Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

実方中将の墓

2018.03.15 02:48

https://japanmystery.com/miyagi/sanekata.html 【実方中将の墓【さねかたちゅうじょうのはか】】より

藤原実方は中古三十六歌仙の一人であり、歌道に秀でた人物である。美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人である)。そのため後世において『源氏物語』のモデルの一人と目されている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。

長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出てしまった。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と実方に命じて陸奥守に左遷したのである。

本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずだったのであろうが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。

長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない、と。

この返答に対して実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎてしまった。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけたために、実方は落馬して打ち所が悪く死んでしまったのだという。

実方中将の墓は伝承通り、かつて笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考えて良さそうである。

この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。

<用語解説>

◆藤原行成

972-1028。藤原北家で、祖父は摂政太政大臣となった伊尹。父の早世のため昇進が遅れたが、上の藤原実方との悶着の際の沈着冷静さによって、蔵人頭に抜擢される。後に大納言。能吏として信任篤く、また能書家として小野道風、藤原佐理と共に“三蹟”とされる。

◆出雲路道祖神

現在の幸神社(さいのかみのやしろ)。京都御所の鬼門除けのために創建された。平安時代初期に、この地域は出雲氏(出雲国出身の豪族)が住んでいたとされ、出雲路という名称がついている。

◆佐倍乃(さえの)神社

祭神は、猿田彦大神と天鈿女命の夫婦神。“さえの”という名称は“さいのかみ”から来たものであると考えられる。また実方中将の墓のそばにあった佐具叡神社(延喜式式内社)が合祀されている。


https://4travel.jp/travelogue/10676843  【奥の細道を訪ねて第8回11三十六歌仙の一人藤原実方(左近衛中将実方)の墓 in 名取市】 より

続いて藤原実方の墓へ向かう。

田園風景が広がる道端にしては、不似合なほど大きな”中将藤原実方朝臣の墓”と云う案内板を過ぎ、小川に架かる木製の”実方橋”を渡ると、更に実方の墓と芭蕉の句碑の案内板がある。

案内板の奥には、最近余り目にした事が無い籾殻の山が庭の片隅にある農家。

その農家の角に古木が生え、木の根元に僅かにススキが見られ、”かたみのすすき”と案内板が建って居る。

その下にここを訪れる事が出来無かった無念さが漂う芭蕉の句があった。

   笠島は いづこ皐月のぬかり道  はせを

僅かなススキの草叢に隠れるように、松洞馬年の句碑もある。

   笠島は あすの草鞋ぬき處   馬年

その農家の脇に、杉の木と孟宗だけで覆われた小道が延び、その先に簡単な木製の囲いがあり、前後にその囲いにそぐわない立派な石碑が見える。

囲いの脇に”中将藤原実方朝臣の墓”と刻まれた石塔。

近付いて囲い中を覗くと中心にやっとそれと判る盛り土があり、印ばかりの祈り紙を結んだ棒が建っていた。

中将藤原実方は、乗馬のままで道祖神社の前を通らんとし、落馬して命を落とし、ここに葬れれたと云われる。

囲いの周りの立派な石碑は、前方右にあるのが西行法師の歌碑で、芭蕉の句碑の傍に有った”かたみにすすき”は、歌詞の”かれ野のすすき”名残り?。  

   朽ちもせぬ 其名ばかりを留置きて

       かれ野のすすき かたみにぞ見る   西行

囲いの後方左手にあるのが、囲いの墓の主中将藤原実方朝臣の歌碑。

   さくらがり 雨はふりきぬおなじくは

        ぬるとも花の 影にかくれむ    実方

う〜ん・・西行がはるばる訪れ、芭蕉が訪れることが叶わず、悲痛な思いにかられたのとは対称的と思われるこの質素な墓の主、”中将藤原実方朝臣”とは一体何者だろう・・と思う人は私に限らず多いに違いない。

平安時代の三十六歌仙に一人で、天皇の寵愛も強く、宮帝の花形歌人。

源氏のモデルとも云われた貴公子で、清少納言初め多くの女性と浮名を流す。

その為ライバルも多かったろう事は想像に難くない。

ライバルと争っての左遷説もあるが、陸奥に赴任するに際して、出世して正四位となり、”陸奥守”にも任じられ、中将も兼務しているから左遷ではない・・との説もあるらしい。

「拾遺集」などの勅撰集には実方の歌が六十七首も取り上げられており、西行等その道の人にとっては憧れの人だったのであろうし、西行を慕う芭蕉が同じ思いを抱いたとしても不思議なことでは無い・・とも思われる。

それにしても実方の墓の姿は、”乗馬のままで道祖神社の前を通らんとした報い”を表すものなのだろうか。

”小倉百人一首”の有名な恋の歌

    かくとだに えやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを  実方 

がこの実方だと知らされ、中将藤原実方朝臣がやっと少し身近になった。

それなら知ってるよと思われる方も多かろう。