陸奥国の国府・宮城県「多賀城」ここは古代、東北支配の一大拠点だった!
https://www.travel.co.jp/guide/article/20044/ 【陸奥国の国府・宮城県「多賀城」ここは古代、東北支配の一大拠点だった!】 より
古代東北というとアテルイに代表される蝦夷が思い出されますが、東北は律令国家の支配が及ばない地でした。8世紀に入り、勢力拡大の拠点として置かれたのが陸奥国の“多賀城”。宮城県多賀城市にその城跡があります。九州の拠点・大宰府と並び、東北支配の重要拠点であったこの城を知る事で、古代東北の歴史、また律令国家が辿って来た実態を知る事ができます。
蝦夷と律令支配、古代東北の歴史がここに!~東北歴史博物館~
東北は縄文文化が花咲いた地域として有名です。有名な“遮光土器”、また漆が塗られた各種道具類などが多数出土しています。また紀元前3世紀には既に東北地方で稲作が普及し、古墳時代には北部にこそ前方後円墳はみられませんが、豪族の墓も多数見つかっています。
そして7世紀になって、西の律令国家が支配の手を東北にまで伸ばし、支配に従わない人々を“蝦夷(エミシ)”と呼び、未開野蛮な民族とし名付けました。この辺りから今回の旅が始まるのですが、まずこのような東北の歴史を「東北歴史博物館」(写真)で知りましょう。博物館は国府多賀城駅の南口すぐにあります。
東北支配を強化したきっかけは、朝鮮半島で“白村江の戦い”に敗れた事でした。敗戦を受け、律令体制を急速に整備しはじめるとともに、都を中心とした小中華思想で、律令体制が及んでいない周辺の人々を“東夷”や“北狄”などと呼んだのです。蝦夷の“夷”という漢字はこのような背景であてはめられました。
律令支配を広げるために置かれたのが“城柵”です。東北地方にはまず大化の改新後まもなく“陸奥国”が建設され、その中心となる役所が仙台市郡山におかれ、8世紀前半に「多賀城」に機能が移りました。陸奥国は現在の福島県から岩手県にまで及ぶ広大な地域であり、服従した蝦夷を保護したり、服従しない蝦夷をもてなしたりする事などがここ多賀城の役目の1つでした。
“城”という名前がついていますが、戦国時代のような軍隊中心の城ではありません。いわば“東北の霞が関”というイメージがあっているかもしれませんね。
東北歴史博物館では、このような古代の東北の状況や東北支配の城柵の役目、城柵周辺への人の移住の状況、多賀城の往時の姿、働く人々の様子や暮らしなどを知る事ができます。多賀城跡を見学する前に事前情報をここで仕入れておく事で、多賀城の位置付けや役割などをより深く理解できるはずです。
多賀城の重要性がここで分かる!~多賀城碑~
それでは多賀城跡に行って見ましょう。まず多賀城の外郭南門のすぐ傍にある「多賀城碑」といわれる大きな石碑を見てください。石碑は写真の建物内にあります(ちなみに複製が前記博物館にあり、真近に見る事ができます)。
この石碑には、前段部で多賀城の位置が、後段部では多賀城の創建経緯が記されています。それによれば、多賀城は724年に大野東人により創建され、762年に藤原恵美朝獦(ふじわらのえみのあさかり)によって作り直され、それを記念してこの石碑が建てられたのです。藤原恵美朝獦は藤原仲麻呂(藤原不比等の孫で、不比等の次男武智麻呂の次男)の3男です。ところで藤原仲麻呂は皇族以外で初めて太政大臣大になった人物ですが、その実力者の子供がこの東北の地とどう関係するのでしょうか?
