源義仲(木曽義仲)31年の激しい生涯! 後白河と頼朝の政治力に翻弄された挙兵
https://bushoojapan.com/jphistory/genpei/2020/05/21/110499 【源義仲(木曽義仲)31年の激しい生涯! 後白河と頼朝の政治力に翻弄された挙兵】 より
内輪揉めやら、暴れん坊やら。何かとツッコミどころの多い源氏の面々。
その最たる人物を決めるとしたら
・源義経 or・源義仲(木曽義仲)のどちらかではないでしょうか。
なんて申し上げますと義経ファンの皆様に怒られそうですが、ともかく平家討伐の功労者でありながら非業の最期を迎えてしまった義経に対し、義仲もまた実に激しく、しかもなんだか不器用で、同時に雑な判断で自爆同然に滅んでいきます。
その生涯、順に追ってみましょう。
武蔵で生まれ、木曽で育つ
義仲は久寿元年(1154年)、源義賢の息子として生まれました。
父・義賢は源義朝のすぐ下の弟で、母は遊女だったといいます。
このころ義賢は、武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)を拠点としており、義仲もここで生まれたと考えられています。
源義経同様、義仲の幼少期についての詳細は今のところ不明です。
一般的には、「義賢が、義朝の長男・義平に関東で討たれた際、まだ2歳だった義仲を殺すことにためらった武将が、義仲の乳母の夫・中原兼遠(なかはらのかねとお)の元に送り届けた。その後は信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)で育った」とされていますね。
そのため通称が「木曾義仲」や「木曾冠者」などになるんですね。若い頃には「木曾次郎」と名乗ったこともありました。
異説もあります。
「義仲が育ったのは東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)である」というものや、
「諏訪大社の下社の宮司・金刺盛澄に預けられて修行していた」というものです。
中原家と金刺家は、挙兵当初から義仲に従っていたので、後者の説には信憑性もありますね。どちらかが嘘というわけではなく、一時期、義仲が諏訪大社へ修行に行っていたことがあって、縁ができたのかもしれません。この辺は新史料の発見を期待したいところでしょう。
なお、義仲には異母兄の源仲家がいます。が、仲家は以仁王に従軍し、宇治で討ち死にしていましたので、一度も会ったことがなく、お互いの存在すら知らなかったかもしれません。
武士のならいとはいえ、何とも哀しい話ですね。
以仁王の令旨に従い挙兵
そんなこんなで都から遠い地で育った義仲。
治承四年(1180年)、叔父・源行家によって以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨が伝えられたことで挙兵します。
後白河天皇の第三皇子・以仁王/Wikipediaより引用
義仲は、信濃の武士に令旨を伝えて兵を集め、まずは市原合戦にて信濃北部の源氏サイドの勢力を救援、かつて父・義賢が基盤としていた上野に向いました。
しかし、既に関東では源頼朝が勢力を伸ばしていたところ。無用な衝突を避けて信濃に戻っています。この時点ではそういう発想もあったんですね……。
翌養和元年(1181年)6月、義仲は木曾衆・佐久衆・上州衆など3000騎を集められるほどに成長。
信濃や越前などで連戦連勝し、その名は上方にも聞こえていたようです。
なぜかというと、この翌年である寿永元年(1182年)に、以仁王の遺児・北陸宮が北陸に逃れ、義仲の庇護を受けるようになっていたからです。
名前が知られていなければ、皇族に頼られることもないはずですしね。
平家からも頼朝からも睨まれて
義仲が意識したのか、それとも自然の流れか。
以仁王の遺児を引き受け、世間にその名が広まることは、同時に新たな敵を産むことに繋がります。というのも、彼の行為は「以仁王殿下のご遺志を継ぎます」と宣言したと捉えられても仕方のない状況。いかに皇室の血を引く源氏とはいえ、地方育ちの義仲によるこの行動は、平家と源頼朝の両方を強く刺激することに繋がってしまいます。
平家は、以仁王と敵対していたので当たり前のことです。
では、なぜ同族の頼朝まで鼻息荒くなってしまうのか?
