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4 宮城県の地名

2018.03.14 05:14

http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei02.htm#%EF%BC%91%E3%80%80%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%BC

【4 宮城県の地名】 より

 

(1) 栗駒(くりこま)山

 

 栗駒山(1,628メートル)は、岩手・宮城・秋田の三県にまたがる二重式成層火山です。山頂部は、岩手県と宮城県の境にあり、その北西側には馬蹄状の外輪山があり、その中に今も硫気を吐く中央火口丘の剣岳があります。

 栗駒山の名は、宮城県側の呼称で、岩手県側では、この山を水源とする磐井川に多量の酸性水が流入するところから、須川(酸川、酢川。すかわ)岳と呼び、秋田県側では、この山から朝日が昇るところから、大日岳と呼んでいます。

 もとは駒ケ岳でしたが、近くに岩手県和賀郡の駒ケ岳(1,130メートル)があるので、宮城県栗原郡の駒ケ岳の意で栗駒山としたという説がありますが、はるかに高く大きい栗駒山が小さい山に名を譲るのは不審です。

 この「クリコマ」は、マオリ語の

  「ク・リコ・マ」、KU-RIKO-MA(ku=silent;riko=wane;ma=white,clean)、「欠けた月のような(馬蹄形の外輪山を持つ)静かで清らかな(山)」

の意と解します。

 なお、全国に数多く分布する駒ケ岳の「コマ」は、マオリ語の

  「コマ(ン)ガ」、KOMANGA(elevated stage for storing food upon)、「高床の食料倉庫(のような山)」(NG音がG音に変化して「コマガ」となった)

の転訛と解します。

 

(1-2) 栗原(くりはら)郡・迫(はざま)川

 栗原郡は、古代から現代までの郡で、北は岩手県磐井郡、東は登米郡、南は遠田郡、志田郡、玉造郡、西は玉造郡から秋田県雄勝郡に接しています。『続日本紀』神護景雲元年11月条は「陸奥国栗原郡を置く。是はもと伊治(これはり)城(「伊治(これはり)」については、古典篇(その十六)の249H18伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の項を参照してください。)なり」とし、伊治城は続紀同年10月条によれば三旬を経ずに9月に完成したとされます。郡域は、中世に登米郡との間で出入がありましたが、2005(平成17)年4月町村合併により消滅しました。

 この郡の西北の栗駒岳の南面には、西から(一)迫((いち)はざま)川、二迫(にのはざま)川、三迫(さんのはざま)川が谷を刻み、若柳町で合流し、東南流して下流の登米郡迫(はざま)町付近では河床勾配がほとんどなく、流路が蛇行し、かつての大湿地帯・洪水常習地帯を形成したのち、旧北上川に合流します。

 この「くりはら」、「はざま」は、

  「ク・リハ・ラ」、KU-RIHA-RA(ku=silent;riha=nit,small,bad;ra=by way of,wed)、「静かな・なんということもない(特色のない)土地が・連なる(地域)」

  「ハタタ・マ」、HATATA-MA(hatata=blustering;ma=manga=branch of a river or tree)、「荒れ狂う・枝状に分かれた(一迫川から三迫川に分かれて流れる)川」(「ハタタ」の反復語尾が脱落して「ハタ」から「ハザ」となった)

の転訛と解します。

(1-3) 玉造(たまつくり)郡

 玉造郡は、古代から現在にいたる郡で、北は栗原郡、東は志田郡、南は加美郡、西は山形県最上郡に接します。荒雄川に沿った地域で、古代から羽前尾花沢・新庄(山形県)および羽前雄勝(秋田県)へ通じる交通・軍事上の要地です。

 『続日本紀』神亀5年4月条は「陸奥国が新たに白河軍団を置き、また丹取軍団を改めて玉造軍団となすことを請う。並びにこれを許す」とし、続紀天平9年4月条は大野東人が多賀柵~出羽柵の間の連絡路を開く遠征をし、国内諸城柵の警備を固めましたとし、その「天平五柵」の一つとして「玉造柵」がみえます。郡名の初見は、神護景雲3年3月条ですが、天平14年正月条には黒川・加美以北の十郡は「奥郡」としてまとまった扱いをうけていることから、玉造郡の建郡は奈良時代前期に遡るとみられています。郡名は、おそらく玉造部の集団が開拓民として立てた集落をもとに開けたことによるかとする説があります。 

 この「たまつくり」は、

  「タ・マツ・クフ・リ」、TA-MATU-KUHU-RI(ta=the...of,dash,beat,lay;matu=ma atu=go,come;kuhu=thrust in,insert,conceal;ri=screem,protect,bind)、「あの・(山間に)入り込む・(街道の)往来を・防衛する(柵がある。地域)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

(2) 荒雄(あらお)川・江合(えあい)川

 荒雄川は、古くは玉造川とも呼ばれ、栗駒山の南の鬼首カルデラの中央火口丘である荒雄岳(984メートル)の東麓に源を発し、荒雄岳の周囲を逆時計回りに4分の3周した後南流し、尿前(しとまえ)で大谷川を併せ、東流して大崎平野に入ります。かつての玉造川は大崎市古川師山付近で鳴瀬川に合流していましたが、寛永年間にそれまで古川北部に発して石巻湾に注いでいた江合(えあい)川に切り替えられ、さらにその下流を切り替えて、桃生郡河南町で北上川と合流します。上流には鬼首、鳴子等の温泉が数多くあります。

 この「アラオ」、「エアイ」は、マオリ語の

  「アラ・アウ」、ARA-AU(ara=way;au=current,whirlpool)、「渦を巻くように(山の周囲を)環流する水路(の川)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「エ・アイ」、E-AI(e=to denote action in progress,calling attention or expressing surprise;ai=substantive;e ai=in poetry "as it were")、「(切り替えがなかったかのように)昔のままの川のように流れる(川)」

の転訛と解します。

 

(3) 鳴子(なるご)温泉ー鬼首(おにこうべ)温泉郷・轟(とどろき)温泉・川渡(かわたび)温泉・尿前(しとまえ)の関

 

 宮城県の北西端、荒雄川の上流に鳴子温泉があります。『続日本後記』承和4(837)年の条に潟沼火山噴火の際、熱湯が噴出し、「鳴声の郷」とよんだことに由来するとの説があります。

