序論道成寺…地理的考察 ①
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok2.html 【第一章 熊野考】 より
日本列島の南北へ伸び上った龍体の四肢の一つのように、しっかりと南へ張り出されているのが、『紀伊半島』である。
伊勢平野と大阪平野を「ヘタ」とすれば、まるで『熟し柿』のように広がった半島を、
和歌山・三重・奈良の三県が分割している。
紀伊半島唯一の鉄道『紀勢本線』は、もと熊野街道の大辺路を辿って、紀伊半島の周辺部をぐるりとまとわりつくように走り、半島中心部への交通は、バス路線のみの現状である。
その昔、和歌山線五条駅から紀伊半島中心部を直下南進して新宮に達する鉄道が企画されたと聞く。がしかしそれは、現在予定線として猿谷あたりで止まっている。
そのため、日本全国網の目のように走っている鉄道は、紀伊半島の中心部のみ大きな白地として残していることになる。
また紀伊半島北緯34度線以南には、和歌山平野のような規模の大きい沖積層平野部がほとんど見られない。
河川の運ぶ土砂が堆積し形成されて行く沖積平野は、数多い河川にもかかわらず、紀伊山地の海にまで迫る山塊によって、生成拡大をはばまれているのだ。
しかし、この北緯34度線以南には、これといって目立つ巨峰は存在しない。
ところが、1000メートル前後の山岳は30に近く、500メートル前後の山塊が海辺まで迫まっているのだ。
紀伊半島山岳部の中心となる紀伊山地は、果無山脈を東西の骨として、北に大峰山脈白馬山脈を伸ばし、南に大塔山を中心として広がる大山塊を従えている。
このような広大な紀伊山地のために、大企業の進出も少なく、産業も発達していない。
田圃も、山際まで階段状に押しよせ、瀬戸内海に浮かぶ小島に見られるような段々畠に似て、狭い平野部を最大限に活用している。
ところで、大阪から半径40キロ以内には、京都・奈良・神戸など関西主要都市群全てが含まれている。大阪から名古屋までの直線距離は、約130キロである。鉄道距離に直しても、約186キロ程度にしかならない。しかし、大阪から新宮までは、直線距離の約110キロに対し、鉄道距離約260キロという相対距離差が生じる。直線距離において名古屋よりも格段に大阪に近い新宮は、実際には遥かに遠い田園都市であると云える。
大阪・京都・奈良・神戸などの関西都市群が形成する大文化圏の直下に有りながら、紀伊半島北緯34度線以南は、瀬戸内海沿岸よりも、さらに文化的・経済的に立ち遅れる。
この現象は、今日に始まるわけではない。
古代、北九州を経て瀬戸内海沿岸を東進した農耕を伴う文化は、その稲作という特質によって、移動性採集生活をしていたと思われる人々を定住農耕民に変身させ、余剰生産物の蓄積から貧富の差を生み、より善い土地へ人々を集めることとなった。
紀伊半島
結果的には、瀬戸内海の袋小路のような大阪平野に、巨大な勢力を持つ部族を誕生させることになった。その文化と力は再び瀬戸内海沿岸へ逆流していったであろう。
しかし、大阪平野南部にそそり立つ和泉山脈(葛城山脈)・生駒山地・金剛山地は、その文化と力の南進を遅らせ、何重にも連なる紀伊山地の山々がより南進を阻む事となる。
また、日本文化の東進発展は、近畿から山間の盆地をぬうようにして、琵琶湖をめぐって、濃尾平野へと到る。
ところが、紀伊半島北緯34度線以南には、全く別な異形の文化相を発展させて行ったような所が見られると言う。
紀伊半島の文化地域を黄泉の国であったと指摘し、「日南・南部」の地名は「忌部」から出たものではないか、から始まり、『古事記』にある大国主神の国譲りにまつわる「僕は百足らず八十隈手(奥まったすみの所。物かげの暗い所。)に隠りて侍ひなむ」の物語を中心として、黄泉の国「出雲根のカタス国」と「木の国」の繋がり、また黄泉の国の神「月読命」「イザナギ・イザナミ」などの木の国訪地のことなど種々の例証があげられている。
