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5 秋田県の地名

2018.03.14 05:23

http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei02.htm#%EF%BC%91%E3%80%80%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%90%8D%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E%E6%BA%90%E3%81%B0%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%83%BC

【5 秋田県の地名】 より

 

(1) 男鹿(おが)半島ー恩荷(おが)、寒風(かんぷう)山、入道(にゅうどう)崎、なまはげ

 男鹿半島は、秋田県西部の日本海に突き出ている半島で、日本海内側島列に属する男鹿島とその東に噴出した二重式火山の寒風(かんぷう)山に、雄物川、米代川の両河口から伸びた2本の砂州がつながってできた典型的な複式陸繋島です。その内側に、琵琶湖に次ぐ日本第二の大きさで、水深の浅い潟湖の八郎潟がありましたが、その大部分が昭和32年以降の国営事業によって干拓されました。

 この地名は、『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)浦の蝦夷恩荷(おが。首長の名)としてみえるとされ、『吾妻鏡』には小鹿島、男鹿島として出てきます。

 この語源は、(1) 「ヲ(峰)・カ(処)」で「オカ(岡)」と同義、

(2) 砂州の先端(ヲ(尾)・カ(処))の意とする説があります。

 この「オガ」は、マオリ語の

  「アウ(ン)ガ」、AUNGA(=haunga=not including)、「中が空っぽ(八郎潟を中に抱いている半島)」(AU音がO音に変化して「オガ」となった)

の転訛と解します。

 なお、蝦夷の恩荷の「オガ」は、マオリ語の

  「オ(ン)ガ」、ONGA(shake about)、「(蝦夷征討軍の勢いに)震えおののいた(酋長)」

の転訛と解します。人名の恩荷は、地名とは異なる語源です。それにしても、「恩荷」とは、原語の発音を実に正確に漢字で表していることに驚きます。

 また、寒風山(355メートル)の「カンプウ」は、マオリ語の

  「カネ・プ」、KANE-PU(kane=head;pu=double)、「(頂上が鐘(トロイデ)状、裾野はなだらかな楯(アスピーテ)状の))二重になった頭(のような山)」

の転訛と解します。

 男鹿半島の北端の入道(にゅうどう)崎の「ニュウドウ」は、マオリ語の

  「ニウ・ト」、NIU-TO(niu=move along,glide;to=drag,calm)、「(海流が)ゆったりと滑るように流れていく(岬)」

の転訛と解します。(地名篇(その十七)の狩野川の河口の「我入道」の「入道」と同じ語源です。)ただし、田沢湖町と岩手県境にある楯状火山の乳頭(にゆうとう)山や、入道(にゅうどう)岳(新潟県)、入道ケ岳(三重県)などの山名の「ニユウトウ」または「ニュウドウ」は、やや異なり、マオリ語の

  「ニウ・タウ」、NIU-TAU(niu=glide,dress timber smooth with a axe;tau=ridge of a hill)、「(斧で材木を削ったように)表面が滑らかな山」

の転訛と解します。

 なお、男鹿地方には大晦日(かつては小正月)の夜、鬼の仮装で各戸を訪問し、泣く子、悪い子や怠け者を懲らしめ、除災招福をおこなう「なまはげ」の民俗行事(国指定重要無形民俗文化財)があります。この「ナマハゲ」は、「なもみ」(囲炉裏の火にあたってできる火だこ)ができるような怠け者の火だこを「剥ぎとる」=「怠け者を懲らしめる」意とされますが、これはマオリ語の

  「ナ・マハケ」、NA-MAHAKE(na=by reason of,on account of;mahake=small)、「子供の(躾の)為に(行う行事)」

の転訛と解します。石川県能登地方にも「あまめはぎ」と呼ぶ同じような行事がありますが、これはマオリ語の

  「アマイ・マハキ」、AMAI-MAHAKI(amai=giddy;mahaki=reduce,lesson)、「浮ついている者を教育する(減らす為に行う行事)」

の転訛と解します。

 

(2) 八郎(はちろう)潟

  秋田県西部、男鹿半島東部にあり、現在ではその大部分が干拓されましたが、干拓前は面積220平方km、最大水深4・7mの半鹹(はんかん)湖で、琵琶湖に次ぐ日本第二の湖でした。縄文晩期の海進期には太平山地と男鹿島間の水道でしたが、その後、雄物・米代両川の流出土砂などで両者が結ばれ、陸繋(りくけい)島になったため生じた海跡湖です。古くは大方、大潟と呼ばれ、八郎潟の呼称がみえるのは近世後期からです。近世に入って湖上交通が盛んとなり、漁業では村地先の潟の専用権が確立され、ワカサギ、ハゼ、フナ、シラウオ、ボラ、ウナギ、シジミなどを冬季は諏訪湖から技術導入した氷下引網、秋季は打瀬(うたせ)網で漁獲していました。

 潟名は、龍になった潟の主八郎の伝説に由来するとの説があります。

 この「はちろう」は、マオリ語の

  「パチ・ロウ」、PATI(shallow water,shaol)-ROU(reach or procure by means of a pole or a long stick,dredge for shellfish)、「浅瀬(の湖)で・(冬季には氷下引き網、秋季は打瀬網という)底引網で漁をする(湖)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」となった)

