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涼しさを我宿にしてねまる也

2018.03.21 03:06

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno22.htm 【奥の細道(尾花沢  元禄2年5月17日~27日)】より

 尾花沢にて清風*と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず*。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る*。

涼しさを我宿にしてねまる也(すずしさを わがやどにして ねまるなり) 

這出よかひやが下のひきの声(はいいでよ かいやがしたの ひきのこえ)

まゆはきを俤にして紅粉の花(まゆはきを おもかげにして べにのはな)

蚕飼する人は古代のすがた哉   曾良*(こがいする ひとはこだいの すがたかな)

5月17日に昼過ぎに山形県尾花沢市鈴木清風宅に着いて一泊。

5月18日は、小雨が降る。弘誓山養泉寺(写真)に移り、ここの風呂に昼間から入る。随分寛いだのであろう。

5月19日。朝は晴れるが夕方小雨に変わる。

5月20日。小雨。

5月21日。朝は、東水宅へ招かれ、夜は沼沢所左衛門宅に招待される。清風宅宿泊。

5月22日。俳人素英(村川伊左衛門)宅に招待される。

5月23日。夜、歌調(歌川仁左衛門)宅に招待される。清風宅に宿泊。

5月24日。大石田 一栄、高野平右衛門宅で歌仙。夜、一橋(田中藤十良)が寺でもてなしてくれる。

5月25日。時々小雨。昼、俳諧の予定洪水騒ぎで中止。夜、仁左衛門宅より、「庚申待」(庚申<かのえさる>の夜には朝まで夜遊びをする風習があった)に招待される。

5月26日。昼より遊川(沼沢所左衛門)宅に招かれる。小雨が降る。

5月27日。天気良好。朝9時尾花沢を出発して立石寺へ向かう。

弘誓山養泉寺(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月)

涼しさをわが宿にしてねまるなり

 清風宅での手厚いもてなしへの感謝の句。「ねまる」は山形方言で、自分の家にいるような気のおけない寛ぎ方をいう。羽前赤倉の山中を越えてほっとした気分もこめた句。

尾花沢養泉寺にある「涼しさをわが宿にしてねまるなり」の句碑(写真提供:牛久市森田武さん2002年8月) 

這ひ出よ飼屋が下の蟾の声

飼屋は養蚕小屋のこと。その蚕室の床下に大きなひき蛙がいる。これが野太い声で鳴いている。古来、ひき蛙の鳴く声は人を恋する情景描写に使われた。

水海道市亀岡報国寺境内の句碑(同上)

眉掃を俤にして紅粉の花

 尾花沢は紅花の特産地。紅の顔料は都に出て京紅となって女性の心を楽しませてくれる。この家の主人清風はその紅花の流通を生業としていた。

天童市下荻野旧山寺街道にある句碑(同上)

清風:鈴木道祐。尾花沢(この時代には「おばねざわ」と呼称していた)の豪商。紅花の流通業や貸し金業で財を成した。島田屋八右衛門とも称する。芭蕉とは旧知の間柄。しばしば江戸と出羽とを往復していて世間の事情に精通していた。芭蕉の評価の高かった門人の一人。 この時39歳。

富めるものなれども、志いやしからず:この文章からすると、「芭蕉は富める者はその志が卑しい」と考えていたようにおもわれる。『徒然草』18段参照。

日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る:<ひごろとどめて,ちょうどのいたわり,・・>と読む。芭蕉のこの旅の第一の目的地は、西行ゆかりの平泉であった。その目的を達し、くわえて清風のもてなしは下へも置かないものであったから、芭蕉主従にとっては実に幸福な気分でもあったのである。

蚕飼する人は古代のすがた哉:養蚕に励む農民の姿は実に質素簡素で、古代の農民の姿が偲ばれることだ。

全文翻訳

尾花沢では清風を訪ねた。清風は、金持ちだが、その心持ちの美しい男である。都にもしばしば行き、それゆえに旅の情をもよく心得ている。数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまにもてなしてくれた。

涼しさを我宿にしてねまる也

 這出よかひやが下のひきの声

 まゆはきを俤にして紅粉の花

蚕飼する人は古代のすがた哉  曾良


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200113-449922.php 【【尾花沢】<涼しさを我宿にしてねまる也><這出よかひやが下のひきの声>】より

江戸時代の町屋を90度向きを変えて修復した「芭蕉、清風歴史資料館」の館内。間口は8間、修復で短くなったという奥行きも十数間ある。真夏に来て、板の間で「ねまって」みたい=山形県尾花沢市

 松尾芭蕉と河合曽良が、出羽に入り3日目の1689(元禄2)年5月17日(陽暦7月3日)。二人は快晴の下、堺田(さかいだ)(山形県最上町)の「封人(ほうじん)の家」をたち、約30キロ南西の尾花沢(同県尾花沢市)へ向かった。

 尾花沢は羽州街道の宿場町。東の奥羽山脈と西の最上川とに挟まれた盆地にある。この町が芭蕉にとって出羽で最初の重要な目的地であり、ある人物との再会が大きな目的だった。

