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Okinawa 沖縄 #2 Day 96 (25/03/21) 旧大里村 (10) Nishihara Hamlet 西原集落

2021.03.26 13:41

旧大里村 西原集落 (にしはら、ニシバル)


旧大里村 西原集落 (にしはら、ニシバル)

西原集落は南風原集落から丘陵を標高150mまで登ったところにある。丘陵の上の限られた土地に集落が造られている。旧大里村では一番小さな集落。ここにはグスク時代東南山の中心地だった島添大里グスクがあった場所で、集落はその城下町であった。今まで巡った集落とは異なっている。ほとんどの集落は丘陵の斜面を南側に向けて造られ、集落の前は広い農地になっている。西原集落は丘陵の上にある。農地は近くにはなく、丘陵を下っていかなければ農地にはいきつかない。何故ここの集落ができたのかは興味がある。島添大里グスクの家臣たちが住んでいたのだろうか、落城後もここに住み続けたのか? とも思ったが、この集落にある11の門中の内8つの門中は明治の廃藩置県以降に移住してきたという。移住してきた背景も気になる。

集落で目に付いたのは屋敷を囲んでいた立派な石垣で、写真下の石垣は2段になっている。集落には赤瓦の沖縄伝統家屋もあった。


人口はその立地環境により昔から少なく、現在では旧大里村の中では最も少ない。標高150mの丘陵の上にあるので、自動車がなければ生活は不便だ。集落を巡ったが、商店は見つからなかった。丘陵の麓まで降りていくしかない。それに集落を広げるスペースもない。静かな生活を望むならばよい環境だが、若者には物足りないだろう。

集落が次第に小さくなっていっているのがわかる。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)


西原集落で行われている年中祭祀は他の集落に比べて多い方だ。大世 (ウフユー) がほとんどの祭祀で拝まれている。最も重要な拝所なのだろう。


西原集落訪問ログ


西原公民館

まずは西原集落の北東の端にある西原公民館まで行き、そこに自転車を停めて、集落とグスク跡を徒歩にて散策することにした。この公民館はかつての村屋ではなく、村屋跡は集落内にある。後で訪問する予定。


島添大里 (シマシイウフザト) グスク

島添大里グスクは標高約150メートルの台地に築かれていた。台地は東西に長く、その南北は急崖ンあっている。北側断崖を背にして一の郭、そこから南東方向へ二の郭、三の郭と放射状に広がっている。東大里グスクとも称し、島添大里按司によって増改築されたグスクである。当時は東四間切(大里・佐敷・知念・玉城)を支配下に置くほどの勢力を誇ったグスクで、中国との貿易も盛んだったとされる。グスク周辺には「城村(ぐすくむら)」としての当時の集落や、物見台として形成されたミーグスクなどが分布する。

この島添大里グスクは西原集落への入り口にあるギリムイグスクを居城としていた玉村按司が、新しい要塞として築城したと考えられている。ここから島添大里グスクの玉村按司時代歴史が始まるのだが、次いで汪英紫時代、尚巴志時代と続いていく。このグスクは汪英紫にしても、尚巴志にとっても野心を成し遂げるための重要な転換期となったグスクと思え、そのようにグスクを巡るとそこで展開されていた情景が浮かんでくる。


[玉村按司以前]

天孫子時代からアマミキヨ族がこの西原に移り住んだといわれ、このギルムイグスクにはアマミキヨの祠、天孫子墓と伝わる遺跡がある。アマミキヨ族は11世紀―12世紀にかけてユッタチジョー (世立門) に集落を造り、12世紀から13世紀にかけて各地の移住していた。この西原 (城村) にもこの時期に移住してきたと考えられる。


[玉村按司時代]

島添大里グスクの城主であった玉村按司については様々な系譜があり、今となってはどれが正しいのかは分からないのだが、地元の伝承などで編纂された大里村史などを参考にした。初代玉村按司は英祖王の五男 大里王子の息子といわれている。それ以降、代々の玉村按司には後継ぎがおらず、その度に北山から、養子または婿養子を迎え、4代まで続いている。大里村史では最後の玉村按司は伊覇按司の息子を迎えたとしている。この玉村按司の妹は尚巴志の妻になったとされている。

小説 尚巴志伝の作者である酔雲は少し異なったストーリーとしている。それが何らかの資料に基づいたのか、創作なのかは分からないのだが、一つの可能性としては説得力はある。最後の玉村按司は大里村史が考えている伊覇按司の息子ではなく、玉城按司の息子が婿養子として入ったとしている。この背景について以下のストーリーの展開としている。


[島添大里按司 (汪英紫) 時代]

1380年に島添大里グスクを手中にした汪英紫は八重瀬グスクからここに居城を移し、島添大里按司となる。八重瀬グスクには長男の達勃期を入れ八重瀬按司とする。念願であった貿易港の与那原泊を手に入れ、これ以降、南山王の承察度と共に、南山王叔として明に朝貢を行う。明の記録では22回もの朝貢船を送っていたと記され、承察度の朝貢回数をはるかに上回っていた。1385年には大城按司真武を長堂原の戦いで攻め滅ぼす。(長堂原の戦い之詳細についてはを稲福集落訪問記参照。) 大城グスクには、息子の汪応祖を入城させた。このように汪英紫は南山国の実質上の支配者へと進んでいく。

