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「おくのほそ道 」堺田・山刀伐峠越え

2018.03.19 02:02

http://www.basho-okunohosomichi.net/4SakaidaNatagiritouge.html 【「おくのほそ道 」堺田・山刀伐峠越え】 より

尾花沢市歴史文化専門員 梅 津 保 一

山刀伐峠山頂の「子持ち杉」と「子宝地蔵尊」

貞享元年(一六八四)、四十一歳の松尾芭蕉は、俳諧求道の旅に生きる決意をおこない「野ざらし紀行」の旅に出た。以降、七年三ヶ月の間、旅は通計四年三ヶ月に及んだ。「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更級紀行」「おくのほそ道」「幻住庵の記」「嵯峨日記」の旅がそれである。

なかでも「おくのほそ道」の旅は、一五六日間の長旅であったのみならず、蕉風確立を示す「不易流行」論を説いた旅でもあった。元禄二年(一六八九)三月二十七日(陽暦五月十六日)に江戸深川を出立し、出羽路へ入ったのは四十七日目の五月十五日(陽暦七月一日)である。出羽路には温海から北陸路へ向う六月二十七日(陽暦八月十二日)まで四十三日間滞在した。七月一日~八月十二日の期間、元禄二年(一六八九)と同じ日に、芭蕉のように虚飾を捨て自分の足と簡素ないでたちで、自然と歴史を考えるために、『おくのほそ道』文庫本を手にして、「おくのほそ道」出羽路をじっくり歩き回ることをおすすめしたい。

 尿前の関-封人の家 人馬同居の宿

(『おくのほそ道』原文)

 南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。

  蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と

(現 代 語 訳)

南部地方へ向かって北上する街道を、はるか遠くに眺めやりながら、道を南西に転じて、岩手の里(宮城県玉造郡の岩出山)に泊まった。そこから、小黒崎・美豆の小島を通り過ぎて、鳴子温泉に出た。鳴子温泉からは、尿前の関を通り抜け、出羽の国(山形・秋田県)ヘ山を越えて出ようとした。この山越えの道は、旅人がほとんど通らないため、関所の番人に不審尋間を受け、ようやく解放された。大きな山を登って行くうちに、日が落ちてしまったので、国境を守る番人の家を見つけて、一夜の宿を頼んだ。ところが、風雨が荒れ続けて、ゆかりのない山の中に、三日間滞在した。

蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と

封人の家の母屋に馬を飼っているので、蚤や虱はいるし、枕元に馬の小便する音が聞こえてくる。

季語‐蚤(夏)蚤虱馬の尿する枕もと

 平泉を出た芭蕉と曾良は、南下して奥羽山脈を越え出羽国に向かった。梅雨どきの大雨のため、縁のない堺田(最上郡最上町)の「封人の家」に五月十五日(陽暦七月一日)と十六日、二泊した。「封人の家」とは国境を守る番人の家のことで、仙台藩領と境を接する新庄藩領堺田村の庄屋有路家であるという。堺田の旧有路家住宅は国の重要文化財(昭和四十四年十二月指定)であり、寄棟造り広間型民家の代表的なもので、江戸初期の創建といわれている。屋敷の南西隅、街道に面した合歓の木のほとりに芭蕉句碑がある。「蚤 虱 馬 の 尿 す る 枕 も と 芭蕉翁」の句、裏に「日本学士院会員小宮豊隆書 昭和参拾六年九月 最上町建之」と刻まれている。

 芭蕉は、悲劇に涙した平泉とは一転して、出羽の国への山越えの旅の苦労を述べている。こうした場面の急変ぶりは、むしろ俳諧の妙味を感じさせる。

 尿前の関所は、宮城・山形の県境近くにあり、義経の妻が亀割山で出産した赤子がここで尿をしたという伝説があった。

 芭蕉が泊まった封人の家は、母屋を仕切って馬を飼っていた。馬と家族は、同じ屋根の下に同居している。馬の放尿する音が聞こえるのも当然である。寒い雪国の農家では、よくある光景だった。下五の「枕もと」に、芭蕉は驚きと感動をふくめている。