の転訛と解します。

 

(2-2) 山本(やまもと)郡

 古代から中世の山本郡は、山北(せんぼく)山本郡とも称し、横手盆地(後出(13)横手市の項を参照してください)の北端に位置し、北は陸奥国比内郡・鹿角郡、東は和賀郡・岩手郡、南は平鹿郡・由利郡、西は川辺郡(豊島郡)に接していました。郡名の初見は、『三代実録』貞観12年12月条で、和名抄は「也末毛止(やまもと)」と訓じます。建郡の時期は不明ですが、平安初期と考えられます。

 近世から現代にいたる山本郡は、寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、出羽国檜山郡(後出(2-4)秋田郡・檜山郡の項を参照してください)を山本郡と改称して成立しました。北は陸奥国津軽郡、東から南は秋田郡、西は日本海に接します。

 この「やまもと」は、

  「イア・ママオ・ト」、IA-MAMAO-TO(ia=indeed,current;mao,mamao=distant,far away;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・遠くまで・(雄物川を)遡った(場所にある。地域)」(「ママオ」のAO音がO音に変化して「マモ」となった)

  または「イア・ママウ・ト」、IA-MAMAU-TO(ia=indeed,current;mau,mamau=grasp,wrestle with;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・(悪戦苦闘して)やっと・辿り着いた(地域)」(「ママウ」のAU音がO音に変化して「マモ」となった)

の転訛と解します。

(2-3) 仙北(せんぼく)郡

 古代から中世の仙北郡は、横手盆地(後出(13)横手市の項を参照してください)の山本・平鹿・雄勝の3郡を山北(せんぼく。仙北とも)3郡とも称し、また山北(仙北)郡とも称しました。山北の初見は『三代実録』元慶4年2月条、山北郡の初見は『吾妻鏡』文治6年1月条です。

 近世から現代にいたる仙北郡は、寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、それまでの山本郡(前出(2-2)山本郡の項を参照してください)を仙北郡と改称しました。

 この「せんぼく」は、

  「テ(ン)ガ・パウク」、TENGA-PAUKU(tenga=Adam's apple,goitre;pauku=a thick closely woven cloak,swelling)、「(のど仏のように)膨らんだ山が・密集する(地域)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「セン」と、「パウク」のAU音がO音に変化して「ポク」から「ボク」となった)

の転訛と解します。

(2-4) 秋田(あきた)郡・檜山(ひやま)郡

 秋田郡は、古代からの郡名で、齶田・穐田とも書き、おおむね雄物川河口部以北の秋田平野を中心とする地域ですが、時代により郡域が異なります。『日本書紀』斉明紀4(658)年4月条に齶田(あぎた)浦、同5年3月の条に飽田(あきた)郡(令制郡ではありません。また、この条は4年4月条の異伝であろうとの説があります)としてみえ、『続日本紀』天平5(733)年12月条には「出羽柵を秋田村高清水の岡に遷す」とあります。建郡は、『日本後紀』延暦23年11月条で、「城を廃し、(秋田)郡と為す」とあります。『三代実録』貞観元年3月条に「出羽国秋田郡」がみえます。『和名抄』は「阿伊多」と訓じています。

 戦国時代末期、檜山安東家と湊安東家を統一した安東愛季・実季父子が秋田氏を名乗り、その領内を秋田郡と称しました。小鹿島・豊島郡・檜山郡と由利郡の一部を含みます。のち、天正19年豊臣秀吉もこの郡域を認めます。慶長7年から秋田藩領となり、秋田郡は小鹿島を含み旧秋田郡と比内郡を郡域としました。明治11年北秋田郡・南秋田郡に分かれます。

 檜山郡は、中世から近世の郡名で、戦国時代末期から寛文4年まで続きました。郡名の初見は、天正19年正月の豊臣秀吉朱印状で、米代川河口の檜山城に拠った檜山安東氏の支配していた地域です。寛文4年4月秋田藩の郡制整備により、それまでの檜山郡は山本郡と改称されました。

 この「あきた(あいた)」、「あぎた」、「ひやま」は、

  「アキ・タ」、AKI-TA(aki=dash,abut on;ta=dash,lay)、「(北の蝦夷地との)境を接する(場所に)・位置する(地域)」(「アキ」のK音が脱落して「アイ」となった)

  「ア(ン)ギ・タ」、ANGI-TA(angi=move freely;ta=dash,lay)、「(湊となる河口が洪水のたびに)移動する(場所に)・位置する(湊。その湊を中心とする地域)」(「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となった)

  「ヒイ・アマ」、HII-AMA((Hawaii)hii=to hold or carry in the arm as a child,tall as cliff or mountain;ama=outrigger of a canoe,thwart of a canoe)、「(カヌーの)舳先のように・高い山(その山に造られた城。その城が支配する地域)」(「ヒイ」の語尾のI音と「アマ」の語頭のA音が連結して「ヒヤマ」となった)

