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五月雨をあつめて早し最上川

2018.03.26 03:47

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno24.htm 【奥の細道(大石田・最上川 5月28日・29日)】 より

 最上川のらん*と、大石田*と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声の心をやはらげ*、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども*、みちしるべする人しなければと*、わりなき一巻*残しぬ。このたびの風流、 爰に至れり*。

 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさ*など云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし*。白糸の 滝は青葉の隙々*に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。 

五月雨をあつめて早し最上川(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)

 5月28日:馬を借りて天童に出る。ここで内蔵宅に立ち寄ってもてなされる。午後3時、大石田 高野一栄宅に到着。疲労のため句会を中止した。

 5月29日:夜になって小雨が降る。この日、「五月雨を集て涼し」の発句で始まる四吟歌仙を巻く。会を終えてから、一栄と川水を誘って曹洞宗黒滝山向川寺に参詣。一栄宅に2泊目。

 5月30日:朝のうち曇。8時ごろから晴れる。芭蕉は近くを散策の後、物書き。

 6月1日:大石田を出発。途中まで一栄と川水が送ってくる。舟形町を経由して新庄市に入る。新庄に一泊。新庄の「風流」宅に宿泊。「水の奥氷室尋ぬる柳哉」と詠んだ。

 6月2日:新庄に滞在。昼過ぎより盛信宅に招かれる。盛信は昨日の風流の本家筋に当る。ここで「風の香も南に近し最上川」を詠む。

 6月3日:太陽暦では7月19日。新庄を出発。天気快晴。川舟にて東田川郡立川町を経由して羽黒町へ。この川舟の上で「集めて早し」となったという。

五月雨を集めて早し最上川

 奥の細道全体を通して山形での作品に秀句が多いのはなぜだろう。これも最も人口に膾炙した句の一つである。山形では句会が多く催されたらしい。この作品は、5月29日夜大石田の船宿経営高野平左衛門 (一栄)方にて行われた句会の冒頭の発句「五月雨を集て涼し最上川」である。これはまた随分とやさしい句だが、「涼し」一語を「早し」と変えただけで、怒涛渦巻く最上川に変るから言葉の持つ威力はものすごい。

山形県北村山郡大石田西光寺の「五月雨を集て涼し最上川」の句碑(牛久市森田武さん撮影)

夏草に覆われて荒れ放題の山形県北村山郡黒滝山向川寺(同上)

白糸の瀧(同上)

最上川乗らんと:最上川の舟下りをしようとの意。

大石田:山形県北村山郡大石田町。当寺最上川舟下りの起点だった。

芦角一声の心をやはらげ:<ろかくいっせいの・・>と読む。「蘆角」は、辺鄙な田舎という程度の意味、ゆえに、鄙びた俳諧だが人々を慰めることができるの意。

この道にさぐり足して、新古二道に踏み迷ふといへども:<このみちにさぐりあしして、しんこにどうに・・>と読む。情報の乏しい鄙にいると、俳諧道に入ってみても、いま起こっている新しい動きが分からず、伝統俳諧への批判を理解できないまま、古今の俳諧の道に迷ってしまう、の意。

「爰に古き俳諧の種こぼれて・・・みちしるべする人しなければと」:この引用全体は、「…」といって依頼されたの意。

わりなき一巻:俳諧の指導 のため仕方なく俳諧一巻を巻いて与えた。芭蕉にとってこれは、一栄や川水を指導するための「俳諧実習」だったのである。

このたびの風流、ここに至れり。:この旅の俳諧の成果は、このような形 でも実現したのである。草深き東北の地に自分の俳諧理念が伝授された喜びを表す。

いな船といふならし:「最上川上れば下るいな舟のいなにはあらずこの月ばかり」(『新古今和歌集』東歌)から引用。「いな船」は「稲船」で稲を運ぶ舟の意だが、この歌の方の「いな」は「否」の意で、男が女に言い寄ったところ、セックスを拒否するわけではないが、いまちょうど「月」のもの(月経)ゆえに「否」だと断られた、の意。奔放な東歌である。

隙々:<ひまひま>と読む。隙間のこと。

碁点・隼:<ごてん・はやぶさ>と読む。最上川舟下りの難所。川中に碁石のように暗礁が点在するところからこう言ったという。

全文翻訳

最上川を舟で下ろうと大石田というところで日和を待った。

 「こごには古ぐっから俳諧が伝えられでて、いまも俳諧隆盛の昔を慕っで、文字通り『芦角一声』の、田舎の風流でよ、みんなはこいづによって、心ば和ませでいんのよ。今日まで、この俳諧の道を手探りすながら歩んで来たけんど、新旧二づの道のどっつば歩んだらいいんだべが、教えてける先達もいねぇがら」と言うので、やむなく俳諧一巻を巻いた。この度の風流はこういうところにまで至ったのである。

最上川は、同国米沢を源流とし、山形を上流とする川である。碁点や隼などという恐ろしい難所のある川だ。「みちのくにちかきいではの板じきの山に年へて住ぞわびしき」の歌枕で有名な板敷山の北を流れて、最後は酒田の海に入る。川の左右が山に覆われているので、まるで茂みの中を舟下りするようなことになる。この舟に稲を積んだのを稲舟といい、「もがみ川のぼればくだるいな舟のいなにはあらず此月ばかり」と詠われたりしている。白糸の滝は青葉の木々の間に落ち、源義経の下臣常陸坊海尊をまつる仙人堂は河岸に隣接して立っている。水を満々とたたえて舟は危うい。

 五月雨をあつめて早し最上川


https://www.minyu-net.com/serial/hosomichi/FM20200127-454037.php 【【大石田~最上川】<五月雨をあつめて早し最上川> 破調に見つけた実り】より