 鳴子温泉郷の奥には、特別天然記念物の雌釜・雄釜間欠泉(現在は止まっているようです)や、轟(とどろき)温泉のある鬼首(おにこうべ)温泉郷があります。

 玉造八湯と称せられる鳴子温泉郷の入り口には、荒雄川を渡っていく川渡(かわたび)温泉があります。

 荒雄川と大谷川の合流点には、近世には最上(羽前)街道の尿前(しとまえ)の関が置かれ、芭蕉の「蚤虱馬の尿する枕もと」の句(『奥の細道』)が残されています。

 この鳴子温泉の「ナルゴ」は、マオリ語の

  「ナ・ル・(ン)ゴ」、NA-RU-NGO(na=by,made by;ru=shake,scatter,earthquake;ngo=cry)、「地震によって轟音をたてた(轟音とともに熱湯を噴き出した温泉)」

の転訛と解します。

 この鬼首温泉の「オニコウベ」、「トドロキ」は、マオリ語の

  「オ・ヌイ・コウ・ペ」、O-NUI-KOU-PE(o=the place of;nui=big,many;kou=knob,stump;pe=crashed,soft)、「崩れた瘤のような台地が多い場所」

  「タウタウ・ロキ」、TAUTAU-ROKI(tautau=howl;roki=be calm,calm)、「低いうなり声(をあげる温泉)」(「タウタウ」のAU音がO音に変化して「トト」となり、濁音化した)

の転訛と解します。

 この川渡温泉の「カワタビ」は、マオリ語の

  「カワ・タピ」、KAWA-TAPI(kawa=channel,passage between rocks or shoals;tapi=apply,as dressings to a wound)、「手を差し伸べて渡っていく川(のほとりの温泉)」

の転訛と解します。

 この尿前の関の「シトマエ」は、マオリ語の

  「チ・タウマイヒ」、TI-TAUMAIHI(ti=throw,cast;taumaihi=small tower in a stockade from which missiles were thrown)、「(見張りの)櫓が・置かれている(関所)」(「タウマイヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「トマイ」から「トマエ」となった)

の転訛と解します。

 

(3-2) 遠田(とおた)郡・長岡(ながおか)郡・小田(おだ)郡

 遠田郡は、古代から現在にいたる郡名で、成立は複雑、区域には変遷があり、北は栗原郡および登米郡、東は桃生郡、南から西は志田郡(西の一部は栗原郡)に接します。初見は『続日本紀』天平9年4月条に多賀城から出羽柵への路を開き、国内の城柵を固め、奥筋の蝦夷を鎮撫するために「田夷遠田郡領遠田君雄人を海道へ派遣した」とあります。「田夷」は農耕を行い開明化した蝦夷の意と解されます。和名抄は、「止保太(とほた)」と訓じます。

 長岡郡は、古代から中世の郡名で、地名の初見は『続日本紀』宝亀11年2月条に、郡名は延暦8年8月条の奥十郡の中にみえますが、宝亀元年にはすでに奥十郡は成立しており、その位置は、遠田郡の西、新田郡の南、玉造郡の東、志田郡の北にあったと考えられ、和名抄にみえる2郷のうち、中世に長岡郷が栗原郡(現大崎市(旧古川市)に長岡の地名が残ります。)に、潴城(ぬき)郷が遠田郡(現大崎市(旧田尻町)に沼木、大貫の地名が残ります。)に編入されたと考えられています。和名抄は、「奈加乎加(なかをか)」と訓じます。

 小田郡は、古代の郡名で、『続日本紀』天平勝宝元年4月条に国内ではじめて砂金を産出した郡として記載され、この由をもって天平を天平感宝と改元されました。遠田郡の東部にあったと考えられます。『日本後紀』延暦18年3月条は登米郡を併せたとしますが、延喜式民部式・和名抄ともに登米郡を載せていますから、その後旧に復したものでしょう。中世には遠田郡に編入されたと考えられます。和名抄は、「乎太(をた)」と訓じます。

 この「とほた」、「ながおか」、「をた」は、

  「トハウ・タ」、TOHAU-TA(tohau=damp,sweat;ta=dash,beat,lay)、「湿気が・襲う(湿地が多い。地域)」(「トハウ」のAU音がO音に変化して「トホ」となった)

  「(ン)ガ(ン)ガ・アウカハ」、NGANGA-AUKAHA(nganga=breathe heavily or with difficulty;aukaha=bulwark to the body of a canoe)、「(カヌーの船壁のような)堤防(に囲まれた)・(洪水に)溺れそうな(地域)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「アウカハ」のAU音かO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

  「アウタ」、AUTA(toss,writhe)、「(洪水に)弄ばれる(地域)」または「(砂を水中で揺り動かして)砂金を採取した(地域)」(AU音がO音に変化して「オタ」となった)

の転訛と解します。

(3-3) 志田(しだ)郡

 志田郡は、古代から現代までの郡名で、北は栗原郡、東は遠田郡、南は宮城郡および黒川郡、西は加美郡および玉造郡に接し、江合川と鳴瀬川が北と南を西から東へ流れています。郡名の初見は『続日本紀』8年8月条の奥十郡の一として記載されますが、他の郡と同様奈良時代中期には成立していたと考えられます。和名抄は「志太」と表記します。当郡は、2006(平成18)年3月市町村合併により大崎市が成立して消滅しました。 

 この「しだ」は、

  「チタハ」、TITAHA(lean to one side,pass on one side)、「(北から南へ向かう郡の先端が東南へ向かって)曲がっている(地域)」(H音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)(愛知県知多郡・知多半島の語源と同じです。)

の転訛と解します。

(4) 古川(ふるかわ)市ー緒絶(おたえ)川・小牛田(こごた)町

 古川市は、宮城県中北部にあり、中央部を江合(えあい)川と鳴瀬(なるせ)川が流れ、かつては洪水常襲地帯でした。古くから交通の要衝で、奈良時代には多賀城の前進基地として玉造柵が置かれ、奥羽街道(現国道4号線)と陸羽街道などが交差していました。ササニシキ、ひとめぼれの発祥地としても有名です。