堺田での「蚤」「虱」「馬の尿」は和歌の世界では取り上げない素材であり、みちのくの民衆生活に密着したところで、自分の俳諧を発見している。なお、「尿」は「しと」と読まれてきたが、芭蕉自筆とされる野坡本では「ばり」と傍訓があり、小児の尿「しと」と馬の尿「ばり」とを使い分けていることが確認された。「ばり」には野趣満々たる俳味がこもっている。

「封人の家」最上町 人馬同居の家 芭蕉句碑

 「歌枕の紹介」

   小黒崎‐紅葉の名所。 美豆の小島‐川中の小島。

 「小黒崎みづの小島の人ならば都のつとにいざと言はましを(小黒崎・美豆の小島が人間だったなら、帰京の土産に、さあいっしょに、と誘って連れて行くのになあ)」 『古今和歌集』東 歌)

 山刀伐峠-険しい山越え

(『おくのほそ道』原文)

あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと言ひて人を頼みはべれば、究竟の若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後に付いて行く。あるじの言ふにたがはず、高山森々として一鳥声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に蹶いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男の言ふやう、「この道必ず不用のことあり。恙なう送りまゐらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。

(現 代 語 訳)

 封人の家の主人の話では、ここから出羽の国に抜けるには、途中に大きな山がある上に、道筋もはっきりしていないから、山越えには道案内を頼んだほうがよい、という。それではと、案内人を依頼したところ、たくましい青 年が、反りの強い脇差を腰にさし、樫の杖を手にして、私たち一行の先に立って進んだ。今日は危険なめに遭いそうな気がしてならない、とびくびくしな がら、後について行く。封人の家の主人の言うとおり、山は高く、木々は深く生い茂り、烏の声ひとつしない。木の下は、枝葉が鬱蒼と茂り合い、まるで夜道を行くように暗い。杜甫の詩に、「雲の切れ端から砂混じりの風が吹き下して、あたりが真っ暗だ」という句があるが、そんな感じだった。小笹のなかを何度も踏み分けて進み、流れを渡り、岩につまずいては、冷や汗を流すといったあんばいで、ようやく最上地方(山形県尾花沢地方)に出た。

あの道案内してくれた青年は、「この道は、いつもめんどうが起こるんですが、今日は何事もなくお送りできて、幸いでした」と、喜んで帰って行った。山越えが終わったあとで、こんな話を聞かされたのだが、それでさえも、胸の鼓動はいつまでもおさまらなかった。なお、芭蕉が引用した杜甫の詩の題名は、「鄭附馬潜曜、洞中に宴す」(皇帝の婿の鄭潜曜が蓮花洞で酒宴を催す)。この詩から「雲端につちふる」を借用した。

 高 山 森 々 と し て

 五月十七日、快晴。二人は「究竟の若者」(たくましい若者)を案内人にして、荷物を持ってもらい堺田を出発した。堺田から一里半、笹森には口留番所があり、佐藤久兵衛家が代々番人を勤めた。番人は年貢を免除されていた。いま、番所の建物はない。番所脇の小社は、小国郷開村伝説にかかわる国分大明神社である。笹森より市野々まで三里。その順道は、笹森‐小国(向町)‐満沢‐背坂峠‐岩谷沢‐市野々である。しかし、この小国経由コースは回り道になるので、笹森から明神川を渡り、新屋‐明神‐赤倉から一刎に出て、「一刎」「山刀伐峠」という名前を聞くだけでも無気味な険しい山道にかかった。赤倉温泉の旧道の一部が「歴史の道」として整備復元されている。

 一刎から山峡の県道を二キロ行くと、山刀伐トンネルに達する。トンネル手前の左手から歴史の道「くのほそ道・山刀伐峠越」が整備復元されている。「歴史の道」の全国統一道標に従って旧県道を数か所で横切りながら登ると、約二十分で頂上に着く。頂上は標高四七〇メートル。「子持杉」と「子宝地蔵尊」がある。その後ろに「奥の細道山刀伐峠顕彰碑」が昭和四十二年十一月に建てられた。碑文は加藤楸邨氏筆で、「高山森々として一烏聲聞かず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし、雲端につちふる心地して、篠中踏分け踏分け、水をわたり、岩に蹶き(い)て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ」、と刻まれている。このように「山刀伐峠」は、たくましい若者に道案内されて、ようやく越えることができた。冷汗と胸どきどきの連続だった。

