鍛錬と苦行は避けて通れないのか?!【その1】
最近の時代の風潮として、何事も厳しく追い込んで取り組んでいくことよりも
のびのびと楽しく一人一人の好きなことや個性を伸ばしていきましょ~!
みたいな流れがあるのかもしれません。
昭和の熱血スポ根(根性論)的な日々の自己鍛錬や苦労があってこそ報われる!みたいな
考え方やスパルタ指導みたいなのは、まかり通らなくなってきて
以前に比べたら随分と生温く緩くなったものだなぁ~と思ったりします。
ヨガにしろ、何にしろ、本当の自由の境地へ、いわば一流の世界へ辿り着くには
(そこにはきっと本当の意味での”遊び”や”楽しみ”が存在する悟りの世界へ広がっているのだと思います)
決して目先の楽しい、気持ちいい、面白い!だけはない地道で単調な基礎鍛錬の繰り返しや
まさに苦行とも言えるようなストイックな自己研磨を
ある程度の期間、定期的にしないと、
本当に心も身体も解放される境地へはいけないのではないか?という話をしました。
もちろんそんな境地を目指してヨガをしているわけではないという人達も多いでしょうから
それぞれの目的にあったものをすれば良いのかな?とは思います。
ただ何事も道半ばに終わるのではなく、この道の先には一体何があるんだろうという
好奇心と探求心を持って取り組むことが、自分の可能性を開く一筋の光を与えてくれることに繋がるのかなと思ったりもします。
私自身、ストイックなタイプではないのであんまり偉そうなことは言えないのですが、
基礎トレーニングの重要性というものは、常に感じていることです。
ちなみに、これはただ頭ごなしに「何事も基礎が大事だよね!」と言っているのとはちょこっと違います。
まずもって、基礎=簡単ではない。
基礎って、全然 ”楽”ではないのです! むしろ、かなり大変。
基礎をしっかり叩き込む、理解する ということをせずに
わかったつもりで形から入る人が多いこと。(これは自分で書いてて耳が痛い話ですが)
基礎と一言でいっても、様々な要素の基礎があって
1パターンの基礎をやり続けるのではなく、様々な要素の基礎をある程度網羅する(一つ一つ身をもって体験する)必要性があるのかなと思います。
そして一連の基礎を一回やったから終わり、はい次!ではなく、基礎は繰り返しやらないと身に付かないしすぐに忘れてしまう。
色んな基礎鍛錬を経験して、基礎を完全に自分のものにしてこそ、まず初めて一つ目の視界が開かれた地点に至るんだろうと思います。
物事を極めていくということは、小手先ワークではなくて、目に見えない地道な鍛錬に本気で取り組んでいく素直な姿勢がきっと必要なんでしょう。
華やかに見える成功者も、天才性という幸運を持って生まれたように見える超一流のアーティストも
どこかで目に見えない努力をしているのではないかと思うのです。
きっと血が滲むようながむしゃらな努力ではなく、正しい努力をされているのでしょうが。
ヨガの場合は、「身体的な鍛錬」と「身体を痛めつけること、形にこだわり自分の限界を超えて怪我をしてしまうこと」を誤らないように注意しないといけません。
最近20年ぶりにピアノを再開して、地道な日々の鍛錬がいかに大切か身をもって感じています。
こんな歳になってから再開したんだから自分のために楽しんでできたらと思うのですが、
(別にピアニストを目指しているわけでもないし、単に下手の横好きですからね)
でも本当の意味で楽しむためには、やっぱりそれなりの鍛錬が必要なんですよ!
こないだ陰ヨガクラスの中で、”ハノンと悟りの60番”の話をしましたが
またその話は次回に書こうかなぁと思います。
ジジコせんせー、ここで寝落ちしないで下さい。