島添大里グスクと大城グスクを手中にした汪英紫であったが、まだまだ東方同盟軍とは対立関係にあった。1391年に中山が北山に出兵した際には、南山や東方からも中山軍として参戦している。この様に南山、中山、東方の関係は緩い同盟関係であった。❶ 兵を供出した島添大里グスクが手薄となったのを好機と見て、糸数、玉城、垣花、知念は東方同盟軍として島添大里グスク攻めを画策し、まずは東方同盟軍の盟主的存在だった糸数軍が、汪応祖の後に城主となっていた屋富祖 (ヤフス) が守る大城グスクを占領し、次いで糸数、玉城、垣花、知念の東方同盟軍が島添大里グスクを包囲した。 ❷ 一方中山軍の北山討伐遠征は失敗に終わり中山・南山連合軍は撤退し、島添大里グスクが包囲されていることを知り、中山・南山連合軍の一部は糸数グスクにすぐ西にある新グスクに布陣し、東方同盟軍への攻撃体制を整えた。 ❸ 中山・南山連合軍のターゲットは糸数グスクにあり、島添大里グスクを包囲した糸数按司の率いる東方同盟軍は中山・南山連合軍からの各本拠地への攻撃に備えるため、各々の居城のグスクに撤退。新グスクからは中山・南山連合軍が糸数グスクに出兵し、グスクを包囲し、小競り合いが起こる。この結果、大城グスクも糸数兵の守りは手薄となり、汪応祖が大城グスクを簡単に奪回してしまった。大城グスクの奪回後、糸数グスクの包囲を解き撤退し、この戦いは終わり以前の勢力図に戻った。この戦いには佐敷小按司 (尚巴志) は参加せず、佐敷グスクの守りに徹していた。この戦いに参加していた尚巴志の父の尚思紹軍では、尚巴志の叔父の苗代之子が一騎打ちで内原之子を倒したと伝わっている。尚巴志の母の父親の美里之子がこの戦いの最中、戦死したとされる。このころより、佐敷按司は東方同盟軍とは少し距離を置く作戦に変わっていた。東方同盟軍の盟主的存在であった糸数按司の指揮下には甘んじたくなかったんではないだろうか?


[島添大里按司 (屋富祖) 時代]

1394年には、ついに南山王の承察度を追放してしまう。承察度追放後、汪英紫は島添大里グスクから居城を島尻大里グスクに移し、島添大里グスクには当時大城按司であった屋富祖 (ヤフス) を入れ、島添大里按司とした。

1401年に汪英紫が死去、八重瀬按司 (達勃期) と豊見城按司 (汪応祖) の家督争いが始まる。当時、八重瀬按司 (達勃期) は東方同盟軍の主要な按司と婚姻関係を結び、味方に引き入れていた。

達勃期は島尻大里グスクに入城し後継者であることを主張、これに対して豊見城グスクの汪応祖は島尻大里グスクを包囲した。南山国の有力按司 (米須按司、与座按司、具志頭按司、伊敷按司、真壁按司、玻名城按司) は、達勃期の指示で島尻大里グスクを攻めるため布陣していた汪応祖に対峙していた。一方、東方同盟軍 (糸数按司、玉城按司、垣花按司、知念按司、佐敷按司) は達勃期の要請で、汪応祖の弟の屋富祖が守っていた島添大里グスク攻めの為、城を包囲していた。戦局は、達勃期有利であった。

翌年1402年まで膠着状態が続くが、両陣営が揺さぶりをかけた。それぞれが敵の本拠地にターゲットを変え、達勃期軍は糸数按司を中心に汪応祖の居城の豊見城グスクを包囲、東方同盟軍は知念按司が大城グスクを攻め、汪応祖軍は達勃期の居城であった八重瀬グスクを包囲した。それぞれが、島尻大里グスクから兵力を分散させるのが狙いだった。(❶) 知念按司の大城グスク攻めは失敗し、次に佐敷按司の尚巴志がこれを攻め落とした。 (❷) どのように落城したかは定かではないが、尚巴志の父親の尚思紹はもとは大城按司の家臣であったので、城の縄張りなど隅々まで熟知していたことが寄与したのかもしれない。

汪応祖の義父であった中山王の察度が汪応祖側につくことになり、時勢は逆転する。汪応祖は包囲していた八重瀬グスクを攻め落城させ、達勃期との和解交渉に入る。(❸) 達勃期は島尻大里グスクから撤退。中山が汪応祖指示にまわった事が決定的な要因となり、後継者争いは汪応祖の勝利となった。

このため、島添大里グスクを包囲していた東方同盟軍も軍を引き、各居城に戻った。この機に、佐敷小按司であった尚巴志が単独で島添大里グスクを急襲し、城主の屋富祖を討ちとり、グスク奪取に成功した。ここには、尚巴志のしたたかな計画があったと思われる。東方同盟軍の一部として落城させた場合は糸数按司がグスクを得ることになる。何とか佐敷軍主導で城を奪う必要があった。先に大城グスクを落とした時と同様に、敵の城兵が少ないときに急襲している。尚巴志はかなりの策士だったのか?、父親の尚思紹の知恵なのか? 側近に優秀な軍師がいたのかもしれない。これで、佐敷按司の尚巴志は島添大里按司となり、22年間続いた汪英紫一族による島添大里グスク統治が終わりとなった。佐敷按司の尚巴志は貿易港の中城湾を完全に手に入れ、勢力を広げていく。これにより、東方の諸按司との関係は微妙になっていく。南山の方は汪応祖が南山王になるが、達勃期とは緊張関係が続く。