 現在、山刀伐峠の頂上附近は国有林野で、うっそうとしたブナ、ナラなどの広葉樹林でおおわれている。山麓および中段区域は、造植林によるスギ、カラマツ林と水田畑開拓地となっている。歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越え」は、昭和初期から二度におよぶ道路改修によって荒廃した箇所、耕地となり滅失した所もあるが、山道の大半は原形を読み取れる。最上町と尾花沢市は、文化庁と山形県から補助を受け、歴史の道「おくのほそ道・山刀伐峠越」を復元整備した。

 山刀伐峠を下った最初の村が市野々(尾花沢市)、ここで芭蕉と曾良は案内人の若者と別れた。『曾良旅日記』の「関ナニトヤラ云村」は関谷村で、尾花沢代官所の番所が置かれていた。当時の番所は柴崎与左衛門宅であったと伝えられ、同家には寛永期の山形藩保科氏の「番所掟」(尾花沢市指定文化財)が残されている。芭蕉と曾良は、正厳の手前で大夕立にあっている。正厳・尾花沢間の村は二藤袋村であり、野辺沢(延沢)ヘの道が分かれている。

 山刀伐峠越えは、修験の道であって、普通の人の通れるような道ではなかった。古くから出羽三山参詣道者が越えた信仰の道であった。                

芭蕉の「おくのほそ道」紀行から三一三年。堺田‐赤倉温泉‐山刀伐峠‐尾花沢(銀山温泉)‐天童温泉‐山寺‐大石田(大石田温泉)‐新庄‐最上川舟下り‐出羽三山コースには、「おくのほそ道」跡追い紀行の来訪者が絶え間ない。

山刀伐峠山頂 歴史の道「山刀伐峠」

山 刀 伐 峠 なたぎりとうげ (尾花沢市・最上町)

尾花沢盆地と向町盆地を結ぶ峠。尾花沢市の東方、丹生川支流の赤井川に沿って北東へ進み、金山(七六三メートル)と大森山(八九七メートル)の間を標高五一〇メートルで越え、最上小国川沿いの赤倉(最上町大字富沢)に出る。山頂に子持ち杉、子宝地蔵尊、元文三年(一七三八)の墓碑がある。

 この峠は山形藩領(のち幕府尾花沢代官所領)と新庄藩領との境で、尾花沢盆地側では関谷(尾花沢市大字富山)に番所、向町盆地側では一刎(最上町大字満沢)に番所が置かれ、満沢(大字満沢)・杉ノ入(大字月楯)にも境番人が置かれた。

 山形城主最上義光が、天正八年(一五八〇)にこの峠を越えて小国城(城主細川摂津守直元)に攻め入っている(天正十二年説もある)。細川氏滅亡後、小国城には最上氏によって蔵増城主蔵増安房守の嫡子が封ぜられ、小国日向守光基(八千二百石)と称した。

 元禄二(一六八九)年には松尾芭蕉が尾花沢の鈴木清風を訪ねるために越えた。芭蕉は『おくのほそ道』に山刀伐峠について「高山森々として一烏声聞かず、木の下闇茂り合ひて夜行くがごとし」と記している(角川文庫『おくのほそ道』)。

 また、山刀伐峠は村山地方と陸奥南部藩領・同仙台藩領を結ぶ重要な街道で、南部方面からの出羽三山行者が通行し、南部駒も移入された。赤倉から峠までが急勾配で、二十二曲りと呼ばれるが、尾花沢側は緩傾斜である。

 昭和七(一九三二)年自動車道として改修され、峠も四〇メー卜ル低い切通しとなった。同五十一(一九七六)年七月に延長五三八メートル(幅六メートル・高さ四・七メートル)の山刀伐トンネルが完成し、両盆地の連絡は容易になった。

 峠名は遠望すると峠付近の形状がマタギ(猟師)や農家の女性たちのかぶる茣蓙帽子の「なたぎり」に似ていることに由来する。

文化庁指定の「歴史の道」山刀伐峠越えは、

  ①政治の道(天正八年、最上義光による小国攻めの軍用道、領界)

  ②経済の道(物資輸送、尾花沢馬市への道、赤倉温泉への道)

  ③信仰の道(慈覚大師が越えた、出羽三山・最上三十三観音参詣巡礼の道)

