。

 挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んでいたが、平氏の懐柔工作で延暦寺が中立化してしまう。25日夜、園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都(奈良)興福寺へ向かうが、夜間の行軍で以仁王が疲労して落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せた。

 26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も渡辺唱の介錯で腹を切って自害した。享年77。

 以仁王は脱出したが、追いつかれて討ち取られた。頼政と以仁王の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝、源義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。

 頼政の末子の源広綱や、仲綱の子の源有綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した源頼朝の幕下に参加している。

官 歴   ※日付=旧暦

保延2年(1136年)4月17日、蔵人に補任。6月13日、従五位下に叙位。

仁平3年(1153年)3月、美福門院昇殿を許される。

久寿2年(1155年)10月22日、兵庫頭に任官。

保元3年(1158年)10月2日、内昇殿を許される。

保元4年(1159年)1月28日、従五位上に昇叙。兵庫頭如元。この年、改元して平治元年12月10日、伊豆守を兼任。(伊豆守退任時期は不詳)

仁安元年(1166年)10月21日、正五位下に昇叙。兵庫頭去る。

仁安2年(1167年)1月30日、従四位下に昇叙。

仁安3年(1168年)11月20日、従四位上に昇叙。

嘉応2年(1170年)1月14日、右京権大夫に任官。

承安元年(1171年)12月9日、正四位下に昇叙。右京権大夫如元。

承安3年(1173年)1月19日、備後権守を兼任。

安元2年(1175年)2月5日、右京権大夫・備後権守両官辞任。

治承2年(1178年)12月24日、従三位に昇叙。

治承3年(1179年)11月28日、出家。

治承4年(1180年)5月26日、薨去。法名:蓮華寺建法澤山頼圓

伝 説

鵺(歌川国芳・画、江戸時代)古典『平家物語』には鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治の説話が記されている。

 それによると、近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」 と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。

 そのため此度も武士を警護につけるがよかろうということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった源頼政が選ばれた。そして深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れる。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪の早太(いのはやた)が太刀で仕留める。その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流したという。

墓 所

墓所は京都府宇治市の平等院。

 その他、頼政自害後に郎党の猪早太らが頼政の叔父山県国直の領地がある美濃国山県郡に首を持ち運び葬ったとの伝承がある岐阜県関市の蓮華寺や、郎党下河辺氏が主を祭った伝わる茨城県古河市の頼政神社(こちらにも頼政の首塚伝説が存在)などがある。

郎 党

頼政は摂津源氏の本拠地多田荘を伯父の系統が相続したのに対し、摂津国渡辺付近(現在の大阪府大阪市付近)を本拠としたとされ、同地に武士団を形成する渡辺党を郎党としたことが広く知られているほか、下総国の八条院領下河辺荘の開発領主である下河辺一族もその郎党としていたことが知られている。東国武士である下河辺氏との関係については、下総守に任じられた父仲政が頼政を伴い任国に下った際、下河辺荘の成立を背景に主従関係を結んだと考えられている。

子 孫

娘に歌人として知られている二条院讃岐がいる。

末子広綱の子孫には太田道灌、太田氏一族がいる。太田氏からは道灌の甥で扇谷上杉氏に仕えていた太田資家その子太田資頼。資頼の子には太田資時、太田資正らがいる。資正の嫡男に太田氏資、次男に梶原政景がいる。さらに、太田氏の子孫からは江戸幕府老中太田資始や幕末の水戸藩家老太田誠左衛門などが出る。

嫡孫宗綱(嫡男仲綱の嫡子)の子孫には下間氏がいる。下間氏は本願寺の重臣となり、戦国時代には一向一揆において中心的役割を果たし、さらに降って江戸時代には一族から池田重利が出て一万石を領し、大名になる。

養子兼綱の子顕綱は大河内氏を称し、江戸時代には知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が出る。

遺児(孫)の一人に伊豆冠者成綱(宗綱の兄弟)なる者あり、その子孫は但馬国木崎郡及川荘を継ぎ及川氏となるという。

甲斐の武田信玄の四名臣の一人とされる馬場信春の馬場氏もまた頼政の子孫であるという。

清原武則鎮守府将軍

康平6年(1063)出羽国清原武則を鎮守府将軍に任ぜられる。源 頼義は伊予守に源 義家は出羽守となる。永保3年(1083)義家は出羽守に再任後三年の役始まる。

  出羽国清原武則の子孫

           武則=秀則=直衡=成衡(直衡の養子 海道小太郎)

