Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

『ワンネスには2種類ある。注意されたし。』パート2

2023.03.24 02:51

https://ameblo.jp/tomel31/entry-12082786884.html 【『ワンネスには2種類ある。注意されたし。』パート2】 より

お待たせしました。1ヶ月ぶりの更新です。このところブログが約1ヶ月毎の更新となっています。本当はエッセイ風にその都度気づいたことをどんどん書いて行きたいんだけど、なにやらいつの間にか大作志向になってしまって・・・。読む側も読みづらく、書く側も書きづらくなってますのにね(汗)。 これではまるで往年の「プログレの法則~二枚組より三枚組、長ければ長いほどエライ~」になってマス(←これが分かる年代の方が読者に多い事を期待!) 大作志向は今回で一区切りにしたいなという希望をかすかに抱きつつ、お待ちかね前回の続きに突入して行きたいと思います!

今月のお題は・・・

『ワンネスには2種類ある、注意されたし。』パート2

いつも「前回の復習」と言いながら前置きの方に重心がかかりすぎ、肝心の言いたいことはフライング気味で、後は次回に続くという尻つぼみな感じになっているようです。今回はそういう状況を回避すべく、いきなり主題に切り込んで行きたいと思います。不明な点があれば前回のブログを復習しつつお読みください。

ということで、何時ものようにドライブ感を優先させるべく、文体をチェンジして行かせてもらいます。でははりきってスタート!

■Ⅰ.前回の論旨

①ワンネスにご用心

ここで自身の「ワンネス」体験を振り返りつつ、その体験も結局は「元に戻る」という事実と、そこを開き直って「盲人が盲人を導こう」としてしまう昨今のスピ的状況、さらにその結果としていまスピ界隈で流行りつつある「ワンネス」は「虚無の力に飲み込まれる」危険性があるといきなり警鐘を鳴らした。

②ワンネスには2種類ある

「ワンネス」の危険性を説明する為に「ワンネスには2種類ある」とヌーソロジーの文脈からの解説を試みた。それは「等化」と「中和」の違いであると。そこでヌーソロジーにおける論理発展法則「ペンターブシステム」を紹介した。「弁証法」との違いも明示した。

③メビウスに見る二つのワンネス

「メビウスの帯」をアナロジーとして、「等化」と「中和」の構造の違いを説明した。

ねじれによる「表裏消失」こそがメビウスの奥義であるとして、

 ・「等化」側のワンネスが「表裏消失」(ねじれが見えている側)

 ・「中和」側のワンネスが「表裏一体」(ねじれが見えていない側)

ということを提示した。「表裏消失」と「表裏一体」は、「4サイクル」と「2サイクル」の違いでもあるという今後の為の伏線も敷いておいた。ちなみに「4サイクル」は変換人型ゲシュタルト、「2サイクル」は人間型ゲシュタルトである。

④「中和」のワンネスは危ない?

最後に「中和のワンネスは危ない」と問題定義をした。

冒頭で「虚無に飲み込まれる」と指摘したのはこの「中和のワンネス」のことであると。

しかし問題定義をしただけで、その理由までは充分説明できなかった。

さらに、

・「等化のワンネス」=「表裏消失」・「四次元対称性の獲得」

・「中和のワンネス」=「表裏一体」・「四次元対称性を垣間見た(知っている)状態」

と明確に区別してみた。

「中和のワンネス」の危うさとは、「盲人が盲人を導く」ということに尽きる。

この事は本人もよく知っている筈である・・・目が開いたのは過去であり、いまは普通の人だということを。なるほど「目が開いた」という体験自体は覚醒を望む人々にとって価値があるのは事実で、実際にその体験談を聞いたり読んだりすることは大変意義深いと思う。誰かに有料先生などと揶揄される筋合いは全くない。堂々とやればいい。また一度開いたのなら、確かにその雰囲気や香りを示すこともできるだろう。何度も自身の感覚を振り返り、時に反復・再現させながら、ざっくりとした方向性は示せると思う。後はそれを受け取る側次第だとも・・・。

だけど・・・である。本日明らかにしたいのは、「中和のワンネス」と「等化のワンネス」では方向性がまるっきり逆なんだという、驚天動地な内容なのである。それを明確に示したいと思っている。