グスクの歴史の説明が長くなってしまったが、次は島添大里グスク跡を巡ったレポートに移る。



チチン井泉 (カー)

チチン井泉は、島添大里グスクの外城壁の直ぐ外側にある。昔はチチマラン井泉と呼ばれていた。西原集落の村井泉だった。意味は「グスク内に包むことのできない井戸、包 (チチ) マラン」で、これが変化してチチン井泉になった。この由来は、かつて城内にあった井戸 (スクヤマヌウカー?) が涸れたために、城を拡大してチチン井泉を城内に取り込んだが、チチン井泉の水も涸れてしまった。そこで再び城の範囲を狭めてチチン井泉を城外に出したところ以前のように水が湧き出した事によるそうだ。築造年代は定かではないが、この逸話から推測するとこの井戸は大里グスクが出たころには存在していたことになり、14世紀頃かもしれない。井戸は降り井戸になっており、上には井戸を拝む拝所がある。

昔はこの井泉にはウナギがおり、「神ウナギ」と信じられていた。それで、西原区の人々はウナギを食することはないそうだ。西原区では、1月3日の三日ヌスクー、3月未日の三月未御願、5月15日と6月15日のウマチー、7月17日のヌーバレー、9月未日の9月御願等の時に集落の行事として拝まれている。近隣の南風原、当間、嶺井、平良区等も定期的にこの井泉を拝んでいる。


大里グスク正門 (ウフジョーグチ)、遥拝所

大里グスクの西側、チチン泉の近くに城門がある。大里グスクの正門 (ウフジョーグチ) と呼ばれ、ここから二の郭に入る。この正門を入った所には大里御嶽、ミーグスク、ンジュムイ井泉、シムクジ (与那原当添) への遙拝所がある。


二の郭

大里グスク正門を入ると二の郭なのだが、ここにはもう一つ入り口がある。公民館のすぐ前なのだが、この入り口がグスク時代のものかは書かれいない。以前はこの大里グスクは個人企業が運営をしており入城料を取っていた。この入り口が入場門で、入った所には売店があったそうだ。南城市が発掘調査をもとにした作成した復元図ではこの門は描かれていないので、グスク時代のものではなさそうだ。中に入ると広い広場があり、ここが二の郭にあたる。

二の郭は石垣で囲まれていた。所々にその石垣の跡が残っている。


スク井泉 (ガ-)

二の郭の南西への道があり、底を進むと小さな広場に出る。そこにはスク井泉 (ガ-) があり、スクヤマヌ井泉 (カー) とも呼ばれている。ある時代に、この井泉は涸れたため、チチン井泉 (ガ-) をグスクに取り込もうとしたいわくつきの井戸だ。西原集落、平良集落、当間集落、門中等により拝まれている。


ウタムトゥノーイ

大里グスク前の広場 (二の郭) から一の郭へ上る道の右方にウタムトゥノーイと呼ばれる拝所がある。祭祀の時は、大里グスクのーの郭に入る前に、ここで西原祝女 (ノロ) が身だしなみを整え拝んだと伝えられている。琉球王朝時代、西原祝女 (ノロ) は、西原、南風原、与那嶺、嶺井、板良敷を管轄していた。このウタムトゥノーイは西原集落、平良集落、門中等により拝まれている。


一の郭、殿 (トゥン)

ウタムトゥノーイの横にーの郭へ通じる石の階段がある。階段を上ると広い広場になっている。この広場は殿 (トゥン) と呼ばれ、大里グスクの正殿があった場所の南側の御庭 (ウナー) であったとされる場の一角にあたる。

ウマチー等の時の神人たちによる祭紀が行なわれた祭場とされ、琉球国由来記の「大里城之殿」に該当する。由来記には、稲穂祭三日崇の際に大里城之殿で西原ノロの司祭により祭紀が行なわれたとある。ーの郭内にあるに12-13個の平たい丸形の石 (ニービ) は、ウマチー等の時に神人たちが座した石だと伝えられるが、イシジ (礎) という呼び名があるところからすると、グスクが機能していた時代には建物の礎石であったものが、後に神人が座るものに転用された可性がある。


ミチムン

殿 (トゥン) の一角にミチムン (火ヌ神) が祀られている。大里グスクの正殿遺構の南西部にあたる。コンクリート製の祠に向かって右側の石積みがミチムンで、その側には井戸跡がある。

コンクリート製の祠は区外の人が建てたもの。外部の人間が勝手に造ったもので西原集落とは関係ないという。拝所を訪れるとこのように、後から勝手に作られた拝所があることがある。先日訪れたギリムイグスクでは拝所を造らないようにと注意書きがしていた。どこかの門中や村民がその祖先の所縁の地に拝所を造るのか、霊験の高い地に造りたいのだろうか?この行為は、今だからなるべく慎むようにとされているが、昔はこのような形で拝所が造られていたのだろう。造るほうからは特に悪意があるわけではなく、昔からの習慣を続けているだけbなのかもしれない。撤去はされていないので、ここは沖縄のおおらかな文化なのだろう。


スクナシ井泉 (カー)

二の郭から一の郭に入った右側、大里グスクーの郭の東に拝所への道があり、奥にはスクナシ井泉 (カー) がある。産井泉 (ウブガー) ともよばれている。スクナシとは「底なし」の意味で、この井泉は底なしの深さを持っとされていたのが名称の由来だそうだ。現在は井泉の底は土砂で、湧水はない。西原集落、平良集落、当間集落、門中等により拝まれている。


