義経伝説を追う
https://densetsu.blog.ss-blog.jp/2013-08-18-1 【義経伝説を追う】より
源義経は文治五年(1189年)閏4月、奥州平泉の衣川館で31歳の生涯を終えた。これは、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あづまかがみ)」に書かれている内容である。しかし東北地方、それも平泉(岩手県)以北には所謂義経の「北行伝説」なるものが残っている。
義経は、平泉では死なず、蝦夷が島(北海道)を目指して逃げたというものである。この話は蝦夷が島から更に大陸へ渡り、果てはモンゴルの英雄「チンギスハン(成吉思汗)」になったという「義経は成吉思汗なり(小谷部 全一郎(おやべ ぜんいちろう))」にまで繋がるようだ。それはともかく、義経の「北行伝説」は伝説ではなく、事実であるとした歴史家「佐々木勝三」氏がいた。氏は自らの資材を投げ打って、義経の足跡を自らの足で追ったことで有名である。
今回私は、佐々木勝三氏ほど緻密に義経の足跡を追うことはできないが、その一部を経験することができた。
「北行ルート」は平泉から津軽半島の竜飛崎までの一方通行だったが、私は都合上北から南へ向かうこととなってしまった。そのため、ブログ上では義経の足取りに従い、南から北に順次記して行くことにする。
2013-08-12_0200.JPG<風呂家> 岩手県遠野市上郷細越
源義経とその一行が平泉を抜け出し、遠野に着いた時にとある民家で風呂に入らせてもらった。以来その家の姓を「風呂」と呼ぶようになったと伝えられている。
「風呂家」は岩手県遠野市上郷に今も残っている。家の前に建てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【風呂家】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ文治五年(1189年)四月、平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い、義経は、その1年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出たという伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、赤羽根峠を越えてここまでたどりつき、この家で風呂をたてさせ、入浴した。それ以来この家の姓を「風呂」と呼ぶようになった。”と伝えられている。
また、このあたりの地名は今も「風呂」という。 遠野市」と書かれていた。
2013-08-12_0170.JPG<横山八幡宮> 岩手県宮古市宮町2-5-1
岩手県宮古市の「横山八幡宮」のHPには「正治元年(1199年)、源九郎判官義経、平泉を逃れ当宮に参籠。大般若経百巻を奉納した。家臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り、「近内」というところに住み、当宮の宮守となった。」と記されている。また明治28年(1895年)岩手県宮古市に生まれた郷土史家「佐々木勝三」氏の共著「義経伝説の謎」(けい文社)で氏は「(鈴木三郎)重家は生前、名を重三郎と変名して横山八幡宮の神主となった。そして正治元年(1199年)3月15日、公卿烏丸殿とともに京都に上って、義経の冤罪について訴えたことは前にも述べた。
明和8年(1771年)3月に行われた法霊権現再興の棟札の裏面に、この神社の縁起が書かれている。
それによると、鈴木三郎重家と、その弟亀井六郎重清は紀州藤白村の出身で、熊野の日本一の大霊権現の官家であった大官重高より16代の末流であったが、重家は義経公と前世の契りをかわしていたため、蝦夷国までついて行こうとしたという。それを義経公から、老齢だからおまえは残れ、と止められたそうである。」と義経生存の裏付け証拠を提示している。
2013-08-12_0163.JPG<久昌寺> 岩手県宮古市田代17-60-2
岩手県宮古市のHPには「久昌寺」について「源氏の一族である源義里がここに居館を構えており、義経一行が立ち寄ったといわれている。」と記載している。また、久昌寺に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【久昌寺】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」である。
その伝説の一つに”源氏の一族である源義里がこの田代に居館を構え、平泉を脱出した義経主従が北へ向かう途中立寄った”と伝えられている。
久昌寺には、源義里が奉納し、長久息災延命をいのったという〇〇が残っている。 岩手県観光連盟」と書かれている。(「〇〇」は判読不能)
2013-08-12_0126.JPG<鵜鳥神社>岩手県下閉伊郡普代村25字卯子酉6
宮古市の北になる普代村に、「義経北行伝説」のゆかりの地がある。当社「鵜鳥神社」もその1つで、地元では当社を「うねどり様」と呼ぶようである。
神社境内に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【鵜鳥神社】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地で七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就”を祈り、藤九郎盛長に命じ社殿を建立し、祭典を執行するよう命じたという”と伝えられている。
義経はこの地で金色の鵜鳥が子を抱いているのを見たとも伝えられているという。 岩手県観光連盟」と書かれている。