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ヒルティ喫茶:虹息

気高い人間は、誰にも恥をかかせないことを自分の原則とする

2021.03.14 13:46

ヒルティは、立場の違う人たち、カトリックや教会教条主義者、霊見者、神智学者、ユダヤ教徒、回教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、社会主義者や無神論者、唯物論者、超人思想者、ニヒリズム、ときには“敵”に位置する人たちに対してさえ、しばしば、彼らの善いところは善いとその価値を認め、リスペクトします。そんなヒルティの文章を読んでいると、すがすがしい気持ちになります。 

それぞれの信奉者があまり取り上げなかったような言葉も、ヒルティは掬い取って、私たちに伝えてくれています。 今晩はそのような箇所で、とりわけ好きなものを2つほどご紹介します。 


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 あるまったく唯物論的な哲学者が次のような美しい言葉を述べている、 


 われわれの目に入るあらゆる悲惨をわれわれ自らの恥とすべきだ、 


 と。 

『眠られぬ夜のために 第一部』 1月11日 


 人間に対する、また一般に我々の周囲の世界全体に対する、さらには動物や植物に対する正しい関係とは、どういうものか、この点について、ニーチェが、 


 気高い人間は、誰にも恥をかかせないことを自分の原則とし、 

また何か生き物が苦しんでいるのを見ると、いつも自ら恥ずかしく思う、 


 と言っているのはまことによい思想である。 

『幸福論 第三部』〈われらはなにをなすべきか〉岩波文庫p.268


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人生の折り返しを過ぎて私は思います。

どんな人も傷つけようと意図してはいけない。能うる限り、侵襲を与えずに、さらには、親愛をもって接するのが真の人である。

だから、

どんな理由であったにしろ、怒っているときは、いつも間違っている。

人を嫌悪したり憎んだりしているなら、それは円満な状態と言えない。

なぜなら、一人の例外なく、天の父はその人をわが子として愛し、その蘇りを望んでおられるから。

その人も私も含めたすべての人によって、ひとりの人間を形成しているから。あっちにいけと目の前から消えて、永遠に会わないで構わない人などいない。

愛が宇宙の法であるならば、その人の悪に、不幸に、病に、ひとつの責も任もないことなどありえない。 

今は己が愛のなさゆえに近しくなることが困難であったとしても、永遠に“排斥”していい人(不俱戴天の仇)など一人も存在しない。 

と。