【尿前の関~山刀伐峠】<蚤虱馬の尿する枕もと> 人間の営みそのままに
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平泉で「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)のテーマの一つ「源義経の足跡をたどる旅」にひと区切り付けた松尾芭蕉は、ここから南下、出羽の国(秋田、山形両県)へ向かった。
東北地方は、陸奥と出羽からなる。ともに「同じ東北」と思っていたが、そう単純ではないらしい。読者からの手紙に「奥羽山脈を越えると、空気も違ってくるように思われます」とあった。意味深である。
山越えの厳しさ
その変化を、芭蕉と河合曽良は国境(くにざかい)で早速実感しただろう。
二人は、1689(元禄2)年5月15日(陽暦7月1日)、岩出山(宮城県大崎市岩出山町)から、小雨の中、出羽街道を西へ進んだ。30キロほど進めば国境。途中、小黒崎、美豆(みず)の小島という歌枕があり、見物したようだ。
しかし、観光気分もここまで。出羽へ入る山越えの手前、仙台藩の関所「尿前(しとまえ)の関」で二人は足止めを食らった。「この道は、旅人がめったに通らず、関所の番人に怪しまれ、やっとのことで関を越えた」(意訳)と「ほそ道」にある。
関所の厳格さは、仙台藩の気質か。ただ、これも序の口。本当に厳しいのは山越えだった。関所の先から約10キロ、山中の険路が続く。「ほそ道」に記された「大山」、通称「中山越(ごえ)」。芭蕉たちは雨の中を進むうち日も暮れ、やっとのことで出羽側、現在の堺田(さかいだ)(山形県最上町)にたどり着いた。
さて現代。記者も出羽街道(国道108号、47号)を西へ向かった。尿前の関は、こけしの産地、鳴子温泉の近くにある。鳴子温泉駅で道を聞き関跡を探すが、温泉街から2キロほど先、山の入り口に「中山越」の石柱がぽつん。前進するか思案するが、日帰りのため断念。先を急ぐ。
国道を進み、山形県に入って間もなく、堺田駅の表示と大きな茅葺(かやぶ)きの古民家が現れた。堺田は標高約350メートル。太平洋と日本海とに水系を分かつ分水嶺(れい)がある。ここでようやく奥羽山系を横断している実感が湧く。古民家は旧有路(ありじ)家住宅、通称「封人(ほうじん)の家」。夜の大山を越えた芭蕉たちが、宿泊を頼み込んだ家の現物である。二人は大雨のため、この山の中の家で計2泊し、芭蕉は1句残した。
〈蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと〉。ノミやシラミに責められ、枕元には馬の小便する音が響く、すさまじい一夜だ、の意(佐藤勝明氏訳)。山越えの厳しさが詠まれた。しかし、漂うユーモアは何だろう。
出羽で作風変化
記者が馬屋を備えた館内に入ると、囲炉裏(いろり)の炎が、薄暗い居間を赤々と照らしていた。周りでは家族連れらが、同館の管理人、中鉢(ちゅうばち)藤一郎さん(66)の話に耳を傾けている。「昔、この土地の人々は馬を家の中で大切に育てた」「芭蕉は、嘆いたというより、山奥で出会った人々の暮らしをそのまま詠んだのだろう」
傍らでは、仙台市から訪れた男性(58)の、小学生の娘二人が「暖かいね」と囲炉裏に手をかざした。
埼玉県の女性Yさん(61)が話を引き継ぐ。堺田の先で芭蕉が越えた山刀伐(なたぎり)峠(約4キロ)の登山を愛するYさんは「ほそ道」のその一節を暗唱し、こう話した。「山刀伐峠は、昼も暗く山賊が出た原生林の中の山道。地元の若者が、護衛として芭蕉たちを峠の向こうに送った後、彼は『あなたたちを無事送れて、私は幸せです』と喜んだ。この、相手の幸せを自分の幸せと感じる若者の気持ちと、それに感激した芭蕉に、私は感動するんです」
それまで古典や伝説への感動を多く詠んだ芭蕉は、出羽に入り、生身の人間を詠み、語り出した。まるでドキュメンタリーだ。「ほそ道」は、奥羽山系を越え新章に入るといわれるが、この変化が、そのゆえんだろう。
尿前の関山-山刀伐峠
【 道標 】馬は大切に育てられた
旧有路(ありじ)家住宅(国重要文化財)の通称「封人(ほうじん)の家」は、国境を守る役人の家という意味です。江戸時代、この堺田(さかいだ)の庄屋有路家が、新庄藩から、仙台藩との国境を守る役職を与えられ、その民家が役人の家となり、同時に宿であり、問屋でもありました。
この家は、江戸時代初期か、それ以前に建てられたとみられ、芭蕉も泊まったと考えられています。
広い屋内には、3頭分の馬屋が設けられています。
堺田のある小国郷(現最上町)は、馬産地として知られ、江戸時代は藩などに納める献上馬の繁殖が盛んでした。ただ、雪国のため、馬は家の中で人と一緒に育てられたのです。
土間には大きなかまどがあり、馬の産湯を沸かし、飼料にする麦やアワなどを煮ました。また、馬が腹をこわさぬよう、ぬるま湯を沸かし飲ませたといいます。馬は、家族の中で大切に育てられていたのです。一方、人は、板の間にござを敷き寝ました。
芭蕉の句〈蚤虱馬の尿する枕もと〉を、ひどい目に遭ったことを詠んだと解釈する人もいます。しかし「山奥で人間より大切に馬を飼っている」という、ここの土地柄、人柄を詠んだのだと思います。(旧有路家住宅「封人の家」管理人・中鉢藤一郎さん)