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Okinawa 沖縄 #2 Day 94 (19/03/21) 旧大里村 (8) Taira Hamlet 平良集落

2021.03.20 09:06

旧大里村 平良集落 (たいら、テーラ)


旧大里村 平良集落 (たいら、テーラ)

平良は字大里の三つの区の一つで、この3つの区はそれぞれが深い関係があるようだ。琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初は南山よりの大里大主で所在は根所、地組始は豊見城平良より来る平良在所とある。

人口の推移については1880年 (明治13年) に比べ戦後から沖縄本土復帰後しばらくまで人口がかなり減少している。この集落の特徴として、戦前戦後を通して、生活苦から海外移住がかなり多く、ハワイ、北米、アルゼンチンに多く移住しており、特にアルゼンチンには300人以上のこの村出身の移民がいる。当初は移民と集落との関係は保たれていたが、時代が過ぎ、2世、3世の時代になり、関係はどんどん薄れていき、集落の土地や農地は売却されていったそうだ。2012年に人口が急増、その後微増、近年は横ばい状態。

民家の分布図は人口の推移を現わしている。1919年から1975年へは集落は縮小し、1994には元に戻り、2015年には集落外にも民家が増えている。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


平良集落で行われている年中祭祀はそれほど多くない。拝む拝所の半分ぐらいが同じ旧大里村の南風原集落と西原集落にある。この3つの集落と深い関係があったのだろう。


平良集落訪問ログ


那覇から今日訪れる平良集落は、先日訪れた古堅集落の東南に位置する。この二つの集落の間は丘陵を広がって、古堅集落から直接平良集落への道はなく丘陵を削って作られたと思われる道を一度南側に出て、そこから北上し集落に入る。平良集落は周りが丘陵で囲まれており、南から集落に入る道以外には、北側に隣村の南風原方面に向かう農道があるのみだ。



ウグヮン毛 (モー)

南から集落に向かうと、集落の南西の端に当たる場所にウグヮン毛 (モー)と呼ばれる山がある。平良集落の聖域に当たる御嶽や拝所が集まっている。


名称不明井泉跡 (資料では名称不明5と記載されている)

ウグヮン毛 (モー) に行くと簡単に入り口が見つかった。自転車を停めて、道を登るとすぐ右側がに井戸跡があったというのだが、資料写真は井戸跡自体は写っておらず、大体の場所がマークされていた。掲載されている写真と同じアングルの場所を探すとこの辺りにあったと思われる。御嶽や拝所に入っていくときに身だしなみを整え、井戸水で身を清める習慣があったので、ここでそれを行っていたのかもしれない。この井戸は1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) で拝まれている。


名称不明拝所 (資料では名称不明3と記載されている)

名称不明井泉跡 (名称不明5) のすぐ上の右側が小さな広場になっており、奥にある大木の根元に幾つかの石が置かれ、拝所となっている。この拝所も1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) に拝まれている。


名称不明拝所 (資料では名称不明4と記載されている)

名称不明拝所 (名称不明3) の近くに石の祠の拝所があるが、見つけにくいと書かれていた。見つけにくいとあったが、それほど苦労せずに見つかった。この拝所も1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) に拝まれている。



名称不明拝所 (資料では名称不明1と記載されている)

更に少し上った所右側に、二つの石の祠が見える。手前の祠が名称不明1と書かれている拝所。この拝所も1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) に拝まれている。



名称不明拝所 (資料では名称不明2と記載されている)

名称不明1のは所の奥にもう一つ石の祠の拝所がある。この拝所も1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) に拝まれている。


高宮城への遙拝所

更に道を登り、もう少しでウグヮン毛 (モー) 頂上の所に拝所があり、香炉が1つ置かれている。高宮城への遙拝所だそうだ。かつて、平良では、この集落も管轄していた高宮城ノロが平良の各拝所で祭祀を行っていた。


アラマチューの御嶽 (平良之嶽 テーラヌウタキ)

