五木寛之が書いた「サンカ物語」
https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi/e/c237ec698061fe7cf5a34535f9fa17a4 【五木寛之が書いた「サンカ物語」】 より
サンカの歴史はアイヌのユーカラのように、口伝えで伝承されている。 彼らは絶対に文字では残さない民族なのである。
昭和になって作家の五木寛之が「小説新潮」に三回連載したのが「風の王国」の一冊として刊行された。これは1985年のことである。
「先ず申し上げておこう。吾々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心のよりどころとしては文字より言葉、声による口伝えを根本とする」 とその237頁に、浪骨の言葉として、五木寛之は訴えたい事を書いている。 これはこの通りなのである。
そして又サンカを次のようにも表現している。
「―― 山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。
里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。
山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。
これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。山民は骨なり。常民は肉なり。
山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。
浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。
われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命をあたえるものなり。 乞行(ごうぎょう)の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、 自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。
山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。
われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに―――」
これも文学的な上手い表現で秀逸である。
かって五木は「戒厳令の夜」でも、少し触れているが、このサンカを書きたいために「さらばモスクワ愚連隊」を書いてから数十年かかって、ようやく正面切ってというか、 居直って全体の250頁以下に「フタカミ講」と「渾流組」といったものを、小佐野賢治をモデルにしたような、壮大な射狩野グループとの三つ巴の中で、当時世間を騒がせていた連中に迷惑の掛からぬようにとの用心から配慮して、流浪のサンカ集団を、僅か55人の紺脚絆の <へんろう会>の「天武人神講」としている。
中間雑誌の「小説新潮」に三回の連載を加筆訂正してをして本にしたのだが、五木は賢い作家だから「この小説は作者の想像に基づく創作で実際のいかなる団体や人物とも関係が有りません」と書きしている。
これはサンカの子孫が現代でも夥しい数が居て、 古来より間違った理解や、歪められた実像のため一部は差別されている現状に配慮したものであろう。
後書きの後に、参考資料として160余点の書名が列記されているものの、言っては悪いが、まあ増しなのは故宮本常一の「日本民衆史②」の「山に生きる人々」ぐらいのもので、他は「柳田国男著作集」辺りだろう。
肝心な八切止夫の「サンカ生活体験記」を読んでいない。 彼が参考にしたほとんどの部落関係の本は、故菊地山哉が、サンカを差別した、即ち反サンカ側の仏教側資料によって解明しているところのものである。
これは、日本列島に裏日本から渡来してきた騎馬民族に溶け込んで暮らしていた騎馬民族系 サンカ(白サンカ)までしか解明されていないもので、それをその儘に転用して自説としたものにすぎない著作ばかりだからである。
さて、五木の小説に戻る。 同書の252頁から晒野老人の語りとして書かれている部分は良く調べられている。 引用すれば、
「明治十年の竹内街道の工事に、非定住や無戸籍の人々を二上山の南麓の柵で囲んだ窪地へ強制連行してきた」(さながら類人猿でも捕らえたように両手両足を荒縄で縛り棒に通して、 泣き叫ぶ女子供まで、サンカ、サンカと物珍しそうにはやし立てて曳きたててきた)という。
ここのところを原文では葛城哀の言葉として次のように話させている。
「吉野川の河原で捕らえられた者、大和川や石川や、もっと小さな川の付近に<セブ>っていて、捕まったもの。物乞いのグループもありました。蓑直しをやって回って歩いたもの。芸人、雲水、 病人たち。可哀想だったのは、葛城山中で捕らえられた<ケンシ>たちで、両手を縛って棒に通し 熊狩りの帰りみたいに<山窩狩り>だと、大声でわめきながら、ぶら下げられて連れて行かれたといいます」
とのべ、その「連行の理由は」と聞かれると、
「無籍流浪の人間は為政者にとっては困りものです。徴兵が出来ない、税金が取れない。 国家の義務教育を受けようとしない。つまり国民の(条件としての)三大義務を拒否する人々ですからね。 明治政府のみならず、古代から現代に至るまで<サンカ>という奇怪なイメージを大きく膨らませ、様々な猟奇的な犯罪を事あるごとにサンカに押し付け・・・・・」と語らせている。