 この地名は、江合川が北に流路を変えた跡の古い川筋の上に町が形成されたことによるとされています。市の中央部を流れる緒絶(おたえ)川は、その古い流路です。

 この古川の「フル」は、マオリ語の

  「フル」、HURU(contract,gird on as the belt)、「(川に)挟まれている(または周りに川という帯を巻いている場所)」

の意と解することができます。

 また、緒絶川の「オタエ」は、マオリ語の

  「オ・タワエ」、O-TAWAE(o=the...of;tawae=divide,separate)、「(本流から)分かれた・川」(「タワエ」のAE音がE音に変化して「タヱ」となった)

の意と解します。

 古川市の東に隣接する遠田郡小牛田(こごた)町も、江合川と鳴瀬川に挟まれた低地の町で、かつては洪水常襲地帯でした。

小牛田町は、中世に小塩村と牛飼(うしかひ。『和名抄』にみえる小田郡牛甘郷の遺称地とする説があります。)村の中間の江合川の氾濫地が開発され、両村の名を取って小牛田(こうした)から小牛田(こごた)となったとされますが、古くから「こごた」と呼ばれていた可能性もあり、中世になってから当時まだ残存していた縄文語で命名された可能性もあります。

 この「ウシカヒ」、「コゴタ」は、マオリ語の

  「ウチ・カヒ」、UTI-KAHI(uti=bite;kahi=wedge,a comb made of fish bones)、「(魚の骨で造った)櫛で梳(くしけず)ったように・(川の流れが)浸食した(土地)」 

  「カウカウ・タ」、KAUKAU-TA(kaukau=bathe;ta=lay)、「風呂に・浸かって横たわっている(ような湿地。その地域)」(「カウカウ」のAU音がO音に変化して「ココ」となり、濁音化した)または「ココタ」、KOKOTA(a mark made at cross-roads to show which road has been taken)、「(道標がある)十字路(の場所。地域)」

の転訛と解します。

 

(4-2) 登米(とよま。とめ)郡・新田(にひた)郡・讃馬(さぬま)郡

 登米郡は、古代から現代までの郡名で、北は岩手県磐井郡、東は本吉郡、南は桃生郡、遠田郡、西は栗原郡に接していました。北から南に北上川が南流し、その西を迫川が並行して流れていました。和名抄は登米を「止与米(とよま)」と訓じ、近世以降戸伊摩、外山、豊米、登米などさまざまに表記し、現在では郡名は「とめ」、市町名は「とよま」と呼び分けています。

 新田郡は、古代から中世までの郡名で、登米郡の西部(迫川の流域)に置かれ、和名抄は「邇比太(にひた)」と訓じます。古代城柵に新田柵が『続日本紀』天平9年4月条にみえ、新田郡も同じく神護景雲3年3月条にみえます。『日本後紀』延暦18年3月条は東隣の讃馬(さぬま)郡を新田郡に併せたとしますが、以後讃馬(さぬま)郡の名は史料から姿を消します。室町時代に至って新田郡は、栗原郡に吸収され、讃馬郡の地は登米郡に残ります。

 この「とめ」、「にひた」、「さぬま」は、

  「ト・マイ」、TO-MAI(to=the...of,drag,carry the weapon at the trail;mai=to indicate direction or motion towards)、「(北上川が迫川を脇にかかえ込むように)引き連れて・(海へ向かって)流れ下る(地域)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)(「とよま」については、次の(5)登米町の項を参照してください。)

  「ニヒ・タ」、NIHI-TA(nihi=move stealthly,surprise;ta=dash,beat,lay)、「(迫川の水が)足音を忍ばせて・襲ってくる(地域)」

  「タ・ヌマ(ン)ガ」、TA-NUMANGA(ta=the...of;numanga=disappearance)、「(合併されて)消滅した(郡)」(「ヌマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヌマ」となった)または「タ・ヌイ・マ(ン)ガ」、TA-NUI-MANGA(ta=dash,lay,allay;hui=big,many;manga=branch of a river or a tree)、「大きな・(川の支流である)沼が・並んでいる(地域)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」と、「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

(5) 登米(とよま)町

 宮城県の北東部に登米(とめ)郡登米(とよま)町があり、町の中央を北上川が南流しています。明治初期に登米(水沢)県庁が置かれました。郡名は今は「トメ」と呼んでいますが、『和名抄』では「止与末(とよま)」と訓じています。

 この「とよま」は、(1) もと「遠山(とほやま)」の転(吉田東伍)、

(2) 「川音が響(とよ)む土地」から、

(3) アイヌ語の「トイ・オマ・イ(食用粘土のあるところ)」から(金田一京助)という説があります。

 この「トヨマ」は、マオリ語の

  「ト・イオ・マ」、TO-IO-MA(to=the...of;io=strand of a rope,line;ma=white,clean)、「清い(綱のような)川の流れ(の土地)」

の転訛と解します。青森県八戸市豊崎町に浅水川に沿った豊間内(とよまない。「ナイ」は、ヌイ、NUI(big)、大きいの転訛)があり、岩手県下閉伊郡山田町に荒川川に沿った豊間根(とよまね。「ネ」は、ネイ、NEI(here)、此処の転訛)があり、これらも同じ語源でしょう(福島県いわき市平豊間(たいらとよま。旧平市豊間町)は海岸に沿っており、この「イオ」は、「IO(spur)、山の背、山脚」の意味でしょう)。

 

(5-2) 本吉(もとよし)郡

 本吉郡は、中世から現在に至る郡名で、北は岩手県気仙郡、東は太平洋、南は桃生郡、西は登米郡および岩手県磐井郡に接します。本吉郡の名は、延喜式、和名抄ともにみえず、桃生郡のうち磐城郷が本吉郡にあたると推定されています。初見は、『節用集』で、ほかに永正11(1514)年成立の『余目記録』に葛西氏の本所五郡の一として元良郡の名がみえます。

 この「もとよし」は、

  「モト・イオ・チ」、MOTO-IO-TI(moto=strike with the fist,blow with the fist;io=spur,ridge,lock of hair;ti=throw,cast)、「(拳骨で殴られたような)低い・山波が・連なる(地域)」

の転訛と解します。

(6) 気仙沼(けせんぬま)湾

 宮城県北東端、岩手県境に、細長く奥の深い気仙沼湾があり、湾口に大島があって太平洋の風波を遮り、湾奥の気仙沼港を保護しています。気仙沼市は、全国屈指の水産都市です。