天頂 (ティンチジ)

大里グスクのーの郭の高台に展望台が造られている。そこへは石の階段で登る。ここはグスクで最も高い場所にあたる。この場所はティンチジと呼ばれ、「ティン」は天、「チジ」は頂上を意味し、最も高い場所に立地している (天につながる) 場所ということになる。

展望台の前には拝所があり、天頂 (ティンチジ) と呼ばれている。琉球国由来記には「城内島添アザナノ御イべ」とあり、大里グスク内にはかつてアザナがあったと推測される。アザナは物見櫓、物見場所のことで首里城にもあった。グスク時代の城塞にはこのアザミが必ずあるはずで、高い場所に造られている。そのことから考えると、ここは大里グスク之最も高い場所なのでアザナと考えられる。そしてそこにあるこのティンチジは由来記の「城内島添アザナノ御イべ」に該当すると推定できる。かつては5月や6月のウマチー等の時に西原集落が拝んでいた。

ここからは、現在の与那原町、西原町、そして中城村の海が臨め、内陸部の方は首里、浦添方面まで見通せる。やはりここはアザナであったと思われる。


聖域 (拝所地域)

島添大里グスクの復元図では城壁で4つの地域に分けられている。これまでは二の郭と一の郭を見学した。三つ目の地域がグスクの南側にあるが、この場所には多くの拝所や古墓が存在している。参照した資料ではこの場所が何に使われていたのかは記載されていないが、ほとんどのグスクでは拝所が固まってある場所が設けられていたので、ここは島添大里按司家と集落住民の聖域としての地区ではないだろうか?一の郭とは石垣で仕切られていたようで、その一部は残っているようだ。この聖域に入る道があり、すぐに二股に分かれる。一つは大里按司墓への崖に通じる道で、もう一つが拝所群への道となっている。


大里按司墓 (未訪問)

一の郭のアザナ跡の下に道があるのだが、道の奥に立ち入り禁止の看板がある。看板の向こうは崖になっており、下に降りるためのロープが張られている。この崖の中腹に大里按司墓があるのだが、昨夜は大雨だったので、地盤が緩んでいるかもしれないと思い敢えて進むことは断念した。資料によると。大里按司墓は崖下の窪みを掘り込んでで造った石積の古墓だ。 (墓の写真はインターネットに現地に行った人が掲載していたものを借用) 城主の島添大里接司の墓だとされる。按司や国吉比屋等の骨は丈夫な焼物に収められ、その他の骨は整列して安置されていたという。西原集落の老人の話によれば、現在の墓は移転されたもので、以前は別の場所にあり、遺骨は木製の棺に収められていたが、移転の時に焼物に収めなおし木棺の文字が記されていた部分は焼物の側に置かれているという。大里村民や、国吉比屋の子孫や尚家等の関係者も参拝しているそうだ。現在は、清明祭の時に西原集落が拝んでおり、また近隣の真境名、嶺井、稲嶺、平良、古堅の各集落も清明祭の際にこの墓を拝んでいる。


名称不明拝所

二股道に戻り、石の階段がある別の道を進むと拝所がある。資料には出ておらず、詳細は不明。


大御嶽 (ウフウタキ)

聖域内には、何本も道があり、それぞれが拝所二通じている。その一本を進む。一の郭に通じている道だった。その途中に小さな丘があり、その麓に大御嶽 (ウフウタキ) がある。大御嶽 (ウフウタキ) は斜面が掘り込まれ、周囲には石灰岩の石が積まれている。墓所と考えられており、今帰仁系の島添大里グスクの城主とか、その家臣とか、察度系の人物が葬られているとの言い伝えがあるが確かではない。西原集落の今帰仁系の門中である宮城腹の人々が拝んでいる。丘の上にも拝所が幾つかあるが、詳細は不明。


奥間ハンジャナシ前の墓

大御嶽 (ウフウタキ) の隣に奥間ハンジャナシ前の墓と記された石碑がある。これは区外の人が、ここス10年程前に知らぬ間に建てたものだそうで、西原集落とは関係ないという。


洞窟跡

大御嶽 (ウフウタキ) から一の郭へは下る階段がある。その階段を降りたところに洞窟があった。資料には出ていない。入り口之ところにコンクリートでできた礎石が二つある。門柱の跡だろうか?洞窟は自然ふぉうくつとして残っているのではなく人によって掘られて広げられた様な跡が残っている。この島添大里グスクは沖縄戦当時日本軍の基地に使われていたというので、日本軍関係で使われていたのかもしれない。洞窟の入り口には自然石が拝所として置かれ、奥には香炉が三つあった。もともと拝所であったところを日本軍が軍施設として使用したからだろうか?