の転訛と解します。

(2-5) 河辺(かわべ)郡・豊島(としま)郡

 河辺郡は、古代から現代の郡名で、初見は『続日本後紀』承和10年12月条、建郡は『日本後紀』延暦23年11月条に「河辺府」(在河辺郡でなく、在出羽郡河辺郷とする説があります)がみえ、秋田郡の建郡の前後と考える説があります。雄物川下流を中心としますが、郡域は、時代によって異なります。和名抄は「加波乃倍(かはのべ)」と訓じます。

 和名抄所載の郷の現在地比定によれば、古くは北は雄物川河口以南および支流岩見川流域を含んで秋田郡、東は山北3郡、南は子吉川を境に飽海郡、西は日本海に接していたと考えられます。由利郡((16)由利郡の項を参照してください)成立後、雄物川以南は由利郡に属しました。中世末期から寛文4年までは岩見川流域を中心に豊島郡と称しました。寛文4年以降、雄物川下流部と支流太平川以南、岩見川流域を中心としました。平成17年1月市町村合併により秋田市に合併して河辺郡は消滅しました。

 この「かわべ(かわのべ)」、「としま」は、

  「カワ・ノペ」、KAWA-NOPE(kawa=heap,reef of rocks,passage between rocks and shoals;nope=constricted)、「(雄物川の下流の)水路が・(圧縮された)蛇行する(地域)」

  「ト・チマ」、TO-TIMA(to=drag,open or shut a door or a window;tima=a wooden implement for cultivating the soils)、「(潮流が潮の干満に伴って)上下する・(堀棒で掘り散らかしたような)屈曲が多い(川の流域の地域)」

の転訛と解します。

(3) 秋田(あきた)市ー久保田(くぼた)

 秋田市は、県中央部の雄物川下流にあり、日本海に面した県庁所在地です。

 男鹿半島の項で解説しましたように、『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)浦、同5年3月の条に飽田(あきた)郡(この条は4年4月の条の異伝であろうとの説があります)としてみえ、『続日本紀』天平5(733)年には「秋田村」とあります。『和名抄』は「阿伊多」と訓じています。藩政時代には、久保田(くぼた)といい、明治12年秋田県、秋田市となりました。

 この語源は、(1) 雄物川河口の「アクタ(悪土、芥)」から、

(2) 稲作に適しない「アクタ(悪田)」から、

(3) 「アギ(顎)」で顎に似た地形の場所の意、

(4) アイヌ語の「アキ(葦)・タイ(茂る所)」からという説があります。

 齶田浦の「アギタ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ギ・タ」、ANGI-TA(angi=move freely;ta=dash,lay)、「(湊となる河口が洪水のたびに)移動する(場所に)・位置する(湊。その湊を中心とする地域)」

の転訛と解します。齶田浦は、雄物川河口にあったと比定されており、雄物川の意味((いつも溢れては)川筋を変えて速く流れる(川))と符合します。

 また、この「くぼた」は、

  「ク・ポタ」、KU-POTA(ku,kuku=firm,thickened;pota=broken,small)、「細かい(砂礫が)・固まった(土壌の土地。地域)」

の転訛と解します。(『日本後紀』延暦23年11月条には「秋田城は、…土地は痩せて穀物生産には不適当…。」とあります。)

 

(4) 米代(よねしろ)川

 米代川は、奥羽山脈の岩手県安代町に源を発して秋田県に入り、多くの支流を合流しながら、花輪(鹿角)盆地、大館盆地、鷹巣盆地、出羽山地を貫流し、能代平野から日本海に注ぎます。

 この「よねしろ」は、

(1) 古代の渟代(ぬしろ)から「ヌ(野)・シロ(砂地)」の意、

(2) 上流の安代の長者が流す米のとぎ汁で白濁する「米白」川の意、

(3) 「ヨネ(砂)・シロ(苗代)」の意、

(4) アイヌ語の「ノ(野)・シロ(大きい)・ル(路)」などの説があります。

 この「ヨネシロ」は、マオリ語の

  「イオ・ネイ・チロ」、IO-NEI-TIRO(io=strand of a rope,line;nei,nenei=waggle;tiro=look)、「綱が・尻尾を振っている(蛇行している)・ように見える(川)」

の転訛と解します。

 

(5) 能代(のしろ)平野ー奚后(きみまち)坂

 秋田県北西部、日本海に注ぐ米代川下流に能代平野があり、能代市があります。米代川は、河口付近では能代川と呼ばれています。

 この地名は、古く前出の『日本書紀』斉明紀4(658)年4月の条に齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)二郡の名としてみえ、『続日本紀』宝亀2(771)年の条には「野代湊」として渤海国使の来往がみえています。その後、元禄年間(1688~1704年)に「野代」は地震で野に代わる不吉な名として「能代」に改めたといいます。

 この「ヌシロ」または「ノシロ」は、マオリ語の

  「ノチ・ロ」、NOTI-RO(noti=draw together,pinch;ro=roto=inside)、「内陸部で狭くなっている(川。またはその川が流れる平野)」

の転訛と解します。米代川が能代平野に出る直前の二ツ井狭窄部では、米代川に阿仁川、藤琴川、田代川、種梅川などが狭い範囲内で次々に合流しています。この二ツ井狭窄部をさして「内陸部で狭くなっている」と表現したものです。