 『三代実録』の貞観元(859)年の条に「計仙麻神」の名がみえ、『延喜式』神名帳には牡鹿郡に「計仙麻神社」、桃生郡に「計仙麻大嶋神社」の名がみえ、『和名抄』に陸奥国気仙郡に「介世」と訓じられていますので、古くは岩手県南東部から宮城県東北部にかけての一帯をさして「けせ」、「けせま」の地名があったのでしょう。

 この「けせま」は、(1) アイヌ語の「ケセ(下)・マ(海湾)」の意(吉田東伍)、

(2) 「ケシ(岸、削られたところ)・マ(澗・港)」の転、

(3) 「カセ(枷、水路)・マ(澗・港)」の意などの説があります。

 この「ケセンヌマ」または「ケセヌマ」は、マオリ語の

  「ケテ・ヌマ(ン)ガ」、KETE-NUMANGA(kete=belly of a net,womb;numanga=disappearance)、「(津波で)消え去った(ことがある)・子宮(のような。深く入り込んだ湾)」

の転訛と解します。

 

(7) 桃生(ものう)郡

 桃生郡は、古代から現代にいたる郡名で、宮城県北東部の北上川河口付近に位置し、北は登米郡及び本吉郡、東は太平洋、南は牡鹿郡および仙台湾、西は宮城郡および遠田郡に接し、新旧北上川に囲まれた桃生町の名にもなっています。古代には「海道の蝦夷」と呼ばれた人々の住んだ地域で、牡鹿柵が造られるとその支配下に入り、次いで牡鹿郡が建てられるとその管下にはいりました。「桃生」の地名の初見は『続日本紀』天平宝字元年4月条で、同2年10月条は「桃生城」を造るとし、同3年正月条は「大河に跨り、峻嶺を凌ぎ、桃生柵を造る」とあり、「桃生郡」の初見は宝亀2年11月条です。

 『和名抄』では「毛牟乃不(もむのふ)」と訓じられています。

 この「もむのう」は、

(1) アイヌ語の「ムンヌプ(草の丘)」の意、

(2) 「ママ(崖地)」の転などの説があります。

 この「モムノウ」は、マオリ語の

  「モモノ・フ」、MOMONO-HU(momono=mono=plug,caulk;hu=hill,promontory)、「(北上川の出口を)塞ぐ・丘陵(がある地域)」(「フ」のH音が脱落して「ウ」となり、「モモノウ」、「モノウ」となった。「モモノ」は「モノ」の派生語で同じ意味です)

の転訛と解します。

 

(7-2) 牡鹿(おしか)郡

 牡鹿郡は、古代から現在にいたる郡名で、古代ははじめ桃生郡の地域を含んでいましたが、桃生郡建郡の後は、西から北は桃生郡、東から南は太平洋に接します。 

 『続日本紀』神亀元年3月条は海道の蝦夷(多賀城東北方の広義の牡鹿蝦夷を指します)が反乱して国司を殺害したので、同年4月条は藤原宇合を征蝦夷持節大将軍に任じたとします。天平9年4月条に「天平五柵」の一として「牡鹿柵」がみえ、天平勝宝5年6月条に牡鹿郡の人丸子牛麻呂・丸子豊嶋等24人に牡鹿連姓を与えたとあります。同年8月牡鹿連姓を与えられた丸子嶋足が上京して授刀舎人となり、橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱で功績をあげ、授刀将曹から近衛中将まで出世し、道嶋宿禰と姓を改め、陸奥大国造となり、一族も多数陸奥国・鎮守府・征夷使の官人として活躍しました。この牡鹿郡領家の道嶋氏が別格郡司として権勢をふるったことが他の郡司の反発を招き、伊治公呰麻呂(古典篇(その十六)の249H18伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の項を参照してください。)の反乱となります。

 延喜式神名帳所載の式内社は牡鹿郡に10座、内2座が名神大社と異例に多くなっています。

 この「おしか」については、次の(8)牡鹿半島の項を参照してください。

(8) 牡鹿(おしか)半島

 牡鹿半島は、宮城県東部の仙台湾の東端を画する半島です。北上山地の南端部が、真っ直ぐ太平洋に突き出して没する部分で、リアス式海岸が形成されています。古くは、遠島(とおしま)とも呼ばれました。

 『続日本紀』天平9(737)年に「牡鹿の柵」、天平勝宝5(753)年に「牡鹿郡」の名がみえます。『和名抄』は「乎志加」と訓じています。

 この地名は、(1) 金華山の「鹿」から、

(2) 「シカ(好漁場)」の意、

(3) 「オシ(押)・カ(処)」の意、

(4) 「ヲ(接頭語)・スカ(洲処)」からなどの説があります。

 この「オシカ」は、マオリ語の

  「オ・チカ」、O-TIKA(o=the...of;tika=direct,straight)、「まっすぐに(太平洋へ向かって)・延びている(地域。半島)」

  または「オチ・カハ」、OTI-KAHA(oti=finished;kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill)、「(北上山地が海に落ち込む)終端の・丘陵(がある地域。半島)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 石巻(いしのまき)湊ー平駄(ひらた)船・高瀬(たかせ)船・天当(てんとう)船

 石巻湊は、牡鹿半島の付け根、北上川の河口に発達した湊で、江戸時代には奥州第一の湊といわれました。中世には「牡鹿湊(おしかみなと)」、「牡鹿津」と呼ばれていましたが、元和年間(1615~24年)伊達政宗が北上川の流路を付け替え、本流を石巻に南下させ、江戸廻米の積出港としたのに伴って大きく発展しました。

 この地名は、(1) 『日本書紀』仁徳紀55年の条の「伊寺水門(いじのみなと)」(伊寺川(現在の迫(はざま)川の古名)の河口の湊)の「いじ」が「石」に、「湊」の字がの「巻」に転じた、

(2) 北上川河口の住吉社の神岩(烏帽子岩)に水流が渦巻く「巻石」から、

(3) 「ヒジ(洲、泥)・マキ(牧)」から

(4) 「イソ(磯)・マキ(牧)」からなどの説があります。

 この「イシノマキ」は、マオリ語の

  「イ・チマ・キ」、I-TIMA-KI(i=past tense;tima=a wooden implement for cultivating the soil;ki=full,very)、「膨大な土を・(鍬で)掘り上げて・造った(新しい川。その河口の地域。河口の湊)」「(「イチマキ」から「イシノマキ」となった)

