「江戸の寺子屋と教育」7 寺子屋入門
江戸のように子どもが通える寺子屋が複数あった場合、親は自分の子どもにふさわしい信頼に足る師匠の寺子屋を選ぶ必要があった。考慮されたのは、教え方、書道の流派(主に「御家流」)、書の技能、世間の評判だが、最重要だったのは人柄。
そもそも寺子屋の師匠になる人物とはどのような人たちであったのだろうか。明治初年の事例ではあるが、東京府が小学校設立のために寺子屋師匠に提出させた「開学明細調」には、762名分の旧身分が記されていた。もっとも多いのは、平民(町人)で、雑業、農民、商人などを含めれば圧倒的多数が江戸の町人となる。次に多いのが士族。家計の苦しい武士の兼業はよく知られているが、寺子屋の師匠もその一つであった。
「武運つたなく文道(もんどう)で町師匠」
また、女子の師匠が86名確認できる。農村部において師匠となる人物のほとんどが男性であることを考えると、女性の師匠は都市部、なかでも江戸における特徴の一つといえる。また、夫婦で経営していた事例もある。
学校制度のない当時は、多少読み書きができれば、だれでも自由に寺子屋を開業することができた。そのため、なかには師匠らしからぬ手習い師匠も現れた。渡辺其寧(きねい)『続女大学』(天保三年【1832】刊)には「弟子が上達しない場合は、みずからの書が未熟で指導方法も行き届かないことは言わずに、弟子の不器用や無精を批判する師匠が世間には多い」という記事が見えるが、手習い師匠もピンキリだからよく吟味せよという、親に対する注意のようだ。幕末期の手習師匠経験者や寺子経験者からの膨大な聞き取り調査に基づいて書かれた匠乙竹岩造『日本庶民教育史』(昭和4年【1929】刊)にも、愚鈍な者の入学を拒んだ寺子屋、結婚相談や書画販売の金儲けに走った寺子屋、何らの学力もない浪人が怪しげな教え方をしていたため「狐を使う」などの風評を立てられて、一夜のうちに出奔したような甚だしい寺子屋の例が書かれている。
しかし、このような悪徳寺子屋はごく一部だったようで、乙竹の調査でも、師匠に対する子どもの尊敬はほぼ100%、父兄の尊敬もほぼ9割に及んだ。寺子屋における師弟関係は、信頼や尊敬によって成り立つ人格的関係だったのであり、だからこそ入門にあたって師匠の人柄、人格が最重要視されたのだろう。
寺子屋においては、個別カリキュラムにもとづく、個別授業が行われており、現在の六・三・三制のようなきまった在学期間があるわけではなく、何年寺子屋に在学するのかは、個別の家の事情によっていた。就学年齢も地域差が見られるが江戸では現在の小学校(学校教育法第17条第1k「保護者は、子の満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、…これを小学校、義務教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部に就学させる義務を負う。」)と同じで、満6歳(江戸時代は「数え年」で表したから7歳)になれば寺子屋へ通わせるのだという考えが社会通念としてほぼ確立していた。
「七つから寺子屋にもりしてもらふ」
「身にあまる恩は七つの年に受け」
後の川柳は、寺子屋に入門し、素養を身につけさせてもらうのは、すべて親の恩であるという考え方を表している。では、次の川柳は何を意味しているか?
「あしたから手習いだあと叩いてる」
『東都歳時記』に「此日小児手習読書の師匠へ入門せしむる者多し」とあるように、寺子屋への入学(「寺入り」、「寺上がり」)は習慣として「初午」(はつうま)の日に行われた。そしてこの日子どもたちは太鼓に打ち興じた。
「繁昌さ太鼓の音も果てもなし」
「春興手習出精双六」広重画 弘化4年(1847) 寺子屋への入門
寺入りでは、子供も裃を着て盛装した。 「裃で来た初午は縮こまり」
ただし、手習いが一般庶民にも浸透するようになると、礼服を着用しないようになる。
机も文箱も自前で、これらは寺子屋を去るまで教場に置いたままとなる。
菊池貫一郎『江戸府内絵本風俗往来』 明治38年(1905) 寺子屋への入門
奥の座敷に机が高く積まれており、子どもたちの帰った後で入門の挨拶がなされている。
『温古年中行事』初午稲荷祭
鈴木春信「初午」
石川豊雅「風流十二月 二月 稲荷大明神」