神の詩 ②
http://shindenforest.blog.jp/archives/84214621.html 【神の詩 第一章第一節 3】より
このバガヴァッド・ギーターは、聖典でありながら戦場が舞台となっています。
地上のすべての聖典の中でも、戦場が主体となっているものは他にはありません。
(附属的なヴェーダである「ダヌル・ヴェーダ」は戦いの方法が記されていますが、
これもやはり本質的には人の心の中の戦いが主体になっています。)
すべての聖典は、基本的には天啓が元になっていて、天から下りたメッセージをストレートに主体にしているためです。
バガヴァッド・ギーターでは、天界目線ではなく、地上の人々の目線で実践的に理解させることを意図して描いたからこそ、戦場になったのです。
戦場は人そのものの象徴であり、自分の心の中の善と悪の戦いという形で表現しています。
その心の中の戦いの影響は、社会での葛藤にも、世界での紛争や戦争にも、宇宙意識の中における各レベルのエネルギーにも投影されています。
そのため、ドリタラーシュトラの最初の問いかけは、過去形ではなく、現在進行形になっているのです。
登場人物は、すべて一人の人の内側のさまざまな性質を象徴しています。
それらの性質は、さまざまな名前のサンスクリット語の語源に示されていたり、登場人物の特徴やエピソードなどに暗喩されています。
宇宙を大宇宙としたら、個人は小宇宙となります。
古代インド哲学においては、大宇宙はブラフマン、小宇宙はビンダンダと称します。
この物語では、大宇宙と小宇宙を同時に示し、さらに物理的な様相とエネルギーの流れを同時に示しているために、そしてそれに関する暗喩的表現が多いために、実践しながら繰り返し読み込んで、段階的に理解していかないと、解釈は困難になります。
浅い読み方だけでは理解できないために、自分の解釈の中において矛盾が生じてしまうのです。
地上の人は、未知なものを怖れる傾向があります。
人の心には、善良な部分と悪しき部分の両方が存在しています。
そして善か悪かどちらかに動く場合、その対処法としては、戦いなのです。
なぜなら、地上の世界において、人々が行っている勝利を収める唯一の方法は戦うことだったからです。
人類の歴史は、戦いの歴史でもありました。
それゆえ人々の心には勝利を得るためには戦わなければならないという「思い込み」が定着しています。それは人と人だけのことではありません。
人は、動物にも、植物にも、微生物にも、海にも、山にも、戦いを挑んできました。
細菌が発見された時も、人類は戦いの相手をよく確認することなく、戦いに挑んでいきました。
結局は、数々の細菌の戦いに負け続けたあげく、細菌の持つ有用性がようやく再認識され始めました。
ウイルスも未知なものであるために、懲りることなく戦いを始めています。
でも細菌と同様に、ウイルスも大切な役割を担って存在していることがほんのわずかずつ証明されてきました。
この聖典では、人々に理解してもらうために、人々の「物事に勝利するには戦うこと」という思い込みの目線を利用して物語を展開していきました。
聖ヴィヤーサは、穏やかな優しい天からの言葉だけでは、人々が目覚めにくいことを見抜いていました。
聖典を勉強したり、師の教えを聴いたりしても、最初は神への熱意に燃えていても、将来ずっとその熱意が続くとは限りません。
人の心は、経験と時間によって大きく変化していくからです。
ところが、何か大きな転機がある時には、大きく霊的な方向性が定まりやすいのです。
人は、衝撃的な出来事をいつまでも記憶しておく性質があります。
例えば、小学校の遠足を大人になってから回顧した場合でも、何事もなくスムーズにいった時のことは覚えていなくても、何か大きなアクシデントがあったら、いつまでも覚えているものです。
さらに大きな出来事、大震災などの天災や戦争などの大きな人災ではいつまでも人々の記憶に残ります。
自然災害や戦争などの圧倒的なエネルギーは、物質的破壊力だけでなく、人の中に眠る魂を目覚めさせる力を持ちます。
シヴァ神は、三叉槍を持っています。その槍の三つの先端は、人間の三大苦の象徴です。シヴァ神は、その三大苦で人を突き刺して、目覚めさせ、天へと引き上げるのです。
人間の最も大きな苦は、戦争や大災害によって引き起こされます。
聖者ヴィヤーサは、その強い力を人々の霊性を目覚めさせて、その方向性を持続させることに利用したのです。
実際には、内なる勝利に戦いは必要ありません。
そのため、読者は途中で一見矛盾した状況に対して何度も戸惑うはずです。
それは、内側の世界と外側の世界では、法則の動き方が違うからです。
内側の世界では、天の法則に従って動きますが、外側の世界では天の法則のごく一部が
地上の修練に即した形に変形した地の法則に従って動いているからです。
例えば、天の法則では、人に何かを与えれば喜びは二人分、二倍になります。
地の法則では、人に何かを与えれば自分のものは半分に減ります。
執着があればそれが苦悩に変わります。
地上では、この天の法則と地の法則が同時に働いています。
そしてほとんどの人は、地の法則だけで生きてきたのです。