の転訛と解します。

 この北上川や阿武隈川の舟運で用いられた江戸時代の川船を、大型のものは「平駄(ひらた)船」、小型のものは「高瀬(たかせ)船」といい、河口で「天当(てんとう)船」に積み替えて江戸へ向かいました。

 この「ヒラタ」、「タカセ」、「テントウ」は、マオリ語の

  「ヒラ・タハ」、HIRA-TAHA(hira=great,numerous,widespread;taha=side,edge)、「(高瀬船よりも)巾が・広い(船)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「タカ・テ」、TAKA-TE(taka=revolve,go or pass round;te=crack,emit a sharp explosive sound)、「(音を立てて流れる)浅瀬を・行き来する(喫水の浅い小回りのきく船)」

  「テ・(ン)ゴト」、TE-NGOTO(te=the;ngoto=be deep)、「(喫水が)深い(大量の荷物を積める船)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「テ・ノト」から「テント」、「テントウ」となった)

の転訛と解します。海洋民族の言語、原ポリネシア語は、江戸時代まで脈々と受け継がれていたのです。

 

(10) 十八鳴(くぐなり)浜

 宮城県気仙沼市大島に、十八鳴(くぐなり)浜という有名な「鳴き砂」の浜があります(三輪茂雄『粉の文化史』新潮選書、昭和62年)。また、宮城県牡鹿郡牡鹿(おしか)町にも、十八成(くぐなり)浜の地名があります。歩くと「キュッ、キュッ」と鳴るところから、「ク(九)」が二つで「十八」と宛字をしたようです。

 この「クグ」は、マオリ語の

  「クク」、KUKU(clench,make a grating sound)、「歯ぎしりする(浜)」

の転訛と解します。

 また、同様に鳴き砂の浜として著名なものに、島根県迩摩郡仁摩町馬路(まぢ)の琴ケ浜があります。壇ノ浦の合戦に敗れた平家の琴姫が琴を抱いてこの浜に漂着したとの伝説があります。

 この「コト」も、マオリ語の

  「コト」、KOTO(sob,make a low noise)、「すすり泣く(浜)」

の意と解します。京都府竹野郡網野町の琴引浜の語源もこれと同じでしょう。

 さらに、石川県鳳至郡門前町剣地(つるぎぢ)に「ごめき浜」があります。能登の方言で「ごめき」とは「赤ん坊が泣く、ぐずる」ことです。

 この「ゴメキ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・メケ」、NGO-MEKE(ngo=cry,make any articulate sound;meke=memeke=be shy)、「恥ずかしそうに泣く(小さな音を立てる浜)」

の転訛と解します。

 

(10-2) 加美(かみ)郡・色麻(しかま)郡・富田(とみた)郡・鳴瀬(なるせ)川

 加美郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は玉造郡、東は志田郡、南は黒川郡、西は山形県北村山郡に接します。鳴瀬川の上流部で、古来黒川郡とともに多賀城から出羽国府・秋田城への連絡路として重要視されてきました。和名抄は、「賀美郡」と表記し、近世初期には「寒郡」とも書いています。郡名の初見は、『続日本紀』天平9年4月条で、中世には色麻郡を併せました。 

 色麻郡は、古代の郡名で、現代の加美郡の東部(現加美郡色麻町・加美町のうち旧中新田町の一部とされます。)に位置し、和名抄は「志加万(しかま)」と訓じています。天平9年4月多賀城以北の最初の城柵として色麻柵が設けられました。延暦8年8月奥十郡の一としてみえ、延暦18年3月富田郡を併合し、中世に加美郡に編入されました。

 富田郡は、古代の郡名で、黒川郡と色麻郡の間の東部(現黒川郡大衡村付近(陸上自衛隊演習地がある王城高原を含む)とされます。)に位置したと推定される郡で、延暦8年8月奥十郡の一としてみえ、延暦18年3月色麻郡に併合されました。

 鳴瀬川は、奥羽山脈中央部の船形山の北斜面に源を発し、加美郡内を多くの支流を併せながら東流し、のち南流して石巻湾に注ぎます。源流部一帯には大規模な地滑り地形が多く、風穴などもみられます。

 この「かみ」、「しかま」、「とみた」、「なるせ」は、

  「カハ・アミ」、KAHA-AMI(kaha=rope,edge,ridge of a hill;ami=gather,collect)、「(縄のような)川の流れが・集まる(順次合流して鳴瀬川となる。地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「カ」のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「カミ」となった)

  「チカ・マ(ン)ガ」、TIKA-MANGA(tika=straight,direct;manga=branch of a river or a tree)、「(鳴瀬川に最後に合流する)最も近い・支流の(流れる。地域)」(「マ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)

  「タウ・ミ・タ」、TAU-MI-TA(tau=ridge of a hill;(Hawaii)mi=to void urine,;ta=dash,beat,lay)、「(おしっこが出ない)水がない・丘陵が・ある(地域)」(「タウ」のAU音がO音に変化した「ト」となった)

  「(ン)ガル・テ」、NGARU-TE(ngaru=wave of the sea,corrugation;te=crack,emit a sharp explosive sound)、「地滑りがあって(海のような大きな波を起こす)・音を立てて流れる(川)」(「(ン)ガル」のNG音がN音に変化して「ナル」となった)

の転訛と解します。

(10-3) 黒川(くろかわ)郡・吉田(よしだ)川・品井(しない)沼・鶴田(つるた)川・高城(たかき)川

 黒川郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は加美郡・志田郡、東は桃生郡、南は宮城郡、西は山形県西村山郡に接します。多賀城のすぐ北に置かれ、多賀以北の奥十郡の起点をなす郡として古来特別の意味を持った郡です。郡名の初見は、『続日本紀』天平14年正月条ですが、加美郡が天平9年には成立していますので、当郡もそれまでには成立したものと考えられます。宮城県を仙北・仙南に分ける境界地帯である黒河丘陵ががあり、その中央を吉田川が西流して北上川に合流しています。(この吉田川は、かつて北上川に合流する直前は大きな品井(しない)沼という湿地であり、この沼を干拓するために元禄6年から文久元年に吉田川の流路と干拓地の排水路の鶴田(つるた)川を分離して吉田川の地下を通す元禄潜穴工事が行われ、明治に入って老朽化した水路を更新する明治潜穴工事が行われましたが、その鶴田川は潜穴を出た後は高城(たかき)川と呼ばれ、南流して石巻湾に注いでいます。)