実は、頼朝と敵対して敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた源行家という二人の親族が、義仲の下に身を寄せていたのです。
頼朝としては「平家を倒すためには、源氏一族の統率が不可欠。そのためには、肉親であっても厳密に接していかねばならない」という行動原理で動いています。
情に流されたようにも見える義仲の行動は解せませんし、許せません。
結果、義仲は平家からも頼朝からも敵とみなされ、二方向から攻められることになってしまうのです。
嫡子・義高を頼朝の長女・大姫に差し出す
さすがに「これはマズイ!」と気付いた義仲。まずは同族・頼朝との和解に動きます。
嫡子・源義高を頼朝の長女・大姫の婿にするという名目で鎌倉に送ったのです。
事実上の人質です。
源義高/Wikipediaより引用
もっとも、大姫がその後、義高を偲んで生涯結婚を拒んだことを考えると、当人同士の仲は決して悪くなかったのでしょう。
とりあえず頼朝との関係を改善した義仲は、倶利伽羅峠の戦いなどで平家軍に対して勝利を収めて上方へ向かいます。
また、道中でその武力を盾にし、比叡山延暦寺へ協力を求めました。北陸方面から京都へ入ろうとすれば、延暦寺の横を通ることになりますので。
このとき義仲が延暦寺に送った手紙がなかなかオラついておりまして。
「もしも平氏に味方するなら、俺達はお前らと戦をすることになる。その場合、延暦寺はあっという間に滅亡するだろう」(意訳)
どう見てもヤンキーです、本当にありがとうございました。
交渉(脅迫)は無事成功し、義仲は叔父・行家とともに入京。
この時点では、多少の内輪揉めや言動の物騒さ以外に問題はなかった……ともいえますが、この後からだんだんきな臭くなってきます。
頼朝の上洛を促し、義仲に対抗させようとする後白河
平家は、「やっべ源氏の軍がいっぱい来た」(超訳)ということで都に留まることを諦め、安徳天皇とその異母弟・守貞親王(皇太子候補)を連れて西国へ逃げました。
最終的には負けてしまいますが、一族内での統率については、源氏よりも平家のほうが断然上ですね。
実は彼ら、後白河法皇も連れて行くつもりだったようです。
が、【平治の乱】のときから逃げることに慣れている後白河法皇は、このときも比叡山に逃げていて実現しませんでした。
安徳天皇と守貞親王も連れて行ってやれよ……。とツッコミたくなりますが、御所が違ったので間に合わなかったのでしょう。たぶん。
源氏に連なる他の軍も京の近辺に来ており、義仲は後白河法皇から平家追討・洛中警護の院宣を受け、源氏軍の代表者のような立場になります。
さらに、後白河法皇は義仲を伊予守に任じて、正式に朝臣と認めます。
が、同時に義仲が源氏の代表格になってしまうことを防ごうともしました。
そもそも「権力を外部に奪われないように」という目的で始まったのが院政です。
既に平家の台頭により失敗していましたが、義仲を始めとした源氏が、新たにその立場にならないように動きたかったのでしょう。
後白河法皇は頼朝の上洛を促し、義仲に対抗させようとしました。
煽られずとも頼朝との対立は避けられなかった!?
実は、後白河法皇が煽らなくても、義仲と頼朝はすでに対立構図が生まれ始めていました。
・義仲配下の兵が京都で乱暴な振る舞いをしていたこと
・義仲が、安徳天皇の次に以仁王の皇子・北陸宮を推したこと
などが主な理由です。
前者については、義仲の軍は悪くいえば“寄せ集め”で、統率しきれていなかったのが最大の原因でした。
この時期、京都周辺は飢饉の直後。元々住んでいる人たちですら食料に困っていたのに、源氏の大軍が来たおかげでさらに足りなくなってしまうという始末です。
しかもその辺について指摘されると再びオラついてしまうのです。
「武士には馬が必要不可欠なのだから、飼葉がなければ現地調達するのは当たり前。
それと同じように、食料を徴発するのも至極当然のこと。
大臣や皇族の屋敷に押し入ったわけではないのだから、ゴタゴタ抜かすな」(意訳)
アチャー(ノ∀`)
北陸宮を推したことについては、当初から無理がありました。