  ④文化の道(「おくのほそ道」山刀伐峠越え)

  であった。

とうげ たうげ「峠」

  (「たむけ(手向)」の変化。通行者がここで道祖神に手向をしてまつり、旅路の平安を祈ったろころからいう。「峠」は国字)

  ①山の坂道を登りつめた最も高い所。山の上り下りの境目。転じて、山。 

  ②物事の勢いのもっとも盛んな時期や状態。「仕事の峠が見えてきた」

坂 と 峠

   ヤマトタケル説話が、東国をアヅマと呼ぶ語源とする「吾妻はや」の嘆きの場を、「古事記」が足柄「峠」でなく足柄「坂」、「日本書紀」が碓日「峠」でなく碓日「坂」とするように、古代には「峠」はない。漢字に「峠」の字がないからである。中世に生まれた「峠」の字は「手向け」が転じた「タウゲ」を示すために創られた国字である。

  すなわち、坂は境であり、坂の神はすなわち障(さえ)の神(塞の神・道祖神)である。障の神は、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国より逃げ戻る時、追いかけて来た黄泉醜女を遮るために投げた杖から生まれた神であり、「手向け」は、その坂の神に行路の安全を祈る境界祭祀である。しかし、逆に言うならば、坂の神とは祀らねば旅人に災いをもたらす神、道をサエぐ神であった。

  『風土記』には、こうした境(坂)の神が「荒ぶる神」とし現れる。たとえば、筑前・筑後国境の山の麁猛神(あらぶるかみ)の前に「往来の人、半ばは生き、半ばは死にき。その数極めて多かりけり」、伊勢国の安佐賀(あさか)山の荒ぶる神は「百の往人をば五十人亡し、四十の往人をば二十人亡しき」、肥前国基肄(きい)郡姫社(ひめこそ)郷にも荒ぶる神がいて「路行く人、多(さわ)に殺害され、半ば凌ぎ、半ば殺(し)にき」ありさまであった。荒ぶる境の神の前に、旅人の坂越えの可能性は五分五分である。そこで旅人はゆくての安全を祈り神鎮めの手向けを行うのである。律令法は朝集使(ちょうしゅうし=諸国の公文を中央に進上する使)が上京する際の駅馬の利用範囲を定めるが、東海道は相模国以東、東山道は上野国以東の国司に駅馬利用が許されていた。すなわち、足柄坂・碓日坂は単相模・駿河、上野・信濃の国境にとどまらず、広くアヅマとヤマトとを隔つ大きな境であった。この足柄坂・碓日坂と今ひとつ木曽山脈恵那山越えの信濃板(現在の神坂峠)は、東海道・東山道のおおきな「手向け」の場であった。それゆえ「万葉集」にもこれらの坂を歌ったものは多い。一九七八年、信濃坂(神坂峠)の発掘が行われ、自然石の配列と積み石のほか、玉・剣・鏡などの石製模造品や土器が発掘された。古代人が坂の神に「手向け」た品々である。

たむけ(手向)

①神仏に幣(ぬさ)など供え物をすること。また、その供え物。多く、旅人などが道の神に対して供える場合にいう。*万葉-四二七「八十隈坂に手向(たむけ)せば」

②旅立つ人へのはなむけ。餞別。*後撰-一三〇六「あだ人のたむけにをれる桜花」 

③道の神に旅中の安全を祈るところ。特に、越えて行く山路の登りつめたところ。峠。*万葉❘三七三〇「み越路の多武気(タムケ)に立ちて」 

④「たむけ(手向)の神」の略。供えものをして、死者の冥福を祈ること。 

  手向の市(いち)=ぼんいち(盆市)。

  手向の神[=道の神・山の神」旅人が幣(ぬさ)などを手向けて道中の安全を祈る神。

山の峠や坂の上などにまつってある神。道祖神。

とうげがみ 峠神 

  古代には、険阻な峠は神の支配する場と考えられ、そこを通行する時に、その神に対して幣帛が奉られた。この行為は手向け(タムケ)と称されトウゲの語源とされる。尾花沢市大字上柳渡戸の八幡山祭祀遺跡がある。 

