社会の「キナ臭さ」
http://dokoheikouka.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-5b9d.html 【スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ】より
きのうのブログの続きを書こうと思っていたけど、ちょっと話題を変える。
今年11月に国分寺市で開催される「国分寺まつり」で、毎年ブースを出している護憲団体「国分寺9条の会」が今年の参加を拒否された、というニュースを知った。 (NHKニュース8月28日放送)(東京新聞8月29日)
やれやれ、である。日本は、こんな話ばっかりになっている。
素朴な疑問としては、「政治的な意味合いを持つ」ことがダメなら、うちの近所の駅前盆踊りでの国会議員による出店(飲み物)もダメだろうし、地元選出議員による挨拶だって問題になりかねない。
北海道大学教授の町村泰貴さんは、次のように指摘している。サイト「BLOGOS」(8月29日) より。
「地域のおまつりのような場で、憲法や政治に関する催しが行われ、市民が気軽に参加し、子どもたちも自然に政治的な問題に触れて多少なりとも身近な話題として興味をもつこと、それこそが成熟した民主主義社会の建設と維持に必要なことだ」
当然の指摘である。
こうした自粛は、神戸市が憲法記念日に予定していた講演会を承認しなかった件といい、日本中の至る所で起きているのだと思う。
最近では、さいたま市の公民館が「公民館便り」に一市民の作った俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の掲載を拒否する事件が起きている。
まさに「いやな感じ」の出来事ばかり。(6月28日のブログ)
俳人の金子兜太さんが、東京新聞(8月15日) でのいとうせいこうさんとの対談で、戦前起きた「俳句事件」について触れている。
「俳句弾圧は昭和十五年。日米開戦はその翌年の暮れ」
時代のキナ臭さというのは、まずは、こうした地域のお祭りや、文学、スポーツ、映画などの場から顔をのぞかせるんだと思う。きっと。
スポーツライターの藤島大さんの文章に次の一文を見つけた。東京新聞(8月5日)より。
「スポーツは炭坑のカナリアでありたい。先んじて異変を伝える。戦争の兆候は日常より、まず余暇の場に表れるからだ。かつて『富国』に奨励されたスポーツは、やがて『強兵』に組み込まれた」
この一文には、大きく肯首したい。
例えば、浦和レッズの横断幕問題も、社会の大きな流れの一端が表れたにすぎない。(3月14日のブログ)
また、この指摘は、スポーツには社会の価値観を変える力があるという考えと表裏一体のものなんだとも思う。(6月11日のブログ、7月3日のブログ、7月4日のブログなど)
異変はいきなり我々の前に現れない。例えば、土砂崩れの前には、見慣れない水漏れが地表から起きるように、我々は、まず地域のお祭りやスポーツ、俳句など日常生活での「水漏れ」に目を配る必要がある。
http://dokoheikouka.cocolog-nifty.com/blog/cat57676500/index.html 【自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう】より
最近の社会の「キナ臭さ」について。前回のブログ(8月30日)の続き。
さいたま市の俳句掲載拒否問題について、俳人の金子兜太さんは、埼玉新聞(8月17日) のインタビューで次のように語っている。
「どうしてこの句が問題なのか、ぜひ教えてほしい。結果として政治的な意味をお役人が持たせたのは、ご自身がご時世に過剰反応しただけ。作者としては当たり前の感銘を詠んだ句で、お役人に拡大解釈され、嫌な思いをしてお気の毒」
「こんな拡大解釈のようなことが、お役人だけでなく社会で行われるようになったら、『この句は政府に反対する句だから駄目』などと、一つ一つの句がつぶされる事態になりかねない。有名な俳人だけでなく、一般の人たちも萎縮して俳句を作らなくなる。俳句を作る人の日常を脅かすもので、スケールは小さいが根深い問題だ」