標高82.3mのウグワン毛の頂部に御嶽があり、石の祠が2つある。琉球国由来記の平良之嶽 (神名: アラマキウコバヅカサノ御イベ) に相当すると思われる。平良之嶽はこの集落も管轄していた高宮城ノロにより司祭されていた。この付近はムラの発祥の地と伝えられている。この御嶽への登り道は無く、生い茂った草木を分けてようやく見つけた。後で集落で地元の人と話すと、本当はちゃんと道の面倒を見ないと行けないと思っているが、今は御嶽がある場所の下の遥拝所から、1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) で拝んでいる。集落では老齢化も過疎化も進んで、山に登って拝むのも大変なのか、御嶽は限られた人 (ノロ) し入れなかったので、遙拝所を設け、一般の部落民は遙拝所から拝むのが習慣となっているのが続いているのか?


アラマチューの井泉

アラマチューの御嶽の前に石で囲まれた井戸跡があった。草で覆われていたのを、少し払い退けて写真を撮った。このウグヮン毛には湧水はもう無いのだが、井泉と伝わる所が2ヶ所あるそうだ。五井泉の内の一つ。ここも、1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) でアラマチューの御嶽への遙拝所から拝まれている。


アラマチューの御嶽への遙拝所

アラマチューヌ御嶽の下の道沿いに、この拝所への遥拝所がある。御嶽には10mも無いのだが、登り拝むのは大変だったのか、戦後、遥拝所として造られたそうだ。

まだ道が続いている。進むと降り坂になり、先にこのウグヮン毛に入った道の少し上に出た。御嶽へは二つの道があるのかと思っていたのだが、後で地元の人に聞くと、これは入口と出口の道で、御願の際はこの道順で巡る事になっているそうだ。偶然その順序で見学していた。


ウグヮン毛を後にして、いよいよ集落に入る。


綱の神 (チナヌカミ)

集落からウグワン毛へ至る道の途中に綱の神 (チナヌカミ) という拝所があり、別称、前之森 (メーヌムイ) とも呼ばれている。綱引とエーサーの際に拝まれる。祠の前の庭には、差石と呼ばれる石が一つある。差石は力石の事で、かつては各集落に置かれていた。この集落でも差石は重さが違う幾つかがあったが、今はこの一つしか残っていない。(地元の人の話)  1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭)、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭)、6月25日のカシチー (強飯、収穫感謝祭) の祭に拝まれている。


アシビナー (?)

綱の神 (チナヌカミ) の近くに広場がある。以前はアシビナーだったのではと思う。ここでは村の祭である綱引きが行われている。子供の綱引きが旧暦5月ウマチーの際に、大人の綱引きは旧暦6月のカシチーの際に行われている。前城間の旦那さんから聞いたのだが、綱引きは元々の集落内の住民中心で行われており、同じ平良地区の住民でも集落地域外からの参加は少ないそうだ。子供の綱引きは幼稚園や小学校関係で集落外からの参加もあるといっていた。昔からの集落と集落の外側に新たに転入してきた住民との間には壁があるのが沖縄では一般的なようだ。勿論、那覇など大きな市で昔からの村がそのまま行政区域を刷新している地域はこのような傾向は薄いのだが、これは沖縄の課題と思える。このメンタリティーから抜け出さないと、地域の発展は難しいだろう。


村屋跡 (平良公民館)

集落の中心地に公民館がある。恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされている。公民館の庭には、まだ桜が咲いていた。沖縄ではもう桜の季節は終わり、ほとんどの桜は散ってしまっているのだが、ここの桜はまだ健在だった。ここはかつての村屋だった場所。公民館には誰もいない。窓から中を除くと台所に火ヌ神が祀られている。この火ヌ神も集落住民の御願の対象になっている。見ることはできなかったが、公民館内には仏壇があるそうだ。2つある位牌が二つあり、集落の始祖の位牌で、「御元祖」と書かれているそうだ。もともとは位牌の一つは屋号 平良で所有していたが、戦後、村から転出後、公民館に移された。 屋号 平良は集落の有力門中で高宮城ノロを迎え入れる家であったという。


