切実な声を聞かれないことについての古い傷 ー ふたこわたる公式ブログ「人々よ、自分の故郷を取り戻せ」
(注意:この「自己探求」のカテゴリーの記事は、なんというか僕の個人的で未消化なものも扱うので、生々しかったり昇華されていない攻撃性が出てたりすることがあります。)
僕のインナーチャイルドっていうのかな、けっこう根源的な傷つきって、常に「真実」をめぐるものなんだよな。僕は子どもの時からほんとのことしか基本言わないし、僕がなにかを真剣に言ったら、それはいのちかけてもいいくらいほんとうのことだった。切ったら血が流れるようないのちあるもの。
そして、その語りをその重さで受け止めてもらえる機会は、まずなかった。
てきとーなことを言ってる人たちのてきとーなことばが、同じ重さで扱われ、あるいは優先さえされ、そのたびに深く絶望していった子どもだった。
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てきとーって言ってごめんね。
でも僕から見て、何も見ていないし何も考えていないようなことば。だって見れば明らかにわかることとすら整合しないし、昨日Aといったことを今日は平気で全く別のBだと言っちゃうようなことばだったんだもん。僕の周りにあふれていたのが。
そういう、真実じゃないものが山ほど乗っかって、真実がわからなくなっているようなことばが、ここにある真実をどうにか切り出して示そうとしていることばよりも聞かれるって、暴力的すぎてとても受け入れられない。
なぜ僕のまごころからのことばが、こんなふうに軽く扱われなくてはならないのか。なぜ僕の切実な声は聞かれないのか。
子どものときの僕が、こういう風に言語化して捉えていたわけではもちろんないんだけれど、当時感じていたことを今の僕の語彙で言語化するとこんな感じ。人生のある時期までは、「聞かれない真実の声」みたいなものにすごく肩入れしていた。
10代終わりから20代半ばまでは、その、真実が真実として扱われない世界にいる混乱が元で、ことばが分からなくなって、リアリティからも乖離して、死にかねないくらいの危機になった。
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その後、この種類の傷はいろんな形で僕の人生に顕在化したので、そのたびに取り組んできてかなり癒えたと思う。少なくともなんというか、神さまというか、宇宙というか、そういうものはちゃんと見ていてくれる、とある時期に確信してからは、人に理解されなくても自分がちゃんと聞き届けよう、と、そしてお天道さまは見ているから大丈夫、とある程度思えるようになった。
そうなんだけれど、まだその傷は残ってることがよくわかったの。
その、真実の声を軽く扱うとか聞かないという種類の不作為の暴力に対して、僕の中のその部分は激しい怒りと憎しみを持ってる。それがまだ十分聞き届けられていなかった。
その攻撃性は、噛み合っちゃう性質を持っている人に対しては漏れ出て感じられるんだろうなと思う。
「あんたの言ってることは、てきとーすぎてまるで価値がない」みたいな裁き方を、たぶん僕の潜在意識はするのだろうと思う。ごめんなさい。
そこに傷がある人とか、こういう理解がない人には、「あんたはまるで価値がない人だ」みたいに聞こえるかもしれない。そうは決して言わないけれどさ。傷ってかなり拡大解釈しちゃうものだから。
まあそんなわけで、もうちょっとその「切実な思いや、真実のことばが聞かれない」ことについての痛みをしっかり感じて、しっかりケアしようと思いました。
そうしたらなんというか、もう少し寛容にもなれるんじゃないかなと期待していますです。