それらは、とり残された紀伊半島を、日本史の中で位置づけるための考証ではなかったろうかと思われる。
しかし、この紀伊半島が日本の歴史の中において果たして来た役割は、黄泉の国よりもっと深い意味を持っている。
神話時代における逸話によれば、天上を追われたスサノオノミコトが、出雲平定後、子イソタケルと伴にこの地を訪れて、天上の木の種を植え、それよりこの地を「木の国」と呼ぶようになったと言う。
大国主命は、八十兄神達の迫害に耐えかねてこの木の国へ逃れて来た。
また、神武天皇の東征においては、神武天皇が熊野山中で道に迷った時、八咫烏(やたがらす)の助けを得て難を逃れたと言う。
歴史時代に入れば、近江廷への叛逆を企てた大海人皇子は、この紀伊の地へ三十数度も訪れて、ついにはこの地に兵を挙げたと云う。
熊野は、奈良時代において高野山よりも早く僧侶の修行場として発達し、熊野大峰信仰は密教と修験道によって次第に勢力を拡大し朝廷との関係において、一種奇怪なかげの政治力を持ち出す。
後白河上皇、後鳥羽帝、後醍醐天皇など、平安から南北朝時代に至るまでの歴史の表裏において活躍した天皇達は、何らかの形で熊野と結びついている。
熊野水軍もまた、瀬戸内海水軍など日本水軍の祖となり、熊野修験道は、遠く東北出羽・羽黒三山と連なって、日本各地に熊野社なるものを残している。
熊野比丘尼は、恐山イタコ信仰にその面影を留めているという。
このような日本歴史勢力図の中で紀伊半島が果たしてきた役割はいったい何を根底の基盤として生まれて来たのだろうか。
取り残され続けて来た熊野は、支配者の稲作による定着性生活の強制に対して、それを受け入れるために必死の努力によって海辺部のわずかばかりの土地を耕して来た。
しかし、そのことからさえもとり残された「海人・山人」達は、彼らの移動性生活を捨て得たのだろうか。
海人達の中でも、舟を捨て得なかった人々は熊野水軍という一大勢力を築いて行く。
山人達は、いったいどうしたのだろうか。
一説には、山人も海人も同じ海人族出身といわれているのだが……。定住農耕生活者にとって、漂泊の山人達は神出鬼没の山神の化身のごとく写ったのではなかろうか。
それは、定住に同化して行った山神、水分神やおとずれの田神として変身した山神よりも、
荒々しく山野を暴れまわると思われていたであろう。
山人達は、その厳しい漂泊の間に宗教的性格を帯び、また独自の技術を修得するに至ったのではなかろうか。
修験山伏・山窩・木地師・タタラ師など、これらが彼らに被せられた名ではなかったろうか。
そして、それらは重なりあい秘そかな力、大きな組織となっていったのではないかと思う。
彼らを育てた、その紀伊半島北緯34度線以南の地の、最北西「乾」の方角にあたるのが、「道成寺」である。
正式には、「天音山千手院道成寺」と云う。
http://www.asahi-net.or.jp/~ue1k-ootn/041dozyok3.html 【第二章天音山千手院道成寺】より
「紀伊国日高郡土生村ニ在リ、文武天皇大宝年中ノ創建ト称ス。
始メ法相宗ニ属セシガ後天台宗ニ改ム。
此寺ハ、安珍ノ物語ニ依リテ、其名世二高シ。」
(『古事類苑』宗教部六十八・仏教六十八・道成寺の項。)
と書き出されている道成寺は、現在和歌山県日高郡川辺町鐘巻1738番に有り、
(旧)国鉄「紀勢本線」道成寺駅から、北へ300メートルの所に位置する。
私達にとっては、日頃、能や歌舞伎や日本舞踊などを通じて、大変馴染深い寺となっている。しかし、道成寺という寺そのものについては、其名が世間に名高い割にはあまり知られてなく、建立については今日もなを、幾つかの謎を秘めて居る。
道成寺建立年に関する文献の記述を追ってみたい。