前回のブログの最後に、今回の予告として以下のように書いておいた。

・等化側「表裏消失」は「差異(違い)が前提となったワンネス」であり、

・中和側「表裏一体」とは「同一性(同じ)が前提となったワンネス」である

等化側は「違い」を追求していく。中和側は「同じ」を追求していく。ここが運命の分かれ道であり、同じ「ワンネス」と言っても全く逆方向であるという提言-----。

ここの解説が本日の主たる目標だ。果たしてうまくいくかどうか。私自身もここからの展開を楽しみにしている。さっそく主題の中に飛び込んでみよう。

よし、まずは宇宙の起源から行ってみよう。その方がきっと分かりやすい。

■Ⅱ.宇宙の起源は「同じ」か「違う」か?

宇宙は「同じ」からスタートしたのか。「違う」からスタートしたのか。宇宙の起源について私はいつも思索している。それこそ暇があればずっとだ。抽象思考を追求すると自然とそうなるし、そこを押さえれば全てを俯瞰して見ることができる。そうして日常生活の煩いから逃れることを、さらには自分自身から超越することまでを目論んでいるというワケだが---。

さて、究極の究極、始原の始原、それは「同じ」つまり「ONE」なのか。それとも「違い」「NOT ONE」なのか。ヌーソロジーに出会う以前の私、しかも10代よりクリスチャン世界の洗礼を受けて来た私にとって、宇宙の根源はずっと「ONE」だった。"Going for the ONE" ---言うまでもなくONEとはサムシンググレートでありGOD(神)である。それが人格神かどうかは別として、とにかく宇宙にはある一義的な原理が根源にあるという確信、信仰というか・・・悲願というか希望というか。そういう信念があって、ずっとそれを引きずってきたし、それが当然だと思ってきた。

始原は「ONE」であると。これはもう当たり前だと盲信していた。宗教だけでなく、科学でさえも、ビッグバン仮説による「ONE」を提示している。とにかく「ONE」に疑問を持つことはなかった。

ところが・・・である。「ONE」とは果たして何かを産み出す要因たり得るのだろうか。「ONE」から動きが生じるのだろうか。「ONE」においては全てのバランスがとれている。完全なる対称性が維持されている状態である。その超バランス状態から何が起きるというのか。

結論から言うと、宇宙の出発は「対称性の破れ」からである。バランスからは何も生じない。これは科学において言われていることだ。超バランス状態では物質と反物質が平衡していて打ち消し合い、何も生じないと。だがそこにわずか10億分の1の「対称性の破れ」によって、今日の物質宇宙が誕生したと(現在の宇宙は反物質よりも物質が圧倒的に多いために存在しているということ)。科学ではその理由を「10億分の1」という確率、言わば「偶然」ということで片付けてしまうのだが、ともかく最先端の科学において宇宙はバランスの崩れから出発したということを説明している。

考えてみれば当たり前である。超バランス状態からは何も生じようがないし、動くことさえできない筈だ。生み出されるのは、そして動きが生じるのは、その根底に「対称性の破れ」、アンバランスがあるからである。その意味でアンバランスこそが原動力だと言える。

もちろんアンバランスが原動力たり得るのは、元に戻そうという力、つまりその背後にバランスがあるということなのだが。そこでアンバランスが始原なのか、それともバランスが始原なのか?と考えてみる。これは「鶏が先か卵が先か」の議論に似ている。

対称性の破れ

■Ⅲ.バランスが先か、アンバランスが先か。

科学では10億分の1の確率によって生じた「対称性の破れ」が宇宙の起源になったと説明している。素粒子が3世代(アップダウン・チャームストレンジ・トップボトム)というのも3世代以上でなければ「対称性の破れ」が説明できないことからの要請だった。1973年にこの理論を提唱した小林・益川両氏は、後に彼らの理論通りに素粒子が3世代まで発見された結果、ノーベル賞を受賞している(2008年)。だがこれは状況を説明しているだけで何も根源に対する解明にはなっていないと思う。超バランス状態から対称性が破れたメカニズムを説明しているだけで、つまり「HOW」という疑問には答えているものの、「WHY」という疑問に答えてはいない。ここが科学と哲学との役割の違いである。哲学は「WHY」という疑問に直接挑んでいく。

