笠嶋
http://575.jpn.org/article/174793844.html 【笠嶋は(松尾芭蕉)】 より
笠嶋は いづこさ月の ぬかり道 松尾芭蕉
■ 訳
(藤原実方ゆかりの)笠島はどっちだろう。五月雨でぬかるんだ道(では思うように進めないよ。)
■ 解説
「笠嶋(かさしま)」は現在の宮城県名取市笠島、「ぬかり道」はぬかるんだ道、を意味します。季語は「さ月」で夏です。
■ この詩が詠まれた背景
この句はおくのほそ道、「笠嶋」の中で芭蕉が詠んだ俳句です。
前回の佐藤庄司旧跡から、飯塚を超えた後の出来事です。
おくのほそ道には、
「鐙摺白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ笠嶋と云。
道祖神の社、かた見の薄今にありと教ゆ。
此比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪笠嶋も五月雨の折にふれたりと、
(本俳句)」
(鐙摺(あぶみずり:馬の鐙がすれるほど狭い道の事)、白石の城(宮城県白石市の白石城)を過ぎて笠島村(現在の宮城県名取市の南西部)に入り、藤中将、藤原実方の塚はどこにあるのだろうかと人に聞くと、ここから遥か右に見える山際の里が箕輪、笠島だと言われる。
(実方が下馬しなかったためバチが当たったとされる)道祖神の社、(西行法師が実方の死を偲び「朽ちもせぬ その名ばかりを 留めおきて 枯野の薄 かたみにぞ見る」と詠んだという)かた見の薄(かたみのススキ)は今も残っていると教わった。
近頃の梅雨の影響で道は悪く、疲労困憊であったこともあって、遠方から眺めただけで立ち去ってしまったが、蓑輪、笠島(という地名)も五月雨と縁があると(知って一句詠んだ。)
(本俳句))とあります。
■ 豆知識
作者は松尾芭蕉です。
今回、芭蕉が訪ねた藤原実方(ふじはらのさねかた)ゆかりの地ですが、実方は道祖神の社の前を通った際に馬が突然倒れ、下敷きになって亡くなったそうです。
不幸な事故によって失意の内に亡くなった実方の霊は雀となって内裏に侵入し、台盤の飯を食らい尽した挙句、農作物にまで被害をもたらしたという噂が立ち、恐れられました。(入内雀)
「朽ちもせぬ その名ばかりを…」と詠まれた西行法師の詩は新古今和歌集 第八巻 793首目、および山家集 卷下に記載があります。
この詩については後日説明します。
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno13.htm 【奥の細道(笠島 元禄2年5月4日)】 より
鐙摺*、白石の城を過、笠島の郡*に入れば、藤中将実方*の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄*、今にあり」と教ゆ。此 比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簑輪・笠島も五月雨の折にふれたり*と、
笠島はいづこさ月のぬかり道(かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)
岩沼に宿る*。
5月4日。午前8時頃、白石出発。小雨もこの頃には止み、薄日も射し始めた。岩沼で竹駒神社参詣。その別当竹駒寺の後に武隈の松がある。これを見物。
笠島はいささか遠いというので見ずに通過。名取川を渡り、仙台市長町で若林川を渡って夕方仙台に到着。この夜は、仙台市国分町大崎庄左衛門宅に宿泊。
藤中将実方の墓(写真提供:牛久市森田武さん)
笠島はいづこ五月のぬかり道
藤中将実方ゆかりの笠島は五月雨あとのぬかり道のかなた。この辺土で無念の死をとげた中将の魂は今何処にあるのだろう。
この日は、五月晴れとはいかなかったが、薄日のさす晴れの日だったらしい。しかし、ここの地形からして梅雨どきの畦道を通って笠島道祖神まで歩いて行ける状況ではなかったに違いない。
『猿蓑巻之二』では、「奥刕名取の郡に入、中将実方の塚はいづくにやと尋侍れば、道より一里半ばかり左リの方、笠嶋といふ處に有とをしゆ。ふりつゞきたる五月雨いとわりなく打過るに」としてこの句を掲出する 。
「笠島はいづこ五月のぬかり道」の句碑 (写真提供:牛久市森田武さん)
鐙摺:<あぶみずり>と読む。白石の山峡で難所。義経の軍勢はここで鐙を摺ったという言い伝えがあった。鐙は、乗馬時に足をのせるための馬具 。
白石の城を過:<しろいしのしろをすぐ>と読む。白石は、伊達家の支城で、片倉氏の居城。
笠島の郡:宮城県名取郡笠島村、現名取市愛島(めでじま)。
藤中将実方(~998):<とうのちゅうじょうさねかた>と読む。藤原実方。一条天皇の時代、和歌の名手といわれて、左近衛の中将にまで昇進したが、長徳元年9月、天皇の前の歌会で藤原行成と口論に及びそれがもとで陸奥守に左遷される。当代きってのプレイボーイで、関係した女性は20人を超えたといわれている。行成との確執は清少納言を間に挟んだ恋の鞘当てが原因らしい。長徳4年12月12日、実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通過したところ、馬は突然倒れて死亡、その下敷きになって実方も死亡。そのままこの地に埋葬されたという(謡曲『実方』)。よくある貴種流離譚の一つ。
五月雨の折にふれたり:蓑や笠と雨に関するものに関係があるという軽口。
かた見の薄:<かたみのすすき>。後に西行がここを訪れ、実方の形見とて薄の穂波だけとなっている姿に涙して一首したためている。「朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野の薄かたみにぞ見る」
岩沼に宿る:岩沼は宮城県岩沼市。東北本線と常磐線の分岐点。実際には、芭蕉一行はここに宿泊していない。あえて文学的粉飾を施す必要も見えないので、これは芭蕉の記憶違いか? はたまた、佐藤庄司旧跡で一日溯って日付たので、ここで文学的調整を企図したのだろうか? ただし、芭蕉自筆本では「岩沼宿」として次の「武隈の松」の章見出しとして位置づけていたようでもある。そうだとすると、日付問題が再燃するので、素龍清書時に改稿した可能性も無いではない。
全文翻訳
鎌倉に馳せ参ずる義経一行が馬の鐙を擦ったと言い伝えられる「鐙摺」の細道、白石の城下を過ぎて、笠島に入ってきた。藤中将実方の塚は何処かと人に尋ねると、「こっから遥か右の方さ見える山際の里だら、箕輪・笠島と言ってぇ、道祖神も藤中将形見の薄なども残っているんだでば」と言う。このところの五月雨で道はぬかるみ、身体も疲れていたので、遠くから眺めるだけで通り過ぎることにしたのだが、箕輪の「蓑」といい、笠島の「笠」といい五月雨に縁があるので、
笠島はいづこさ月のぬかり道
と詠んだ。この日は、岩沼投宿。