八幡山遺跡

  尾花沢市大字上柳渡戸八幡山は、船形連峰の北日長山の峰つづきの山である。この山の西向きの斜面、標高四〇〇mの地点にある八幡山遺跡は、日本最大の石製模造鏡(直径一五・八m)をもつ祭祀遺跡である。伴出の土師坏が引田式に併用することからみて、たび重なる祭祀が想定され、五世紀末にはじまり六世紀前半に至るものと推定できる。八幡山出土の石製模造品は、剣・刀子・鏡・有孔円板・粘板岩製勾玉・臼玉・斧・鎌などであり、鏡・剣・玉などの石製模造品は祭具と考えられる。これがまとまって出土するところは、かつての祭祀の場の跡であり、同遺跡は立地から峠神の祭祀遣跡と考えられている。

さえのかみ塞の神→道祖神

さかい 境 

坂や崎などと同じ語源をもつ。村境には道祖神がたてられて明示され、ここで坂迎えといって帰郷者を迎える行事が執り行われる。市神の祀られるのもここであり、妖怪の出没する場所でもある。橋も同様の性格をもつ。

じぞうしんこう 地蔵信仰

衆生の苦しみを救う菩薩であり、奈良時代に日本に入ってきた。あの世との境での救済仏としての信仰が高まり、その後、道祖神と習合し境の神の性格を得た。子安神とも考えられ、近世には現世利益を授ける神として栄えた。

こやすがみ 子安神 

出産や子供の成長を守る神。子安観音、子安地蔵がよく知られている。毎月十九日に行われる十九夜講では女性が集まり、子安神が祀られる。茨城県とその周辺では、この際にY字型の大卒塔婆がたてられる。

「歴史の道」の調査と整備

私は、一九七八年度から四年間、文化庁の「歴史の道」調査事業の調査委員として、山形県内の「歴史の道」を歩いた。近代以前の「歴史の道」は、わずかに山間部に残っているので、クルマの入れない山道になっている所が多い。山歩きするときには、地形図だけをたよりにして一人で山野を歩きまわった。地図の上には、点線路や片点線路が記されていて、立派に歩けそうに思われるが、いざその道にとっつくと、薮は繁りクモの巣が張っていて、道をたどるのに苦労することが多かった。  このような道は、新道が出来たために、今では通る人も少なくなった点で、「旧道」とか「古道」と呼ばれている。

「旧道」「古道」は新道にくらべると決して歩きよいものではない。しかし、なれてしまうと平気だし、それに新道が出来たことを知らなければ、別に苦しみにもなりはしない。むしろ、道標や石仏などが残っており、感傷をそそる。

  「歴史の道」調査の目的は、

  古くから文物や人々の交流の舞台になってきた道・河川・運河などの交通路は、我が国の歴史を知る上できわめて重要な意味を持っているが、これまでは、並木街道、関跡、一里塚などごく一部の交通関係の遺跡について部分的に史跡に指定して保護措置を講じてきた。ところが近年における国土の開発、とりわけ道路改良事業、農業基盤事業、造林事業などによって、これらの道などをはじめとする交通関係の遺跡は急激に失われてきており、例えば、江戸時代の五街道のような誰でもが知っている道ですら、地図上で復原し、プロットすることが困難になってきている。そこで、これらの「歴史の道」ともいうべき江戸時代以前の古い道・河川等交通関係の遺跡を周囲の環境を含めて総合的かつ体系的に把握、調査し、国民が歴史に親しみ、我が国の成り立ちを振りかえる一助としようとするものである。とある。

  私たち調査委員は、古道一本一本について、その本来の道筋を地籍図・古絵図や聞き取りによって確定し、あわせて古道の残り具合や、古道に沿ってどんな文化財が残っているか調べ、報告書を提出した。 

  山形県の「歴史の道」調査事業は、一九八一年度で終了し、奥の細道(一)、羽州街 道、笹谷街道、最上川(二)、出羽三山参詣道、最上川(一)(三)、六十里街道、浜街道、小国街道、越後街道、米沢・板谷街道、二井宿・大塚街道、会津街道、最上小国街道、仙台街道(軽井沢越・寒風沢越)、青沢越街道、村山西部街道、関山街道、二口街道、狐越街道、小滝街道、茂庭街道、奥の細道総集編、歴史の道総集編、の二五冊の報告書が刊行されている。