 この狭窄部に、切り立った数十メートルの断崖に、奇岩怪石が散在する芝生の前庭が配された奚后(きみまち)坂の景勝地があります。この地名は、明治天皇東北巡幸時に、皇后からの便りをここで受け取ったことに由来するといいますが、古くからこの地名があったとすれば、これはマオリ語の

  「キミ・マチ」、KIMI-MATI(kimi=seek,look for;mati,matimati=toe,finger)、「(奇岩怪石の数が多いので、数を勘定するために両手の指では足りなくてさらに)指を探す(土地)」

の意と解します。

 

(6) 阿仁(あに)川

 秋田県北部、北秋田郡南部を北流する米代川の最大の支流の阿仁川の上流には、「阿仁マタギ」と呼ばれる特有の狩猟習俗を保持する人々が居住し、冬はツキノワグマ(以前はカモシカ)を狩り、夏はそれから得た民間薬を行商していたことで知られています。

 また、阿仁川中流には、近世において別子鉱山と並ぶ大鉱山であった阿仁十一カ山とも、阿仁六カ山とも呼ばれる金・銀・銅山の総称である阿仁鉱山がありました。

 この「あに」は、(1) 「ハニ(埴。赤土)」の転、

(2) アイヌ語の「アニ(居住する)・イ(谷)」の意などの説があります。

 この「アニ」は、マオリ語の

  「ア(ン)ギ」、ANGI(light air,fragrant smell,move freely)、「明るい(香わしい)空気に満ちている(地域。そこを流れる川)」または「(狩猟、行商のために)自由に移動する(人々の住む地域。その地域を流れる川)」

の転訛(「ア(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「アニ」となった)と解します。「鹿角」も含めて、古くからこのような狩猟民が住む地域であったのでしょう。

 

(6-2) 鹿角(かづの)郡・比内(ひない)郡・贄(にえ)の柵

 鹿角郡は、古代から現代の郡名で、米代川上流域の花輪盆地を中心とする地域で、古代には上津野(かつの)村として蝦夷地扱いで出羽国秋田城の管轄でした。郡名の初見は、文保2年12月の関東下知状に陸奥国鹿角郡とあり、建郡は西の比内郡、北の津軽平賀郡、東の糠部郡などと同様平安末期かとする説があります。中世から近世にかけては米代川の最上流部の二戸郡西部は当郡に属していたようです。近世には南部藩領で、西の秋田藩、北の津軽藩との間で境界争いが絶えませんでした。明治になって郡域・所属は変遷を重ね、同4年11月廃藩置県により秋田県鹿角郡となりました。

 比内郡は、中世陸奥国の郡名で、肥内、比那井とも書き、米代川中流の大館盆地と鷹巣盆地を中心とする地域で、北は陸奥国津軽平賀郡・津軽鼻和郡、東は陸奥国鹿角郡、南は出羽国豊島郡・山本郡、西は出羽国檜山郡・秋田郡に接しました。郡名の初見は、『吾妻鏡』文治5年8月条ですが、平安末期には成立していたとする説があります。この地には、鎌倉勢に追われて平泉から蝦夷地へ逃げようとした藤原泰衡が比内郡の贄(にえ)の柵で子飼いの郎党河田次郎の裏切りによつて首を討たれたと伝えられています。のち比内郡を浅利氏が支配しますが、やがて鹿角郡を押さえた南部氏と檜山城に拠った安東氏に挟撃され、天正のはじめに安東氏に降り、陸奥国比内郡は出羽国秋田郡に併合され、豊臣秀吉もこれを認めました。明治11年秋田県北秋田郡となります。

 この「かづの」、「ひない」、「にえ」は、

  「カハ・ツヌ」、KAHA-TUNU(kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill;tunu=roast,broil)、「(温泉が多いことから)炙られているような・辺境の(地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「ツヌ」が「ツノ」となった)

  「ヒ・ヌイ」、HI-NUI(hi=raise,draw up,rise;nui=large,many)、「ひときわ・高い(山(独立峰の田代岳。1178m)がある。地域)」(「ヌイ」が「ナイ」となった)

  「ニエ」、NIE((Hawaii)nie=niele=to keep asking questions)、「(通行人を)誰何する(柵。関所。砦)」

の転訛と解します。

(6-3) 達子森(たつこもり)・サツ比内(さっぴない)・長内沢(おさない)

 秋田県大館市比内町(旧北秋田郡比内町)にアイヌ語地名が集中しているとされる地域があります。大館市街地の南の米代川の支流犀川のほとりに「美しい達子森の丘」があり、アイヌ語の「タプコプ」、(Aynu)tapkop(離れてぽつんと立っている円山)、「たんこぶ(のような山)」とされます(山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』草風館、1993年)。

 犀川の上流、支流の炭谷川の中流、日詰の東の「特に広い山ひだになっている処」があり、そこの川は「夏になると水がなくなる」、アイヌ語の「サツ・ピ・ナイ」、(Aynu)sat(水の涸れている、乾いた)-pi(石、小石)-nay(川)、「乾いた・石の・川」とされます(山田秀三、同上)。