名称不明拝所

洞窟の上、階段を上がった所にも拝所がある。ここも資料には出ておらず、詳細は不明。


カニマン御嶽

大御嶽 (ウフウタキ) から一の郭とハ反対側の道を進む先にカニマン御嶽がある。石灰岩の上に円筒形の石積が築かれ、そして円形の屋根石の上には宝球が置かれている。宝珠の設置は、隣の南風原集落の拝所でも見られ、この地域の特徴の拝所の形態だ。カニマン御嶽は葬所と考えられている。葬られているのは、大里按司の家来の金松とか、大里グスクが減んだ時の戦死者とか、諸説ある。この西原集落では、神御清明、アミシ、九月御願の時に拝まれている。また、近隣の真境名、嶺井、稲嶺、平良の各集落も清明の際にこの墓を拝んでいる。

カニマン御嶽の裏側は岩がむき出しになっており、幾つかの拝所がある。この裏側には西原集落からの道があった。この道や拝所は昔からあったのか、後世に造られたのかは分からない。

西原集落から見たカニマン御嶽


カニマン御嶽への遙拝所

カニマン御嶽のすぐ下に広場がある。石の階段を下った所に二つの遙拝所がある。西側にあるのが、カニマン御嶽への遙拝所拝所になっている。 遙拝所の祠越しに金満御嶽が見えている。西原集落、平良集落、嶺井集落、門中等により拝まれている。


大御嶽への遙拝所

広場の東側にあるのが先に訪問した大御嶽への遙拝所だ。かつては、祭祀関係者 (ノロ等) 以外の人は、大御嶽とカニマン御嶽への立ち入りは禁止されており、この遙拝所から拝んでいた。ここから西原集落、嶺井集落、当間集落、門中等が大御嶽を拝んでいる。


島添大里グスク内のその他古墓、拝所

資料には載っていないのだが、島添大里グスク内にはまだまだ拝所があった。見つけたのはこれだけだが、これ以外にもあるのではないだろうか。カニマン御嶽の近くの崖っぷちに古墓があった。詳細は不明。

ここからは先日訪れた南風原集落が眼下に見える。

別の拝所跡もグスク内にあった。

島添大里グスクの4つ目の地域は一の郭と二の郭の北側にあると復元図では見える。一の郭からそこへの道はあるのだが、途中で柵で侵入はできなくなっている。どうもこの地域は整備はされていないようだ。この4番目の地域は何であったのかは書かれていないのだが、その先に内原 (ウチバル) の地名があり、その中にウチバルガ-がグスクの女官が使った井戸があるので、この地期は首里城の御内原 (オウチバラ)、本土では大奥に当たる場所ではなかったかとも思える。


これで島添大里グスクの見学は終わり、西原公民館に戻り、次は西原集落の文化財を公民館周辺から巡る。西原集落は小さな村で6つほどの区画しかなく、それぞれの区画に文化財がある。

 


大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋

大殿内神屋は、立派な石垣のあるノロ殿内の屋敷の東に階段の通路でつながって隣接する敷地にある。ノロ殿内が大殿内神屋の管理をしていたが、ノロ殿内の家が絶えた以降は西原区が管理をしている。ノロ殿内にあった祭壇が、分離して大殿内神屋に祀られたと推測されている。神屋の前には石の祠の拝所があり、久高への遙拝所だそうだ。その前にある平べったい石はノロが祭祀の際に座ったといわれるもの。

大殿内神屋には火ヌ神があり、琉球由来記の「西原巫火神」に該当すると思われる。祭壇には7つの香炉と大きな位牌が安置されている。この位牌は「大里城按司ノ位牌」もしくは「大里城主代々ノ位牌」だそうで、この位牌には「大里村字大里西原ノロ殿内ニーノ拝所アリ、本村民ハ勿論首里、那覇、他ノ参詣人実ニ多シ。其位牌ノ文句左ノリ」として、続いて「今婦仁按司 但シ大里世之主父也」「舜天王御母親 但大里按司御妹也女之業自此始也」「大里按司」「大里大君」「大里世之主」「南山王」「察度王」等の名前が列挙されている。ウニフェー、アミシ等の機会に西原集落で拝まれている。かつては五月ウマチー、六月ウマチーのときも拝まれた。また、区外から大殿内を拝みに来る人も多いそうだ。

西原ヌルは麓の集落の南風原のから移ってきて、島添大里グスク内の拝所の管理をするようになり、ここにノロ殿内を造った。その後、30戸ほどが移り住み、これが西原集落の始まりといわれる。

大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋は集落北東の端にあり、ほぼ崖に近い場所にある。ここからは佐敷の町並みが見晴らせ、向こうには知念半島も見える。


二ーウコール

大殿内 (ウフドゥンチ) 神屋がある区画の次の区画の端の三叉路に二ーウコールという拝所がある。二ーヌコーロとも呼ばれている。かつて、中国に旅に出た人により拝まれ、無事に帰ってきた感謝の印として香炉が寄進され置かれている。かつては複数の香炉があったが、今は1つになっている。3月の清明祭、6月26日の雨乞御願、9月9日のシマチ節句で拝まれている。


タキサンムトゥ

二ーウコールのすぐ前にタキサンムトゥという拝所がある。祠の中には仏像があるが、これは個人が置いたものだそうで、現在は、西原集落では祭祀は行っていない。祭壇は綺麗にされているので、どこかの門中により拝まれているのだろう。


旧公民館の火の神

二ーウコールから集落中心部にすすむと集落を縦断する道に出る。多分、この道が中道 (ナカミチ) と思う。そこにかつての村屋 (ムラヤー) 跡が広場になっている。ここが集落中心だった。この広場の隅に火ヌ神があるそうだが、はっきりとはわからなかった。別の隅には酸素ボンベが木に吊るされている。7月17日のヌーバレーで拝まれている。