 旅には、きっちりとした計画的な旅と、行き当たりばったりの旅がある。松尾芭蕉の場合は、用意周到に準備した上で旅立ったと、佐藤勝明和洋女子大教授が話していた。確かに芭蕉は、須賀川の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)や尾花沢の鈴木清風ら、長逗留(とうりゅう)した俳諧仲間の元へは、相手の在所を確かめ、手紙を出した上で訪れたようだ。

 ただ、あまりスケジュール順守の予定調和な旅でも、面白みに欠ける―と、芭蕉は考えたのかもしれない。出羽の国(山形、秋田両県)に入り、大胆に寄り道をした。それが山寺(立石寺(りっしゃくじ))行きだった。そして傑作〈閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声〉が生まれた。ここまでが前回である。

 全句の真蹟残す

 さて、山寺の静寂に身を浸し名句を詠んだ芭蕉と河合曽良は、麓の宿坊で1泊すると翌日、再び来た道を引き返した。1689(元禄2)年5月28日(陽暦7月14日)のことだ。

 ただ尾花沢には戻らず、その南西約4キロにある大石田(山形県大石田町、以下山形県)で、船問屋の主人、高野平右衛門の屋敷でわらじを脱いだ。目的は最上川を下る船に乗るためだったようだ。

 大石田は、酒田(酒田市)とを結ぶ舟運の起点だった。この地で、芭蕉と曽良は6月1日まで3泊した。当然、空模様をにらみ、乗り込む船の出発を待っていたのだろうし、国境(くにざかい)を越えるため必要な通行手形を取得する手続きもあったようだ。ただ、そこは俳聖、やることはしっかりやっていた。

 投宿した家の主人、高野平右衛門は、俳号を「一栄」という、清風の俳諧仲間だった。芭蕉たちが到着すると、早速、同地の大庄屋である高桑加助(俳号・川水)もやって来た。この二人、芭蕉とはすでに尾花沢で会い、歌仙を巻いて(俳諧を楽しんで)いたようだ。そして到着翌日から当然のごとく俳諧の興行が始まった。

 曽良の「日記」「俳諧書留」などによると、芭蕉と曽良、一栄、川水による四吟歌仙は5月29、30の両日にわたり行われ、この時生まれたのが、世に知られる「さみだれ歌仙」である。

 五月雨を集て涼し最上川  翁

 岸にほたるをつなぐ舟杭 一栄

 瓜畠いざよふ空に影待て ソラ

 里をむかひに桑の細道  川水

 (「俳諧書留」より)

 この4句から始まる歌仙の出来上がる状況が「ほそ道」の大石田のくだりでは語られている。「この地にも古くから俳諧が伝わり、楽しんでいるとのこと。されど指導者もなく、新しい俳諧の詠み方を心得ずにいるので、ぜひ手ほどきをお願いしたいという。むげに断るのもどうかと思い、最初はしぶしぶ歌仙を巻き始めたところ、実に楽しい一座となった」(佐藤勝明著「松尾芭蕉と奥の細道」より)

 そして俳聖は「このたびの風流爰(ここ)に至れり」と、大石田のくだりを結んだ。「このたびの風流」とは、〈風流の初(はじめ)やおくの田植うた〉と芭蕉が詠んだ須賀川から始まった「みちのくの風流」(陸奥、出羽での感興、あるいは芭蕉の「みちのくの風流」探求の旅そのものだろうか)を指すと解釈されている。つまり、その「風流」が大石田で極まった観がある―と、締めくくったのである。

 これをどうとらえるかは諸説ありそうだが、芭蕉が、この地での体験に意味を見いだしたのは確かだろう。大石田歴史民俗資料館の大谷俊継学芸員(36)は、確証の一つとして、芭蕉の真蹟(しんせき)(直筆)が同地に残されていることを挙げる。芭蕉は、一栄邸で「さみだれ歌仙」全36句に「芭蕉庵桃青 書/元禄二年仲夏末」と署名した書を残した。歌仙全句を書いた真蹟はまれだという。

 乗船せず新庄へ

 この後、芭蕉たちは大石田で船に乗らなかった。再び陸路で北上し新庄に着くと、同地の富商、渋谷甚兵衛(俳号・風流)邸で歌仙を巻いている。予定変更の理由は、さまざまに推測されるが、大石田で興が乗った芭蕉が、もっと地元の俳人と俳諧を楽しみたい―と気が変わったのではと思える。

 大谷学芸員は「芭蕉の旅の目的の一つに、自分の流派『蕉風』の普及があった。ただ、尾花沢の鈴木清風は、自身の流派を確立した人。一方、一栄、風流たちは言わば田舎流。芭蕉は、自分が道標として彼らを指導しなければと考えたのでは」と言う。

 さらにうがってみれば、こんなふうに思える。この時期、俳壇全体が新しい表現を求める転換期にあった。そんな中、芭蕉が、新しい表現「蕉風」の確立と普及に、手応えを感じたのが大石田での反応だったのでは。

 もう一つ。大石田や新庄での歌仙が、予定外の結果だったとすれば、芭蕉は予定調和ではなく、破調の中で成果を得たことになる。芭蕉は、山寺を含む山形の場面を、ドラマの構造「序破急」の中の「破」のパートに位置付けたのではないか。

 さて新庄をたった後、芭蕉たちは本合海(もとあいかい)(新庄市)の船着き場で、最上川を下る船に乗った。梅雨の時期、増水した流れが急だったことは芭蕉の句で、ありありと分かる。

 〈五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川〉

 「さみだれ歌仙」の発句の「涼し」が「早し」に改められた。このシャープさ、確かに新しいのだ。