 この「くろかわ」、「よしだ」、「しなゐ」、「つるた」、「たかき」は、

  「クフ・ロ・カワ」、KUHU-RO-KAWA(kuhu=thrust in,insert;ro=ro to=inside;kawa=heap,reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals)、「()中に・静かに・割って入っている(郡)()()」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

  「イオ・チタ(ン)ガ」、IO-TITANGA(io=muscle,line;titanga=loose)、「(綱のような)流れの・(綱がほどけたように)下流が大きな沼になっている(川)」(「チタ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)

  「チナ・ウイ」、TINA-UI(tina=fixed,firm,constipated;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「便秘している(排水が悪い)・ほどけた綱(のような。沼)」(「ウイ」が「ヰ」から「イ」となった)

  「ツル・タハ」、TURU-TAHA(turu=kneel;taha=side,edge,pass on one side)、「膝を曲げて(流路を西から南へ変えて)・脇(の吉田川の下)を通る(川)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

  「タカキ」、TAKAKI(neck,throat)、「(咽喉のように)狭い潜穴(をくぐり抜けた。川)」

の転訛と解します。

(10-4) 宮城(みやぎ)郡

 宮城郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は黒川郡、東は桃生郡・仙台湾、南は名取郡、西は山形県村山郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』天平神護2年11月ですが、建郡は多賀城の成立から間もなくの奈良時代初期と考えられます。多賀城は、陸奥鎮所にはじまり、霊亀元年5月の「東国6国の富民千戸を陸奥に配した」とあるのは陸奥鎮所への柵戸移配と考えられます(和銅7年10月条に「尾張等4国の民2百戸を割いて出羽の柵戸に配した」あります)から、このころにははじまっていると思われます。これ以降、多賀城は陸奥国の行政の中心地となり、宮城郡以南の諸郡は内郡、黒川郡以北は奥郡として扱われるようになって行きます。和名抄は「美也木(みやき)」と訓じます。 

 県名の起こりとなった名で、(1)塩竃神社(宮)と多賀城(城)があったから、(2)屯倉(みやけ)があったから、(3)多賀城という「遠の朝廷」の「みちのく府城」であったからなどとする説があります。

 この「みやき」は、

  「ミ・イア・キ」、MI-IA-KI(mi=urine,river;ia=indeed;ki=full,very)、「実に・川が・多い(地域)」

  または「ミ・イア・ア(ン)ギ」、MI-IA-ANGI(mi=urine,river;ia=indeed,current;angi=free,move freely,float)、「実に・(自由に流れる)頻繁に流路を変える・川(の流れる地域)」(「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となり、その語頭のA音が「イア」のA音と連結して「ヤギ」となった)

の転訛と解します。

(11) 松島(まつしま)

 松島は、宮城県中部、仙台湾の支湾松島湾の沿岸部および松島湾に散在する島々の総称です。天橋立、安芸の宮島とともに、日本三景の一つとして著名な地で、「松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥ず」(『奥の細道』)と賞賛されています。

 島と沿岸の海食崖の上には松が茂り、松と奇岩怪石のすばらしい景色を示すところから、「松島」というとされています。

 この「マツシマ」は、マオリ語の

  「マ・ツ・チマ」、MA-TU-TIMA(ma=white,clean;tu=stand;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形の場所がある清らかな地域」

の転訛と解します。すでに「オリエンテーション篇」(平成10年10月10日書き込み)の「阿蘇山」の項で説明した「対馬」の語源と同じです。

 

(12) 多賀城(たがじょう)市

 宮城県中部、仙台市の北東に接して、陸奥国府多賀城跡のある多賀城市があります。多賀城南門脇に日本三古碑の一つ「多賀城碑」があり、多賀城の創建、修造等について記しています(「壺の碑(つぼのいしぶみ)」については、青森県の(11-2)つぼのいしぶみ(壺の碑)の項を参照してください)。

 この「多賀(たが)」地名は、多賀、常陸国多珂郡、播磨国多可郡をはじめ全国各地にあり、「高地」の意と解されています。

 この「タガ」は、すでに「入門篇(その二)」(平成10年12月1日書き込み)で説明しましたが、マオリ語の

  「タ(ン)ガ」、TANGA(circumstance or place of dushing,striking,etc,be assembled,row,division of persons)、「人々が集まって作業をしている(狩りをしたり、耕作をしたりしている)地域」

の転訛と解します。

 

(13) 広瀬(ひろせ)川ー作並(さくなみ)温泉・愛子(あやし)

 広瀬川は、宮城県中部を東流する名取川最大の支流です。奥羽山脈の関山峠に源を発し、愛子(あやし)、郷六の小盆地を連ね、仙台市街地の西縁を流れ、市の南東部で名取川と合流します。上流部には作並(さくなみ)温泉があり、流域には河岸段丘が発達しています。

 広瀬川は、その名の通り「広い川瀬」の川と解されています。

 作並温泉の「サクナミ」は、マオリ語の

  「タク・(ン)ガミ」、TAKU-NGAMI(taku=edge,gunwale;ngami,whakangami=swallow up)、「膨れた(河岸段丘の)・縁(にある土地。そこの温泉)」(「(ン)ガミ」のNG音がN音に変化して「ナミ」となった)

の転訛と解します。

 愛子は、宮城郡の旧町で、昭和62年に仙台市に合併され、ベッドタウンとして発展しています。この町域は、広瀬川とその支流大倉川の流域を占め、広瀬川沿いに発達した河岸段丘の上にその中心集落および耕地が開かれています。

 この「アヤシ」は、マオリ語の

  「ア・イア・チ」、A-IA-TI(a=the...of;ia=current;ti=throw,overcome)、「川の流れ(洪水)によって押しひしがれた(削られた)土地」

の転訛と解します。全国各地の「ヤチ(谷地、谷戸など)」も同じ語源です。

 