バランスからは何も生じないし、動くこともできない筈だ。生み出すのはアンバランス、つまり「対称性の破れ」から。ここまでは科学的にも哲学的にも共通である。その意味ではアンバランスこそが始原たり得る。しかしそのアンバランスはバランスが根底にあってこそのアンバランスなのであり・・・となるとバランスこそが始原だと言えるのであって・・・。科学では10億分の1の確率でバランスからアンバランスが生まれたとする。だけど哲学的にはこれはおかしいと。偶然とか確率なんて理由にならない・・・ここで思考停止。ん、一体どこで間違ったんだろう?・・・まさしく「鶏が先か卵が先か」の様相である。

パラドックスの原因は「バランスからは何も生じず、全ての出発はアンバランス(対称性の破れ)から」ということと「アンバランスはバランスに由来する」ということの矛盾である。根源の問題を考える時によく出てくるパラドックス、矛盾。人間の理性としてはこの矛盾を排除したい。矛盾を認めることができないのが人間の性分である。だがその矛盾をすんなり消化してしまう新しい思考がある。それが「変換人型ゲシュタルト」である。これから意識進化していく人間が持つ思考形態だ。

前回出した「メビウスの帯」のアナロジーはここでも活躍する。矛盾はメビウスがぺろりと飲み込んでしまう。なにしろメビウスとはそもそも「表=裏という矛盾」が創りだしているのだから。「ねじれ」という名の矛盾が、である。

さて「メビウスの帯」の奥義とは「表裏消失」であると前回説いた。メビウスにおいては表が裏となり、いつの間にか裏が表になる。ということは表と裏の向き付けが実質無効になっており、これは「無」を体現していると言える。「ねじれ」が「無」を創りだしているのだ。

この「無」は「虚無」とは明確に区別される。何もない空っぽという「虚無」ではない。表も裏も生々しく躍動している「無」なのである。それを「万有の無」と言う。

藪に入り込まないよう結論を先に。この「万有の無」としてのメビウスが先にあったのだ。表=裏、裏=表という矛盾をそのまま孕み、「表裏消失」という究極の「万有の無」を体現しているメビウス。この状態が始原の「超バランス」状態。この「万有の無」は「ねじれ」と共にあった。その「ねじれ」は決して交わることのない二つの領域によって創りだされている。それは「ねじれのこちら側」と「ねじれの向こう側」・・・と言葉だけでは説明が難しい。そこで、ちょうどこのことを現した有名な図像がある。

そう、道教(易経)における太極図である。

等化のワンネス

■Ⅳ.陰陽太極図登場

大きな黒と白の向かい合う勾玉のような形、そしてそれぞれの勾玉の中には、黒の中の白、白の中の黒と小さな円があり、全部で4つの領域がある。いろんな解釈があるだろうが、ヌーソロジー的にはこの図は四値論理(4サイクルエンジン)、つまりメビウスを表していると考える。

この4つの領域を陰陽太極図というのだが、易経ではこの前段階を「無極」という。無極から太極(4つの領域)が生じたと。これもメビウスの表裏消失状態を無極と考えれば分かりやすい。つまり「無極」とは「万有の無」のことだ。

向かいあう勾玉の真ん中が「ねじれ」を表している。真ん中の「ねじれ」を境に白黒という陰陽の組が二組ある。その二組は白と黒が反転している。ここがミソだ。反転した二つの領域があるのだが、反転した領域は共存できない、というか同じ場所にはない。その意味でこの二つの領域には根本的な違いがある。絶対的な違いと言っていい。もう交わりようのない違い。それが「反転した二つの領域」という意味である。先ほどこのことを「ねじれのこちら側」と「ねじれの向こう側」と呼んだのである。そしてこの違いが太極図の超バランスを創りだしている。白=黒、黒=白という四値の関係性を創りだし、その結果として「無極」となっているのである。つまり「万有の無」だ。

「万有の無」を創りだしているのは「ねじれ」であり、「違い」だったのだ。これが「差異(違い)が前提となったワンネス」、つまり「等化のワンネス」の様相である。半田さんがいつも「差異と等化は同じもの」と言われるのはこの文脈で理解すればいい。

