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源義経

2018.03.17 02:38

https://rekan.jp/167/ 【1分でわかる源義経の解説】 より

源義経(みなもと-の-よしつね)は、平安時代末期の武将で、鎌倉幕府の初代将軍になった源頼朝の弟になります。

ただし、源義経は9男(九郎義経)で、母は側室・常盤御前でした。

幼いころは牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、わんぱく牛若丸と言う表現も使われることがあります。

父・源義朝が謀反人となり討死すると、母と逃亡しました。

牛若丸が11歳のころ母が再婚すると、京都・鞍馬寺に預けられて、遮那王(しゃなおう)と称されています。

しかし、鞍馬寺を出ると、弁慶と知り合い、東北に向かって、平泉の藤原秀衡を頼っています。

1180年、兄・源頼朝が伊豆・韮山にて挙兵すると、源頼朝は佐藤継信・佐藤忠信らと鎌倉に馳せ参じました。

そして、源頼朝が富士川の戦いで勝利したところに合流し、黄瀬川の陣にて涙の対面となっています。

源頼朝は鎌倉に戻って政務をとり、源義経と源範頼が平氏討伐の鎌倉軍を率いて、京に向かいました。

後白河法皇を幽閉した木曽義仲を、宇治川の戦いで敗走させ、一ノ谷の戦いでは平氏本陣を急襲し大勝利を治めます。

屋島の戦いでも平家を追い込み、壇ノ浦の戦いにて平氏を滅ぼしました。

兄・源頼朝との確執

平宗盛・平清宗の父子を護送し京都に凱旋すると、兄・源頼朝の許可を得ずに、朝廷から院御厩司の官位を、平氏の捕虜である平時忠の娘・蕨姫を娶ったことなどを咎められます。

源義経は、弁明に向かいしますが、鎌倉に入ることを許されず、江ノ島近くの満福寺にて、腰越状を大江広元に託します。

こうして、源義経は、兄・源頼朝から討伐を受ける事となり、源義経は郎党や愛妾・静御前を連れて吉野に身を隠しました。

京にもいられなくなった、源義経は、再び藤原秀衡を頼って奥州平泉に身を寄せました。

1189年、藤原秀衡が死去すると、後を継いだ藤原泰衡は源頼朝の圧力に屈し、衣川館を襲撃(衣川の戦い)して、源義経らを討ち取りました。享年31。

源義経の首は、鎌倉に送られて、藤沢の白旗神社に葬られています。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、悲劇の源義経を、俳優の菅田将暉さんが演じられます。

源義経のポイント

源義経は、源頼朝の弟 ※母は違うが父(源義朝)が同じ

母が再婚したため、京都・鞍馬寺で僧侶になった

その後、弁慶と出会い東北の平泉に行った

兄・源頼朝が伊豆にて挙兵すると、郎党を率いて兄に合流し、初めて対面した

その後、平氏打倒の戦いで大活躍した

しかし、兄・源頼朝は、京での行いを良く思わず、逆に源義経を討伐

源義経は郎党や愛妾・静御前を連れて、再び平泉に逃れた

その後、平泉は鎌倉幕府軍の攻撃を受けて、源義経は討ち取られた


https://sirotabi.com/15115/ 【源義朝の解説 我れに木太刀の一本なりともあれば】より

源義朝(みなもとの-よしとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとの-よりとも)や源義経(みなもとの-よしつね)の父であり、源義家(みなもとの-よしいえ)以降、内紛によって没落していた河内源氏の地位を引き上げながらも、最後は都を追われて暗殺された武将です。

謎の多い幼少期

源義朝の父である源為義(みなもとの-ためよし)は平清盛(たいらの-きよもり)の父である平忠盛(たいらの-ただもり)と同年に生まれ、武勇に優れ14歳で左衛門少尉に任じられながらも、一族郎党の狼藉行為を取り締まる事がなかったため、鳥羽上皇の不興を買い官を罷免されています。

源義朝は源為義の嫡男として産まれながらも、父と行動を共にせず東国へ送られますがその時期はよく判っていないようです。

ただし、乳母の息子で最後まで生死を共にした鎌田政清は鎌倉の北方にあった相模国の住人山内荘を本拠とした山内首藤氏の流れを汲むと言われている事から、乳母を必要とする幼い頃に東国へ移ったと考えられます。

幼少期をどのように育ったかは不明ですが、当初は父の源為義が伝領していた安房国の丸御厨に移住し、その後は坂東八平氏(注1)の一つである上総氏の庇護を受け、康次2年(1143年)源義朝が21歳の時に相馬御厨を、翌天養元年(1144年)には現在の鎌倉市一帯にあたる大庭御厨を支配する鎌倉党(注2)を制圧した事をきっかけとして、同じく八平氏の出である大庭景義(おおば-かげよし)や三浦義明(みうら-よしあき)などの有力豪族を従え20代前半で関東地方を制圧したと伝わっています。