(13-2) 名取(なとり)郡

 名取郡は、古代から現代までの郡名で、北は宮城郡、東は太平洋、南は柴田郡・亘理郡、西は山形県村山郡に接します。山道(中通り)、海道(浜通り)の二本に分かれて北上した幹線道路がこの郡で落ち合うことから、古来交通・軍事上の要地とされてきました。郡名の初見は、『続日本紀』和銅6年12月条に「新たに陸奥国丹取郡を建つ」とあり、和名抄は「名取」を「奈止里」と訓じます(「丹取」が「にとり」であったか「なとり」であったか不詳です)。昭和63年3月秋保町が仙台市に合併して名取郡は消滅しました。

 郡名は、郡中を西から東に流れる次の(14)名取川の川名によります。

(14) 名取(なとり)川ー二口(ふたくち)峠・磐司(ばんじ)岩・磊々(らいらい)峡・秋保(あきう)温泉・閖上(ゆりあげ)浜

 名取川は、宮城県中部を東進する川で、奥羽山脈の二口(ふたくち)峠(934メートル)付近に発し、上・中流部では第三紀の凝灰岩を切って二口渓谷や、磊々(らいらい)峡の奇勝をつくり、中・下流部で碁石川、広瀬川などを合わせて閖上(ゆりあげ)浜で仙台湾に注いでいます。二口峠の東北には磐司磐二郎(山の神を厚遇して狩猟の名人となった狩人)伝説の舞台とされる円柱状の磐司(ばんじ)岩がそそり立ち、西南には瀬ノ原山(1,182メートル)が峠を挟んでそびえています。磊々峡付近には、古くから「名取の御湯」として知られた秋保(あきう)温泉があります。

 名取の地名は、『続日本紀』和銅6(713)年に「丹取(にとり)郡設置」とあり、神護景雲3(769)年には「名取」に改めています。また、『和名抄』には「奈止里」とあります。

 この地名の語源は、(1) 瓦製造用の赤土(粘土)の土取り場、

(2) 丹(に。辰砂)を取る場所、

(3) 「ニタ(湿地)・リ(方向、場所を表す接尾語)」の意、

(4) 「ナ(接頭語)・トリ(取り)」で崩壊地、浸食地をさす、

(5) アイヌ護の「ニタツ・トリ(湿地や溜まり水のある所)」の意などの説があります。

 この「ナトリ」は、マオリ語の

  「ヌイ・トリ」、NUI-TORI(nui=big,many;tori=cut)、「大きく山地を切り割った(川)」(「ヌイ」が「ニ」から「ナ」となった)

  または「ヌイ・タウリ」、NUI-TAURI(nui=big,many;tauri=fillet,bamd)、「大きな・紐のような(川)」(「ヌイ」が「ニ」から「ナ」と、「タウリ」のAU音がO音に変化して「トリ」となった)

の転訛と解します。

 二口峠の「フタクチ」は、マオリ語の

  「フ・タ・クチ」、HU-TA-KUTI(hu=hill;ta=lay,ally;kuti=contract,pinch)、「山が並んで挟み付けている(峠)」

の意と解します。

 磐司岩の「バンジ」は、マオリ語の

  「パネ・チ」、PANE-TI(pane=head;ti=throw,cast)、「放り出されている頭(のような岩)」

の転訛と解します。

 磊々峡の「ライライ」は、マオリ語の

  「ライ」、RAI(ribbed,furrowed)、「皺が寄っている(岩が重なり合っている峡谷)」

の転訛と解します。

 秋保温泉の「アキウ」は、マオリ語の

  「アキ・フ」、AKI-HU(aki=dash;hu=bubble up)、「泡をたてて噴き出す(温泉)」

  または「ア・キフ」、A-KIHU(a=the...of,belonging to;kihulihu=fringe)、「(川の)縁に・ある(温泉)」(「キフ」のH音が脱落して「キウ」となった)

の転訛と解します。

 名取川の河口の閖上(ゆりあげ)浜の「ユリアゲ」は、マオリ語の

  「イ・フリ・ア(ン)ガイ」、I-HURI-ANGAI(i=beside;huri=turn round,overflow;angai=north-north-west wind)、「(冬季の)北北西の(季節風によって起こる)大波が・押し寄せる・あたり(の浜)」(「イ」と「フリ」のH音が脱落した「ウリ」が連結して「ユリ」と、「ア(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「アゲ」となった)

の転訛と解します。

 

(14-2) 亘理(わたり)郡

 亘理郡は、古代から現在にいたる郡名で、曰理とも書き、北は阿武隈川を隔てて名取郡、東は太平洋、南は福島県相馬郡(旧宇多郡)、西は伊具郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』養老2年5月条で陸奥国の南部を割いて石城(いわき)・石背(いわしろ)の2国を建てたとし、石城国は石城・標葉・行方・宇太・曰理(わたり)5郡と常陸国多珂郡210戸を割いて郡を建てた菊多郡の計6郡であったとします。亘理郡は南陸奥国の北辺であり、阿武隈川をもつて石城国の北限としました。のち数年で両国は廃止され、亘理郡は陸奥国所管となりました。和名抄は、「和多里(わたり)」と訓じます。

 この「わたり」は、

  「ワ・タリ」、WA-TARI(wa=place;tari=carry,bring)、「(人や物を)運ぶ(渡す)・場所(地域)」

の転訛と解します。

(15) 阿武隈(あぶくま)川

 阿武隈川は、東北地方第二の河川で、長さ239キロメートル、流域の八割は福島県で、那須火山帯の日光国立公園北端の甲子山(かっしやま)東斜面に発し、福島県の中通り地方を北流し、宮城県に入って北東流して亘理(わたり)郡亘理町荒浜で太平洋に注いでいます。古くは「あぶくま」川ではなく、「あふくま(逢隈)」河で、遇隈川、青熊川、大熊川とも表記していました。

 亘理町旧逢隈(おおくま)は、阿武隈川河口の古流域の地名です。かつては阿武隈川は水量豊かな暴れ川で有名で、亘理は浜街道の難所でした。川を渡る(曰理(わたり)・渡利)ことの安全を守る河伯(水神)を川のほとりに祀ったのが阿福麻(あぶくま)河伯神社(亘理町逢隈田沢)で、安福河伯神社(『延喜式』神名帳)、阿福麻水神(『三代実録』貞観5(863)年の条)、阿武隈明神神社(『封内風土記』)とも称しました。この地名が川の名となったといいます。