 その人が鈴木八右衛門。俳号が清風。紅花大尽と呼ばれる大商人で、出羽俳壇を代表する俳人だ。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の尾花沢のくだりは、この清風のことしか記されていない。意訳すると「彼は富裕な人だが、心根は卑しくない。都にもたびたび旅しているだけに、旅愁を理解し、何日も自分たちを引き留めて、長旅の労をねぎらおうと、あれこれともてなしてくれるのだった」。

 どれだけ清風にぞっこんなんだと思うほどだが、「ほそ道」によくある虚構ではないようだ。

 伝説残した清風

 曽良の「日記」によると、芭蕉らは尾花沢に5月27日まで10泊した。この間、清風や周辺地域の俳人らとの句会はもちろん、毎日のように俳人らの自宅に招かれたり、ごちそうを持参した彼らの訪問を受けた。この歓待ぶりは、相楽(さがら)等躬(とうきゅう)らと交流した須賀川(7泊)などを思い出させるが、等躬は清風ほど絶賛されてはいない。

 清風とは一体どんな人物なのか。みちのくの好々爺(こうこうや)を漠然と思い浮かべつつ、尾花沢市の「芭蕉、清風歴史資料館」を訪ねると、予想は覆された。

 同市中町で、羽州街道(旧国道13号)に面して立つ資料館は、約150年前の造り酒屋兼反物屋を修復した大きな建物。この西隣が、清風の屋敷跡だ。

 職員の加藤美香さん(41)に聞くと、清風は当時、芭蕉より七つ下の数え年39歳。最上川の舟運や北前船による物流網をバックに、染料の原料である紅花など特産品の仲買や金融業で財を築いた商家の3代目。俳諧も30代で句集を相次ぎ出す腕前で、若い頃から京都、大坂、江戸に出張しては、俳諧の仲間を広げた。芭蕉とも、江戸で歌仙を巻いた旧知の間柄だった。

 「清風伝説」というのもある。江戸の商人たちに紅花の不買運動に遭った清風は、紅花を焼却してしまう。すると紅花相場が急騰し、清風は、残る在庫を高値で売りさばき巨額の利益を得る。さらにその金で吉原を3日間借り切り、遊女たちを休ませた―という。

 この粋な人間性は、芭蕉たちへのおもてなしにも見える。芭蕉来訪時、尾花沢は養蚕の最盛期で、忙しい清風宅には3泊しかしていない。残る7泊は、近くの養泉寺を借りた。多くの客が出入りするのに広い寺はうってつけだったし、改修直後でぴかぴかだったらしい。

 蕉風確立向かう

 清風やこの土地の人間味に芭蕉の詩心も共鳴したようだ。「ほそ道」に尾花沢の句とし記された4句のうち、最初の芭蕉の句〈涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也〉は、涼しさを満喫し、わが家にいるようにくつろいでいる、の意。「ねまる」は座る、くつろぐを意味する土地の言葉だ。

 〈這出(はいいで)よかひやが下(した)のひきの声〉は、養蚕室の下からガマガエルの声がする。こっちに這い出てこいよ、の意。養蚕で家中が忙しい中、何もすることのない芭蕉が、カエルに話し相手になってくれと呼び掛ける姿が浮かぶ。

 その土地で聞いた飾らない言葉で、自身の穏やかな気持ちと、土地の空気感をそっと詠んだ表現は新鮮だ。文学的技巧を尽くした松島とは対照的に、暮らしを見つめたノンフィクションの魅力がある。後藤吉美館長(67)は「『ほそ道』は太平洋側では、俳文に力が入っていたが、出羽に入り作風も変化した。その顕著なのが尾花沢。芭蕉が自分の作風『蕉風』の確立へと向かう重要なポイントだったろう」と言う。

尾花沢

【 道標 】山越え、くつろぎの日々

 芭蕉が尾花沢で残した句〈涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也〉の「ねまる」は、鎌倉時代からある古い言葉です。尾花沢周辺では、あいさつなど日常的に、例えば「ねまらっしゃい(ゆっくり、くつろいでください)」といったように使われます。

 当資料館の来館者に聞くと、青森や秋田、北陸の特に年配の方は「ねまる」の意味をご存じのようです。

 芭蕉は、出羽で初めて泊まった堺(さかい)田(だ)の封人(ほうじん)の家で、「ねまる」と出合い、尾花沢の句会で早速使ったのだと思います。

 尾花沢と言えば、芭蕉の長逗留(ながとうりゅう)でも知られます。鈴木清風からのもてなしと、清風ら地域の俳人たちと句会をじっくり楽しむため、滞在が10泊にも及んだと考えられます。

 芭蕉は、すでに須賀川滞在中、江戸の高弟杉山杉風(さんぷう)に出した手紙で、尾花沢に清風を訪ねる予定を記しています。清風が尾花沢にいる時期の情報をどこからか得たのでしょう。尾花沢では初めから、時間をかけ歌仙を巻くつもりだったようです。曽良の「日記」にも素英、小三良など地元の俳人たちの名前が多く出てきます。

 大変な思いで山を越えたどり着いた尾花沢で、芭蕉は、ゆっくり、くつろいだ日々を過ごしたのです。(芭蕉、清風歴史資料館館長・後藤吉美さん)