※注1:坂東八平氏

平良文(たいらの-よしふみ)を祖とし、三男の平忠頼(たいらの-ただより)と平将門(たいらの-まさかど)の娘である春姫の間から産まれた子供達は上総氏や千葉氏、江戸氏、渋谷氏、川越氏などが、五男の平忠光(たいらの-ただみつ)からは梶原氏や三浦氏、鎌倉氏などが出ており、後の鎌倉幕府の有力御家人となっています。

※注2

鎌倉景政(かまくら-かげまさ)を祖とする一族で、上総氏などと同じく桓武平氏の流れを汲んでいます。鎌倉景政は鎌倉を開拓した人物で、源義家(みなもとの-よしいえ)の奥州征伐に従軍して右目を射られながらも奮戦した人物です。

鎌倉景政を祀る鎌倉五郎神社

遅かった任官

関東一帯に勢力を持つ事に成功した源義朝ですが、叙任は遅く仁平3年(1153年)で31歳の時と言われています。

京に在住していた弟の源義賢(みなもとの-よしかた)は保延5年(1139年)に叙任を受けているため、かなり遅い時期の任官ですが、これは尾張大宮司である藤原季範(ふじわらの-すえのり)の娘を正室に迎えた影響が大きかったようです。

代々熱田神宮の大宮司を務める尾張氏の一族を母に持つ藤原季範は、子女を有力者に嫁がせて中央政権との繋がりを深めて行く中で、娘の由良御前を源義朝の正室とする事で武力をも手に入れ、久安3年(1147年)には後に鎌倉幕府を成立させた源頼朝が熱田神宮に隣接する邸宅で産まれていますが、その父である源義朝は無位無官だったため、朝廷に任官を働きかけたと一般的には考えられています。

源頼朝誕生地

熱田神宮の西側に位置する源頼朝誕生地

しかし『本朝世紀』によると、源義朝の徐目は急遽行われており、同時に藤原季範の嫡男で正六位兵部小丞であった藤原範忠(ふじわらの-のりただ)も従五位下に官位を進めていますが、他の参議が欠席する中で、藤原清隆(ふじわらの-きよたか)のみによって執り行われると言う異例な物だったようです。

藤原範忠も嫡男でありながら、父の藤原季範が務める熱田大宮司の地位は弟に譲られており、義兄の源義朝と共に不遇の立場に立たされていた人物のようですが、久寿2年(1155年)に藤原季範が死去すると大宮司に就任しています。

藤原清隆は白河院を財政面から支え、鳥羽院・待賢門院・美福門院の近臣として勢力を保った人物で、関東に勢力を持つ源義朝と、熱田大宮司の家系である藤原範忠の任官を執り行う事で、京で権力を振るう摂関家に対抗する武力を手に入れようとしたのかもしれません。

ともあれ、この叙任により鳥羽院との結びつきを強めた源義朝でしたが、摂関家と結ぶ父の源為義らとは対立を深めていく事になります。

保元・平治の乱

久寿2年(1155年)源為義の意向を受けて東国へ向かった弟の源義賢を、源義朝は長男の源義平(みなもとの-よしひら)に討ち取らせます(大蔵合戦)。

その後も源義賢の復仇を考える父の源為義との対立は深るばかりとなり、保元元年(1156年)7月に朝廷の権力闘争より発生した保元の乱では、崇徳上皇側に付いた源為義や弟の源頼賢(みなもと-よりかた)、源為朝(みなもと-ためとも)らと袂を分かち、藤原信西(ふじわらの-しんぜい)や平清盛(たいらの-きよもり)らと共に後白河天皇方として参戦して勝利に貢献します。

敗北した崇徳上皇は讃岐へと配流され、極楽往生と戦死者の供養を願って写本した五部大乗経を京の寺に納めて欲しいと願い出た所、後白河天皇は呪詛を疑って受け取りを拒否したため、三大怨霊の一人(他の二人は平将門と菅原道真)になったと言われています。

崇徳院に従った源為義父子は源義朝の元へ出頭しますが、同じく後白河天皇方として参戦していた藤原信西が助命嘆願を認めなかったため、父と兄弟を部下に命じて処刑する事となり、世間からは「父殺し、弟殺し」と非難される事になります。

平治元年(1160年)中立を保っていた平清盛が熊野参詣に赴いた隙を突き、藤原信西を憎む源義朝は後白河院の寵臣である藤原信頼(ふじわらの-のぶより)と結んで三条殿を襲撃して藤原信西を討伐し、その恩賞として播磨守となり、源頼朝も右兵衛佐に任ぜられます。

朝廷最大の権力者となった藤原信頼でしたが、中立を保っていた平清盛が二条天皇を手中に収め、後白河上皇の後ろ盾も失ったため、藤原信頼と源義朝は討伐の対象となり、平清盛軍との戦闘が始まります。

当初は攻勢に出ていた源義朝軍ですが、官軍の立場として大軍を擁する平清盛の軍勢に押されていき、鴨川に追い詰められてしまいます。

討死を覚悟した源義朝に対し、乳兄弟の鎌田政清は落ち延びる事を提案。斎藤実盛(さいとう-さねもり)ら主従八騎となりながらも勢力圏の関東を目指して進む事を選択します。

