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神の詩 ①

2018.03.21 05:00

http://shindenforest.blog.jp/archives/84214208.html 【神の詩 第一章第一節 1】より

神の詩 第一章第一節 始めます。

ここから地球上最高峰の聖典の解説を始めていきます。

ここではすべてではなく、ある程度の解釈に留めます。その理由はあとから書きましょう。

それでも第一章のたった一節を簡単に解説するだけでも5日間かけます。

第一章は「バガヴァッド・ギーター」の中でも、とても重要な章になるからです。

ここを正しく読み取らなければあとの章を理解するのはとても難しくなります。

第一章一節

「聖地ダルマクシェートラ、クルクシェートラの地に、戦おうとして集結した、私の息子達とパーンドゥ王の息子達は何をしているのか、サンジャヤよ。(一)」

第一章の最初は、

盲目の王ドリタラーシュトラの言葉から始まります。

ドリタラーシュトラ王は目が見えないため、聖者ヴィヤーサは、王に戦争が見えるよう視力を与えようと申し出ました。

しかし、王は怖れからこの申し出を断ります。

「私は自分の家族たちが戦う姿を観たくない。でも戦いの様子は知らなければならない。」

と王は言いました。

そのため、聖者ヴィヤーサは、王の従者サンジャヤに千里眼能力と天耳通を与えて、戦場の出来事を王に伝えさせるように取り計らいました。

ドリタラーシュトラ王は、サンスクリット語のdhrta(強く支える)、rastra(王国、世界)、raj(規則)を合わせた名前であり、「感覚器官の世界に強く繋がっている」という意味になります。

欲望に負けて地上の感覚器官から離れられない人間の性質を意味しています。

この王が盲目であるというのは、心の目が盲目、つまり「無知」を象徴しています。

無知とは、神の意識を忘れてしまった人間です。

無知であるからこそ、自我が増幅し、物質欲が強まり、地上の出来事に執着してしまうのです。

聖者ヴィヤーサが、王に視力を与えるとの申し出を断りました。

これは無知な状態の人は、無知なままでいたいという低次の自己が持つ願望の現れです。

無知であれば、義務や責任を放棄して、欲望のままに生きることに甘んじていられるからです。

これは、輪廻転生から抜け出ることのできない人の性質を象徴しています。

冒頭でダルマ・クシェートラ、クル・クシェートラという二つのクシェートラが出てきます。

元は聖地であったダルマクシェートラ(正義の地)をクル族の中の悪しき人々が自分たちの欲望と無知により穢してしまい、クルクシェートラの地(悪のある地)に変えてしまいました。

つまり舞台は、戦いの場クルクシェートラであると同時に、神の正義と法の場ダルマクシェートラでもあるのです。

これは純真無垢で生まれてきた赤ちゃんが、成長する過程で自我と欲に芽生えてから、

さまざまな欲望や怒りや憎しみといった感情によって穢され、次第に神の摂理と反する行動をしていく様子、つまり人が無垢の状態で初めて地上に下りてきてから、輪廻転生を繰り返すうちに次第に自我によって穢れていった様子が象徴されています。

