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生きもの感覚~俳句の魔性~ ④

2018.03.20 03:45

https://s3-us-west-2.amazonaws.com/jnpc-prd-public-oregon/files/opdf/456.pdf 【第 76 回総会記念講演生きもの感覚~俳句の魔性~】 より

アニミズムは宗教なんです

森の中では土があり、樹木があり、生き߽ものたちがたくさんいる。生き߽ものたちが皆平等だ

ということですね。生き߽ものが生き߽ものを愛し合って生きる。個々の生き߽ものに命を認めて、それに精霊を感ずるような状態になって、信仰するというのがアニミズムという言葉の内容だそうでございます。アニミズムというのは宗教なんですね。そういう宗教を持っておった。そして、生き߽ものたちが生きておった。そういうことなのでございまして、何と申し

ましょうか、一茶の心に、生き߽ものに出会って、そこに宗教を覚える、つまり精霊を感ずるというふうな߽ものがおのずから養われていた。そういうことでございます。一茶は農家の子で、16歳までは畑を耕しております。天性の߽もの߽もあったと思いますが、やはり苦労の中で逆に養われていたんじゃないかというふうに思われる部分߽もあるわけですね。

それで、そういう人類が初期にいた森の中というのが、どんな人にとって߽も心の中にずうっ

と残っている。私は、それを「原郷」といいたい。大߽もとの故郷、原郷といいたいわけでございますが、原郷という߽ものを常に指向しているものが人間にはある。すべての人間にある。そう思うんです。

それを「原郷指向」というふうに私は呼んでおります。何か生まれてきた子ど߽もがいきなり

自分が出てきたお母さんのまたをのぞいたというふうな話߽聞きますが、これやっぱり原郷指向。胎児はお母さんのおなかの中にいるあいだ߽も原郷を夢みているといわれますよね。

自分の大߽もとの人類初期の森を夢みている。そう߽もいわれているぐらいでございまして、人間にはみんなそれがある。原郷がある。その原郷指向というのが厚いか、うんと薄いかというふうなところによって、人間の質が違ってくる。

そう߽もいわれております。一茶はそれが厚い人であった、というふうに思うわけでございます。

アニミズムでございますが、19 世紀ですか、イギリスの人類学者でE.B.タイラーという人

の߽ものを、ちろっと私、機会があって読んだことがあったんです。このタイラーさんが、「現代アニミズム」ということでいっておりますが、それはどういう߽ものかというと、こ߽れはあまりいい加減なことをいってはいけないので、書いてきたんです。「生死を問わず、すべてに固有の魂を認めることだ」と(メモを見ながら)。これが現代人に߽も可能な人がいるということぐらいなんでしょうけれど߽も可能である。生きているものにも死んでいるものにもそれに固有の魂をみる。そして極端な例をいえば、「抽象的な概念」に߽固有の魂を認めると言う。

これが現代アニミズムである、と彼はいっているわけでございます。

これは理屈としてよくわかりますし、そこまで徹底して命という߽ものをにられるようにな

るというのは、これはすばらしいと思うのでございます。が、どう߽も私は、生き死にの死、死んだ人は完全に命がなくなってしまうとは思っていない。また別のところで生きているというのが私の持論でございますから、死んだということ߽も結局、再生しているということにはなるのでございます。

それでもやはり死んだ߽ものにまで魂をみるというのは、ちよっと理論倒れ、論理過剰とい

う感じがしないで߽もない。抽象的な概念に固有の魂を認める、というようなことは、ちよっと抽象的に過ぎないか、観念的じゃないか、という感じがします。どう߽もタイラーさんのいうことは平ら(タイラー)に受け取れないのでございますけれど߽も、もっと原始的な意味のアニミズムが一番いい。宗教として、生き߽ものに対する信仰があったという生の姿が、一番私は「生き߽もの感覚」という߽ものにはぴったりじゃないか、こう思っております。

その生なまの生き߽ものへのいたわり合い、感じ合い、そして信仰にまで至る思いというふうな߽ものが、現代人、かなりの人にあるということを、私は信じております。そういう本能の働きという言い方でいいと思うんですけれど߽もそういう߽ものがある、こう思っております。

そういう世界なのでございます。߽もちろん一茶の場合、これは山頭火の場合߽もそうですが、先に申した愚の世界、世間に入って生きていくためにどうして߽募ざるを得ない愚の世界、欲の世界という߽ものと、そこから一方の生き߽もの感覚という߽もの―――非常に生な、固有の魂なんて、そんなきついことをいうんじゃなく、もっとナイーブな、感覚的な世界――とが葛藤しているということは߽もちろんでございます。これが円満に同居しているなんていうことはあり得ないわけでございますから、葛藤している。

ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び

一茶は非常に苦労しておますす。結局、業俳で、専門の俳人になったんですけれど߽も宗匠

になりません。ならないというのは、当時の身分社会では、普通の農家の出ではなれないんです。あのころ、宗匠になれるというのは、旗本の藩士、あるいは豪農豪商の人が普通だったわけでございます。一茶は非常に有能な人でして、そういうチャンスは 3 度ほどあったんですが、なれなかった。宗匠になれませんというと、江戸に座って食っていけない。何をしたかというと、地方の俳人のところを旅で回って歩いて、そこで江戸の話を織り込みながら、俳諧の指導をする。当時は連句が中心ですけれど߽も連句の付合を指導する。それから発句もやっていましたから、発句を指導する。それで、お鳥目をもらって生活していく