当時、多賀城は非常に重要な拠点であり、九州の大宰府と同等の位置付けがなされていました。その機能は、1.陸奥国の国府、2.出羽国まで監督する広域の地方府、3.蝦夷対策、の3つで、軍政を司る“鎮守府”、行政を監督する“按察使(あぜち)”もいたのです。
前記の藤原恵美朝獦は鎮守府将軍となり蝦夷を服従させ、石巻に桃生城、秋田県に雄勝城(払田柵という説があります)を築き、軍事・民生に活躍したといわれます。余談ですが、万葉集でよく知られている歌人の大伴家持も782年、65歳の時に按察使に任命され、ここでなくなったという説もあるのです。また蝦夷の長、アテルイとの闘いで有名な坂上田村麻呂も796年に按察使、陸奥守、鎮守府将軍を兼ねています。
この石碑の碑文を紐解くと、このような律令国家側にとっての多賀城の重要性を知る事ができるのです。それでは城跡にゆきましょう。
東北支配の拠点「多賀城」
多賀城は約900m四方のいびつな方形をした外郭(築地)に囲まれていました。ここに都から派遣されてくる役人などが24人おり、各種の行政事務の他に道具・工具・武器類の製作なども行われました。9世紀初めには下級役人、工人や兵士など併せて1,200人を超える人がここに居たといわれます。
城内には南にある街並みに連なる南北大路と東西に連なる道があり、東門は塩釜方面に繫がり、西門の傍には海(七ヶ浜)に注ぐ河川が位置し、東西両門は国府に運搬されてきた租・調の物資を搬入・搬出する物流の門でした。東門がある大畑地区からは木簡(米の支給に関する内容が多い)が見つかっており、このような背景を裏付けています。またこの地区には工房があり、精錬鍛冶が行われていました。また西門の近くの金堀地区からは計帳に関係する「漆紙文書」(日本で初めて発見された)が出土しています。
中心の政庁に行くには幅23mもあった南北大路を登る必要があります。この南北大路は身分の高い人や、訪れた蝦夷専用の通路でした。また行政の実務を扱う官庁街はこの南北大路に面する城前地区にあったと推定されています。兵士もこの辺りに居たとの事。
台地の中心の政庁は南北大路の下からは見えません。蝦夷の人々が大路を登りながら期待と不安を醸し出す心理的効果を考えたのではないかと思われます。当時の一般の人々は竪穴式住居に住んでいましたので、築地でかこまれた瓦ぶきの建物はまさに朝廷の権威を示す宮殿といっても言い過ぎではなかったでしょう。
登り切った台地に築地で囲まれた南門があり、その中に正殿・後殿や東西の脇殿があります。ここが古代の東北経営の要の場所、朝廷の出先機関を象徴する“政庁”の跡(写真)で、ここは平城宮のように朝堂院式にたてられ、“儀式の場”であったのです。
さまざまな葛藤の象徴~城柵~
城柵を多数つくり、周辺に各地から移民を送り込んで東北の支配地域を広げるというのが律令国家側の基本戦略です。この中心が多賀城で、ここから内陸へと城柵を次々に作っていったのです。しかし、蝦夷の人々にとって地元に突如作られた見慣れない城柵は威圧の象徴でもあった事でしょう。このためでしょうか、多賀城も蝦夷の反乱で焼け落ちたり、通常の出入り口であった東門も平安時代になって防備が強化されました。
蝦夷の英雄、アテルイも坂上田村麻呂が作っている胆沢城の様子を見て降伏したのではないかといわれています。城柵は律令国家の象徴でもあったようです。
ところで、坂上田村麻呂は797年には征夷大将軍に任じられています。軍事の最高司令官という意味がある征夷大将軍ですが、征夷はまさに“東夷”である蝦夷を征服するという意味があります。徳川時代までこの称号が続く事になりますが、もともとの意味を考えると、東北に対する小中華思想の影響が後代まで続いた悪い例といえるでしょう。
東北支配の拠点であった多賀城、ここはまさに都中心の小中華思想の支配と、祖先伝来の地に住む人々とのさまざまな葛藤があった地でもあるのです。
なお、多賀城跡には多数のボランティアガイドがおられます。分からない事があればぜひ聞いてみて下さい。詳しい話を聞く事ができます。