  この調査結果に基づいて「歴史の道」整備事業がおこなわれる。その対象地域は、「開発による破壊度が少なく、道自体及び道と密接な関係をもつ歴史的遺産、自然環境等が往時の歴史的環境をよくとどめており、かつ、関係地方公共団体をはじめ地元の保存意欲が高い地域の中から文化庁が決定する。」のである。

  今までに整備事業を終了した道は、「おくのほそ道」(宮城県岩出山町・鳴子町、山形県最上町・尾花沢市分)「中山道」「熊野参詣道」「萩往還」「豊後街道」等の五つの街道で、沖縄県の「西海道」も着手が計画されている。

  文化庁は、整備事業が終了した個所を遂次国の史跡に指定して永久に保護したい考えであり、五つの街道の一部個所が史跡に指定され、あるいは指定告示の手続き中である。「おくのほそ道」は、本来の街道の呼称が出羽街道(または仙台街道)中山越、上街道、山刀伐峠越であるが、元禄二年(一六八九)に松尾芭蕉が紀行文『おくのほそ道』を叙述するにあたって通行した道であることから、一般的に「おくのほそ道」と呼ばれている。 

  歴史の道「おくのほそ道」の整備事業は、宮城県岩出山町が昭和五十四年~五十六年度に一億二千万円、整備された延長距離四、二七三m、宮城県鳴子町が昭和五十三年~五十六年度に一億二千万円、同延長距離五、一八七m、山形県最上町が昭和五十六年、同五十九~六十年度に、六、四一四万七千円、同延長距離一、二 四四m、山形県尾花沢市が昭和六十一~六十三年度に、四、二〇〇〇万円、同延長距離一、一一〇mである。

  日本における大量高速輸送の歴史は、一八七二(明治五)年の鉄道開業から始まる。それ以前の陸上交通は基本的に、人が自分の足で歩くことによって成り立つものであった。

  移動する人の汗とともに、道は様々な物や情報や文化を運んできた。歴史の様々な場所で、生産や流通、文化の血流となってきた。西行や一遍、芭蕉に代表されるように、道を漂泊することを通して思索や信仰・芸術を深化させていった人々も少なくない。道は、生活や精神文化と切り離せない関係ももっている。

  道の歴史ははかない。時とともに運搬の手段も行旅の姿も変わり、またそれに応じて道の通過する場所も形態も変化する。新しい道が開かれて旧い道は見捨てられ、やがては草生した廃道になり、人々の記憶の彼方に消えてゆく。様々な開発によって寸断されてしまったり、拡幅によって道筋以外に全く痕跡がなくなってしまった道も少 くない。

 玉野新道と大室駅

 『続日本紀』の天平九年(七三七)四月の条に、陸奥按察使大野東人が出羽国雄勝の蝦夷を討つため陸奥国加美郡色麻柵(現宮城県)から出羽国最上郡玉野まで道路を開いたとある。大野東人の率いる約六000人の軍団は、天平九年二月二十五日、多賀柵(宮城県多賀城市)を出て西北方の加美郡に進み、三月十日加美郡色麻柵を出発して西に道をとり奥羽山脈を越え、その日のうちに出羽国大室に着いた。そこで出羽の軍団と合体して北の比羅保許山へ進軍したが、目的地の雄勝へは向かわず軍団を引き返し、本処地の多賀柵へ戻っている。さらに天平宝字三年(七五九)の条には、出羽国に雄勝・  平鹿の2郡を置き、玉野・避翼・平戈などの6駅家を設けたとある.

  『続日本紀』に見える大室駅を安久の西原堀ノ内遺跡(大字丹生)、あるいは玉野原の兵沢遺跡(大字鶴巻田)に比定する説があるが、ともに決め手を欠く。西原堀ノ内遺跡は、昭和四十六年八月に発掘調査され、仁和二年(八八六)に最上郡から分郡した古代村山郡の郡衙跡であろうと推定されたが、兵沢遺跡と同じく中世豪族の楯跡とする説もあって確定されていない。また玉野新道のルートについては軽井沢越・鍋越峠越など数ヵ所が比定されているが、軽井沢越説が有力である。なお、律令制下の当市域は「和名抄」に見える村山郡6郷のうちの長岡郷に属したとみる説が有力である(『地名辞書』)。