クムイ (溜池) 跡

公民館の前に広場がある。集落の住民からのこの土地の寄贈で、遊び場に整備したとの石碑が建っていた。以前はクムイ (溜池) だったそうで、馬や農機具を洗っていたと話してくれた。入り口にコンクリート製の何かが残っており、年月が刻まれている。この遊び場が造られたときに何かを建ててその日を刻んだのではないかと思う。村の人の話では、馬をつないだ柱が建っていたと言っていた。


産井泉 (ウブガー)

公民館前の公園 (クムイ跡) の東の壁に覆われる様に産井泉 (ウブガー) があり、大川 (ウフガ-) とも呼ばれている。ムラの五泉のうちの一つで、かつてはコンクリートでおおわれていなかった。飲料水や若水 (ワカミジ) として使用され、葬列が井泉の前を通ることは禁じられていた。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) 、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) で拝まれている。


ウイビ

公民館西側の道向かいの民家の敷地内にある拝所と書かれ、写真も載っていた。祠の形は同じなのだが、周りの風景は全く異なっている。近年、ここに移設されたのだと思う。こののウイビ祭神は、女神といわれ、かつては女性が祭祀を行っていた。また、元の場所には米蔵があったといわれる。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) 、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) 、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) で拝まれている。


ジンドウ

公民館の後方のカバンジーと呼ばれる場所にある拝所でジンドウと呼ばれている。公民館建築時に現在の場所に移設されたのだが、祠が3つ並んで、右側がジンドウーヌメー、中央が殿内 (トウンチ)、左が平良子 (テーラシ―) という。三月三日 (サングッチサン二チー) の「浜下り (ハマウイ)」の際に、この拝所に集まり祈願した。「浜下り (ハマウイ)」は沖縄では一般的な行事で、女の子の節句として、旧暦3月3日に行われる。この日には家族で潮干狩りを楽しむ行楽行事となっている。本土の雛祭りに相当する。「浜下り (ハマウイ)」は、昔から女性が潮水に手足を浸して穢れを落とす儀礼だ。雛祭りは子供の成長を願い、枕元に形代 (雛人形の原型) を置き、厄除けを行い、1年の災いを、ひな流しで祓っていた。ただ、沖縄の「浜下り (ハマウイ)」の始まりの伝承は「蛇婿入り」という本土でも各地にあるものだ。この伝承は、少しずつ話の筋が形を変えて、沖縄全土でも存在する。

  • ある娘が美男子と通じて子を身ごもったが、その男の正体はアカマター(蛇)が化けたマジムンだった。そこで娘は海に飛び込んで身を清め、アカマターの子供を流した。これが沖縄の浜下りの由来だ。

本土と沖縄の共通の昔話が、沖縄では3月3日の女のこの節句の起源となっているのは興味深い。

ジンドウでは浜下り以外に1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) 、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) 、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) でも拝まれている。


上之井泉 (ウィーヌカ-)

公民館の北に上之井泉 (ウィーヌカ-) がある。平良集落の東西南北にある村立てに関係する五泉のうちの一つで、この上ヌ井泉は北にある井戸。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭)、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) に拝まれている。五井泉の他の4つは、産井泉、東ヌ井泉 (東)、アラマチ一ヌ井泉、ワク泉 (南)。


ナーカの御嶽

上之井泉 (ウィーヌカ-) の側に石の祠が二つある。ナーカの御嶽と呼ばれ、公民館の北方約50mにある拝所。この拝所のそば(西側)に上ヌ井泉いう井泉がある。上之井泉 (ウィーヌカ-) と同じく。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭)、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) に拝まれている。


新井泉 (ミ-ガ-)

公民館の東には新井泉 (ミ-ガ-) がある。集落住民の飲料水として使用された。水がきれいなので豆腐づくり等にも利用されていた。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に拝まれている。


名称不明井泉跡 (資料では名称不明8と記載されている)

新井泉 (ミ-ガ-) がある同じ道に井泉跡がある。湧水はなく井戸は埋目られて、その面影はない。公民館と関係のある井泉と書かれていたが、どのような関係では課は書かれていない。この井泉は御願の対象にはなっていない。