さて「ねじれ」を境にして分かれる二つの反転した領域を片側ずつ見てみると、それぞれの勾玉は白と黒という陰陽に分かれている。だが図で分かるようにその白と黒はバランスが取れていない。大きさも形もアンバランスであることは一目瞭然。これが「対称性の破れ」の正体である。宇宙の始原としての「対称性の破れ」。そして実際の宇宙はここから出発した。つまり宇宙はお互い反転した領域に双子で出現せざるを得ないのである。これがヌーソロジーから見た見解だ。自分教では「双対性宇宙論」と呼んでいる。

始原の「無極」を創りだしているお互いに反転した二つの領域とは、言うまでも無く「自己と他者」のことである。自己と他者という双子の精神、これを「双子の神」と半田さんは呼んでいる。「神は必ずツインである」とも。ちなみにオコツトの言う「神」は全てのバランスの中心という意味で「重心」のことであり、これは「無極」と同じ意味である。そこに人格はない。無極から見れば宇宙はずっと何の変化もしてない筈である。ずっとバランスが取れていて、在るのか無いのかさえ認識しえない位置。だからそんな位置に人格がある筈がない。人格はお互いにバランスを崩した「双子の精神」からスタートするのである。だから「神はツイン」なのだ。そして進化のドラマもここからスタートした。

進化は「双子の精神」がお互いに役割を交替しながら、ちょうど二本の足で一歩一歩踏み進むように発展してきた。前回他者側が歩んだ道のりが、今回自己側の青写真となる。その意味では自己側が人間(体験)をやっている間、他者側は神(創造)である。人間は青写真にそって成長発展するが、そこで様々なバリエーションの「調整」を加えていく(これが人生の目的・調整期)。それがまた次の新たなる青写真となって、次回はそれを元に他者側が人間(体験)をやっていく。その時は自己側が神(創造)となるのである。また、宇宙は人間からみたら創造論(原因=結果)であり、神からみたら進化論(原因<結果)となっている。これからの私たちは人間から神へと歩みを進めることになる。創造論(原因=結果、バランス)の世界から進化論(原因<結果、アンバランス)の世界へと踏み進むのだ。

さてバランスが先か、アンバランスが先か。メビウスでもある太極図から見て大体のイメージを伝えた。メビウスから見れば矛盾する二つの立場が相反しながらも統合されていくことが理解できたと思う。そしてこの相反する状況がそのまま統合されていることこそ「等化のワンネス」である。「等化のワンネス」の根源は「違い」である。自己と他者というねじれた関係、絶対に交わりようのない差異が原動力となってこの宇宙を創りだしているのである。だから「等化のワンネス」の立場から言えば「アンバランスが先」なのである。「ねじれ」であり「違い」が重要なのだ。

それに対して「バランスが先」という立場が「中和のワンネス」、つまりねじれが見えていない「表裏一体のワンネス」。宇宙の究極を「表裏一体」というバランスとして見るということは、宇宙の始原を「ONE」とか「空」であると捉えることであり、その結果「同じ」ということを追求していくことになる。「みんな一つになろう」と呼びかける立場。「神の元に一つ」だとか「一切は空」「もともと一つだから」ということ。

だんだん胡散臭い感じがして来るでしょう。実際にこれらのフレーズは胡散臭いと思う。そして必ずや「虚無」をもたらすと。そのことを少し丁寧に説明して行こう。

■Ⅴ.中和のワンネス

「中和のワンネス」とは「ねじれが見えていない」のだから、上の太極図でいうと向かい合う勾玉の片側ということになる。片側だけを全宇宙として見ている状態。そして片側の白と黒、この陰陽二相を対としてバランスが取れていると見ている状態である。図示すれば以下のようになる。

中和のワンネス

これが「中和のワンネス」だ。向かい合う白と黒の領域。これをして表裏一体、陰陽二相一対であると。なるほど陰と陽は一つの円の両側面という訳である。全体である円を見つめていれば陰と陽という違いは統合されると。この円を「ONE」であるとか「空」であるとか捉える。この状況を俯瞰した体験に対して「見性体験」とか「悟り」「覚醒」とか呼ばれている。そしてこの円だけを見つめて白と黒の部分の違いを完全に無視するのが「ノンデュアリティ(非二元)」と言われる、最近流行りつつある「態度」らしい。

随分と悪意のある言い方ですね、と思うかも知れない。だから結論から言う。このワンネスは「錯覚」である。もしくは「思考上」だけに存在するものであると。ここは丁寧に説明して行こう。

