(1)「いっぱいケガさせてもらって、メチャメチャへこんだ」。JT 執行役員 妹川 久人さん
基幹事業へ向けられる社会的な厳しい目、クライシスを契機にいつしか会社は自分事と化した。一人のキャリアの軌跡が、会社の変化と響き合う理由に迫る。全3回
PROFILE
妹川 久人さん 日本たばこ産業株式会社 執行役員 サステナビリティマネジメント担当。1995年入社。物流、営業を経験した後、財務省出向。その後、経営企画、事業企画などで国内たばこ事業の中長期戦略策定・実現の一端を担う。2015年より人事部、人事部長として新たなHR戦略を率いた後、2020年より執行役員サステナビリティマネジメント担当。
組織の温度をつくる、きっての「マエストロ」誕生前夜
その日、取材のために訪問したJTのオフィスは移転してまだ数ヶ月であり、フロアいっぱいに自然光があふれ、さながら開放感と穏やかな躍動感を感じさせた。多忙な身の上ながら、サービス精神満点に撮影の協力をしてくれたのが、日本たばこ産業株式会社、JTの執行役員でサステナビリティマネジメントを担当する妹川 久人さんだ。にこやかにユーモアをもって取材に入る「気持ちの入り口」が妹川さんによって築かれていたことに気がつく。そう、妹川さんは終始ご自分のマネジメントスタイルを「タクトを振る」と表現していた。
おそらくは、「マネジメントスタイル」などと呼ぶと修正が入るかもしれない。「秒単位で変わる組織の温度をどういうふうにつくるのか」という問いに向き合う姿は、いつの間にか本当に楽団を指揮するマエストロのようにも見えてくる。
現在執行役員としてJTの経営に参画する妹川さんを語るうえで、前提としてJTについて理解する必要がある。戦後の公共事業体の一つであった日本専売公社からたばこ事業などを引き継ぐ形で1985年に設立された同社は、現在、たばこ事業をはじめ医薬事業、加工食品事業を展開している。たばこ事業はM&Aを含めグローバル展開を進めているが、喫煙に対する昨今の環境変化は衆目の一致するところであろう。そうした時代の只中で、サステナビリティマネジメントを担当するということは一体どういうものなのだろうか。
“たばこ産業” に対する風向きの変化で会社も転換点へ
「1995年にJTに入社していつの間にか25年経っていた。自分ではまだ気持ちは32歳くらいに過ぎないと思っていますが、その間いろんなことを体験させてもらいました。社会人人生の半分は企画をする側、あるいは企画をしてさらにそれを実践に落とし込むといった、プランニングの部分が主となっていました」と自身の来し方を振り返る。本稿では特に、“たばこに対する社会の声をより切迫感を持って感じ始めた頃” の妹川さんに注目してみたい。
“たばこ産業” に対する厳しい目が向けられ始めた当時、妹川さんは30代前半にあたる。行政も巻き込んだ渉外系の仕事をしており、国連の下部組織であるWHOでたばこの条約に関する議論が始まっていた当時、「これをいかに合理的なものとしてちゃんと整えてもらえるか? “たばこ産業” をどう考えていくか?」という問いとセットで、「いい経験をさせてもらいました」と語る。このとき、会社の事業領域は90年代後半から始まった “選択と集中” により、たばこ事業を中心としたグローバル軸と、新たに “集中” 側としての医薬事業、加工食品事業などが育ち始め、2000年あたりからは主にこれら3本柱で推進されていた。「僕のなかで一番大きかった経験のひとつは加工食品事業にまつわるものでした。非常に大きなクライシスマネジメントの経験です」。当時経営企画部にいた妹川さんは、世間を騒がせた冷凍食品の全品回収に立ち会う。「立ち会うというより、本丸でタクトを振る側にいました」と言う。社の転換点において、戦略的集中事業のひとつであった食品事業での問題だ。当時大きくニュースにもなり、その頃の心境を想像してこちらが苦しくなる思いがするほどだが、実際どんなことをしていたのだろう。
「本社で見ている景色」と「現場で見ている景色」が違う
「情報があまりにも多く、不確実な情報もたくさん入ってくる。どう処理したらよいのか?どうダイレクションすべきか?という点において非常に苦労をしました」。回収するだけでは当然済まされず、コールセンターを立ち上げてお客様へきちんと情報提供をしていく局面をも危機管理本部側の立場で任された。別棟のフロアを貸し切って臨時のコールセンターを立ち上げたはいいが、人員の配置の仕方はおろか、食品のクレーム対応の経験者もいない。「インフラの早急な整備は無論、例えば社内中の部室から応援者を集い、経験したことのない人たちに電話を取って事情を聴いてもらい、むしろ経験者にはマネージメント・フォロー側に回って頂き、時間との闘いのなか、責務としてこの環境を整えることも、そのひとつでした」。
あるときふと、妹川さんのなかで「(当時の)虎ノ門本社で見ている景色と、現場で見ている景色が違う。現場の有志が現場判断で次々と体制を作り上げていく中、本社からは私が現場感のない指示を出して混乱させていた」 ことに衝撃を受ける。この板挟みになって、見えていないところで「いわば小僧がタクトを振り」、「いっぱいケガさせてもらった」と今、振り返る。会社がこれらの混乱を治めるために執った決定は、若い妹川さんにとっては非情なものだった。「より危機管理を盤石なものとするため、自身は緊急対策室から外された」。
この非情な仕打ちに打ちひしがれ、内心は激高し、「え!?なんでおれに責任を押し付けるの?くらいにしか、そのときは受け止める器がありませんでした。けれど、この問題から会社が前に進むために必要なことだったと思えるようになりました」。この頃が妹川さんにとって、いわく「会社人生でかなりへこんだ時期のひとつ」であった。そして、「乗り越えたというより、時間が解決してくれた。自分のプライドとか、自分のバイアスを崩してくれる例が人生には結構あるものだなあ」と冷静に過去を眺めながらも、30代当時の妹川青年は「不遜な態度をしたりね(笑)上司とよくケンカしていましたよ」と言うのだから、現在の視点を獲得していく過程にもがぜん関心がわいてくる。
第2回につづく