・北陸宮は“王”の息子にすぎず、元々皇位とは遠い立ち位置
・この時点で義仲に庇護されていた
・高倉上皇の皇子という、もっと皇位に近い人が複数いた(そのうちの一人が後の後鳥羽天皇)というわけで皇族や公家たちからも「何言ってんだこいつ」(超訳)状態で、反感を買っていたのです。
なんせ無理に擁立しようとしているのがあからさまで、「俺が朝廷でウハウハするために、この人を次の天皇にしたいです!」(超訳)と言っているも同然です。
これらは全て、義仲に政治感覚が欠如していたことによるものだと思われます。
まあ、ずっと政治とは縁のないところで育っていたわけですし、その辺を教える人もいなかったでしょう。
義仲自身よりも後々のことを考えていなかった父・義賢が悪いかもしれません。それ言ったら、代々身内で争ってる源氏全体がアレですが。
やっぱり頼朝って有能な政治家なのね
そんなこんなで京に入ってからの義仲評価はダダ下がり。
「京都の治安回復という仕事もできないばかりか、身の程をわきまえず皇位継承に口を出すサイテーなヤツ」とレッテル貼られてしまいます。
こうして義仲が浴びた逆風を、巧みに利用したのが、政治感覚に優れた頼朝。
まずは寿永二年十月宣旨(1183年10月)で、東海・東山両道の沙汰権(警察権)を認めてもらいます。
頼朝は更に、母方のツテなどを使って京都の公家や僧侶を通じて朝廷との連絡を取ったり、御家人同士の紛争解決などに協力させたりして、上洛せぬまま自身の影響力や存在感を強めます。
同時に、弟である源範頼と源義経に、兵を率いての上洛を命じました。
この辺が、現代においても「頼朝は武士というより政治家」と評価される由縁ですね。
当時は電話もメールもありませんから、京と鎌倉では情報にタイムラグが生まれます。
頼朝はそこを強く意識し「これをやるなら、あれもやらなければならない」という計算を常に働かせていたのでしょう。
なんだか、頼朝の凄さは、義仲から見たほうが際立つ――というフシギな光景になりますね。
そのころ義仲は、後白河法皇からも直々にお叱りを受けていました。
さすがに立場の悪さを悟った義仲は、挽回すべく、すぐさま平家追討に出陣します。
が、同年閏10月1日、【水島の戦い】で惨敗し、股肱の臣を失ってしまいます。
そして後白河法皇と頼朝の共闘体制を知り、法皇を「生涯恨みます」(意訳)となじり始めます。
後白河法皇からすれば「だからどうした! さっさと働いて結果を出せ!」って感じだったでしょう。
また、後白河法皇は義仲に対し「直ちに平家追討に行け! 行かずに頼朝軍と戦うならば謀反扱いにする」と、事実上の最後通牒を送っていました。
「今謝れば許してやんよ」というわけです。
義仲も「法皇様に背くつもりはないが、頼朝軍が来れば戦わざるをえない。しかし、京に頼朝軍が入ってこないのなら平家追討に向かいます」と返事をしました。
この返答自体は妥当なものといえなくもありません。
が、完全に後白河法皇に服従する意思も見えない……と判断されたようです。
数日後には後白河法皇の元に後鳥羽天皇などの皇族や、天台座主が集まり、ここで義仲討伐が確定したと思われます。
後白河法皇のところへ攻め込み、ますます泥沼へ
関係が改善しないまま、義仲は西国へ落ち延びる平家を追って再び出陣します。
当然ながら京都を留守にするわけで、これを機に、院の近臣・平知康らが院御所・法住寺殿で反義仲の兵を挙げました。
後白河法皇自身も方々へ呼びかけ、延暦寺などの僧兵や、飢饉などの理由で京に入ってきていた流民までかき集めたといいますから、当時の京の「義仲ブッコロ!!」な空気がまざまざと出ておりますね。
なにせ、後白河法皇方には、一時期義仲に従っていた摂津源氏や美濃源氏もおりまして。
摂津源氏は妖怪退治で有名な源頼光などの家で、美濃源氏は摂津源氏から枝分かれし、戦国大名の土岐氏などの祖先となった家です。
大河ドラマ『麒麟がくる』で、その末裔・土岐頼芸が出てましたね。明智光秀の明智家自体が土岐氏の流れを汲むともされています。
話を戻しまして……摂津源氏・美濃源氏ともに京に近い地域を根拠地としていたこともあり、北面の武士を務めたり、保元の乱や平治の乱にも関わったりしていました。