その一方で、良い心構えが悪しき心構えに勝れば、再び聖地に戻す(神聖で純粋な人となり、神と再び合一する)こともできることも意味しています。

「クシェートラ」ksetreとは、土地のことを示すと同時に、身体、意識、そして宇宙をも意味しています。

ここでは、身体として話を進めていきましょう。

「クル」kuruには、食べ物という意味があります。

これは口から食べるものだけでなく、呼吸やエネルギーなど、取り入れるものすべてを指す言葉です。

クル クシェートラの元の意味は、食べ物の土地、食べたものによって作られた身体という意味になります。

そのため、善きものを取り入れれば聖地になるし、悪しきものを取り入れれば穢れ地になります。

さらに「クル」には働きという意味もあります。

善き働きをすれば聖地(神聖な身体)となり、悪しき働きをすれば穢れ地(穢れた身体)となります。

ここではいまや悪のはびこる地になってしまっています。

それを再び、聖地ダルマ クシェートラへと戻し、最終的には、至高の境地であるブラフマ クシェートラに到達するための物語になっています。

「クシェートラ」

地と身体。

これはとても大切な霊的な意味を含んでいます。

さらにクシェートラは、意識も意味しています。

潜在意識の土台の上で、顕在意識の中の良心と邪悪な心がいつも戦ってきました。

顕在意識の中の戦いと、さらに真我と自我の戦いです。

つまりこの戦場は、物質的、精神的、霊的な三つの場での戦いが表現されています。

そこには、紀元前3138年(サイババ大師の霊視による年代)に起こったとされる実際の歴史上の戦争だけではなく、宇宙の善と悪の戦い、エネルギー界と物質界の葛藤、人の心の善と悪の戦い、神と悪魔、生と死、健康と病気、神への思いと物質界の誘惑、その他、あらゆる二極の戦いと葛藤が象徴されています。

そして今回はこれらすべての二極の決着をつける大きな戦いを始めようとしているのです。

一番大きな主題は、人が神との合一を目指して神聖な道を歩むことを選ぶか、堕落する道を選ぶかの自己の内部の戦いになります。

クシェートラは、物質世界、エネルギー世界、そして霊的世界を含む人の心の中の三世界に存在しています。

ここがバガヴァッド・ギーターを読み解いていくのに、肝心なポイントとなります。

第一章第一節の解説は今日から五日間ほど続きます。


http://shindenforest.blog.jp/archives/84214616.html 【神の詩 第一章第一節 2】より

神の詩 第一章第一節の続きです。

心の中の戦い

人は顕在意識の中で、常に心が揺れ動き小さな戦いを起こしています。

それをたくさんの人で表現すると、少数の目覚めた人と大多数の無明の人。

少数の神に向かう人と大多数の物質世界にハマった人たち。

それらの人々が意識の中で絶えず争っています。

怒りの感情が高まるような出来事が起こると、怒り消したい気持ちと怒り出したい気持ちが争います。

困っている人を見かけたら、助けたい気持ちと素通りして関わらない気持ちが争います。

お腹が空いた時には、好きなものを食べ放題食べたい気持ちと質素な食事で満足していたい気持ちが争います。

人にひどいことを言われたら、言い返したい気持ちとそっと静かに離れたい気持ちが争います。

聖典を読んでみたいけれど、物質世界の出来事の方に自分の興味を追い求めてしまうことはありませんか?

どちらが優先順位になるかで悟りの道を歩いているのかどうか 人生の本当の目的を忘れていないかどうかわかります。

外側からのいかなる出来事や刺激でも、意識の中ではいつでも二つの勢力が争いを続けてしまいます。

これら心の中の争いは、一つに統一されるまで続きます。

一つに統一されるには、二つの方法があります。

低次の自己に全面的に従って動物以下に落ちていくか、または高次の自己に昇華し神聖な人になっていくかの二方法です。

高次の自己に昇華していく方法はとても困難な道となりますが、それが私たちが地上に来た本当の目的です。

アルジュナの属するパーンダヴァ5人兄弟は、この戦いの前に、物質的誘惑の罠に嵌った結果、12年間もの期間を国外追放となり、森の中での生活を強いられました。

さらにその後1年間の謹慎処分が科せられました。

これは物質的な波動、欲望や世俗的な出来事の中で本当に大切なことに気が付いて世俗から離れて、さらに霊的準備に費やしたことを意味しています。

実はこの物質的な誘惑が人にとって囚われから抜けるチャンスなのです。

これはまたいずれ後述します。

この森の中での謹慎が食事も心身の働きも浄化する期間になります。

この12年とさらに1年間の5人兄弟の謹慎の意味は、瞑想でサマーディに入るまでの準備の修練を意味しています。

五人兄弟は、さまざまな面での象徴が含まれていますが、瞑想の心の修練からの面だけからみると、長男ユディティシラは、心の静謐、次男ビーマは、生命エネルギーのコントロール、三男アルジュナは、自己統制、無執着、四男ナクラは、神の法則の順守、

五男サハデーヴァは、悪しき性質に対抗する力の象徴となっています。

パンダヴァ五人兄弟は、このほかに瞑想の実践面では各チャクラの象徴にもなっており、

また瞑想のステージ面では各段階のサマーディの象徴でもあります。

これもまた後述していきます。