『南紀名勝略志1820年刊』(前掲書記載)に依れば「当寺ハ、文武帝大宝年中……後略-…。」とあり、文武天皇治世の西暦701年から703年まで用いられた大宝年号の内に建立と記されている。
『熊野遊記1801年刊』(屋代弘賢著『道成寺考』記載、『燕石十種』所収)に依れば、
「人皇四十二代文武天皇朝慶雲年……後略…-。」とあって、
文武天皇治世の西暦704年から707年まで用いられた慶雲年号の内に建立と記されている。
『道成寺縁起1466年頃刊』(『日本絵巻物集成』巻二所収。)に依れば、「文武天皇之勅願…後略。」とあり、勅願寺であるという記述はあるが、年号の記載はなく、『鐘巻道成寺縁起』(前出『道成寺考』所収)などにも、年号の記載は無い。
この年号の持つ意味は何だろうか。推論ではあるが、次のことが考えられる。
大宝年中と記されているものも、慶雲年中と記されているものも、いずれも文武天皇御宇の年号である事から、道成寺が文武天皇の勅願によって文武天皇治世中に建立されたであろうとする考えより、建立年の年号としてあてはめられたものではないだろうか。
つまり、建立の年号に関する確実な記録は一つも存在しないのではないかと思われる。
それゆえに、文武天皇治世中において、実際に道成寺が建立されたのだろうかという疑問が生じるのだ。
道成寺が文武天皇の治世中に建立されたということの唯一の証しは、文武天皇の勅願によって道成寺が建立されたとする諸々の文献である。
『書言字考節用集一乾坤1717年刊』には、「道成寺紀州日高郡矢田荘、文武天皇勅願所…後略。」(前出『古事類苑』所収)とある。
また、上述の『道成寺縁起』、『熊野遊記』も文武天皇の勅願によって建立されたとしている。
この点について、数ある道成寺研究の論考においては、いかなる記述があるだろうか。
屋代弘賢によれば、「文武天皇の勅願なれば、正史に記さるべきを、続日本紀に所見なく、伊呂波字類抄にも記さざれば、扶桑略記にも所見なき成べし、されば勅願といふは信じがたし。」(前出『道成寺考』に依る。)と論じ切っている。
だが、現在の道成寺小野管主においては、『錘巻道成寺縁起由来』という物語を、
説法と伴に訪れる人に語り、道成寺が勅願寺であることを力説している。
しかしその物語は、文政元年回向院にて開張した時に広めた、『鐘巻道成寺縁起1818年刊』という物語とほぼ同一のものである。(前出『道成寺考』所収)
ただ、『鐘巻道成寺縁起』では、「髪無姫・髪長姫」の名は一切現われないのに対し、小野管主によれば、都へ召された後、藤原不比等の養娘となって、宮子姫と名乗ったという。この「宮子姫」というのは実在の人物である。
藤原氏の略系図にもその名が見え不比等の娘として文武天皇妃、聖武天皇の母であることがわかる。
(児玉幸多編『日本史年表』44頁より。)
ただ宮子姫が養娘であったのか、不比等の実子であったのか定かではない。
ゆえに、小野管主の言うことの真贋を問うことは出来ない。
だが、同じ内容の『錘巻道成寺縁起』について、屋代弘賢は「…前略…みかどの御后は淡海公の一女藤原宮子と申奉り、外に妃嬪もおはしまさざりしよしなれば、海士の子を后に立給ひしと云ことは跡かたなきそらごとなり。」と論じている。
また、この『錘巻道成寺縁起』の原型のような物語を『熊野遊記』に次のごとく見る。
「道成寺……中略……昔此寺本尊漁人網出干海中方今門前村家称九海士里即其漁人九名所居也……後略……。」
この問題は、内容の変化や流れから、『熊野遊記』より『錘巻道成寺縁起』、現代の小野管主の物語りへと続く、説話の変転の雛形を見るだけに留めよう。
勅願寺であるという証しとして、正平十四年の記入のある道成寺錘銘を見れば、次のごとくある。
「紀伊州日高郡矢田庄、文武天皇勅願道成寺治鋳錘。」(前出『道成寺考』所収)
しかし、『南紀名勝略志』によれば、「……前略……文武帝大宝年中、紀大臣道成峯行殿御艸創ト云リ、然ドモ不慥…後略…。」と確かにあらずと記している。
