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【平泉の黄金文化が支えた】奥州藤原氏100年の栄華

2018.03.18 04:59

https://rekijin.com/?p=24651【【平泉の黄金文化が支えた】奥州藤原氏100年の栄華】より

前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087)から、源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189)までの約100年間、陸奥平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った豪族・藤原氏。当時の京は戦乱が続きますが、藤原氏の支配する奥州は独自の発展を遂げました。朝廷の支配がありながら、なぜこれほどまでの繁栄を築けたのか?その栄華と落日を、奥州藤原氏の人物に焦点を当てながら紹介します。

奥州藤原氏三代の肖像。

上が清衡、右が基衡、左が秀衡。

(毛越寺蔵)

藤原氏以前の奥州状況

奥州と呼ばれた現在の東北地方は、そもそも蝦夷と呼ばれた人々の暮らす地でした。朝廷は有史以来、奥州への侵攻を続け、帰属した蝦夷を「俘囚」と呼び、俘囚長に奥州支配を任せました。俘囚長となった人物に、安倍頼時がいます。

俘囚長は朝廷への貢租を義務付けられていましたが、権勢を誇った頼時はこれを滞納。朝廷は永承6年(1051)、陸奥守・藤原登任に命じて安倍氏懲罰の兵を挙げます。頼時はこれに対抗すべく、俘囚を率いて国衙領に侵攻。これにより前九年の役の幕開けとなります。

この前九年の役において、朝廷側の人間でありながら奥州軍についた人物が、藤原清衡の父・藤原経清です。彼は安倍頼時の娘婿でした。奥州軍が敗北すると経清は捕縛され、処刑されてしまいます。

経清の妻子ももちろん処刑の対象とされました。ですが経清の妻は、安倍氏討伐に功を上げた俘囚の清原氏と再婚して難を逃れます。この時、共に命を許された連れ子こそが、奥州藤原氏の礎となる清衡でした。

内紛に勝利し、奥州藤原氏が誕生

清衡は、母の再婚相手である清原武貞の養子となり、清原清衡と名乗ります。

武貞の死後は、複雑な血縁関係から跡目争いが勃発。一旦は仲裁されますが、結局戦いは避けられませんでした。これが後三年の役です。

『後三年合戦絵巻』。源義家軍は、雁の飛ぶ列の乱れから敵の伏兵(左下)を知る。

(東京国立博物館蔵)

清衡は源義家を頼って対抗勢力を打倒。清原の家督と奥州の支配権を掌握した清衡は、実父・経清の姓である藤原を自称します。ここに、奥州藤原氏が誕生しました。

藤原氏の発展を支えた平泉の黄金文化

平泉のある岩手の県南地方や、岩手と秋田の県境の山脈には良質な金山がありました。古代より、東北の住民が朝廷と対立してきた理由のひとつが、この金山です。奥州の実権を握った清衡はここを一括管理するようになります。これが藤原氏の100年続く栄華の始まりでした。

貢物で朝廷の信頼を得た藤原清衡

藤原清衡像

(毛越寺蔵)

清衡はとにかく朝廷の機嫌を取り続けます。貢物は当然、ここで採れる金と、良質な馬。貢租は欠かさず納め、朝廷から派遣された国司への協力姿勢を貫きました。さらに、権力者である藤原摂関家とも誼を通じます。

こうして奥州は京からの信頼を獲得し、中央の政争に巻き込まれない盤石の地位を確立したのです。

金の豊富な産出を今に伝えるのが、国宝や世界遺産にも指定されている中尊寺金色堂です。

中尊寺金色堂(岩手県西磐井郡)。

須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首が納められている。

中尊寺は嘉祥3年(850)に開かれた寺ですが、長治2年(1105)に清衡によって造営が行われました。前九年・後三年の役における戦没者の慰霊が目的だったといわれています。

もっとも黄金文化が栄えた秀衡の時代には、当時の都を凌ぐほどの黄金に溢れていたそうです。

院との繋がりを深めた藤原基衡

藤原基衡像

(毛越寺蔵)

清衡の死後、後継者争いに勝利を収めた基衡の時代になります。基衡は陸奥守・藤原師綱の不興を買ってしまいますが、新たな陸奥守として藤原基成が下向すると、親交を結び、娘を基成の子に嫁がせました。

当時朝廷では白河法皇の院政が始められ、基成は院近臣でした。院との繋がりを持った基衡は権勢を回復させ、また持ち前の粘り強さによって、京の貴族からの圧力を退けていきます。

最盛期を築いた藤原秀衡

藤原秀衡像

(毛越寺蔵)

基衡が死去した保元2年(1157)、家督は秀衡が相続します。

藤原秀衡は、平治の乱で敗死した源義朝の子・牛若丸を匿い、後には兄・頼朝に追われる義経を受け入れたことでよく知られています。

大河ドラマ「義経」では、高橋英樹さんの貫禄ある演技と、孤独な義経の才能を認め、温かく接する姿が印象的です。

大河ドラマ「義経」より。平泉に到着した義経を暖かく迎えた秀衡(高橋英樹)ですが…。

秀衡の時代は、奥州藤原氏の最盛期といわれ、17万騎もの武士団を統率し、平泉は平安京に次ぐ人口を誇る大都市にまで発展していました。そこに目をつけたのが源頼朝でした。

文治2年(1186)、頼朝は、京へ金と馬を献上する時は自分を通すよう求めます。秀衡は頼朝との衝突を避けるため、言われた通り、金と馬を鎌倉に送りました。

しかし、頼朝の要求はさらにエスカレート。秀衡が断ると、頼朝は朝廷に叛意ありとして厳しく追及してきます。秀衡は弁明を続けますが嫌疑は晴れないまま、秀衡は息を引き取ります。文治3年(1187)11月30日、頼朝に追われた義経が平泉に戻って、9カ月後のことでした。

頼朝に滅ぼされ幕を閉じる

秀衡の死後は、泰衡が家督を継ぎました。頼朝は泰衡に義経追討を要求する一方、院に掛け合って奥州追討の宣旨も執拗に要求します。泰衡追討の宣旨が検討され始めると、泰衡はついに屈し、義経が住む衣川館を襲撃。首を鎌倉へと送り、恭順の意を示すのです。

それなのに、頼朝は泰衡が許可なく義経を殺害したとして、奥州追討を決行します。奥州軍は大敗を喫し、かろうじて逃れた泰衡は助命嘆願を申し出ますが受け入れられません。ついに泰衡は、次郎という郎党の裏切りにあって命を落とし、その次郎も主君殺しとして頼朝に処刑されてしまいます。

こうして清衡から始まる奥州藤原氏の栄華は、およそ100年の時を経て幕を閉じます。しかし、今も多くの人が訪れる中尊寺金色堂を見ればわかるように、彼らの築き上げた平泉の黄金文化は、現代にも確実に受け継がれているといえるでしょう。