 同じく犀川の支流に長内沢(おさない)川があり、この川は「山間を流れている上流ではいつでも水があるが、夏になるとそれが平地に出る長内沢部落の辺で水が川床の砂利層に吸い込まれてなくなるといい、アイヌ語の「オ・サツ・ナイ」、(Aynu)o(尻、川尻(川口))-sat(水の涸れている、乾いた)-nay(川)、「川口が・乾いている・川」とされます(山田秀三、同上)。

 縄文時代には、北海道にも東北地方にもアイヌ族がいた痕跡がなく、北海道南部地方に7世紀以降にはじめてアイヌ族の痕跡が出てきますので、これらの地名は最初縄文語でつけられたものが、仮にその後この地にアイヌが住むようになったとしても、この縄文語地名がそのままアイヌ語にあっても引き継がれたものと考えます。なお、「ペツ」地名は現在のところアイヌ語地名と考えられますが、それ以外は縄文語で解釈できるものは縄文語地名であった可能性が高いと思われます。

 この「たつこもり」、「さっぴない」、「おさない」は、マオリ語の

  「タツ・カウ・マウリ」、TATU-KAU-MAURI(tatu=be at ease,be content,agree;kau=alone,bare,only;mauri=a variety of totara timber,dark in colour,and light in weight,valued for making canoes)、「(のんびりと満足している)きれいに膨らんだ・独立した(山で)・カヌーの製作に適した木(が生えている。山)」(「カウ・マウリ」のAU音がO音に変化して「コ・モリ」となった)

  「タピ・ナイ」、TAPI(tapi=earth oven,find fault with;nai=nei,neinei=Dracophylium latifolium,a shrub)、「(下に石を敷き詰めた蒸し焼き穴のような)石ころだらけの・灌木の生えている(場所。そこを流れる川)」(「タピ」が「サッピ」となった)

  「オ・タハ・ナイ」、O-TAHA-NAI(o=the...place of;taha=side,margin,edge,part,portion,pass on one side;nai=nei,neinei=Dracophylium latifolium,a shrub)、「例の・(川の水が砂利層の)下を潜って流れる(場所で)・灌木が生えている(ところ)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」から「サ」となった)

の転訛と解します。

(7) 花輪(はなわ)(鹿角(かづの))盆地ー毛馬内(けまない)・尾去沢(をさりざわ)・湯瀬(ゆぜ)温泉・後生掛(ごしょがけ)温泉

 米代川の上流に花輪(鹿角)盆地があります。花輪盆地の南半部、米代(よねしろ)川の上流部には南部藩の代官所が置かれた花輪地区があり、北半部の大湯川と小坂川の合流点には同じく南部藩の代官所があった毛馬内(けまない)地区があります。この合流した川は、すぐ下流で米代川に合流します。

 この鹿角盆地の周辺には、狭い範囲内に銅、鉛、亜鉛、金、銀などの他種類の金属を含む数百条の割れ目充填鉱床があった尾去沢(をさりざわ)鉱山や、明治末期から大正はじめにかけて日本最大の銅生産量を誇った小坂(こさか)鉱山などの日本有数の鉱山がありました。

 また、盆地周辺には環状列石遺跡が近くにある大湯温泉や、米代川上流には、十和田八幡平国立公園の湯瀬(ゆぜ)温泉(単純硫化水素泉)、後生掛(ごしょがけ)温泉(酸性硫化水素泉)など温泉が多くあります。

 この鹿角盆地(郡、市)の「かづの」は、『三代実録』元慶2(878)年の条に「上津野(かつの)」とあります。

 その語源は、(1) 「カミツ(米代川の上流に開けた)・ノ(野)」、

(2) 「カハウチ(川内)」の約の「カチ」・「ノ(野)」と解する説があります。

 この「カヅノ」は、マオリ語の

  「カハ・ツヌ」、KAHA-TUNU(kaha=boundary line of land etc.,edge,ridge of a hill;tunu=roast,broil)、「(温泉が多いことから)炙られているような・辺境の(地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「ツヌ」が「ツノ」となった)

の転訛と解します。

 また、花輪の「はなわ」は、塙(はなわ)で、(米代川の河岸段丘の)高い所の意とされています。

 この「ハナワ」は、マオリ語の

  「ハ・(ン)ガワ」、HA-NGAWHA(ha=breathe,flavour,what!;ngawha=burst open,split of timber,boiling spring)、「(空気が)香わしい・(木が二股に裂けたように米代川と大湯川の)川が二つに裂けている(地域。盆地)」または「(空気が)香わしい・沸騰する温泉が湧出する(地域。盆地)」(「(ン)ガワ」のNG音がN音に、WH音がW音に変化して「ナワ」となった)

  または「ハ(ン)ガ・ワ」、HANGA-WA(hanga=make,work,head of a tree;wa=definite space,unenclosed country,be far advanced)、「木のてっぺんのような(米代川の上流の高地の)・辺境の地(地域)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ハナ」となった)

