3月21日(日)四旬節第5主日(受難節第5主日)
「神の国の主イエス様と弟子の母親の願望」
マタイによる福音書 20章20~28節
今日は、「神の国の主イエス様と弟子の母親の願望」と題してマタイ20章20~28節のみことばから学び、そこから信仰の糧を与えられたいと思います。
20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
悲しいかな、ゼベダイの息子たちの母親は、神の国、天の国をこの世の王国と同じようにとらえて、「座」(ポジション)を求めました。この母親の願望は、“イエス様の王国が実現する時に、息子たちをそれぞれ右大臣、左大臣のようにして欲しい”というようなものでした。イエス様は、この母親の願いは神の国にあっては全くの筋違いだと教え諭しているように思います。
宗教的真理や信仰的真実を求めて止まない求道者や信仰者は、どのような価値観に基づいて祈りまた願っているのでしょうか。イエス様の神の国の福音にふれてイエス様に従う者とされた私たちですけれども、いつのまにか、ゼベダイの息子たちの母親のようになってしまってはいないかと、考えさせられます。
聖書の世界では、もっぱら、欲望の悪と罪からの悔い改め、“しあわせ”よりも“救い”を教え、「滅び」ではなく「死」から「永遠の命」へと導かれるようにと教えています。はたして、わたしたちは「みことば」をどのように受け止め、どのように価値づけ、どのように導かれたいと望んでいるでしょうか。
イエス様が、いよいよ、受難へと、十字架へと、歩む方向がはっきりしてくればするほど、それを妨げるような力も働いてくることを聖書は教えています。そしてまた、わたしたちの信仰生活を考えた場合にも、同じことを感じさせられるように思います。信仰の真髄へと近づこうとすればするほど、神の名を口にしながらどこまでも利己的ゆえに反対の方へと引っ張られてしまう自分、信仰の真髄から遠い自分に、ハッとさせられて立ち止まってしまうような経験が、わたしたちの信仰生活には繰り返し生じて来るのではないかと思います。
2016年に相模原市の重度障碍者の施設で大量殺傷事件を起こした容疑者は、自分のしたことの理由を語り反省のそぶりを見せませんでした。多くの人々が衝撃を受けた事件です。容疑者が口にした、社会に役立たない人間は生きる資格がない、価値がない存在だ、というような言葉は、彼の抱いていた価値観の一端を吐露したものだと思います。彼にそのような価値観を抱かせてしまったものは何なのだろうかと、非常に考えさせられました。
ゼベダイの息子たちの母親が筋違いにも願った、息子たちのためのポジション願望に潜むこの世的価値観のなかに、相模原障碍者殺傷事件の容疑者が強く抱いていた価値観と通じてしまうようなものがありはしないでしょうか。人よりも優秀であってほしいとか、人生の成功者であってほしいとか、そのような願望は、世の人々を優劣で分類し、偏見を伴って劣っているとみなされている人々を見下し、挙句は、排除していくようにならないか、社会や教育や宗教までもが、そのような優劣分類に加担していないかと問われています。
教育も宗教も、本当は、ひとりひとりのかけがえのない価値をわけへだてなく高めあうためにあるべきものだと思います。とりわけ、宗教は、そうでしょう。創造主なる神様による被造物の多様性のなかで、ひとりひとりが尊重され、救いへと導かれるべきだと思うのです。
イエス様は、「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と教えられました。
このような真理と真実に出会わない限り、かの容疑者に“ひとりひとりの命のかけがえのなさ”を気づかせることは困難なのではないだろうかと、社会や教育や宗教というものに一通り触れてきた者の一人として考えさせられます。
“ひとりひとりの命のかけがえのなさ”を真に知るには、この世の欲望によって基礎づけられている諸価値観や属性から自由にされなければならないのではないかと、深く問われていると思います。そして、イエス様の受難と十字架の道行きの途上で生じた、ゼベダイの息子たちの母の願望に対するイエス様のおことばにその答えを見つけていきたいと思うのです。
イエス様の神の国は、すべての被造物がわけへだてなく救いに入れられるべき御国であります。そのような神の国の福音と福音そのもののイエス様を十字架につけていった人々のなかに自分もいないかと自らに問いながら、付着している諸価値と属性から離れるために、「わたし」という存在の内奥まで下りて行きたいと願います。そして、今日の聖書のみことばを自分に当てはめて祈りたいと思います。