まず陰と陽の二相という点。この二つは本当に対称性があるのだろうか。バランスが取れているのだろうか。私はこのような疑問をもう何十年も前から持っていた。学生の頃、とあるキリスト教系の新興宗教が自慢の神学大系を私に示してきたが、そこでは神は宇宙の始原であり、陰性と陽性が一体となった存在であると説明されていた。まさに上図「中和のワンネス」の解説である。これを聞いた私の頭の中は「???」となった。いま思えば当時から私は感覚的に「対称性の破れ」について思考していたのだと思う。その陰と陽の出自が分からない。もし陰と陽に対称性があるのなら、この図は究極のバランスである無を意味しているのであり、その無から何か生じるとは思えない。では対称性が破れているとしたら、そもそもその出自がなんだ?理由がなんだ?と違和感を感じるのである。第一原因とされる神の、そのまた原因とは何か?と問うてるようなもので、当然神学においてはそれ以上の説明はない。それ以上問えば「神に対する不信仰」で片付けられてしまう。一体「陰と陽って何だ?」私の疑問に答える人は誰一人いなかった。結局宗教とは不明のものを「神」の名において受け入れることなのだと知った。結局、それは私の性には合わなかった。

陰と陽だけでない。+と-、男と女・・・自然界におけるペアシステムとしてよく出される事例だが、私にとってはそこにも対称性があるとは思えなかった。ペアであることは分かる。しかし対称性があるように思えないのである。

分かりにくいかな。もう少し丁寧に説明する。陰と陽に対称性を認めてしまうということはどういうことか。それは陰を陽と呼んでいいし、陽を陰と呼んでもよい、ということである。男と女もそうである。女を男と呼んでもいいし、男を女と呼んでもいいということ。これが対称性である。悟りの説明としてよく使われる言葉でもある。これが分かるとある種の解放を感じる。今までのこだわりが落ちたかのようだ。これは「価値観の相対化」である。だがこれが意味することはなんだ?

「価値観の相対化」は「価値観の無効化」でもある。価値観とは善し悪しのジャッジである。そして善し悪しとは究極的には人間の快・不快という感情に結びついている。その無効化・・・そうやって得た「ONE」とか「空」は人間に何をもたらすのだろうか。価値観の相対化による知的な喜びはある。しかし・・・この場合、その行き着く先はニヒリズム、つまり虚無となるのではないかと?「一切は空」という悟りがいつの間にか「空しさ」という虚無に向かう。安易なワンネスはそういう危険性を孕んでいると言いたい。

これとは逆にキリスト教系では「価値観の相対化」ではなく、「価値観の絶対化」を強いてくる。「神という絶対者」によって全ての迷いをふっきる大胆な戦略か。その「絶対者」がもたらす「絶対の価値観」。この恐ろしさは自身をその価値観に隷属させるだけではない。もっとも問題なのは他者をもこの価値観の元に併合しようとすることである。その結果、内外に絶えず不和・争いをもたらすことになる。これも「中和のワンネス」の特徴だ。「あなたも同じになれ!」と迫ってくる。

さてさてこの説明の仕方だけでは私の持つ「違和感」を説明するのは今ひとつ難しいかなと。そんなところへヌーソロジーはこの「違和感」を見事に解消してくれた。私の持つ「違和感」の正体とは・・・一言で言うとそれは「観察者の不在」であったのである。

全ての議論が「観察者不在」で進められているのである。あの神学もあの哲学もあの科学もどれもこれもが・・・。ここに私はず~~~と不満と不快を感じていた。だがそれに対する適当な概念を持たず、説明ができなかった。ヌーソロジーは、そしてその元となるオコツト情報は、ダイレクトにここに切り込んできたのである。「観察者不在」の思考(認識)を人間型ゲシュタルト、常に「観察者」とセットの思考(認識)を変換人型ゲシュタルトであるとオコツト情報は教えてくれた!実に痛快であった。

「観察者」問題を押さえたのなら、次に重要なる問題は自然に浮かび上がる。それが「自己と他者」だ。観察者とは突き詰めると「自己と他者の関係」に集約される。ヌーソロジーの本質とはこの2点に尽きる。「観察者問題」と「自己他者問題」を根幹とする宇宙論・・・・・ヌーソロジーに出会って本当に「生きていて良かった」と感じた。