過剰反応、拡大解釈、忖度…、そして委縮。その結果、「俳句」が作られなくなる。
「国分寺まつり」で護憲団体「国分寺9条の会」が今年の参加を拒否されたことに対して、ドキュメンタリー映画監督の想田和弘さんは、ツイッター(8月30日)で次のようにつぶやいていた。
「刻々と、もの言えぬ社会になりつつある」
俳句だけの話でない。もの言えぬ社会がどんどん広がっていく。
どうやって広がっていくのか。それを考えさせてくれる言葉を並べてみる。
いとうせいこうさんは、東京新聞(8月15日)で次のように指摘する。
「自由を担いきれないので、自分から手放してしまう人たちがいると。手放した人たちにとっては、自由を求めて抵抗している人がうっとうしい。なので、その人たちを攻撃してしまう。そうすると、権力がやらなくても、自動的に自由を求める人たちの声がだんだん小さくなってしまう」
「下からの自粛と同時に、大きな権力に便乗するような欲望が動いて、結局はみんなで権力をつくっていく。特に自分たちが得もしないあろう人たちがそれをやって、他人の自由や良心を手放させていくことに快感を覚える時代になっちゃっている」
そうやって、息苦しい、キナ臭い空気が広がっていく。
コラムニストの小田嶋隆さん。TBSラジオ『たまむすび』(8月18日放送)で次のように語っている。
「実は言論弾圧と呼ばれていることは、何かを行った人間が警察に引っ張られていくとか、業界から干されるとかいう大げさなことではない。ちょっとある特定の話題に触れると、あとあとなんとなく面倒くさい、ちょっとうっとうしいとか、そういうビミョーなところで起きている。我々が面倒くさがって、スルーしていると、結果として言論弾圧が成功していることになる」
もの言えぬ社会は、足元から…、ということである。
社会学者の森真一さん。著書『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』より。
「ほんとうはしたくないとみんなが思っているのに、『空気』を壊したりできないから、したくないと声に出せない。そしてしたくない気持ちを隠しながら、したくないことをする。こういったことは、何も若者に限ったことではない。世代に関係なく、『無言社会』日本のあちこちで起きている」 (P38)
まさに、日常社会の些細なことで、みんな言いたいことが言えなくなっている。個々の人たちの言葉が失われていく。
さらに森真一さんの指摘。
「集団が嫌いだから、集団的に行動しないのであれば、話は簡単だ。しかし、日本人の場合、集団は嫌いだが、集団から離れて行動し生活するのは困難だと考えているので、いやいやながらも集団に同調し、集団としてまとまろうとする」
「すると、集団に同調しない者に対しては厳しくなる。自分は嫌でも集団に合わせている。それなのに、どうしてあいつは合わせないんだ。ひとりだけ楽しようたって、そうはさせないぞ、と考えるわけである。『出る杭は打たれる』わけである」 (P109)
まさに同調圧力の構造。強制と忖度を無理強いする社会が完成する。(「同調圧力」)
何度も紹介するが、歴史学者の加藤陽子さんの次に言葉につながってくる。毎日新聞夕刊(2013年8月22日)より。(2月13日のブログ)
「この国には、いったん転がり始めたら同調圧力が強まり、歯止めが利かなくなる傾向がある」
かつて、このパターンで大きな不幸を生んだ。それを繰り返さないためにも、2つ言葉を載せておきたい。
まずは、社会学者の宮台真司さん。毎日新聞夕刊(5月2日)より。
「『空気』つまりピア・プレッシャー(同輩集団からの圧力)自体はどの国にも見られます。むしろ大切なのはどれだけ空気に縛られずにあらがえるのか、また空気に流されて起こった悲劇を後世に伝承できるかです。その工夫がこの国には乏しい」
政治学者の宇野重規さん。読売新聞(7月27日)より。
「私たちは自分自身の歴史から切り離されている。戦後とは巨大な忘却の課程であり、いまこそ、私たちは自らの過去をふりかえらなければならない」