【(注)】当時の政府は実際に、残酷で猟奇的な当時は誤解と好奇心から多くに読まれた「明治大正犯罪実録」等という本で サンカを異常性愛者や凶悪犯罪者として描いている。 「大和地方王権の成立以来、人民の定住と戸籍の整備による管理政策は、この列島統治の土台でもあります。古代律令制の始まりとして、670年にいわゆる<庚午年籍>が制定されて以来戸籍は常に権力の基礎でした。にもかかわらず挙国一致体制のもとでも、なお戸籍編入を拒み、国民の三大義務である<徴兵><納税><義務教育>の三つを無視し続けた多くの人々が、この日本列島の地面の下を地下水のように秘かに流動していたことを誰も否定することは出来ないでしょう」
と、流石に五木寛之らしい名文で、判りやすく適格に書かれている
ただ日清戦争の動員の後でさえ、二十数万人、第二次大戦後の昭和24年の時点でなお約14000人、その他様々な職業に就いた人々や、無職で漂白していた人々を加えれば八十数万の人々が、無戸籍で流動していた事実を五木寛之は知らなかったのだろう。
しかし、次の文章では、
それらの体制側から見れば「非国民」を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和27年の朝鮮戦争だった。
この戦争を機に(GHQ指令による徴兵令発布準備のため)国家再編成を進める基本として、全国的に施行された<住民登録令>である。
この法律によって、引越ししたら二週間以内に届出をしないと罰則、という具合に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿の一括登録。国民オール背番号制に統一のための住民基本台帳法として完成する政令によって、戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国には住まわせないという強烈な国家意志によって、これによって実質的に 千数百年の<浪民>の歴史は表面的にその幕を下ろした。と、明確な筆致で描写している。
おそらく次々の国勢調査の計算に基づき、住民基本台帳法の登録人口数との差し引きで割り出した数字で、 確実な調査法方によってはじき出された数字である事は間違いあるまい。 つまり今時米穀通帳など有名無実に過ぎないのに、米穀登録法の法律が頑として現存しているのもこの訳からなのだと良くわかりうる。
しかし、である。この計算は「住民登録令」のコンピューターに打ち込まれた数字を絶対数値とみなしての差し引き算に過ぎない。選挙権も要らない、健保や年金も欲しくないといった連中が皆無で、 全員が住民登録を完全にしたという根拠は無い。 となると数字は大巾に変わる。 サンカに対して「浪民」といった、優れた造語を作ってくれた五木寛之には敬意を表する。
【(注)】サンカのポリシーは古来より、前記したように、『人間を統治せず、されず、相互扶助』である。 この社会形態は人間の営みにとって最高のしかけではなかろうか。 彼らサンカがこの日本列島へ漂着し、争いも無く平和に暮らしていた時代、大陸から漢字や仏教を 持ち込んで来た統治勢力が、有無を言わさず己らの凶悪な価値観を押し付け、言う事を聞かねば、 奴隷化したり追放や隔離、殺戮したことは、正当化出来るものではなかろう。
これは、平和に暮らしていたアメリカインデアンやペルーやオーストラリアなどの原住民を殺戮、略奪し 統治した白人達の所業と同根である。
そして、幾多の戦争を繰返しながら、農業化社会から封建時代、二十世紀の工業化社会を経て、 二十一世紀の現在に至る情報化社会へと変遷し、欲望と物欲の跋扈する現状を何と見るかである。 そしてもう日本の現状はあの素晴らしいサンカのポリシーへは後戻りは出来ないのである。 となれば現実的に生きていかなければならない。 ゆえに日本も世界に伍して発展しなければならないという三段論法に帰結せざるを得ない。
たとえば、経済的には貧しくとも、文化に対する国民の造詣が深く、素晴らしい芸術を次々と生み出す国があっても一向に かまわない。また、お金を追求する人生ではなく「清く貧しく美しく」という生き方に重点を置く人生があってもいい。 だが、これは価値観の問題なのだが、日本のような先進国の一員とさなった国家が、ここで価値観を180度変えることは もう出来ないだろう。以下にこの考えを基本においての、考察をしてみたい。 それは、簡単に説明すると、20世紀後半から現在にかけてのサイバー化が進んだグローバル経済の世界では、「勝ち組」が 国境を越えて「負け組」からどんどん富を奪い、しかも、その構造が固定化される恐れがあるからである。 今の時代、鎖国をして「我が国はどの国からも奪わないから、その代わりにどの国もわが国から奪わないでくれ」と宣言する ことなど不可能であるということは、世界情勢を怜悧に俯瞰すれば誰でも判ることである。 このサイバー社会には「できるヤツ」と「できないヤツ」の二種類しか存在しないのである。そして現在、両者の格差は、本当の 格差社会とはこのことではないかと思えるほど急速に開いている。即ち、できるヤツに富は集まり、できないヤツは負け続けて いるのである。このことに我々は恐怖と危機感をもつべきである。 その上で、日本人一人ひとりがIQを高めていき、今後も経済的繁栄を維持できる日本を目指すべきなのである。 人々の経済的生活が豊かになればなるほど、世界中で起きている宗教的、民族的、或いはナショナリズム的紛争も解決の 方向へ向かうだろう。何故なら全ての破局は経済的破局に通じるし、中国的に言えば「衣食足りて礼節を知る」ということで ある。