藤原清衡時代

奥州藤原清衡は平泉に本拠を置き代官、権官となり(選任制)以後約100年間奥州藤原氏の黄金時代が続く。

  藤原経清=

        |= 清衡=基衡=秀衡

  安部頼時女        (前九年の役で滅ぶ 戦利品)

        |= 家衡   (兄清衡に敗れ毛越寺に葬られる)

  清原秀時=

奥州藤原氏は、仏教信仰厚く 中尊寺は歴代三代の遺体が有名

一町仏を白河ー外ケ浜(青森)を建てる。 (福島県内にのみ現存石塔婆・浮彫三尊・石塔)

藤原清衡は摂関家の所領管理をうけて、平泉を開府し黄金、馬、絹など裕福な暮らしと仏教信仰厚く、平泉文化を生む。藤原基衡は康治2年(1143)鎮守府将軍に任ぜられ、藤原秀衡も嘉応2年(1170)平家より鎮守府将軍に任ぜられる。「陸奥話記」「後三年物語」によると左大臣藤原頼長と秀衡が高鞍・高玉・成生の年貢率あげを交渉した記録で六分に承諾したとある。京都えの往来は文物の移入輸出は、上り24日掛かったという。

秀衡当時福島の荘園所有は次の様である。

  白河=白河上皇領ー長福門院領ー平 重盛領

  岩瀬=左大臣藤原有仁領ー二階堂氏領

  石川=石川氏

  安積=平 頼盛領ー伊東氏領

  安達=興福寺領

  好島領 菊田庄 宇太庄 信夫庄司佐藤氏 標葉庄 本所(ホンジョ)ー元来の所有者

奥州合戦 (源 頼朝の奥州平泉藤原征伐 義経攻め )

文治5年(1189)7月19日鎌倉出陣・8月8日~10日厚樫山合戦・8月23日平泉入城・10月22日鎌倉帰陣。 

吉書始めによると県内の勢力関係は次の通り。

  白河=結城朝光

  岩瀬=二階堂氏(長福寺)

  安積=工藤祐経(伊東)

  安達=小野田氏(安達氏松下禅尼ノ実家トナル)

  信夫=佐藤氏安堵

  伊達=中村氏(伊達氏)

  会津=佐原義重(半在家、葦名・黒川・猪苗代氏ノ祖) ・

  南会津=河原田氏・

  いわき=岩城氏

  宇田行方=相馬氏(千葉師常ノ祖)

  田村=藤原仲能安堵(代官田村庄司)

  石川=石川氏安堵

文治5年(1189)12月26日 後白河上皇より源 頼朝は奥羽地下管領職を任命される

守護地頭制 郡地頭(本家総領) = 村地頭(子孫分布)1反あたり 5升の兵糧米

石川氏は八幡太郎の子孫といわれ、頼朝の藤原攻めの折白河関を確保した功績が認られた。

  恵日寺跡 磐梯町

  荒田目条里跡遺跡 いわき市

  松野千光寺経塚 喜多方市

源義経

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源義經 凡例

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期

生誕 平治元年(1159年)

死没 文治5年閏4月30日(1189年6月15日)

改名 牛若、遮那王、義經、義行、義顕  別名 九郎、判官、廷尉、豫州

戒名 通山源公大居士

官位 左衛門尉、検非違使、従五位下、伊予守

氏族 清和源氏義朝流(河内源氏)

父母 源義朝、常盤御前

兄弟 義平、朝長、頼朝、義門、希義、範頼、全成、義円、義経、女子(一条能保室)、廊御方、能成、女子(常磐の娘)

妻 正室:河越重頼の娘(郷御前)

静御前、平時忠の娘 子 娘、娘(源有綱室)、男児

源 義経(みなもと の よしつね、源 義經)は、平安時代末期の河内源氏の武将。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一支流 河内源氏の棟梁 源頼信の流れで代々東国における武家の棟梁を輩出した家柄。仮名(けみょう)(輩行名)は九郎、実名(諱)は義經(義経)である。