人は、最初に自らの内側の世界に入るときに、人は外側の世界のことしか知りません。
だから、内側の世界に慣れるまで、自ら感じ取って動けるようになるまで、外側の表現を使って新たな道を導いていく必要がありました。
物語が戦場になった真の意味は、「バガヴァッド・ギーター」を最後まで読み切り、日々の実践と瞑想・内観を通して理解できたときにはじめて、その意図が段階的に明確にわかっていく仕組みになっています。
http://shindenforest.blog.jp/archives/84214622.html【神の詩 第一章第一節 4】 より
人が動物と大きく違う点は二つあります。
一つは、すべてにおいて選択する自由を与えられていること。もう一つは、内側を見る眼を与えられていることです。この二つの能力を使って世界を変容させることが出来ます。
私たちは、外側の世界ばかりに意識をフォーカスしていますが、日々霊性を高める行為を行いさらに内側を見る眼を養わなければなりません。
このバガヴァッド・ギーターは、クリシュナとアルジュナの対話を、サンジャヤを通して盲目の王ドリタラーシュトラが聞く形式で進められています。
これは、最初に読み始める時には、読者は霊的に盲目のドリタラーシュトラ王であるかもしれません。
霊的に盲目とは、外側の世界ばかり見ていて、内側の世界には目を閉ざした状態です。
繰り返し読むうちに、少しずつ理解しながら霊性進化の道を歩み始めた時に、読者はアルジュナとなっていき、最終的にはクリシュナの立場を目指すようになります。
クリシュナの立場で読めるようになるのは、「バガヴァッド・ギーター」の魂に隠された大いなる秘密を開いた後になります。
最初のドリタラーシュトラの問いを思い返してみてください。
「聖地ダルマクシェートラ、クルクシェートラの地に、戦おうとして集結した、私の息子達とパーンドゥ王の息子達は何をしているのか、サンジャヤよ。」
これは、私たちが日常の生活で、夜寝る前に自分自身に問いかけるべき質問なのです。
「この聖なる地球で、物質主義にどっぷりと浸かった社会の中で、自分は今日一日何をしたのか?」
自分の中の善と悪、物質的な行いと霊的な行いがどうだったのか、一日を振り返ってよく内観してみるための問いになっています。
これは霊性を高めていく上で一番最初に行うべき最も大切なことになります。
この聖典全体を通して、サンジャヤは、一切の自分の主観や考えを入れることなく、起こった事実をありのままに伝えることによって、自分というフィルターを通すことなく物事を純粋に観ることの重要性を最初から最後まで一貫して教えています。
これが難しいのです。
人は、物事を見る時に自分の知識や経験、偏見などのフィルターをかけてしまうことが習慣になっています。
これを外して物事をありのままに観ることはとても大切です。
サンジャヤは、基本的にクリシュナやアルジュナに成りきったかのようにして、盲目の王に事実を正確にありのままに伝えていきます。それは禅では「見性成仏」という状態です。
「見」は、ただ出来事を対象的に見るのではなく、対象そのものと一体になり切ること。
「性」は、仏性を示しています。「成仏」とは、覚者になることをいいます。
つまり、覚者になるためには、出来事を無私の境地から見て、一体化することをいいます。
この聖典では、見性成仏の状態が全編に渡り行われています。
さらにサンジャヤは、盲目の王の傍らにいて事実をありのままに伝えている姿を通して、
私たち一人一人にも無明の状態であっても、いつでも傍らにはサポートしてくれる存在が、自分の外側にも内側にもいることを示してくれています。
ここまでの解説でもたった一言の王の問いかけの中に自分自身の本質が聖なるものであることその聖地が物質界に浸ってしまっていること自分が地上に下りた目的を曖昧にしてしまっていることしっかりと内観すること自分の心に二極性があること困難や苦は霊的な目覚めに必要なこと物事を一切の主観を入れずに、ありのままで観ることいつでも高次の存在のサポートがあること他聖ヴィヤーサが伝えたいことがたくさん凝縮されています。
それだけではなく、実はサンスクリット語ではもっと多くの智慧が埋蔵されているのです。
それらは文字に出来ないものも含まれます。
これがバガヴァッド・ギーターが地球上最高の書と呼ばれる所以でしょう。
私はこのように一行一行読んでいく方法を採用しています。
聖者ラヒリ・マハサヤ大師は、瞑想・内観によってしっかりと読むことを強調されています。
「神の国は、実はあなたがたのただ中にある。」ルカによる福音書17-21
「神を知る道は、あなたの内側にあります。」エドガー・ケイシー2281-1
「意志は、有限と無限、聖と俗、霊と肉を識別する能力を強めます。意志は、神との合一に向かうことも出来れば、自我に向けることも出来ます。人が、真理とどれだけ近づくことが出来るかを決めるのは、自分の意志です。」エドガー・ケイシー262-81
あと少し、第一章第一節の解釈が続きます。
第一章は、とても重要なので、途中で切り上げていかないとキリがないですね。
一節一節が重要な意味を持ちます。
ここを理解できるかどうかで残りの十七章が理解できるかどうかが決まります。