閑話休題。
「五木寛之が書いたサンカ物語」
第二部
さて、サンカの「箕づくり」というのは昔は「ささら衆」と呼ばれ今の流行歌では「ヤン衆」と間違って漁船乗りにされている。 しかし、豊臣秀吉の幼い頃は、甥の福島正則の生家も「ササラ衆」だったし、加藤清正の父親も 「藪塚」の弾正で、つまり竹藪の長吏で、尾張の中村部落では棟梁だったぐらいだから、秀吉の出自もササラの八なのである。
これを日本史では「安国寺文書」に(藤吉郎さりとてハのものにて・・・・)とあるところから この八をハと間違って「藤吉郎はなかなかの者である」と解釈しているが、全くサンカの歴史を知らないからこうしたトンチンカンな苦し紛れの解釈となる。
秀吉と同じ八の素性だから取り立てた堺えびす島の、田中千阿弥の倅が、ササラ衆しか竹を扱うことが出来ない限定職の掟なのをよいことに、それまでは明国舶来の赤銅製の茶びしゃくや茶托類を、竹細工で代用させ製作させた。これは当時茶道の流行とあいまって莫大な利益になり、ササラ部族は大いに儲けていた。 この時、秀吉に対してササラ衆の謀叛の噂を堺奉行石田木工頭に察知された。 そこで門人の山上宗二を捕らえて尋問した所、大変な陰謀が在ることが判った。
それは、「秀吉はササラの出身なのに、ササラとは真逆の宗旨の坊主共から政治献金させ、先代信長様が未来永劫再建は許すまじと焼き払った、寺々の復興を許すとは、もっての外の沙汰である。よって豊富な軍資金を持って実力にて秀吉を倒さん。」 との謀叛計画であった。
茶の湯の詳細は以下に在。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tyanoyu.htm
この謀叛話を聞いた秀吉は烈火の如く怒り「しゃッつら、見るだに憎らし」と石田木工頭の弟で、秀吉が子供のように可愛がっていた懐刀の石田三成に命じて、山上宗二の耳を削ぎ、鼻を削り取ったツンツルテンの生首を、堺の上エビスの木戸にさらさせた。
「刀狩り」と全国的に、太閤検地をさせると同時に、土民共の武器を一切合財取り上げた。 そして千宗易を八付にして殺した。 宗易一派が茶道具を高値でさばき、膨大な利益を得ていたやっかみから、 「これで利も休みじゃろう」と明国よりの舶来茶道具商人は皆喜んで千宗易のことを「利休」とあだ名した。 妻の宗恩も捕らえられ蛇責めにされ、謀叛の詳細な取調べを受けたと、当時の神祇大福吉田兼見卿の 日記には出ていて、その際の千宗易の名前が「理休」と出ている。
さて、一味したササラ衆も、秀吉の朝鮮外征の後顧の憂いのないよう、一網打尽にされ、日本各地のゲットーへ分散して放りこまれた。
大阪以西の各地に散見する部落には、今も「茶セン」の名が残るのが、この時放逐されたササラの子孫なのである。
つまりサンカの箕作りは、太閤検地の二年後に全国的に各地の部落へ収容され、しかし追捕されるのを嫌い逃げたのがサンカササラで、当時はササラの同族の清洲25万石の領主だった福島正則の許へ逃げ込んだのである。
ササラ上がりの有名な豪傑、槍の半蔵と謳われた可児才蔵さえも、正則を頼って逃げ込んでいる。 正則も秀吉の甥なのにこのササラ同族の宗旨で、豊臣家を見限り、関が原合戦では家康側についた。
が、大阪御陣では、家康はササラ族の勢力を恐れて秀忠の居る江戸城に軟禁されてしまう。 後、当時は辺鄙な信州川中島二万石へ福島正則は流罪にされ、そこで死ぬのである。
逃げた箕の作りサンカは、農耕する八の百姓に、昔は米やヒエ、粟の収穫時には必需品だった 箕のを竹細工で作って食物と交換して各地に秘かに行き続けた。 明治になるまで人頭税を納める昔ながらの白の弾正、赤の博士や太夫と違って、 サンカの頭領のオオモト様は、「箕一つ」だけでよく、これが最低の貢物として受け取り、決して贅沢はせず、それを集めて赤サンカに渡して得られる雑穀を、病人や貧しいセブリの者達に施して、相互扶助を続けたのである。
かっては、箕を集めて歩いた世間師のツナギ(連絡係)も明治の全国統一の時代の貨幣制度になると、 かさばらぬように集めた銭も紙幣に変えて、余裕のある処からは少し多めに集めて配った。
明治になってもサンカのオオモトさまさえ、贅沢はせず、サンカ独特のべったら漬けを副食にした粗食で堪え、皆からは崇められたという。
だから「サンカ=箕」という考えは誤りではなく、農耕器具の脱穀機が輸入されるまでは、百姓は箕が必需品で、重要な道具だった。
さて、五木の書いた、二上山のサンカ狩りこみは250人となっているが、日本全国何処でも各地の県令は、中央政府からの任命官僚だから、サンカはただで使い殺しの低コストの労働力として 強制連行して使っていた。
「明治密偵史」には写真が出ているが、箱根登山の人力鉄道のトロッコ押しをさせ、明治になると鉄の鎖が輸入されたので、サンカ八名を一つの柱に括りつけ、これが後の「タコ部屋」の始まりで、 これをやったのは神奈川県の県令だった。
また九州の県令は、西南の役の際、政府軍の危険な最前線の人夫には、棒に括りつけてきた サンカを強制的に使役し、そのほとんどを使い殺しにしたと伝わっている。