 河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平家打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

生 涯   文中の( )の年はユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。

出 生

 鞍馬寺清和源氏の流れを汲む河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄今若、乙若とともに大和(奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と2人の兄と母の助命の許しを得た。

 後に常盤は公家で院近臣の一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。そして、11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知った。鞍馬山の牛若丸伝説(鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院へ僧や僧兵として落ち延びた源義朝の郎党たちであろう)は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。

 遮那王は成人するに至って父を滅ぼした平家に対する復讐の念を抱き、16歳の時に鞍馬寺を出奔する。自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服したとする。(『平治物語』では滋賀県竜王町で元服したとある)儀式は熱田神宮にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名(じつみょう)を義経とした。藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。

治承寿永の乱

 黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。

 平家(伊勢平氏)を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を破り、頼朝の代官として入京した。

 この間に平家は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、鎌倉軍は一ノ谷の戦いで平家軍に大勝する。『平家物語』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『吾妻鏡』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。

 一ノ谷の合戦後の元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。

 範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平家の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平家を敗走させた(屋島の戦い)。

 範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して平家を滅ぼした。義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻した鏡璽を奉じ京都に凱旋する。

 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている(ただし、よく義経の卑怯な戦法として語られる水夫と船頭を射殺した話は、『平家物語』でも義経が命令したという場面はなく、また史料にも無い話である)。

 戦後は頼朝の代官として京にある時は河内源氏重代の館であった堀川御所に住まった。

頼朝との対立

 平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

 元暦2年(1185年)4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。

 「私は兄上の代官として、朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の仇を討って名誉を回復しました。当然賞賛されるべき所を、思わぬ讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく涙にくれております。生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まることはありませんでした。諸国を流浪し所々に身を隠し、身分の低い者に仕える事もありました。しかし機は熟し、平家一族の追討のため、上洛し木曾義仲を誅し、平氏を傾けるため、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも厭わなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるがために他なりません。五位検非違使に補任されたことは当家の名誉であり、希なる出世です。他に何があるでしょうか。これを兄上に取り次いで下されば、貴殿(大江広元)は必ず一門と子孫を栄えるでしょう。」

 義経が頼朝の怒りを買った原因は、許可なく官位を受けたことのほか、平家追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、頼朝への子細の報告もなく独断専行で事を進めたこと、範頼は九州、義経は四国の支配を命じてあったにもかかわらず、義経が壇ノ浦の合戦後に範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事による。そして平家追討の立役者である義経の戦功が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。

 特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた(御門葉)。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。

 結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。

謀 叛

 義経の一行が逃げ込んだ吉野山10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、これを梟首し同じく頼朝と対立していた叔父の源行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

 29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼って京を落ちた。義経一行の船団は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。

 難破した義経は郎党や愛妾の白拍子の静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族、寺院勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝が、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。

 京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃国を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。

最 期

 高舘義経堂から見た北上川平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡を殺害。そして閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。

 館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

 泰衡は義経の首を差し出し、先に殺害した弟頼衡と同じく義経派であった別の弟忠衡も殺し、頼朝に助命を願い出る。しかし鎌倉は奥州追討に乗り出し、逃亡した泰衡は家人に裏切られ殺害された。

 義経の首は43日かけて、泰衡の弟・高衡に護衛されて鎌倉に送られた。首は、美酒に浸けて運ばれたものの、折からの暑気で腐敗し、誰の首かわからなくなったという。このことが義経不死伝説(後述)を生む一因となっている。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。

 伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、栗原市栗駒沼倉の判官森に胴体が埋葬されたと伝えられる。

系 譜

 義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父為朝が鎮西八郎という仮名(けみょう)であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。

 源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

 妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身の為に差し出したとされる時忠の娘がある。子には、奥州への逃避行中に誕生し衣川館で死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児、伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)の妻になった女子の3人が確認される。

容 貌

 義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。義経は2年近く筆まめな京都の貴族社会と接しているが、容貌については良くも悪くも書かれたものはない。ただ、身長に関しては大山祇神社に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。書籍などでよく掲載されている中尊寺所蔵の義経画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものである。戦国時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。

