神々になった動物たち
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/anim4.htm 【第5章 神々になった動物たち】より
1 人間と動物の境界
神と人間と動物は、現代社会ではまったく別の存在と考えられている。しかし原始社会では、その境界線は必ずしも明確ではなかった。なぜなら神と人間と動物の生命原理は、いずれも等しく霊魂・精霊だったからである。
たとえばギリシア神話には、人頭獣身の怪物が数多く登場する。体はライオンで頭は人間のスフィンクス、体は魚で頭は女性のセイレン、それとは逆に体は人間で頭は牛のミノタウロスなどもいる。また古代エジプトの神のなかには、頭がジャッカルのアヌビス神、カバのタウレト神、ワニのセベク神などもいた。このように、人間の体に動物の一部を移植することで、ある種の聖なる力をもつ存在がつくり上げられた。ただし日本の民話に見られる河童は神・精霊ではなく、伝説上の単なる肉食の水陸両棲の動物にすぎない。
こうした現象は、ほとんど世界中で見ることができる。チリのアラウカン族では、不幸をまき散らすとされるピリャン神の弟子が、人間の頭とヘビの体をもっている。また古代メキシコでは、半伝説的な王の化身であるケツァルコアトル神が「羽根のあるヘビ」だとされていた。またハワイ島のカマプアア神は、手と足は人間で、体は豚の姿で表現される。さらにインド神話では、頭は猿で体は人間のハヌマット神や、頭は象で体は人間で4本の手をもったガネーシャ神が登場する。
聖書には、雄牛あるいはライオンの姿をした、メソポタミアが起源の聖霊ケルビム(=スフィンクス)ついての記述がある。ケルビムは後にキリスト教で天使に姿を変えるが、かつて動物であったことを物語るかのように、丸々とした頬の子どもの姿で描かれている。
神がこのような「奇形」で示されているのは、おそらく、人間が独特の能力や力を持つ神と一体化したいという願望を抱く一方で、そのことに不安も感じているからであろう。その矛盾した心情が神の姿を「奇形」にするのである。
一体化への願望は、動物の頭部をかたどった仮面をかぶったり、動物の皮を着たりして踊る風習にもあらわれている。アフリカではこのような風習が広く見られるが、こうすることによって動物のもつ魔力、たとえば百獣の王ライオンの聖なる力や雄牛の精力などを自分のものにできると考えられているのだろう。
2 カニバリズム
先史時代の原始社会に、人間が人間を食べるカニバリズム(cannibalism食人風習)が存在していたというフロイトの説は、研究者たちに激しい衝撃を与えた。彼の『トーテムとタブー』によると、原始遊牧社会において、息子が父親、すなわち生みの親を殺して食べる習慣があったという。
その目的は、対象の肉を摂取することにより、対象と同じ力や効果を得ようとすることであった。 もちろん現代社会においては、直接殺人を犯さずとも死体損壊などの罪に問われる異常な行為であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されないタブーである。
しかしカニバリズムの名残は、キリスト教の聖体拝領にも見られる。というのも聖体とは、「神の子」イエス・キリストの体であり、その血と肉を食べることによって信者はイエスと一体化して聖なるものとなると信じられているからである。
3 トーテムとタブー
狩猟採集で生活していた原始社会の人々にとって、自然すなわち動植物が提供する恵みは生きていく上で不可欠なものであった。取り分け動物にも、人間の場合と同じく、それらを生かす霊魂・精霊が宿ると信じられたため、人間生活に関係の深い特定の動物が聖なるものと定められた。この存在を「タブー」という。タブーはポリネシア語から派生した言葉で、聖なるものとして世俗的な事物から切り離され、守られた存在を意味している。
たとえばピレネー山脈におけるクマ、中国の四川省におけるパンダなと、原始宗教においてタブーとされた動物は、人々によって保護され、人々とともに安心して生きることができた。狩猟と採集で生活していた原始社会の人々にとって、神聖視する動物の種類を決めることはきわめて重要な問題だった。そのもっとも簡単な方法は、ある部族と特別な関係をもつ動物を「トーテム」と定めることである。「トーテム」という言葉はアメリカインディアンの言葉に由来する。トーテムとされた動物はその部族の先祖あるいは保護者であり、人々は手を触れることができない。しかしそれ以外の動物に対しては、殺すことも自由とされた。北海道の先住民アイヌ人も、幾つかの動物を自分たちの生活に深い関係を持つものとして神聖視している。
アメリカインディアンのトーテムに話を限定すると、それぞれの部族が定めたトーテムは、軍隊における連帯旗と同じく、帰属のシンボルを表わしている。
トーテムは、同じ部族の者を団結させ、他の者を除外する役割を果たしている。このような考え方をトーテミズムという。
このトーテミズムは、形を変えて現代でも生きている。自然の中で集団生活の規律や知識を青少年に習得させるボーイ・スカウトでは、一つのトーテムの下に一つの隊がつくられ、隊員は「ビーバー」や「リス」など動物の名前でよばれる。トーテミズムは今もなお、構成員の団結を深めるための制度または象徴として、大きな意味を持っている。
またトーテムは、自然から遠く離れた現在の人工的な社会の中で、トレードマークとしてもその役割を果たしている。自動車会社プジョーのライオン、石油会社エッソのトラ、服飾メーカーのラコステのワニなどは有名であろう。
4 崇拝されると同時に、呪われた存在でもある動物
しかし神聖視された動物があらゆる点で人間に有益であるとは言えない。たとえば数々の神話に登場するヘビは、人を噛めば危険な存在とみなされるが、害のある動物を噛めば有益な存在となる。またその毒は、使い方によっては薬にもなる。さらにヘビはギリシア神話の医神アスクレピオスの聖獣で、その姿をかたどった蛇杖は、衡生部隊のシンボルにもなっている。
ネズミもまた、崇められると同時に嫌われる存在である。ネズミはあらゆるところに入りんで病気をもたらす恐ろしい動物であると考えられている。しかし同時に好奇心が強く、未知なる世界へ飛びだして行くプラスのイメージも持っている。インド神話では、あらゆる障害を取り除くことのできる象の顔をしたガネーシャ神が、ネズミを乗り物として利用している。象は障害を押しのけ、ねずみはあらゆるところに忍び込む。だからガネーシャ神は、商人と泥棒の両方の守護神である。さらにギリシア神話の光と技芸の神アポロンも、はじめは病気を治すネズミの神だったという。そして現代の医学では、ネズミは実験動物として人間の命を救うために死ぬ運命を背負っている。このように人々は、あるときは動物を保護し、あるときは動物を有害なものとして遠ざける。それはおそらく人々が、動物に対して愛情と憎しみを同時に感じているからだろう。動物へのこのような両義的な態度は、あまりにも人間本位であるが・・・。しかし宗教の役割と存在理由は、人間の欲求の解決にあるから、宗教は、人間の矛盾した心理を反映することになる。
動物に対するこのような複雑な感情は、自然の生態系を守るために必要だろう。つまり絶滅の危機にある動物を保護し、増え過ぎた危険な動物を減らすには、アニミズム社会の動物観が参考になる。レッドデータブックに記載されている絶滅危惧種は、トーテミズムにおいて神聖視された動物と同じくらい貴重な動物と見なされるべきではないだろうか。絶滅の危機に瀕している動物は、神のように崇められる存在となり、その生存を守るためにつくられた保護区は、自然の中の新しい聖域とならなければならないと、私は考える。