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Okinawa 沖縄 #2 Day 93 (16/03/21) 旧大里村 (7) Minei Hamlet 嶺井集落

2021.03.16 14:25

旧大里村 嶺井集落 (みねい、ミニイ)


旧大里村 嶺井集落 (みねい、ミニイ)

琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初は中城奥間村仲村渠より来る仲原子で在所は根所。地組始は上与那原東名大主の孫の仲原大屋子で在所は座神と伝わっている。明治時代は部落名は仲原 (ナカバル) と呼ばれた。古島は現在地の北側にあったが、冬季になると北風が寒いので現在地に移住した。

沖縄戦以降人口は増え、一時期は旧大里村では3番目に多い地区となり、その後、県営嶺井団地の建設で人口は倍程まで増えるが、嶺井団地の老朽化が理由なのだろうか、現在は嶺井団地の人口は全盛期に比べ半分近くまで減少している。

嶺井団地は老朽化で解体が決まっており、現在は空室が目立っている。この代わりに高層マンションの嶺井ハイツが建てられそこに移っていっている。ただ全員が写っているわけではなさそうだ。この機会に嶺井から別の地区辺移動も多いのではないだろうか? この嶺井団地の人口減少を他の地域での人口増加で補っている形になっている。(嶺井ハイツ住民が嶺井団地の人口集計に含まれているのか、嶺井二含まれているのかは分からないが、おそらく岑院法ではないかと思う。) 嶺井集落と嶺井団地の合計では1980年以降は少しずつ減少している。嶺井団地の家賃が出ていた。2LDK共益費込みで31,500円、嶺井ハイツは同じ間取りで52,500円に値上がりしていた。これも嶺井住宅から他地域に移動する理由だろう。嶺井から那覇の中心地までは8km程なのだが、那覇の家賃に比べ30%程安い。東京と比べれば3分の一ぐらい。

民家の分布については2000年ぐらいまでは元々の集落と嶺井団地に民家が限定されていたが、その後、集落の南にも民家が増えている。

大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

嶺井集落で行われている年中祭祀は下記の通り。祭祀の数としてはそれほど多くない。拝む拝所の半分ぐらいが集落外で、同じ旧大里村の南風原集落、西原集落、そして糸満の真壁に存在している。この集落との歴史的な関係があったことがわかる。また拝んでいる墓も集落の外にある。これは集落の門中がその地域から移ってきたか、門中の元屋がそこにあるということだろう。


嶺井集落訪問ログ


先に訪れた銭又集落を通過し、島袋集落を通ってこの嶺井集落に入る。島袋集落を抜けると一面畑になっている。



井泉跡

島袋集落を北に抜けたすぐの農道の脇に形式保存された井泉跡がある。名は不詳だが香炉も置かれ拝所となって、島袋集落や門中等により拝まれている。


島袋古島

この井泉付近が、島袋の発洋の地の古島であると伝えられている。道理で、この農地にある井戸や拝所は島袋集落の人たちに拝まれ、嶺井集落では拝んでいない訳だ。


アラカチモーの殿、アラカチモーの御嶽

名不詳の井戸から集落への農道を北に行った畑の中にアラカチモーの殿 (写真左) とその奥にアラカチモーの御嶽 (写真右) がある。現在は畑になっているが、かつては丘があった。その丘の上にアラカチモーの御嶽、丘の下方にアラカチモーの殿があったが、農地改良事業で丘は削られて平坦な畑となった。その際に現在の場所に移設された。この殿と御嶽も島袋集落住民により拝まれ、嶺井集落では拝んでいない。アラカチモーの殿は琉球国由来記のタラ之殿に、アラカチモーの御嶽はタタラ嶽 (神名: コバウノ御イペ) に相当し、島袋ノロにより稲二祭が司祭されていた。


井泉跡

アラカチモーの殿/アラカチモーの御嶽のすぐ北の畑の中にもう一つ井泉跡がある。ここも今は水はなく、形式穂zンされた拝所になっている。これも島袋古島時代に使われていたもので、島袋集落で拝まれ、嶺井集落では拝んでいない。


サーターヤー跡 (?)

島袋古島から嶺井集落に入る。集落西の端に広場があった。資料ではここが何で会ったかは書かれていないのだが、サーターヤー跡ではないかと思う。島袋古島から島袋の人たちが移っていった後は、その場所は嶺井集落の人たちが農地として使っていたならば農地と集落の境にはサーターヤーがあってもおかしくない。島袋古島が嶺井村の地域となっていることから考えるとそうではないかと思う。違うかもしれない、馬場跡だったのかもしれない。


今婦仁之井泉 (ナチジンヌカー)

集落の北は少し高台になっており、東に向かって道が走っている。この道が集落の北の境界線だ。この道の脇にに今婦仁之井泉 (ナチジンヌカー) がある。かつては今帰仁への拝みに出発する時に、この井泉で手足を清めたという。


今婦仁殿小 (ナチジントゥグヮー)

今婦仁之井泉 (ナチジンヌカー) から少し東に進んだところに今婦仁への遥拝所があり、今婦仁殿小 (ナチジントゥグヮー) と呼ばれている。戦前は嶺井の各門中が9年に一度、今帰仁ヘ拝みに行っていた。また、今婦仁の人たちも7年に一度嶺井に拝みに来ていたという。この集落の有力門中は今帰仁から来ているのだろう。


井戸跡

北の端の道を更に東の端まで行ったところにも形式保存された井戸跡がある、資料には載っていなかったのだが、香炉も置かれ拝所となっている。集落では重要な場所なのだろう。


嶺井公民館

集落の中心地には公民館がある。酸素ボンベの鐘が吊るされているので、ここが村屋 (ムラヤー) だったのだろう。


西之根屋 (イリヌニーヤ)

公民館の横にコンクリート造りの西 (イリ) の根屋がある。西 (イリ) は嶺井集落の有力門中の西腹門中の事だろう。祭神は、ウミナイ (女神) とウミキ (男神) 。


後之井泉 (クシヌカー)

公民館のすぐ近くに井戸がある。ここは広場になっており、花壇がある。井戸はその花壇之水やりに使われているようだ。


アシビナー跡 (?)