少々脱線したが、「中和のワンネス」が「思考上にのみ存在する錯覚」であることの説明をしなければならない。それは「陰と陽の二相(2サイクルエンジン)では動きようがない」ということである。もしこの陰と陽に対称性を認めれば「完全にバランスが取れている」状態となって動きようがない。では両者のバランスが崩れている、つまり対称性が破れているとすれば、このワンネスがおかしいことになってしまう。バランスの崩れているワンネスとはもうワンネスではないだろう。バランスが崩れているという時点でワンではない。

お分かりだろうか。これが「陰と陽の二相(2サイクルエンジン)では動きようがない」ということの説明である。これが四値論理(4サイクルエンジン)となると違ってくる。ねじれをもったメビウス構造で四つが一つとなった4サイクルエンジンにおいて、ねじれが見える状況、つまり4つが全部見える状況では「万有の無」として完全にバランスが取れている。そして実在としては真ん中のねじれを境に反転した二つの領域に分かれ、それぞれの領域においては陰陽の対称性が破れて動きが生じるのだ。クドクドと書いてきたが、太古の易経・陰陽太極図は既にこのことを喝破していたのである。4つでないと動かない、つまり実相は4サイクルであるということを易経は既に見抜いていたのである。

まとめると実相は4サイクル。そして2サイクルは実相ではなく仮相なのである。仮相とは人間にはそう見えるだけということ。仮相は生命の実体には何一つ触れていないのである。その意味で思考上の存在である。「表裏一体」「中和のワンネス」を追求していけば、それは実体のないものであるから、必ず虚無に陥るということである。

■Ⅵ.中和のワンネスにおける「同じ」とは「暴力」である

まだまだ言いたいことがあるのにもうこんな長文になってしまった。またもや次回に続くということになりそうである。

尻つぼみになって申し訳ないが、最後に大切なことを書かねばならない。それは「等化のワンネスは「違い」を追求し中和のワンネスは「同じ」を追求するという本日の主題である。

その前に、以上述べてきたことをここでまとめてみよう。

・そもそもバランスからは何も生じないし、動きようがない。

・それ故に科学では宇宙の始原として「対称性の破れ」を解明しようとした。

・科学が解明したのは10億分の1の確率で生じる「対称性の破れ」のメカニズムのみ。

・つまり科学では「対称性の破れ」は偶然に起きたということを言い換えているだけ。

・一方、ワンネスとは宇宙の根源がワンであるということ。

・ワンとは完全なバランス状態である。

・そのバランス状態から「対称性の破れ」が生じることに明確な説明は見当たらない。

・非二元哲学やワンネスでは「もともと一つ」ということのみを強調している。

・そのような哲学では突き詰めると「一切は空」「全てが幻」ということになってしまう。

・結果、そのようなワンネスは思考上のワンネスとなり、実存との接点がなくなる。

・だから虚無に陥る危険性があると思われる。事実、突き詰めると空しくなる筈である。

・空しくなることの反動で極端に世俗的になることも同類。軽薄に「人間ゲームを楽しもうぜ」とか。

・メビウス四値論理はこれらの矛盾を明確に説明する。

・易経における陰陽太極図が既に同様のことを喝破していた。

・陰陽双対構造によって全体としては「万有の無」として究極のバランス状態。

・しかし片側だけを見れば単なる陰陽として「対称性が破れている」ということ。

・つまり宇宙は双子として出現したのである(双対性宇宙論)。

・等化のワンネス→陰陽太極図の全体→万有の無→全てを動かす力・実相(4サイクルエンジン)

・中和のワンネス→太極図の片側のみを全体と錯覚→仮相(2サイクルエンジン)

以上のことから、宇宙の実相としての「等化のワンネス」においては、宇宙は「究極のアンバランス」から生じたということが説明される。「自他のねじれ」である。それは宇宙の本質は「差異(違い)」であるということを意味している。「違い」が宇宙を生み出したのである。「違い」こそが宇宙における第一義、根本価値となりうるものである。

「中和のワンネス」においては、片側しか見ていないということもあるが、この生成における根本にまで思考が至っていないために、「同じ」を第一義としてしまうのである。「同じ」つまり「ワンネス」や「非二元」が宇宙の根源と見間違うのである。そうするとどうなるか?それは私たちの精神にどのような状況をもたらすのか?

