定年後、荒野をめざす

ざわわの浜辺

2021.03.15 03:05

 42年前の今日、宮古島に初めて上陸した。3月15日のことだ。午後8時半に平良港着と、当時の日記に書いてあった。仲間さんという大学の先輩のお宅に泊めてもらい、サトウキビの収穫を手伝った。


 成川という集落だった。刈ったキビ畑がどこかは、わからない。でも、ざわわ、ざわわと風の音が聞こえてくるようだ。自転車でその場所を訪れた。

 成川集落の多くの家の門では、シーサーが睨みを効かせていた。悪霊や災厄を寄せ付けない琉球の守り神である。最近はピースサインや、誰の仕業か、不織布のマスクをつけたシーサーもあった。魔除けのシーサーもコロナは避けられないのか、辺境の島にもウイルス禍は容赦がない。

 あの頃、仲間さんのキビ畑で、5日間ほど働いた。そして最終日、集落の若い衆が集まって、近くの浜辺で飲むことになった。そこで、営まれた儀式のような酒盛りに、若かった僕は仰天した。


 10人ほどが車座になり、泡盛の瓶とガラスコップを次々に回していくのだ。自分の番になると、まずは自己紹介して、グイッと飲み干さないといけない。水やらお湯はない。生のまま、30度近い度数の酒を飲むのである。



●島の酒造メーカーの中には泡盛を洞窟で保存するサービスを展開しているところもある。多良川酒造で、一升瓶をキープした。封印を解くのは5年後だ。↓

 成川の浜辺の飲み会は、一度コップを飲み干した後にもまた、コップが回ってくる。その時にまた何か、自分のエピソードを話すのが決まりだ。一周、二周、三周。四周、五周あたりから、呂律が回らなくなった気がする。浜辺に闇が降りてきて、お開きとなった頃には、もう何も記憶が残っていなかった。


 後にオトーリという風習だと知る。初対面の人たちが、昔馴染みのように親しくなれるのが、この風習の不思議なところだ。酒飲みにはたまらないイベントである。


 実はその浜がどこか思い出せなかった。手がかりは仲間さんしか知らない。沖縄本島で現在、医師をしていると聞き、40何年ぶりかで連絡を取った。彼はそんな昔のことを覚えていてくれた。メールで連絡を取り合いながら、ついにその浜を探し当てた。宮古島の北西岸の、名もない浜辺だった。珊瑚のカケラや小さな貝がたくさん打ち上げられていた。

 しかし、右手に目を移すとむき出しの土の上を重機やトラックが行き来していた。看板に大手ゼネコンの名前があり、巨大なホテルの建設計画が進んでいた。開発業者は神奈川県の会社だった。一人のおばあが、浜辺で貝を拾っていた。話しかけると、「宮古島には何もない。海しかない。その海を本土が壊す」と、ホテル開発を憎々しく眺めていた。最近は土地バブルが起きて、3万5千円で借りれた中心部のアパートが、10万円に跳ね上がったと嘆いていた。


↓ 手前がホテル工事現場。奥がオトーリの浜辺

 このオトーリの浜ではもう一つの忘れられない記憶がある。珊瑚礁で築かれた小高い崖の穴蔵に、人骨が残っていたのだ。仲間さんが当時、案内してくれた。大腿骨が苔むしていたのを覚えている。無縁仏だという。


 「日本軍の兵士でしょう。機銃掃射を受けたのか、ここで亡くなったと思われます。引き取り手もないんです」と説明をうけた。

↑ 珊瑚礁の崖には、こんな空洞がたくさん空いている



 本土からやってきた兵士が誰にも見つけられず死んでいった。そんなケースは他にもたくさんあったようだ。


 戦争はこんな南海の孤島にも傷痕を残していた。


 宮古島の図書館に郷土の戦争の記録を調べに行った。バリアフリーの立派な図書館だった。

 太平洋戦争の末期、宮古島には3つの飛行場が建設され、3万の陸軍兵が展開していたと、郷土の文献で知った。宮古島では上陸戦はなかった。だが、マラリア、デング熱、栄養失調で多くの人たちがこの地で命を落としたという。


 成川の浜辺で兵士のいた崖を探したが、それらしい穴蔵がどれか全くわからなかった。

 

 ふいに、さとうきび畑の唄がリフレインした。



ざわわ ざわわ ざわわ

広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ

風が通りぬけるだけ

昔海のむこうから

いくさがやってきた

夏の陽ざしのなかで



ざわわ ざわわ ざわわ

広いさとうきび畑は

ざわわ ざわわ ざわわ

風が通りぬけるだけ

お父さんて呼んでみたい

お父さんどこにいるの

このままみどりの波に

おぼれてしまいそう

夏の陽ざしのなかで


 昭和20年、珊瑚礁の崖の穴蔵で死んでいった、父の消息を待ち続ける子どもの声が聞こえるような気がした。


 愚かな指導者たちが何の展望もなく進めた戦争によって、辺境のこんな島でも尊い命が奪われたのかと思うといたたまれない。


 しばらく合掌して、オトーリの浜を後にした。