の意と解します。

 毛馬内の「けまない」は、(1) 「ケミナイ(検見内)」から、

(2) アイヌ語の「ケ(葦)・マ(沼)・ナイ(谷、川)」から、

(3) 「ケマ(漁具)・ナイ(谷、川)」の意と解する説があります。

 この「ケマナイ」は、マオリ語の

  「ケ・マ(ン)ガイ」、KE-MANGAI(ke=strange,different;mangai=mouth)、「特異な口(川を併せて呑む場所(川の合流点=口)が二段階になっている特異な地形の場所)」

の転訛(「マ(ン)ガイ」のNG音がN音に変化して「マナイ」となった)と解します。

 尾去沢の「オサリザワ」、小坂の「コサカ」は、マオリ語の

  「オタ・リ・タワ」、OTA-RI-TAWHA(ota=dregs;ri=bind;tawha=crack)、「滓(のような鉱脈)が付着している割れ目(がある山)」

  「コウ・タカ」、KOU-TAKA(kou=knob,stump;taka=heap,heap up)、「高いところにある瘤のような山」

の転訛と解します。

 湯瀬温泉の「ユゼ」、後生掛温泉の「ゴショガケ」は、マオリ語の

  「イ・ウテ」、I-UTE(i=ferment;ute,whakaute=care for)、「病気を治療する泡を立てて噴出する(湯)」

  「(ン)ガウ・チオ・カケ」、NGAU-TIO-KAKE(ngau=bite,affect;tio=sharp,cry;kake=ascend,overcome)、「(皮膚を刺すような)鋭い刺激が人を圧倒する(湯)」(「(ン)ガウ)」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

の転訛と解します。

 

(8) 発荷(はっか)峠

 青森県の部ですでに解説した十和田湖の南の入り口の峠で、展望の良いことで知られています。峠からは九十九折りの国道103号が湖岸に通じています。

 この「ハッカ」は、マオリ語の

  「ハ・ツカハ」、HA-TUKAHA(ha=breathe;tukaha=strenuous,hasty)、「息急(いきせ)き切(って登)る(坂、峠)」(「ツカハ」の語尾のH音が脱落して「ツカ」となった)

の転訛と解します。

 

(9) 田沢(たざわ)湖ー辰子潟(たつこがた)・クニマス

 鹿角郡の南に、日本で最大水深(423メートル)を持ち、摩周湖に次ぐ第2位の透明度を誇り、ほぼ円形の陥没カルデラ湖である田沢湖があります。湖岸から急に深くなり、湖底の中央はほぼ平坦です。水位の年間変動は1メートル程度で、冬季も氷結しません。

 この「たざわ」は、湖の北東の田沢集落の名にちなむもので、「タ(水田)・サワ(タマ川の沢)」の意とする説があります。

 この「たざわ」は、マオリ語の

  「タタ・ワ」、TATA-WA(tata=bail water;wa=place)、「船のあか水(が流れ出すように湖の水)が流れ出す場所(湖)」(「タタ」が「タザ」となった)

の転訛と解します。

 また、田沢湖の別名は、悲恋のすえ湖に身を投げて龍神に化身し、湖の主になったという辰子姫伝説にちなんで辰子潟(たつこがた)といいますが、この「タツコガタ」は、マオリ語の

  「タ・ツコフ・(ン)ガタタ」、TA-TUKOHU-NGATATA(ta=the;tukohu=a cylindrical basket used for holding food while steeping in water,or while cooking in a hot spring;ngatata=split,open)、「(一箇所)切れている(流れ出す川がある)・円筒形の魚篭(のような湖)」(「ツコフ」のH音が脱落して「ツコ」と、「(ン)ガタタ」のNG音がG音に変化し、反復語尾の「タ」が脱落して「ガタ」となった)

の転訛(語尾の「フ」が脱落した)と解します。田沢湖の地形をよく表現しています。辰子姫伝説は、このマオリ語源地名から付会された可能性が高いと思われます。

 田沢湖には、かつて辰子姫伝説(悲恋のすえ湖に身を投げて龍神と化し、投げ捨てた松明がクニマスとなったとも、自らの美貌を永遠に保ちたいと観音に願掛けして霊泉の水を飲んで龍神と化し、帰らぬ娘を捜して龍となった姿に驚愕した母が投げ捨てた松明がクニマスとなったともいいます)にちなむ陸封性のクニマスが生息していましたが、昭和15(1940)年ごろに湖の東を流れる強酸性の玉川の水を引き入れ、発電を開始したのに伴っていったん絶滅しました。クニマスは、体長30~40cm、成魚は全体に黒色で、美味な高級魚とされていました。クニマスの語源は、江戸時代に田沢湖を訪れた秋田藩主がクニマスを食べ、お国産の鱒ということで国鱒と名付けられたと伝えられています。

 平成22年12月に山梨県の西湖で絶滅したと考えられていたクニマスが生育しているのが確認されました。

 この「くにます」は、

  「クニ・マツ」、KUNI-MATU((Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle,scorch;matu=fat,richness of food,kernel of a matter)、「(松明の燃えさしが魚になったという伝説が残る)焼けぼっくいのような(黒い色をした)・美味しい(魚)」(「マツ」が「マス」となった)