チンマーサー

旧公民館跡の端の場所は少し高くなっているのだが、ここはチンマーサーだったと書かれていた。集落には住民が一息つける場所としてチンマーサーが設けられていたことが多い。特にチンマーサーの形の定義はないのだが、一般的に路地の交差点に石垣で囲まれたカジュマルが植えられ、その木陰で石垣に座り、井戸端会議をしていたのだろう。


大世 (ウフユー) 神屋

チンマーサーから次の区画に入ると大世 (ウフユー) 神屋がある。「南城市の御嶽」の説明では、大世 (渡来神) を祀っており、大世は、与那原板良敷当添にあるシムクジー (久茂久岩) の近くの海岸から上陸し、その近辺に住んだ後、当地へ移ってきたという。他に、天ン人 (アーマンチュ)、天孫子が祀られている。天孫子は1980年頃にギリムイグスクにある古墓から勧請されたという。別の西原集落の資料では集落の守り神のニンジュ神、シンカ神を祀り、按司ヌ世時代の無名戦士の合同墓と書かれていた。神屋に向かって左に接している拝所は大世の墓といわれている。この拝所は西原集落では最も重要な場所で、集落のほとんどの祭祀で最初に拝まれている。


大世ヌ井泉 (ウフユーヌカー)

大世 (ウフユー) 前の広場には大世ヌ井泉 (ウフユーヌカー) と呼ばれる井泉跡がある。現在は湧水はなく、拝所だけが残っている。大世が使った井泉といわれている。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで拝まれている。


大世妻の拝所

大世 (ウフユー) 神屋がある通りには大世 (ウフユー) と名がついた拝所がある。ここは大世妻と文化財地図に書かれていたが、詳細は不明。ただ、この集落での大世の存在感を現わしているのだろう。


大世長男の拝所

更に通りを進むと大世長男と書かれた拝所がある。


フスミ御嶽

集落内南側にフスミ御嶽と呼ばれている拝所広場がある。フスミとは「へそ」の事だそうだが、なぜこう呼ばれているのだろう? この御嶽には二つの拝所があり、この二つをまとめてフスミ御嶽と呼んでいる。


平石 (ヒライサー)

フスミ御嶽の入口の右側にある拝所。平べったい岩の下に骨神が祀られているとの伝承がある。ヒライサーとは平石から来ている。集落の人が集落の外に出る際には、この祭神のシンカ神に報告をしたそうだ。また新生児が生まれた時には部落の神の「臣下 (シンカ)」という意味で、ヘその緒を供えたという。これがこの拝所がフスミ (へそ) 御嶽の名の由来だったのだ。このヒライサーは大世 (ウフユー) 神屋に次いで重要な拝所だそうだ。多くの祭祀で拝まれている。


土帝君 (トゥーティークン)

フスミ御嶽のの奥にはもう一つ拝所がある。土帝君 (トゥーティークン)と呼ばれているのだが、こう呼ばれ始めたのは近年だそうだ。もともと土帝君 (トゥーティークン) として造られた拝所ではなのだろう。何故、集落で土帝君 (トゥーティークン) と呼ぶようになったのだろう? この拝所は浜下りの際に拝まれる海浜への選拝所という。グスク時代には、浜下りの際に浜に降りることができなかった王家系統の女性たちがこの場所で遊んだと伝わる。また、別の伝承では、この土帝君 (トゥーティークン) は久高、知念への遙拝所ともいわれている。


大屋 (ウフヤ) 神屋

フスミ御嶽から一つ区画を飛ばした区画には大屋 (ウフヤ) 門中の神屋がある。この元祖は、外間子(ホカマシー 北山攀安知の三男) の次男といわれる。北山陥落の際、佐敷まで逃げのび、その後、現在の地に移って来たという。神屋には、歴代北山王や尚真王の時代 (1477~1526年) に、時之大屋子(トゥチヌウフヤク、王府の神事の役員)であった木田大時 (ムクタウフトゥチ) が祀られている。大屋の一族に、木田大時と関わった人がいたという。集落では1月1日のウニフェー (年頭御願) で拝まれている。大屋門中は11ある門中の中で、ムラ之創成期から存在していた3つの門中の一つ。正式には宮城腹だが元屋の屋号の大屋腹と称している。元屋はハワイに移住してしまったため、その屋敷跡に神屋を建て、分家がこの神屋を管理している。

木田大時については首里の玉陵に葬られていると伝わっているのを思い出した。


木田大時の伝承

  • 後に木田大時と名乗る玉城筑登之 (たまぐすくちくどぅん) は、小波津親雲上 (こはつぺーちん) から風水と天文学を習得し、天気を予報する、不治の病を治すなど、村の人たちを助けていた。
  • あるとき、王子が原因不明の病に伏した。いくら手を尽くしても一向に良くならないので、占い師として評判となっていた筑登之が呼び出された。筑登之は王子に取り憑いていた悪霊を見事に払い、瞬く間に治した。たいそう喜んだ国王は、筑登之に「大時」の称号とたくさんの褒美を与えた。
  • 国王の厚い信頼を得た筑登之は、木田大時と名乗り、時間係、天気予報係、作物の植え付け指示など、王府で仕事を行っていた。
  • 大時を妬む者の吹聴と奸計により、国王の御前で大時は命を賭けてその神通力を試されることになる。木箱の中に1匹のネズミを入れておき、「箱の中にはネズミが何匹入っているか当ててみよ」と大時に数占いをさせた。「ネズミは5匹でございます」と大時は答える。「本当に5匹か?」「はい」。しかし、箱のなかに入れたネズミは1匹だった。命懸けの数占いを外してしまった大時は、国王を惑わす悪人とレッテルをはられ、安謝 (あじゃ) の処刑場で処刑されることとなった。ところが、ネズミの入っている木箱を片付けようとしたところ、なんと4匹の子どもが生まれ、ネズミは5匹になっていた。
  • 「大時は正しかったのだ!」。国王は急いで処刑を中止させようとするが、時すでに遅し。木田大時は帰らぬ人となってしまった。
  • 過って木田大時を処刑してしまったことをたいそう悔いた尚真王は、第二尚氏王統の歴代国王が眠る陵墓の玉陵 (たまうどぅん) に、木田大時を大切に祀ったと伝わっている。玉陵の中には立派な彫刻を施された石厨子が、通常とは異なる場所に、たったひとつだけ、むかしから残されており、言い伝えではこの石厨子が木田大時のものだといわれている。