名称不明井泉跡 (資料では名称不明9と記載されている)

名称不明井泉跡のすぐ上の屋号 前安里 (メーアサトゥ) の敷地内にもう一つ井戸跡がある。この井戸跡も御願の対象にはなっていない。


西之井泉 (イリヌカー)

西之井泉 (イリヌカー) は、名のごとく、集落内の南西の端、先に訪れた綱の神 (チナヌカミ) の下に下った所にある。この井戸では、死水 (シニミジ) を汲んだという。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) 、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) で拝まれている。


ワク井泉 (ガ-)

集落の東南にある円形の石積みのワク井泉跡があるのだが、草木が生い茂り、井戸の中の石垣を見ることはできなかった。この井戸は五井泉の一つで、南ヌ井泉 (フェーヌカー) とも呼ばれている。1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に拝まれている。


クシメー井泉 (ガ-)

集落の北東の端之駐車場になっている場所にクシメー井泉があり、1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に拝まれている。


名称不明拝所跡 (資料では名称不明6と記載されている)

クシメー井泉 (ガ-) の近く、集落北東部の端のから丘に登った雑木林の中に井戸跡があるのだが、草が胸まで生い茂り探すのは困難と思ったのと、村の人の話では、ここに行くと、いつもハブに出くわすと言っていたので、やや危険と判断し断念。資料では写真が出ていたが、祠は半分ぐらい埋まっており、寄棟造りの祠の屋根が出ているだけだそうだ。村の人もこの祠まで登ってきて賀むことはしておらず、登り口の下で拝んでいる。今日もそこに平御香 (ヒラウコウ) が置かれていた。村の行事としては拝まれていないようだが、平御香 (ヒラウコウ) があるんで、いずれかの門中には拝まれているのだろう。


名称不明遙拝所跡 (資料では名称不明7と記載されている)

名称不明6の正式な遙拝所が登り口があった前の道のどこかにあり、香炉が置かれている写真が資料にはあったが、それらしきものは見当たらなかった。ここに遙拝所があるのだが、拝みは先ほどの上り口で行われているようだ。沖縄の人達は拝所の場所は気にしていない。あくまでも拝みをする目安地点ぐらいの認識だ。時々、拝みをしている人に何を拝んでいるのかと聞くと、お多恵に困り笑っていることがある。特定の神を拝んでいるわけではなく、何かに祈願や感謝をしており、漠然とした自然神や先祖諸々といった感覚なのではないかと思える。これは本土と似通っているのだが、本土では国家神道が強くなり体系化され、その周りに自然崇拝といった古代宗教が位置しているのだが、沖縄は沖縄神道はそれほど体系化されず、かつ、民間信仰には本土程神道していない。それで古来からの自然崇拝二祖先崇拝が混じったものが、集落単位で守られていると思える。


東之井泉 (アガリヌカー)

集落から外れた北方は一面畑になっており、そこにある畜舎の北側の山中に東之井泉 (アガリヌカー) があるので、行ってみた。森に行くまでも胸まで生い茂った草の中をかき分け、森に入ろうと思ったが、中は深い雑木林になっている。これでは見つけることは至難の業と思い断念。今日話した村の人は場所を知っている様だったが、教えてもらっても見つけるのは難しかっただろう。ここも五井泉の一つ。かつては、村落祭祀が行われていた。今は1月3日の初拝み (ハチウガミ、年頭御願) と5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭)、6月15日の六月ウマチー (ルクグヮッチウマチー、稲大祭) に拝まれている。


高嶺井泉 (タカンミカー)

東之井泉 (アガリヌカー) があるところには集落から一本だけ道がある。隣村の南風原集落に通じる。その道の側にコンクリートで整備された高嶺井泉 (タカンミカー) がある。2013年改修と記された石碑がある。給水パイプが通っている。この付近の農業用に使われているのだろう。香炉も置かれておらず、拝みの対象にはなっていない。


