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弥生時代の大陸と対馬と日本列島

2018.03.16 09:07

http://mitsusima.jugem.jp/?eid=304 【弥生時代の大陸と対馬と日本列島】より

★対馬は北方と南方が融合した島―1………縄文時代前期(10000年以上前~)の対馬は、日本列島と陸続きで、朝鮮半島と10㎞程の水路でへだてられいるだけであった。それが、最後の氷河期時代が終わり、黒潮海流が日本湖に流れ込み、日本海ができ、対馬海流になって、対馬は『島』になったとされている。

縄文時代後期になって、台湾より南方の島々から黒潮に乗って、たどり着いた鉱山に詳しい部族が対馬列島の原住民になる。また、同じように朝鮮半島にたどり着いた稲作に詳しい部族が弥生時代後期に、朝鮮半島の南岸に山戸の国を建国した。そして、対馬の部族は漁業と猪や鹿の狩り、鉱山の採取で生活したり、朝鮮の山戸の国や九州北部の筑紫の国と穀物を得るために交流を行っていた。そのような経過から、対馬の国は日本と朝鮮の橋渡し役を担っていた。

弥生時代前期には朝鮮を経て、対馬の国を経由して筑紫の国に大陸の文化(水田による稲作、鉄製造術、機織物術等)が朝鮮からの渡来人によってもたらされた。

★対馬は北方と南方が融合した島ー2………… 日本列島の本来の先住民は蝦夷(えみし/縄文人)だったと言われているが。この蝦夷(縄文人)と呼ばれる先住民族が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

蝦夷(☆1えみし)族/縄文人(先住民族)は、日本列島の隅々までを領域としていたが、朝鮮半島を南下した武力に勝る倭族(羅族・呉族)や琉球列島を北上して来た倭族(隼人・呉族系)に、次々と征服されて行き、征服部族は次々と小国家を造り支配者になった。

それが、『邪馬台国』や『対馬国』『一支国』『伊都国』などの「倭の国々」である。

☆1・蝦夷(えみし)………日本列島の東方、北方に住み、畿内の大和朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称。近世では蝦夷(えぞ)はアイヌ人を指す。

★対馬は北方と南方が融合した島ー3…………朝鮮半島と列島をつなぐ位置にある対馬は、神話分析においても重要な位置を占めている。

対馬の天童伝説(☆1)は日神に侍える神女が日光に感精して天童を生むという本伝と、不義の子を孕(はら)んだ高貴の女院が空船(うつろぶね)に乗せて流されてきて、天童を生んだとする異伝の両方がある。

前者は朝鮮半島に見られる高句麗、新羅に共通する“北方系“の神話であり、後者は“南方系“の神話である。このように対馬は海神=国津神もいれば天神=天津神もいるが、争った様子がなく、融合している。

対馬で国津神と天津神が対立しなかったのは、対馬の置かれた環境によることが考えられる。

対馬には良田がなく、半島・列島の両方の市場に出掛けていたと魏志倭人伝にもある。対馬の人々は海商として生きる道を選んだのだ。彼ら対馬の海商たちが開いた海路はいうなれば、海のシルクロードであった。彼らは平和的通交、友好的交易が行き詰まると無闇に野性的暴力を振るう。対馬は悪名高き倭寇の根拠地とも言われるが、その粗さ、組織性は、民族的特性というよりも、環境的習性によるものだろう。そしてそれは、西方のシルクロードを支えた騎馬民族との類似性を持つ。対馬からはオルドス青銅器文化の短剣が出土するのも、楽浪を介してオルドスの騎馬民族との交流があったからであろう。このような同じ商人=海賊・山賊としての親近性が北方騎馬民族起源の天津神と海人族が融合した背景にあるのであろう。

実際、後に国家神道を確立し、ヤマト朝廷の中心に位置する中臣氏は、対馬、壱岐、伊豆の海人族系のト部を重用した。そして対馬にあった「タカミムスビ」を祖神として対馬の日神「アマテル」と壱岐の月神「ツキヨミ」を祀る一族が活躍させ、日本神道を形成していった。

☆1・天童伝説………天童法師という山林修行者の英雄伝説によって色づけされ、その本質はそのまた遥かな昔から続いてきた太陽信仰にあるとされている。

天童信仰の地、対馬では太陽崇拝も古くから行われてきた。天照大神という概念が大和で成立する前ずっと以前から、対馬の日子は太陽の子供として崇拝の対象だった。逆に、こうした信仰が発達して天照大神の神格となったとみられている。

★対馬は北と南方が融合した島―4…………対馬は南方から海と稲の神々が伝来した土地である。

記紀には海神の祖として、“ソコツワタツミノカミ“と“ソコツノオノミコト“が登場する。ワタツミは安曇連の祖、ツツノヲは住吉大神の祖とされる。安曇族も住吉神もさかのぼると対馬の海人族が起源とされている。

また、海人族=江南人は稲作を伴ってきと考えられ、殻をもたらす日照神=オヒデリサマ、降雨神=雷神=イカヅチサマが日本にもたらされたが、そのうちのオヒデリサマ信仰が“北方由来の信仰“と合体してアマテラス信仰に昇華していったとされている。

対馬には、アマテル=阿麻氏留神社を始めとして、一之宮として崇敬されている海神神社、海幸彦・山幸彦伝説の発祥の地と言われている和多都美神社などなど……平安時代に朝廷によってまとめられた官社の一覧「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」には、西海道(九州全体)で107座の神社が記載されており、これらの神社は「式内社」と呼ばれ、古来より名の通った神社として、一種の社格となっています。

対馬は神社の多い島で、式内社の数が九州最多の29の座。お隣の壱岐の24座と合わせると、2つの島で九州全体の約半数を占めています。

★『魏志倭人伝(☆1)』の対馬……………『所居絶島方可四百余里土地山険多林道路如禽鹿径有千余戸無良田食海物自活乗船南北市糴』=〈住んでいる所は四方を海に囲まれた孤島で、広さは方四百余里ばかり、土地は山が険しく、深林が多く、道路は鹿や禽(とり)の通う小径のようである。人家は千余戸ある。良田がなく、人々は海産物を食料として自活しているが、船によって南や北へ交易に出かけたて米を買ってくる〉

☆1・魏志倭人伝…………「魏志倭人伝」は、正式には「『三国志』魏書東夷伝倭人条」と言う。これは、3世紀後半に陳寿(ちんじゅ)という人物によって書かれた、『三国志』という歴史書の中の、魏の国について書かれた「魏書」という部分の中にある、中国から見て東にある地域について書かれた「東夷伝(とういでん)の中の、倭人について書かれた部分という意味。