大屋之井泉 (ウフヤヌカー)

大屋の神屋の横には井泉跡がある。大屋之井泉 (ウフヤヌカー) という。井戸は草で覆われてなかなか見つからなかったが、井戸枠らしきものが草の下にあった。草をむしり取ると井戸跡があらわれた。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチーで拝まれている。


ウフユートノチルバン

大屋 (ウフヤ) 神屋がある屋敷跡の片隅にウフユートノチルバンといわれる拝所がある。説明は全くなく、詳細は不明。大世 (ウフユー) に係わる拝所なのだろう。この他にも集落内にはチルバンと呼ばれる拝所がある。チルバンとは何を意味しているのかは調べても分からなかった。


中山妻子の拝所

次の区画にある拝所。中山妻子と拝所地図には書かれているが、詳細は記載なし。


新垣の神屋

中山妻子の拝所がある区画には西原集落の3つの有力門中の一つの嘉数門中の屋号 新垣の屋敷がある。かつての石垣とヒンブンが残っている。この屋敷跡には立派な神屋が建てられている。屋号 新垣は嘉数門中の元屋 (ムートゥヤ―) で元々はガジマルヌシチャという屋号を名乗っていた。後に今の新垣の屋号に変えたそうだ。西原集落の宗家がどこかははっきりとは分からないが、集落の初めから存在した新里腹、宮城腹 (大屋腹)、嘉数腹の3つも門中の一つと考えられる。この嘉数門中の屋号 新垣が宗家ともいわれる。この新垣の先祖は、今日訪れた島添大里グスク内にあるカニマン御嶽に葬られているという。

神屋の裏手側の屋敷跡には二つの拝所がある。


新垣の井泉

拝所のすぐ近くには井泉跡があり、ここの屋敷の主の屋号で新垣の井泉と呼ばれている。



座主之前 (ジャーシヌメー)

集落の西の端、上樋川井泉跡の上にある林の中に座主之前 (ジャーシヌメー) の拝所がある。集落からは急な下り坂を降りていく。この後、訪れるミーグスクの山の下にあるティラガマという洞窟で修行していた僧が寝泊まりしていた場所といわれている。座主 (ジャーシ) は僧侶の事で島添大里グスク内の拝所を管理していたと伝わっている。西原集落がまだ形成されていない時期にはグスクへの道には監視所が置かれ座主 (ジャーシ) がいたという。その後、西原ヌルが島添大里グスク内の拝所を管理するようになったそうだ。


チンマーサー

島添上方通りから集落に入ったところはもう一つチンマーサーがあった場所。ここから集落内にメーミチと思われる道がグスクに向けて伸びている。


ジャーシヌメーヌチルバン

座主之前 (ジャーシヌメー) からチンマーサーのある道路を渡ったところにある丘の中には自然洞窟がある。その入り口付近にジャーシヌメーヌチルバンの拝所がある。チルバンと名がついた拝所があったが、チルバンが何なのかは分からない。座主之前 (ジャーシヌメー) とはどのような関係なのだろうか?

ここには大きな鍾乳洞がある。メーミヤ壕と呼ばれている。全長154mにも及ぶ自然壕だそうだ。この拝所がある場所の入り口にはロープが張られていて、ロープの外側から写真を撮った。資料にはメーミヤ壕の見取り図が載っていた。住民の避難壕に使われたのが、軍が陣地壕として使っていたのだろうか?


ウミナイ墓

集落南方の佐敷集落が見渡せる傾斜地の林の中に島添大里按司の妹の墓と伝わる古墓がある。ウミナイ墓と呼ばれている。別の資料には舜天の母 (つまり源為朝の妻) の大里按司の妹の墓とある。更に、別の資料では大里按司の娘とある。舜天の母とあるのは、糸満にある南山城の大里按司とここの島添大里按司との混同ではないかと思われる。沖縄には各地にウミナイの墓がある。ウミナイは琉球神話で天帝 (神) が地上に姉弟 (ウミナイ、ウミキイ) 遣わし、人類の始まりとされる。アダムとイブ、イザナミ・イザナギと類似する話だ。ウミナイは女神として祀られている。高貴な女性の墓をウミナイの墓と呼んでいる事が多い。この拝所は現在は西原集落では拝まれておらず、嶺井集落が拝んでいる。