後之井泉 (クシヌカー) の側に公園がある。ブランコと鉄棒があったが、古そうで今は使われていないように見える。公園も草が生えて、今では子供もここでは遊んでいないのだろう。集落でこのような公園になっている場所は、サーターヤーか、馬場か、アシビナー (遊び場) のような集落共用の場所だったことが多い。ここ馬場にしては小さいので、サーターヤーかアシビナーと思われる。集落の中にあるのでアシビナーではないだろうか? 

森之御願 (ムイヌウグヮン)

集落を南に出た所に広場があり、そこに森之御願 (ムイヌウグヮン) と呼ばれる拝所がある。かつてはガジュマルが植えられていたことが名前の由来という。


ユンジャ井泉 (ガ-)

森之御願 (ムイヌウグヮン) の南にはユンジャ井泉がある。金網で囲われて今でも水が溜まっている。かつては産井泉 (ウブガー) として使用されていた。森之御願 (ムイヌウグヮン) とユンジャ井泉 (ガ-) の背後は広大な広場がある。昔は何だったのかが気になった。こんなに広い広場が集落のすぐの所にあるのは初めて見た。馬場にしては広すぎる。サーターヤーとしても広すぎる。農地だったのだろうか? これから何かの開発の為 (住宅地?) に整地したのだろうか?


前之当 (メーヌトー)、 前之当井泉 (メーヌトーガ-)

ユンジャ井泉 (ガ-) から南側は一面農耕地になって、丘陵に囲まれて東西に広がっている。その農地の東の端に、拝所がある。前之当 (メーヌトー) と 前之当井泉 (メーヌトーガ-) だ。前之当 (メーヌトー) は遙拝所と書かれていたが、残念ながら何を遙拝しているのかは書かれていない。 

前之当井泉 (メーヌトーガ-) はカージョーともよばれている。


この辺りが嶺井の発祥地といわれている。写真上のように三方を丘陵で囲まれている。

写真右に見られる右側の丘陵にはこの地で南山国の重要なグスクであった島添大里グスクがある。


大山 (ウフヤマ)

集落東方に大山 (ウフヤマ) があり、その中腹、標高80mの場所が拝所となっている。そこのは、5つの拝所がある。ここでは西原ノロが稲二祭祭祀を司っていた。井泉が1つと4つの殿 (トゥン) で、その内、一つが嶺井ノ嶽で、三つは琉球国由来記の下嶺井之殿、カイマノ殿、上嶺井之殿の内のどれかに相当するとみられる。


井泉跡 (未訪問)

拝所への登り口を入った所が小さな広場になっており、ここに井泉跡がある筈なのだが、結局資料にあった香炉 (写真右下) は見つからず。かつて行われていた祭祀では、この井戸の拝所を最初に拝んでいた。


大山内の二番殿 (トゥン)

道を登ると拝所が見える。これが井戸の次に拝まれていた殿 (トゥン) だ。


大山内の一番殿 (嶺井ノ嶽)

大山内の二番殿 (トゥン) からは道は急な登りが二か所あり、道の行き止まりは広場になっており、そこに幾つかの拝所がある。

そのうちの一つは琉球国由来記の嶺井ノ嶽 (神名: アスモリノ御イベ) と考えられている。この嶺井ノ嶽は西原ノロにより司祭されていた。この嶺井ノ嶽は三番殿の後、最後に拝まれていた。

嶺井ノ嶽の横には三つの拝所がある。石碑には名が刻まれているのだが、判読困難だ。左側の拝所は横に井戸の形式保存となっているので井戸の拝所だが、判読出来ない。中の拝所は「上先◯◯」でやはり判読困難。右の拝所は「アマクイの御嶽神」と読める雨乞いの際に拝まれるのだろうか?

嶺井ノ嶽の前の広場の中には石が積み上げられた拝所があるが名は不詳で詳しいことは分かっていない。


大山内の三番殿 (トゥン)

大山内の三番目の殿は少し離れた所にある。二番の殿から道が南東に分岐し降りて行った所にある。この殿は二番の殿の後に拝まれて、この後、嶺井ノ嶽に御願に向かっていた。また、九月九日 (菊酒、長寿を願う重陽の節句) の時にも拝まれる。


名称不明の遙拝所 (未訪問)

大山入口から東側に道を約100m登った所に遥拝所があると書かれていた。掲載されていた写真を頼りに道の傍を探すが見つからない。この遥拝所から、山の中にあるガジュマルの根元にあるという拝所を拝んでいたそうだ。

この場所は標高90m程の所。向こう側に島添他人グスクの丘陵が見える。

これで嶺井集落巡りは終了。集落内でハイビスカスと名はわからないのだが黄色の花がきれいに咲いていた。今日は真夏のような暑さだった。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)