逃避行の果てに

平清盛が放つ追討軍からの逃避行の中、長男の源義平(みなもとの-よしひら)を北陸に落ち延びさせますが、重傷を負った次男の源朝長(みなもとの-ともなが)は先に進めずに源義朝自らが首を落とし、父と弟だけでなく息子までもその手に掛ける事になってしまい、配下の武将の中でも勇猛として名を馳せた源重成(みなもとの-しげなり)も美濃国で源義朝の身代わりとなって討死を遂げます。

乗馬も失い鎌田政清や金王丸ら主従数名となった源義朝は、美濃国から薪を積んだ小舟に身を潜めて、尾張国野間を本拠として一帯に勢力を持ち、年来の家人であり鎌田政清の舅でもある長田忠到(おさだ-ただむね)を頼って身を落ち着けます。

長田忠到の元で正月の3日間を過ごしていた源義朝ですが、長田忠到は息子の長田景到(おさだ-かげむね)に対し「平家の追手は厳しいので源義朝は東国に行きつく事は難しいので、ここで殺害して恩賞を得た方が得策」と相談を持ち掛けます。

この時の長田忠到の言葉は平家物語に「人の高名にせんよりも、ここにて討って、家の見参に入れ、義朝の所領の一所ものこさず給はるか、しからずは当国をなりとも給はりて候はゞ、子孫繁昌にて候はむずれ」と記されています。

なお、源義朝暗殺に反対した長田忠到の兄である長田致親(親致)は、三河大浜(現在の碧南市)に渡り大浜城を拠点として一帯を支配。

後に織田信長初陣の舞台となった他、子孫としてこの地に産まれ、徳川家康に仕えた永井直勝が姓を長田から永井に改めており、その子孫には三島由紀夫や永井荷風など文才に優れた人物が出ています。

相談をまとめた長田忠到・景到父子は正月三日の祝事として源義朝に風呂を進め、鎌田政清には別室で酒を振舞います。

その身一つで湯殿に入った源義朝に対し、武具をまとった長田忠到配下三人の者が一斉に襲い掛かり源義朝を滅多刺しにします。武勇に優れた源義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫びながら38歳の生涯を閉じたと伝わります。

この時、鎌田政清も酒の席で殺害されますが、金王丸はこの場を戦って切り抜け、そのまま東国に落ち延びて後に土佐坊昌俊となったと言う説もあります。

源義朝墓看板

源義朝の墓所に立てられた説明看板

主の源義朝の墓所脇に立てられた鎌田政清の墓

源義朝の首を討ち、京の平清盛に差し出した長田忠到は壱岐守に任ぜられますが、恩賞として佐馬守(源義朝の以前の官位)か、尾張か美濃の国司を求めたため、平清盛の怒りを買い壱岐守も取り上げられてしまいます。

ただし、三河高橋荘などの地はそのまま与えられて居館を築き、尾張内海だけでなく三河一帯にも勢力を拡大したと考えられています。

高橋荘(現在の豊田市一帯)に建てられた長田屋敷の看板

治承4年(1180年)伊豆で兵を挙げた源頼朝は源義朝が奪い取った鎌倉に入り、坂東八平氏らを従え勢力を拡大する中で、尾張の地で一定の勢力を持つ長田忠到は鎌倉に参上して、源頼朝に対し父の源義朝を討った罪を詫び、平家打倒に協力すると言います。

源頼朝像

源氏山にある源頼朝像

当時の鎌倉は一面の湿地帯で、軍勢を連れて鶴岡八幡宮に参拝する事は困難を極めたため、源氏山より遥拝したと考えられています。

この申し出に源頼朝は身命を賭して働けば「美濃(みの)・尾張(おわり)を与える」と約束します。

その後、幾多の合戦で戦功を挙げ、平家を打倒した源頼朝は長田忠到・景到父子を父の源義朝の墓前に引き出し、約束通り「身の(みの)・終わり(おわり)を与える」と言って墓から見える松の木の大木に磔刑に処しました。

時は下り、天正11年(1583年)豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)は、敵対する柴田勝家(しばた-かついえ)に同調した旧主の織田信長(おだ-のぶなが)の三男である織田信孝(おだ-のぶたか)の守る岐阜城を攻略し、織田信孝は野間で軟禁された後、自刃を命じられます。

織田信孝の辞世の句は

「昔より 主を内海(注3)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

※注3:内海(うつみ)

一帯の地名である内海と、討つ身(源義朝を暗殺した長田忠到を指す)を掛けた掛詞

と言われており、暗殺された源義朝の無念をも思い出させる句ですが、残念ながらこの句は後世の創作とも言われているようです。

織田信孝の墓

現在、野間大坊にある源義朝の墓所には死ぬ間際に言った「我れに木太刀の一本なりともあれば」の言葉を重んじて多くの木刀が捧げられ、一角には鎌田政清の墓と共に織田信孝の墓も建てられており、長田忠到・景到父子が磔刑に処せられた松は「はりつけの松」として今も見る事が出来ます。