 この地名は、古語の「あふくま(溢曲)」で、河口付近の地形を示し、折れ曲がつて流れ、溢れるくらい水量の豊かな川の意であるとする説が有力です。

 この「アフクマ」は、マオリ語の

  「アフク・マ」、AHUKU-MA((Hawaii)ahuku=to stone to death,slaughter by burying the victim under a pile of stones;ma=a particle used after names of persons etc.,names of river)、「(石を投げて人を殺すように)すごい勢いで流れる・川(その地域)」

  または「ア・プク・マ」、A-PUKU-MA(a=the...of,drive,urge;puku=swelling,secretly,without speaking;ma=a particle used after names of persons etc.,names of river)、「(予兆なしに)突然水量が増えて・押し流す・川(その地域)」

の転訛と解します。

 

(15-2) 柴田(しばた)郡

 柴田郡は、古代から現在にいたる郡名で、北は名取郡、東は名取郡・伊具郡、南は伊具郡・刈田郡、西は山形県村山郡に接します。当初の郡域は、刈田郡の領域を含み、郡名の初見は、『続日本紀』養老5年10月条で「柴田郡の2郷を分けて苅田郡を置かせた」とします。養老2年5月には石背・石城の2国が成立し、北隣の名取郡が和銅6年に建てられていますから、当郡も和銅初頭ごろには建てられたと考えられます。和名抄は「之波太(しはた)」と訓じ、郷は8を数えます。

 この「しばた」は、

  「チパ・タ」、TIPA-TA(tipa=dried up,broad,large;ta=dash,beat,lay)、「広い・場所を占める(地域。郡)」(「チパ」のP音がF音を経てH音に変化して「チハ」から「シハ」となった)

の転訛と解します。

(15-3) 刈田(かった)郡

 刈田郡は、古代から現在にいたる郡名で、苅田郡とも書き、北は柴田郡、東は伊具郡、南は福島県伊達郡・信夫郡、西は山形県東置賜郡・南村山郡に接します。郡名の初見は、『続日本紀』養老5年10月条で「柴田郡の2郷を分けて苅田郡を置かせた」とします。和名抄は、「葛太(かつた)」と訓じます。

 郡名は、蔵王連峰の一つ、刈田(かつた)嶺、式内名神大社として崇敬された刈田嶺(かむたみね)神社の名によります(次の(16)蔵王(ざおう)連峰の項を参照してください。)。

(16) 蔵王(ざおう)連峰ー刈田(かつた)嶺・不忘(ふぼう)山

 宮城・山形両県にまたがって蔵王山連峰があります。横川と澄川の上流を境として北蔵王と南蔵王の両火山群に分けられ、一般には北蔵王を蔵王山と呼んでいます。北蔵王は二重式火山で、最高峰の熊野岳(1,841メートル)とその南の刈田(かった)岳(1,758メートル)をつなぐ馬の背と呼ばれる稜線が外輪山で、その東の五色岳(1,674メートル)が中央火口丘です。

 南蔵王の中心は屏風(びょうぶ)岳(1,817メートル)で、その東斜面は断崖をなしています。東方には後烏帽子岳、前烏帽子岳、入道山などがあり、南端には頂上部が爆裂火口によって三方からえぐられて複雑な山容を呈する不忘(ふぼう)山があります。

 蔵王山は、かつては女人禁制の修験の山で、「西のお山」である出羽三山に対する「東のお山」として信仰されてきました。この蔵王山の名は、吉野の蔵王権現を勧請したことによります。古くは、「刈田(かつた)嶺」で、山上には刈田嶺神が祀られ、『延喜式』には「刈田(かむた。かつた)郡 刈田嶺(かむたみね)神社」とみえています。また、『和名抄』では刈田郡は「葛太(かつた)」と訓じられています。

 この語源は、(1) 「カツ(崖、砂丘)・タ(処)」から、

(2) 「カハ(川)・タ(処)」の転、

(3) 「カム(葛)・タ(多)」の転などの説があります。

 この「カツタ」は、マオリ語の

  「カ・ツタ」、KA-TUTA(ka=take fire,burn;tuta=back of the neck)、「火が燃える(火山の)後頭部(断崖絶壁のところ)」

  または「カハ・ツタ」、KAHA-TUTA(kaha=edge,boundary line of land etc.,ridge of a hill;tuta=back of the neck)、「山の後頭部(断崖絶壁)の麓の居住地(火が燃えるところ)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の意と解します。前者は蔵王連峰の主峰である屏風岳の断崖絶壁を宮城県側からみて山をこう呼んだものでしょう。

 また、北蔵王の不忘(ふぼう)山の「フボウ」は、マオリ語の

  「フ・ポウ」、HU-POU(hu=hill,promontry;pou=post,pole,stake)、「柱の(樹氷が林立する)・山」

の転訛と解します。

 

(17) 伊具(いぐ)郡ー居久根(いぐね)

 宮城県南部の郡名で、『和名抄』に「以久」と訓じられ、『旧事紀』国造本紀に「伊久国造」の名がみえます。

 この「イク」は、(1) 「イク」は、「穿つ」で「崖」の意、

(2) 「ウク」の転で、「湿地」の意などの説があります。

 この「イグ」は、マオリ語の

  「イ・(ン)グ」、I-NGU(i=beside;ngu=egg case of paper nautilas(whakangungu=defend,protect))、「(たこぶねの卵を保護するケースのような)保護帯(防衛線)の・あたりの土地」

の転訛と解します。

 屋敷の周囲(風上など)に植えて防風、防暑、防火の役割を果たし、薪や用材を採取する屋敷林を東北では「いぐね(居久根)」、関東では「くね」と呼びます。この「イグネ」は、マオリ語の

  「イ・(ン)グ・ヌイ」、I-NGU-NUI(i=beside;ngu=egg case of paper nautilas(whakangungu=defend,protect);nui=big,many)、「(たこぶねの卵を保護するケースのような)屋敷の周囲を十分に保護する(林)」

の転訛と解します。上記の「イグ」と同じ語源です。