それは「争い」である。「同じ」が先行してもたらすものは「争い」である。一見すると「違い」が不和や分裂をもたらすように思いがちである。だがそれは間違いだ。全ての争いは「同じ」がもたらしている。戦争は自国のルールを相手国に押しつける行為。「同じ」ルールに従わせようとする行為である。個人間の諍いも全て、他者に対して私の基準と「同じ」になれと押しつける行為だ。怒りや嫉妬、誤解なども、他者が私と「同じ」ということが前提となっている。「違い」から怒りや嫉妬がどうして生まれよう?「違い」は理解を生み出し、その結果として「和合」をもたらすことだろう。また自分が自分自身に対して「同じ」を押しつける行為も深刻である。この事については次回詳しく述べることにする。

ヌーソロジーは一体何をもたらそうとしているのか。「違い」である。全てをバラバラにしようとしているのである。もう徹底的に、これ以上分けられない、つまり「唯一無二」になるまでバラバラにしようとしているのである。それが「内部空間」の発見である。「奥行き」のことだ。各自が唯一無二の「内部空間」を発見するまで、徹底してバラバラにしようとしているのである。これが「同一性の解体」である。

そうすると「中和のワンネス」はこの真逆を目指そうとしていることが分かる。「全てが同じ」であるとし、全てを統一しようと企てる。グローバリズム、マイナンバー、TPP・・・そういう世界経済や政治だけでなく、我々の身辺、そして心中に至るまで侵入してくる「同じ」の価値観・・・。「同じ」は生成の原動力とはなり得ない。従って「同じ」に毒されると生気を失っていくことになる・・・その先には「虚無」が待っている。

最後に一つ「時間の同一性」についても語らねばならない。「時間の同一性」についてヌーソロジーは解体を迫るだろう。アインシュタインの登場によって、私たちは間違った時間のイメージをもたされてしまっていることに気づいていない。「ドラえもん」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」・・・今まで楽しんできたSF娯楽作品の中にも深刻な落とし穴がある(私も大好きだったのに・・涙)。これらの作中に登場するタイムマシンにおいて、人は平気で時間移動をし、過去や未来の人物と出会ったり行動を共にする。一見すると科学の可能性を示し、人類知性の発展に貢献するかのように思われる。しかし・・・そうではないのである。問題点は何かというと過去から未来にいたる時間がまったく「均質的」なものとして扱われてしまっているのである。これを「時間の同一性」といい、これはアインシュタインの知見がもたらしてしまった弊害だ。これも「中和のワンネス」である。「違い」を志向する「等化のワンネス」から見れば、これは時間から生命を奪う行為である。「生命の時間」とはその都度それまでの過去を全て含むのである。これを「持続」という(ベルクソン)。したがって過去の人間と今の人間が同じ空間上にならぶということはあり得ない、とんでもない「差異」の無視である。「生命の真実=持続」から見れば、今の人間の中には過去の人間が全て含まれているのである。同じ土俵の上に並べられるような存在では決して無いのだ。つまり「過去の人間が偉大である」などという事は、一時的な教育や方便として使われるのは良いが、「生命の価値」からすればそんなことは決して無い。「生命の価値」からすれば、絶えず「今の存在」が最も価値があるのである。同様に今日よりも明日の私の方がさらに価値ある存在となる。それまでの過去を全て含むという意味において。その意味において一瞬一瞬私たちは「違う」のである。一瞬一瞬私たちは「より価値ある存在」となっている。

「中和によるワンネス」がいかに暴力的に、生命の価値を奪っていくか、少しは伝えられただろうか。突き詰めると「同じ」とは「暴力」と言い換えても構わないほどである。それほどまでにヌーソロジーでは「違い」を愛するのだ。

今回も最後は尻つぼみな内容になってしまって誠に申し訳ない。次回以降もこの「差異の哲学」について深めていくことにしよう。今後は短めの文章を数を多くアップすることに期待したい・・・て自分に対して言ってるのだが果たしてどうなることやら。

以上、今回も長文失礼しますた。次回までみなさんご機嫌よう、秋を満喫してください。