義仲が彼らのそういうところに目をつけて、京の世情や、あるべき振る舞い方などを学んでいれば良かったのかもしれません。
なお、平知康については……。
「平家ですよね? 彼らは全員、京都から出ていったんじゃないの?」という点も気になるところですが、知康がどの系統なのかよくわかりませんでした。
北面の武士を務めていたことと、鼓の名手だったことはわかるのですが……。もしご存じの方がいらっしゃいましたら、コメント等でご教示いただければ幸いです。
しかし、知康の挙兵は、義仲がすぐに帰ってきてしまったために、失敗に終わります。
義仲は排除されかけたことに対して激怒し、法住寺殿を焼き討ち、後白河法皇を捕らえ、京都五条にあった近衛基通邸に幽閉しました。
これが【法住寺合戦】と呼ばれている戦いです。
政治力もないのに傀儡政権を立て
法住寺合戦を経て、義仲はヤケッパチというか、誇大妄想というか、色々と痛い行動に出ます。
摂政や内大臣などの要職や、院の近臣数十名を勝手にクビにして急ごしらえの傀儡政権を作り、自分は「院厩別当」となったのです。
「厩」とは、もちろん馬を飼う小屋のことです。
上皇や法皇の御所には、外出時に使う馬の世話係がおり、そのトップのことを「院厩別当」といいました。
つまり、義仲は後白河法皇の外出手段を奪って、「もうアンタの好き勝手になんかさせないから!」と宣言したわけです。
なんぜ義仲は、この法住寺合戦で、後白河法皇の第四皇子・円恵法親王や、当時の天台座主(延暦寺のトップで天台宗の代表者)・明雲も討ってしまっています。
そのうえ政治的横暴まで働いてしまえば、源平のみならず公家や延暦寺も「義仲とかマジ呆れますって……」(超訳)とドン引きされて仕方ありません。
なんというんですかね。皇族や聖職者への乱暴は、何がどうあっても避けなければならないところなんですよね。
それがまるでセルフコントロールできない。
かくして義仲の命運は尽きかけてしまいます。
京には、頼朝が放った範頼・義経軍が迫っていたのでした。
頼朝と戦うため平家と和平というアベコベ
コトここに至り、さらに妙な判断をしてしまうのが義仲。
「頼朝と決戦するために平家と和平する」というアベコベな方針を採ってしまいます。一時は、後白河法皇を捕らえて北陸に行こうとも考えていたようで。
本当に何をしたいのか、サッパリ意味がわかりません。
命が惜しけりゃとりあえず頭を丸めとけ……というのがセオリーですが、既に仏僧まで手にかけてしまっていますので、それも厳しかったでしょう。
右往左往しているうちに、ついに範頼・義経軍がやってきます。
すっかり人望を失っていた義仲に味方する兵は少なく、宇治川の戦いで義仲軍は惨敗。
義仲は数名の武士と落ち延び、間もなく近江国粟津(現・滋賀県大津市)で討ち死にしていました。
享年31。
余談ですが、義仲と義経はいずれも同じ年齢(数えで31歳)で頼朝の差し金により討たれています。単なる偶然でしょうけど。
他にも「ごく身近な人間からは信頼されていたのに、エライ人や世間の目をあまり気にしていない」ところも似ていますね。
義経のほうが義仲よりマシですが、結局は、政治力が足りないというか、生粋の武人というか。
そして誰もいなくなった源氏の方たち
源氏の主だった面々で、源平の戦い(の間にやってた内ゲバ)から生き残ったのは頼朝と範頼です。
しかし、その範頼もちょっとした失言で頼朝に疑われてしまい、不審死を遂げることになります。
最後に残った頼朝も「正式な歴史書に一切記述がない」という怪しさバリバリな最期で、その子供である頼家・実朝もまた、鎌倉幕府成立以降に非業の死を遂げます。
「そして誰もいなくなった」感ェ……。
鎌倉幕府を担っていくのが、広義では平氏(平家=伊勢平氏の大本である桓武平氏高望流)に入るとされる北条氏です。
北条政子の父である北条時政が頼朝を担いだのがキッカケでしたね。
もともと伊豆の土豪で平氏の出自も怪しいとされてますが、いずれにせよその息子・北条義時(政子の弟)の代になって鎌倉幕府を掌握し、以降、北条政権が進んでいきます。