 義経の死後まもない時代にまとまったとされる『平家物語』では、義経の風貌に関して平氏の武士、越中次郎兵衛盛嗣が「九朗は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九朗は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べられている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである。この盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。

 義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と描写されている。その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』には「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である。」との記述がある。(『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く)『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている。同書では母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。

 江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。

人物像

 伝説の類を省いた史料のみでまとめた人物叢書『源義経』(吉川弘文館)の著者・渡辺保氏は、義経について「戦はたしかに強くて巧かった。一ノ谷、屋島、壇ノ浦で大功を立てた事は言うまでもない。機敏ではあったが猪突ではなかった。万策を講じた上での決戦である。一ノ谷の合戦後、鎌倉の瀬戸内海の平家に対する大包囲作戦は、範頼軍に属した東国武士の厭戦的傾向を呼び、軍を停滞させてしまった。そこで都に待機させられていた義経の機敏な行動がなければ、鎌倉の計画は決して順調に運ぶことは出来なかったのである。

 人柄については、率直であり一本気である。当時の武力一途な鎌倉武士に対し、義経には協調性があり柔軟性があり、人に愛される素直さを持っていた。同じ時代を生きた九条兼実が書き残したように、「勇と仁」においては当代抜群の人物であった。果敢な用兵作戦を行って戦功をあげ、戦後処理にあたっては軍規を厳しくして敗者にも情義ある扱いをする。しかし、当時の複雑な公武の間で賢明な立ち廻りは出来ないし、兄頼朝に代わって天下を支配しようとの画策も抱き得ない。功を賞されれば喜んで受け、官位は一門の名誉と単純に思い込んで深謀には及ばない。動作は敏だが読みは浅かった。「智」においては、良かれ悪しかれ欠けたところがあった。

 このような義経の性格が、政略好きの貴族だけでなく、静御前や武蔵坊弁慶の前身となった僧侶達から愛されたのであり、またそれ故に、頼朝にも貴族にも法皇にも利用されるだけ利用され、結局自ら墓穴を掘る事になった。そこに義経の悲劇があった。」と評している。

 源九朗義経が確かな歴史に登場するのは、義経が22歳の冬から31歳の夏(治承4年(1180年)10月~文治5年(1189年)閏4月)までのわずか9年間である。そののち何百年の間にあらゆる伝説が生まれ多くの物語が作られたが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。

 奥州にいた義経は頼朝が伊豆で挙兵した事を知ると、すぐにでも進発しようとするが秀衡は強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立った。秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。(『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日)

養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経は「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。(『吾妻鏡』)

寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である。」と強行に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。(『玉葉』)

 元暦2年(1185年)2日16日 屋島へ出陣する義経を引き留める為に、宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか。」と訊くと、義経は「特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う。」と答えて出陣した。『吾妻鏡』は「非常に強い兵士と言うべきか」と書いている。18日、船で海を渡ろうとするが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない。」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。

 壇ノ浦の合戦後に届いた梶原景時の書状に「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにも関わらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承ってるものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います。」とあり、これを受けて「義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている」と書かれている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「見る者皆涙を流した」とあり、義経への批判と哀惜の両面が伺える。(『吾妻鏡』)

 義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録に「源延尉(義経)は、尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物」とある。 頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにも関わらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい。」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。(『玉葉』・『吾妻鏡』)

 追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。頼朝派の公家・九条兼実は、義経の平穏な京都退去に対し「都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか」「義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものである。嘆美すべし、嘆美すべし」と褒め称えている。

郎党その他

武蔵坊弁慶/佐藤継信/佐藤忠信/伊勢義盛・堀景光/亀井重清・常陸坊海尊・鷲尾義久・駿河清重・鎌田盛政・鎌田光政・金売吉次

伝 説

 義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・月岡芳年による版画優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき、判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い)というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

 義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川合戦での弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。 

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

不死伝説

 後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。

 義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。

義経=ジンギス・カン説

 この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする『義経=ジンギスカン説』である。

 この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』(偽作者は日本人)が珍本として喜ばれたりした。

 このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

 大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。

 こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、このジンギスカン説も領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の気運と共に生み出された時代の産物であった。(伝説の詳細については義経=ジンギスカン説を参照)