の転訛と解します。

(10) 玉(たま)川ー抱返(だきがえり)渓谷

 玉川は、八幡平大深岳付近に源を発し、仙北郡東部を南流して,大曲市花館で本流に合流する雄物川最大の支流です。

 上流の渋黒川流域にある玉川温泉から強酸性の水が流れ出すため、「玉(たま)川の毒水」として有名でした(現在は改良対策の実施によって改善されています)。

 田沢湖の南の玉川の中流には、急峻で狭いので、すれ違うとき抱き合って振り返ったことにちなむという抱返(だきがえり)渓谷の景勝地があります。

 この「タマガワ」は、マオリ語の

  「タ・マ(ン)ガ・ウア」、TA-MANGA-UA(ta=the;manga=branch of a river;ua=expostulation)、「(毒水だから近寄るなと)忠告する川の支流」

の転訛と解します。

 この「ダキガエリ」は、マオリ語の

  「タキ・(ン)ガエレ」、TAKI-NGAERE(taki=take to one side,track;ngaere=quake,oscillate)、「(嶮しくて)震えながら路を辿る(渓谷)」

の転訛と解します。

 

(11) 雄物(おもの)川

 雄物川は、奥羽山脈の神室(かむろ)山地に源を発し、皆瀬川などと合流して横手盆地を北流し、玉川と合流して西流し、出羽山地を蛇行しながら秋田平野に入り、日本海に注ぎます。日本三大急流の一つとされています。天長7(830)年の文献には「秋田河」、正保4(1647)年には「御物川」(『出羽国御絵図』)、元文・延享年間には「御膳川」(『久保田城下絵図』)、明治7年には「雄物川」(『本県触示留』)とあります。

 この語源は、

(1) 山北三郡(仙北、平鹿、雄勝郡)の貢物(おもの)を舟で運ぶ川、

(2) 木材など大物(おおもの、だいもつ)を運ぶ川、

(3) オモ(重)ノ(野)で、重要な川、

(4) オモ(重)ヌ(沼)の転で、河口に沼や湿地のある川、

(5) アイヌ語でオム・ナイ(塞がる川)などの説があります。

 この「オモノ」は、マオリ語の

  「オ・モノ」、O-MONO(o=the place of,belonging to;mono=plug,caulk,disable by means of incantations)、「しばしば・(河口が)塞がる(そのために氾濫する。川)」

  または「オモ・(ン)ガウ」、OMO-NGAU(omo=gourd;ngau=wander,raise a cry,bite,hurt,attack)、「さまよう(蛇行する)・(水を溜める)ひょうたん(のような。川)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった) 

の転訛と解します。山形県の最上川の支流で米沢市を流れる「鬼面(おもの)川」や、高知県宿毛市山奈町山田の「大物川(おものかわ)」も同じ語源でしょう。

 なお、類例として、愛媛県の面河(おもご)川、面河渓がありますが、これも後者と同じ語源で、

  「オモ・(ン)ガウ」、OMO-NGAU(omo=gourd;ngau=wander,raise a cry,bite,hurt,attack)、「さまよう(蛇行する)・(水を溜める)ひょうたん(のような。川)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった) 

の転訛と解します。

 

(12) 平鹿(ひらか)郡

 秋田県南東部、横手盆地の南半部に平鹿郡があり、平鹿(ひらか)町があります。古代からの郡名ですが、その範囲はやや異なっています。この横手盆地は、奥羽山脈と出羽山地の間にあり、奥羽山脈側には雄物川の支流、皆瀬川、旭川等によって形成された扇状地が発達しています。

 この「ひらか」は、「ヒラ(傾斜地)・カ(処)」の意とされています。

 この「ヒラカ」は、マオリ語の

  「ピラカラカ」、PIRAKARAKA(fantail)、「扇の尾をもつ駒鳥(扇状地を流れる川)」

の転訛(「ピラカ」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒラカ」となり、同音反復の語尾「ラカ」が脱落した)と解します。

 石川県金沢平野の南に大扇状地を形成する手取川は、古名を「比楽(ひらか)河」といい、『延喜式』主税上の部の諸国運漕雑物功賃の条に越前国比楽(ひらか)湊の名がみえ、今も手取川河口の石川県石川郡美川町に平加(ひらか)町の名が残っており、同じ語源です。青森県南津軽郡平賀町も、浅瀬石川の扇状地の上に位置しており、同じ語源です。

 

(13) 横手(よこて)市

 横手盆地のほぼ中央に横手市があります。

 この「よこて」は、「平鹿郡の平地の横」の意とする説などがあります。

 この「ヨコテ」は、マオリ語の

  「イオ・コテ」、IO-KOTE(io=muscle,line;kote=squeeze out,crash)、「絞られて粉々になった綱(狭い峡谷から一挙に盆地に出て扇状地を形成した川。そのあたり)」

の転訛と解します。

 

(13-2) 雄勝(おがち)郡

 雄勝郡は、古代から現在にいたる郡名で、雄物川の上流部、横手盆地の南端に位置し、北は平鹿郡、東は奥羽山脈をもって陸奥国磐井・胆沢・和賀の3郡、南は栗原・玉造の両郡、西は由利郡に接します。建郡は『続日本紀』天平5年12月条に出羽柵を秋田村に遷し、「雄勝村に郡を建つ」とします。和名抄は「乎加知(おかち)」と訓じます。