タカンミ線

高嶺井泉 (タカンミカー) の前の道はタカンミ線と呼ばれる道路で、平良集落と北にある隣の南風原集落を結ぶ道。この道以外だと、集落の南端まで行き迂回路となる。地元の人の話では、このタカンミ線にしても戦後に整備されたもので、それまでは人が一人通れるぐらいの細い道路で、主にサトウキビを運ぶために使われていたそうだ。この時代までは平良集落はほとんど袋小路にあるような集落だったと笑っていた。



徳門井泉 (トクジョーガ-)

集落の北西端に徳門井泉 (トクジョーガ-) があると資料には出ていた。たまたま、村で出会った人がこの井戸がある場所の前に住んでいる人だった。屋号は前城間だという。井戸があるのは裏の徳門の屋敷跡だそうで、今でも森の中には屋敷が残っているという。前城間と徳門とは同じ門中なのだろう。城間はこの平良集落の門中の一つなので、この前城間は城間門中の分家だと思われる。屋号が「前」城間トなっているので、徳門とは城間門中の事ではないだろうか。屋敷を再現したいという人がおり、そのために屋敷を壊さずにいるのだが、雨漏りがすごく、いつ実現できるか、どうなることかと言っていた。井戸がある場所まで連れて行ってくれた。雑木林で深く、その辺りなのだが見えないなぁと言ってた。屋敷まで見せてやりたいのだがと残念そうだった。(前城間の旦那さんとはこの日の後にも偶然出会い、話が弾み、以前平良集落で村史を造って住民に配ったものがあるので、見たければ家に来てもよいと言ってくれた。今度、行ってみよう。多分、集落外の者で平良集落のことを根掘り葉掘り聞かれたのは初めてなのだろう。)


中城、今婦仁への遙拝所

徳門井泉 (トクジョーガ-) から丘陵 (写真左上) の頂上まで山道が伸びている。この道の脇にある中城、今婦仁への遙拝所に向かう。遙拝所らしきものは見当たらず、その先の頂上にある電波塔まで来てしまった。

諦めて、山道を下る。それらしきものを注意しながら進むが、入り口らしきものも見当たらない。資料には期の根元に置かれた霊石が数個移っているのみだ。これだけの手掛かりでは無理かなと思っていると、山道が少し森側に窪んでいるところがあり、そこから森の中を覗くと大木がある。ひょっとしてその場所かもしれないと思い、深い雑木林之中を木々を払い名がらそこに行くと、大木の根元に石のあたん間が出ている。木の葉を取り払うと数個の石が出て来た。写真の拝所の石とほぼ同じなのでここがそうだろう。拝所は大木の根元にあることが多い。はじめは、本土でのように大木を神聖なもの、ご神木とみているのかと思っていたのだが、沖縄では木を神とみなし神木扱いにしている事にはまだお目にかかっていない。今は、目印の為に大木など、よくわかる場所に石を置いて拝所としているのではないかと思うようになっていた。この様な場所は目印がない限り忘れられてしまうのではないだろうか。これはあくまでも個人的推測だが...

この後集落に降りた後、別の村人に声をかけられ暫く話をしていると、この中城、今婦仁への遙拝所の話になった。この人は、離島出身で平良に元々住んでいたわけではなく、少し離れた場所で自動車修理場を営んでいたが、うまくいかず、ウタに相談し、この平良集落に移すことを勧められた。この人の先祖は中城の護佐丸にかかっているともいわれ。この地に修理工場を移し商売を行っている。定期的に先祖の地である中城への御願をする為にこの中城、今婦仁への遙拝所から拝んでいると言っていた。まだ40才代と見受けられるが、平良集落での生活には満足しているようで、集落の文化習慣を素直に受け入れている様だった。先に知り合った前城間之人も合流してきて、しばし楽しい歓談となった。



平良石獅子 [3/22 訪問]

集落見学を終えて家に戻り、訪問記の編集をしている際に、今日訪れた平良集落には石獅子あるとインターネットで出ていた。資料には掲載されていなかったので見落としてしまった。御願の対象ではないので、掲載されていないようだ。次回訪問予定の南風原集落への途中に当たるのでその時に見てみよう。3月22日に訪問した。以前にあった場所からここに移設されたようだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)