道成寺が勅願寺であると言うことは、例えば、織田信長が後に平氏の出であるとし、徳川家康が後に源氏の出であると称したことと似て、寺の格式を高めるために行った一つのプロパガンダであると推測出来る。
では、屋代弘賢の論ずる通りに、道成寺が文武天皇の勅願寺では無いとしたら、いったい誰れによって建立されたのだろうか。
直接の建立の責任者のごとく記されている紀大臣道成が、その私費を投じて建立したのであろうか。しかし、この紀大臣道成も不確かな人物である。
『日本史年表』(前世)における紀氏の家系にその名は見えない。
屋代弘賢は、「殊に、紀大臣道成といふ人も不審なり、……中略……またおもふに、道成二字は人名にあらで、仏典より採りしにもあるべきや。」と論じている。(前出書)
彼は、紀大臣道成について、紀氏家系図や文武天皇御宇の左大臣の名を調べ、紀道成と云う人物の存在しないことを明らかにしているのだ。
以上の論考を基とすれば、道成寺は、誰が何時何のために建立したのか皆目判らない寺であると言える。
道成寺の開山あるいは開基なども、上述の諸資料に拠って一言も言及されて無く、寺として欠くべからざる開祖も未だ明らかではない。
以って道成寺に関する幾つかの謎は依然として私達に立ち塞がり道成寺説話についても不気味なベールを被せている。
もし、この幾つかの謎に少しでも光を与えることが出来れば、私達は、「道成寺説話」と呼ばれる説話の流れと道成寺との結びつく要因、あるいはその必然性を知り得ると思う。
また、道成寺説話が第一伝説(鐘巻譚)と第二伝説(鐘供養譚)と云う二つの伝承物語に変容し、
再び一つの芸能の中に結晶して行く原因も知り得るのではないかと思う。
そこで第一伝説については、本論第一章「説話起源考」において論考して行くこととし、
第二伝説については、本論第三章第三節、「説話の系譜第二期」において論考して行くこととする。
それゆえここで、建立に関する点について二つの仮説を用い、道成寺に関する謎へ少しでも光を当てようと試みる。
それによって、道成寺説話の知られざる歴史を、少しでも探り出して行きたい。
※1勅願寺
勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。
寺格の一つ。
実際には、寺が創建されてから、勅許によって「勅願寺になった」寺も数多い。
また勅願寺になれば寺領が得られることもあり、戦国時代頃からは寺の側から働きかけて勅許をもらうという例もあった。
※2文献記録
道成寺建立についての記載は、公文書には一切無く。、各文献は、建立とする700年頃に対して、最も古い記録でも、
『道成寺縁起』(室町後期(16世紀)の絵巻)であり、およそ700年の歳月をへて道成寺建立を記載している。
簡単に云えば、建立年なんぞはいい加減だって話。
701年・大宝元年・文武5年・宮子夫人出産(首皇子=聖武帝)
この頃道成寺建立とする。
712年・和銅5年・元明5年・古事記
720年・養老4年・元正6年・養老日本紀(=日本書紀)完成
807年・古語拾遺 猿女君の仕事は神楽の事
859-877年・貞観 年間・貞観儀式 祭儀や年中行事、政務に付随した行事など
1359年 正平14年(南朝方にて使用された年号)・道成寺錘銘
1466年頃・1336年からから1573年・道成寺縁起(室町後期(16世紀)の絵巻)
1488年・長亨2年・岳の早池峰神社 獅子頭が残されて・神楽伝授書の控えの巻物に長亨2年の記銘
1717年・享保2年 ・書言字考節用集 槙島昭武著
1801年・寛政13年・熊野遊記 北圃恪斎 [著] 鈴木芙蓉 [絵]
1818年・文政元年・鐘巻道成寺縁起
1820年・文政3年 ・南紀名勝略志の奥付
1839年・天保10年・紀伊続風土記・紀州藩が編纂した地誌。