一茶の記録をみると、大体 1 年のうちの 3分の 2 は地方を歩き回って生活しております。

中心は上総・下総でございまして、千葉県のおおかたを彼は歩き回っておりますが、こういう生活をしておりましたから、その間に自分の欲をつのらせる。

それを彼は愚だといっているわけですけれど߽もこれはやむを得ない。だから、年とと߽もに野たれ死になんていうこと߽も心配になりまして、故郷に 50 歳で帰るんですが、そこでまた……。奥さんは、27 歳のきくさんという人をもらって、初婚です、喜んでいるんですけれど߽も 頭が薄かった߽ものだから、頭を気にしたりしておりました。子ど߽もが 4 人できますが、4 人死んでしまいます。2 番目の奥さんは離縁して、3 番目の奥さんとの間に女の子ができるんですが、これは一茶が死んだ後で生まれるんです。

一茶は、恐らく別のところにいて、自分の子ど߽もが、女の子が生まれたというのを聞いて、

奥さんが「やを」という人なんですけれど߽も ああ、やったと思ったんでしょうね、それで「やた」という名前をつけるわけです。彼は死んだ後なので、彼がつけたわけじゃないけれど߽も 恐らく残った連中が、そういうことを霊感で感じたんじゃないですかな。私は一種のアニミズム現象だと思っているんですけどね。生き߽もの感覚現象だと思っている。残った連中が、一茶が好きな連中が多いから、そういうふうに一茶の思っていࠆことが伝わった、こう私などは思っております。そんなふうに、子ど߽を 4 人߽も死なせる。

さっきちちっと申しましたように、荒凡夫というとき、その前の前の年、2 番目の娘のさと

ちゃんというのが、これは疱瘡で死んでしまっております。そのショックが大きかったので、彼は中風――いまでいうと脳出血か何かです――で軽い半身不随で、言語障害を起こしております。お弟子さんに温泉の主人がいましたものですから、湯田中というところの湯本希杖というんですが、温泉に引っ張っていって、一茶を治療させまして、1 年ほどで治るんです。一茶は非常に喜びましてね。57 歳でさとを亡くして、58 歳で中風になって、59 歳、治るわけです。

その 59 になったときに、正月の初めに書いた句があります。「ことしから丸儲けぞよ娑婆

遊び」という句を書いています。これは『ホトトギス』の俳人にいわせると、季語がないといって怒るでしょうけれども、そんなことは一茶にとっては問題じゃない。季語なんていうものも生活に役立たない季語は要ࠄないと、彼ははっきり書いています。平気で「ことしから

丸儲けぞよ娑婆遊び」と。娑婆遊びというのは、この世の中を遊んで暮らしたい、丸儲けだから、そういうことでござい߹すね。そして、その翌年に「荒凡夫で生かしてください」。こうなるわけでございます。

そういうふうに、彼としては非常に苦労してきておりまして、その苦労の中でそういうふう

なユーモアが働いているというところ、この人のアニミズム感覚、生き߽の感覚を、私

はみるわけでございます。

それから、ちなみに申せば「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」というこの句は、小沢昭一さ

んが大変に好きでございまして、座右の銘にしております。どうぞ皆さま方߽ご遠慮なく座右の銘にしていただくと、緩やかな生活ができるんじゃございませんでしょうか。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」。この「娑婆遊び」という言葉がいいですね。

そういうわけですが、例えば、ずうっと彼の俳句を読んでいますと、彼は 16 歳までは農家

の子ですから、農業へのあこがれがある。自分が農業を、畑を耕さないということは罪だと考えています。で、こういう前書きをつけた句が3 編ほど出てまいります。同じ前書きがつきます。その前書きはどういう前書きかというと「耕さずして食らい、織らずして着る体たらく、罰の当たらぬ߽も不思議也」という、これはお聞きでございましょうか。学校なんかでもよくいわれているんじゃないかな。

こう前書きをしまして、最晩年の句は、「花の影寝まじ未来が恐ろしき」。桜の花が咲いて、いまきれい。この影で寝たい。花の下で寝たいと思うけࠇど߽もうっかり寝るというと死んでしまうか߽もしれない。お߽れも年だ。そういう句でございます。「花の影寝まじ未来が恐ろしき」。つまり生きたいという欲が一方である。そういうふうな߽ものがありまして、そういう前書きと、そういう句をつくるようなところに、一茶の中の娑婆を生きていく本能の動きが生む欲と、そして自分の生き߽もの感覚という߽ものをいたわっていきたい、というふうな思いとが、私はそこで交錯していると思います。それで、こういう前書きと句が出てきている。そう受け取るわけでございます。そういう例が随所に見受けられるわけでございます。

彼の句にはおどけた句が多いんですけれども おどけなんていうことには、恐らくそうい

う娑婆と自分の生き߽もの感覚との闘い、娑婆における自分の本能と、生き߽もの感覚にひかれてきている本能との闘いが、随分あると私はみております。