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社会実装デザイン研究室

生きるということ

2021.03.20 14:30

本日、2021年3月20日、在籍している東北芸術工科大学で、令和2年度の卒業式が執り行われた。



全体がコロナ一色だった。




感染症とは病原性の微生物が、人の体内に侵入することで引き起こす物理的な疾患。

その疾患者はまわりにほとんどいないにも関わらず、その感染や社会環境に恐れ慄く、

”心理的感染症”の疾患者が沢山いた。





「なぜ?」

「コロナだから」



この1年、この言葉を何度も聞いた。

自分も吐き捨てるように何度も言ってきた。

「とりあえず今はそこで黙っとけ」

と言わんばかりに。


人と話をしたり、旅に出たり、握手をしたり、ハグをしたり、笑いあうこと自体を

お互いが規制し合うこの状況は、有史以来、初めて私たちに訪れる監獄社会といえる。


すべての民が独房に入って、見えない鉄格子の中で生活しているかのように。


ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いていた世界は、

読んだ瞬間から「そんな世界は未来永劫、絶対に訪れることはない」と思っていたが、

2020年度の今、なんとそんな世界のど真ん中で生きている。


ビッグ・ブラザーが一言「コロナだから」と叫んだだけ。

「殺されるかもしれない」という気持ちを巧みに操って、

「コロナだから」という表現だけで、ひとりひとりが黙って独房に入っていく。

それに背くものは、自粛警察にめった刺しにされる。


「コロナだから」は、武力行使以上の特権のある偉大な力を持っている。

それは自由を束縛し、社会をぶち壊す精神破壊兵器だ。


本日の卒業式では、私は

「コロナだから」

という言葉を一切、言わないようにした。

これから社会をデザインして新しい世界を創り上げていく、素晴らしくみずみずしい人材に対し、ふさわしくない表現だからだ。


祝辞では、卒業生に対し、私は下記の言葉を伝えた。

「私は生きるために産まれてきた」

長女が3歳になったときに、私が「どうして産まれてきたの?」と聞いたときに、彼女が答えた一言だ。


「生きる」とは、なんだろう。

谷川俊太郎は、著作「生きる」で、

下記のように記している。

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること

あなたと手をつなぐこと


生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと


生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ


生きているということ

いま生きているということ

いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ

いまいまが過ぎてゆくこと


生きているということ

いま生きてるということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたの手のぬくみ

いのちということ

これらが感じられなかったら、生きていないのと一緒だ。

かくされた悪を注意深くこばみ、

生きていることを感じること。

人と出会い、愛し、自然にふれあい、日々の小さな変化に感動すること。

これが生きていることだ。


この春卒業する、本大学の卒業生は、みずみずしく生きていた。

たくましいという表現ではなく、瑞々しく生きていて美しかった。

なぜか?

稚拙な表現に見えるが、「そこに愛があるから」。

まわりは精一杯コロナ一色だが、学生は愛にあふれて生きていた。

人生楽しんだものがち。




新しい未来を創る卒業生に乾杯。