 この「おかち」は、

  「オ・カチ」、O-KATI(o=of,belonging to;kati=block up,shut of a passage,barrier)、「(陸奥国と出羽国との)交通を阻む・(と言ってもよい)場所(地域)」

の転訛と解します。

(14) 院内(いんない)銀山

 秋田県の南端、雄勝郡雄勝町の西部に、かつて17世紀の初頭から20世紀はじめまでにかけて、石見銀山、生野銀山と並ぶ大銀山であった院内銀山がありました。

 発見は慶長11(1606)年といわれ、一時は人口1万人、幕府運上銀200貫を越えましたが、常に湧水に悩まされ、その後文化10(1813)年に金の抽出に成功し、再び盛況を取り戻し、明治期には古川鉱業の手によって飛躍的な産出の増加を見せましたが、終戦後鉱脈の枯渇によって廃山となりました。

 この「インナイ」は、マオリ語の

  「イヌ・ヌイ」、INU-NUI(inu=drink;nui=large,numerous)、「大量の水を呑む(坑内に大量の湧水がある鉱山)」

の転訛と解します。

 

(15) 小比内(こびない)山

 雄勝町の院内銀山の東、雄勝町と湯沢市の間に、小比内山(1,004メートル)があります。この山は、「小」とい名がつけられてはいますが、南の栗駒国定公園の山々の前に屹立する堂々たる山容のほぼ独立した大きな山で、西側には役内川が、東側には高松川が北流し、小比内山の北で雄物川に合流します。高松川の上流には、日本三大霊場の一つと称する川原毛温泉の川原毛地獄があります。

 この「コビナイ」は、マオリ語の

  「コピ・ヌイ」、KOPI-NUI(kopi=hold between the legs,doubled together,gorge of a river;nui=large)、「両脚(二つの川)に挟まれた大きな(山)」

の転訛と解します。

 この「コピ」の類例として、岐阜県美濃加茂市に古井(こび)町があります。この町は、木曽川に合流する飛騨川の右岸の合流点付近にあり、その対岸、木曽川の左岸付近の地名は川合(かわい)です。この「コビ」は、マオリ語の

  「コピ」、KOPI(doubled together)、「二つの川が合流するところ」

の転訛であることは、いうまでもありません。しかも、大変珍しいことに、合流点を挟んで同じ意味を持つ「古井」と「川合」の地名があるという、典型的ないわゆる「双子地名」です。

 さらに、岩手県胆沢郡胆沢町の胆沢川の石淵ダムの横に媚(こび)山(684メートル)があります。この「コビ」は、石淵の名に明らかなように「峡谷(gorge of a river)」の意味です。

 

(16) 由利(ゆり)郡・飽海(あくみ)郡

 由利郡は、古代から現代までの郡名で、由里、油利、油梨、遊里、百合などとも書き、秋田県の南西部、雄物川流域の南部から鳥海山山麓にかけての広い地域が由利郡の地域です。郡名の初見は『吾妻鏡』建保元年5月条ですが、建郡は平安末期に飽海郡の北部(雄波・由利・余部の3郷)および河辺郡の南部(川合・中山・邑知・田郡・大泉の5郷)を割いて由利郡としたとみる説があります。平成17年10月市町村合併により由利郡は消滅しました。

 この郡名は、砂丘地を指す「ユリ、ユラ」に由来し、「砂がゆすり上げられた土地」と解する説があります。

 この「ユリ」は、マオリ語の

  「イフ・リ」、IHU-RI(ihu=nose,bow of a canoe;ri=screen,protect,bind)、「(カヌーの)舳先(のようにそそり立った鳥海山)が・衝立となっている(地域)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)

の転訛と解します。

 飽海郡については、山形県の(3)飽海(あくみ)郡の項を参照してください。

 

(17) 象潟(きさかた)

 秋田県南西端にかつて東の松島と対比される「象潟」の景勝地がありました。由利郡象潟町から北となりの金浦(このうら)町南部におよぶ入り江で、東西1.5キロメートル、南北5キロメートルの小さな地域に、俗に八十八潟九十九島といわれる、松島を凝縮したような風景が展開していました。

 『奥の細道』で芭蕉は”松島は笑ふがごとく象潟はうらむがごとし”と述べ、”象潟や雨に西施がねぶの花”と詠んでいます。

 この地は、文化元(1804)年の象潟地震による地盤隆起によって干上がり、のちに水田化されました。

 古くは蚶方(きさかた。『延喜式』)といい、室町時代は蚶潟、応永年間(1394~1428)に象潟となっています。

 この地名は、(1) 古くはここでキサガイ(巻き貝の一種)が採れたから、

(2) 「キサ(刻)・カタ(潟)」からとする説があります。

 この「キサカタ」は、マオリ語の

  「キ・タ・カタ」、KI-TA-KATA(ki=full,very;ta=dash,beat,lay;kata=opening of shellfish)、「たくさんの(小島が)・ある・貝が口を開いたような場所(潟)」