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夢は故郷をかけ巡る-花泉歴史散歩

2018.03.14 04:43

https://www.tbgu.ac.jp/faculty/pm/kunimi-terrace/kunimi-blog/18934 【夢は故郷をかけ巡る-花泉歴史散歩】  より

総合政策学部教授 貝山 道博

昨夏の暑い最中、幼友達の葬儀に参列するため、久し振りで故郷「花泉(はないずみ)」(現在の岩手県一関市花泉町の中の旧花泉村)を訪れた。葬儀が執り行われたお寺は丘陵地にあって、広々とした田園を挟んだ向こう正面に母校花泉小学校を望むことができた。そのとき、小学生の頃よく登って遊んだ学校の裏山(海抜89m)が何故か非常に大きく見えた。

そのことが気になったので、家に戻りすぐにインターネットで調べてみたところ、思いも寄らないことが続々出てきた。あの山にはかつて「二桜城(におうじょう)」と呼ばれた城があった。そう言えば、皆が「館山(たてやま)」と呼んでいた。小学校の生徒会名は「二桜生徒会」であった。その他にも思い当たる節がいくつかある。

二桜城の謂れには次のようなものがある。

<その1> 延暦年間の796年から802年の頃、陸奥按察使・陸奥守・鎮守将軍(延暦15年(796年)就任)及び征夷大将軍(延暦16年(797年就任))としての坂上田村麻呂が、陸奥の奥六郡(今の岩手県の南部・中部地方)を支配していた母禮(モレ)・阿弖流為(アテルイ)と戦った時の陣所、弘仁2年(811年)その後を継いだ征夷大将軍文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)の陣所でもあった。坂上田村麻呂が仏殿を寄進した京都の清水寺には、母礼・阿弖流爲の慰霊碑(1994年岩手県の有志が建立)がある。

<その2> 文治年間(1185年~1190年)の頃には、奥州藤原氏の家臣照井太郎高春の居館であった。照井太郎高春は、奥州の都平泉一帯の用水路「照井堰用水」の開発者である。現在、一関市の「照井堰」は、「安積疎水」(福島県郡山市・猪苗代町)、「長野堰」(群馬県高崎市)、「足羽川用水」 (福井県福井市) 、「明治用水」(愛知県安城市、岡崎市、豊田市、知立市、刈谷市、高浜市、碧南市、西尾市)及び「満濃池」(香川県満濃町)とともに、インドのニューデリーに本部を置く「国際かんがい排水委員会(ICID)」に「世界かんがい施設遺産」登録を申請中である。

<その3> 延暦2年(1309年)葛西清秀は本吉郡大谷郷から陸奥国磐井郡流郷清水村に移り住み、二桜城を築いて、「清水」(しみず)を称した。その後清水氏が代々住んでいた。奥州葛西氏本家の居城は石巻市日和山の石巻城にあり、室町末期には登米町の寺池城に移ったと言われている。葛西清秀の祖、葛西清重は、文治5年(1189年)の「奥州征伐」の功で源頼朝から胆沢・江刺・磐井・気仙・男鹿・本吉の諸郡を得た。その子孫は登米・桃生群も併せて領した。今の宮城県北東部と岩手県南部一帯が葛西家一族の領地であった。言うまでもなく、清水家は葛西家の分家筋になる。

<その4> 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の「奥州仕置」により葛西家が亡びると、清水氏も城を去った。葛西家の遺臣たちは御家の再興を願い、門前にサイカチの木を植え、同志の目印としたとされている。「カサイカツ」を合言葉に再起を誓ったとのこと。そう言えば、当時住んでいた我が家の近くにある大百姓家さんの門前にサイカチの大木があったのを覚えている。

<その5> 伊達正宗が今の宮城県全域及び岩手県南部を領有してからは、正宗の叔父で留守家の当主留守政景(政景は留守家の婿養子)が文禄年間(1592年~1596年)二桜城に住んでいた。留守政景は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、伊達政宗の命により伊達軍総大将として、上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援に赴き、撤退する上杉軍を率いた直江兼続と交戦した(山形では有名な「長谷堂城の戦い」)。後に政宗より伊達姓に復することを許され、慶長9年(1604年)一関2万石を与えられた。一関城を居城としたが、3年後59歳で死去した。

<その6> 伊達騒動で有名な伊達兵部宗勝(正宗十男)が一関藩主であった頃には、二桜城はすでになくなっていた。留守家が一関から金ヶ崎(今の宮城県栗原市金ヶ崎町)に所替えになった時の1616年に廃城になったと伝えられている。ちなみに、伊達兵部宗勝失脚後、正宗の正室愛姫(めごひめ)の実家(福島三春の田村家(ルーツは坂上田村麻呂との伝えあり))を継いだ田村建顕(宗永)が延宝9年(1681年)に岩沼より移封された。田村建顕は元禄赤穂事件(元禄14年(1701年))で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野内匠頭長矩を藩邸に預かり、丁重な扱いのもと立派に切腹させたことでも知られる。

花泉小学校の裏山「館山」(たてやま)は現在では清水公園(所在地は一関市花泉町花泉字上館)として整備され、住民の憩いの場となっているようである。当然桜の名所でもある。私がいた頃(半世紀以上も前になる)は天辺に八幡神社があるだけであった。神社の北側下方に花泉の地名の由来となった湧水「花立泉」(かりゅうせん)があるのだそうだ。当時はそんなことも知らなかった。

この城は清水氏が住んでいたからか、「清水城」とも呼ばれたそうであるが、かつて城下町であったと思われる地域(部落程度の集落)を今でも「清水」(しみず)と言う(館山の湧水に因んで「清水」だという説もある)。しかも住所は何と字「町(まち)」である(例えば、私の友人の住所は、「岩手県一関市花泉町花泉字町」)。ちなみに、この字町から江戸時代に算道家・和算家として活躍した千葉胤秀(1775年-1849年)が出ている。千葉氏のルーツも源頼朝の奥州征伐後今の千葉県から今の宮城県や岩手県に移り住んできた東国武士だ。千葉氏の名前に「胤」がつくのが貴種だと教わったことがある。そう言えば、高校の同級生の千葉良胤君はお公家様のような容貌をしていた。

現在花泉町の中心市街地は館山から遠く離れたJR花泉駅の周辺にある。館山に上ると、花泉駅を含め旧花泉村の全貌を掴むことができた(花泉町は昭和30・31年花泉村を含む7つの村が合併してできた)。城を築くには格好の場所だったことがわかる。

館山の麓を宮城県栗原市金成(かんなり)町(源義経を支えた「金売り吉次」の居館跡と伝えられている古社金田八幡神社がある町。井上ひさしの『吉里吉里人』にも登場)から発する「金流川(きんりゅうがわ)」が流れている。金流川沿いの一画には「金森(かなもり)」という部落があり、そこには「小金森(こがねもり)」という名字の人が何人か住んでいた(「小金森は岩手県一関市花泉町花泉の小字の金森から発祥。同地にいた神主が金を少ししか持っていなかったことから「小」の字を冠したと伝えられている」『日本姓氏語源辞典』より)。館山及びその周辺には、「歴史」の痕跡が多くある。

子どもの頃の遊び場でしかなかった小学校の裏山がかくも沢山の歴史を抱えていたことに驚いている。そこはまだまだ多くのことが秘められていて、ミステリー・ゾーンのように思える。近いうちに館山及びその周辺を探訪し、歴史の痕跡を一つ一つ辿ってみたいと思っている。