ウミナイ墓の奥の斜面にはいくつもの古墓がある。誰が頬村れているのかはしりゅには無いのだが、整備されているところを見ると、今でも拝まれているようだ。


西原集落内にある文化財巡りは終わり、公民館に戻る。次は集落を外れた東にある大里城址公園内にある文化財巡りに移る。



大里城址公園

この大里城址公園はグスク時代以前12世紀ごろの耕作跡が発見された真手川原遺跡にあたり、南城市の第1次南城市総合計画・南城市観光振興計画 (平成20年3月) をベースに整備された公園で、施設内にはパークゴルフ場、子供むけ遊戯具などがある。今日も老人会はパークゴルフで、家族連れは子供を遊具で遊ばせていた。景気も良く、静かで、公園もきれいにメンテナンスされており、のんびりと過ごすには良い場所だ。

南城市の南城市観光振興計画は市内にある文化財を活用し観光二力を入れようとの取り組み。順調に進んだのかどうかの報告書などは見つからなかったが、他の行政地区に比べて文化財の保護には前向きなような印象を持った。観光収入がこの試みで増えるとは思えないが、地域の歴史を後世に残すという意味では効果があると思う。


ミーグスク

大里城址公園内には島添大里グスクの出城と考えられているミーグスクがある。グスク之輪郭や石垣などは残ってはおらず、頂上には展望台が造られている。

展望台があった場所に、かつての物見台があったのだろう。ここからは中城湾が一望でき、東には勝連グスク、中城グスク、佐敷グスク、北には首里城などが見通せる絶好の場所にある。当時、ここからは、中国貿易や大和貿易で馬天港を出入りする貿易船の歓送迎を島添大里按司が行った場所とされている。


フタハカ

頂上、展望台の横には岩が蓋をしたような拝所があり、その形からフタハカと呼ばれている。グスク時代には倉庫として使用されていたとか、避難所だったともいわれている。


ミーグスクの御嶽

ミーグスクへ登る階段の途中左手にはミーグスクの御嶽があり、旧暦五月、六月ウマチーので拝まれている。

階段の右側は沖縄戦で日本軍の高射砲が設置され、その周辺には塹壕が掘られ残っている。2019年9月にここを訪れた際は、階段の柵を越えてそこにも行けたのだが、今日来てみるともういけなくなっていた。そこには拝所もあり、下の写真はその際に写したもの。


ティラガマ

ミーグスクの崖下にはティラガマと呼ばれる自然壕がある。それほど大きなガマではない。このガマはグスク時代に島添大里按司に仕えていた僧侶 (ジャーシ) の居住、または仕事場、修行場(住居は先に訪れたジャーシヌメー)だといわれている。戦時中は日本軍の壕として使用されていた。

ガマ内には複数の拝所がある。


ンジュムイ井泉

大里城址公園の東側が佐敷方面に向けての下り斜面になっている。こには遊歩道があり、ティラガマから下に降りていくと、ンジュムイ井泉があった。中に入ると広場になっているのだが、井戸跡と香炉は見つからなかった。草で覆われてしまっているのだろう。


マティ井泉

大里城址公園にはマティ井泉の拝所がある。ギルムイグスクの鬼餅 (オニムーチー) の舞台にもなっている場所。首里金城町にいた荒くれ者が人を喰う鬼になったが、人々に追い出され、この大里の西原に辿り着いた。ある日、鬼は見舞いに来た妹を喰おうとしたが、逃げられた。その時に、この井泉付近で、鬼が「待て (マティ) 」と言いながら妹を迅いかけたことが、マティ井泉と呼ばれるようになった。井戸跡は見つけられなかったが、写真に写っているあたりにあったそうだ。


大里御嶽 (ウフザトゥウタキ)

大里城址公園の北側は雑木林になっており、その中に大里御嶽 (ウフザトゥウタキ) がある。拝所周辺に散在していた骨が合祀されている。琉球由来記では、この西原村に「大森御イべ」の御嶽があり、「オホスナノ御イべ」と「シマネトミノ御イべ」の2つの神を祀ると書かれている。島添大里グスク内の大御嶽か、この真手川原の大里御嶽のいずれかの可能性があるが、明確にはなっていない。村落祭祀では、年に一回、五月か六月のウマチーの際に拝みを行うことになっていたが、ここまでは集落から距離があるので、大里グスクの正門 (ウフジョーグチ) から遙拝されている。

大里御嶽 (ウフザトゥウタキ) から更に奥に道があるので進むと展望台があった。ここからは島添大里グスクからや、ミーグスクから見る展望とは微妙に異なっている。


西原集落を巡った際に見つけた花。珍しいのは写真左上の極楽鳥花で近年沖縄では栽培されて高値で売られている。今日は道端にある。まさに鳥のような花だ。写真右上はシダレブラシノキで日本全土でみられるそうだが、今まで見たのかは記憶がない。写真左下はブーゲンビリアで今は至る所で咲き誇っている。写真右下はオオベニゴウカンで熱帯性常緑低木なので沖縄ではポピュラーな花だそうだ。


三月の沖縄集落巡りは今日で終了し、4月に東京に定期健診のために行き、前回12月の江戸城巡りを継続。3月末まではその準備に使う。旧大里村の集落はまだ3つ残っているのだが、それは4月に沖縄に帰ってきてから再開とする。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 城むらといやしの里づくり (2001 沖縄県南部農業改良普及センター)
  • 食栄森 南風原地区集落整備統合補助事業完了記念誌 (2010 南城市南風原区自治会)
  • 尚巴志伝 (酔雲)