わたしについて<帰国編>
こんにちは。
前回の続きです。
帰国の予定を1年ほど前に知らされた私は、そこから日本語の特訓を始めました。
それまでひらがなくらいしか読めなかったので、まず漢字を覚えなければなりませんでした。
小学校4年生までというと600字以上です。当然帰国までに全部は覚えられなかったものの、母がお手製の漢字カルタを作ってくれて、遊びながら勉強したのを覚えています。
あとは通信教育です。
学校では普通に現地の子たちと勉強し、家に帰ると日本語の勉強です。
言葉もたいへんでしたが算数も当時の感覚では日本の学校が1年ほど先に進んでいるかんじだったので、なかなか追いつけなかったです。
そんな状態で帰国した日本は、ネオンがピカピカ、デパートにエスカレーター、1日中カラーテレビが放送されてチャンネルが選べる(当時のイタリアは国営ほぼ1チャンネルのみの時間限定の白黒放送でした)、道に馬糞が落ちていない、夢のワンダーランドでした。
しかし学校が始まると朝礼を見てびっくり。
なぜこんなにきれいに並べるの?「マエヘナラエ」ってどういう意味?鐘が鳴ると無言でどこに行くの〜?
もうわからないことだらけでした。
並んだこともなければ無言で校内を歩くこともない自由でお話好きな国から来たのですから当然です。授業も理解できないし、なんと言っても日本の『ノリ』がまったくわからない。
外国人が訪れた国で道を聞くようなのって言葉を覚えればできるんですよ。
でもその国の『ノリ』みたいなものって、肌感覚で習得していくしかないのです。
それから食べ物も合わなかったです。今は大好きですが、和食に慣れていなかったのです。
当時海外で日本食を手に入れるのはたいへん難しいことだったし、私の母は「せっかく海外で生活しているなら現地の人と同じ食事をしましょう」という考えだったのです。
私は今でもこの考えに大賛成で、よほどハードルが高いと感じる食べ物でもでない限り(?)その国の食文化も体験した方が、現地を知って馴染むには良いのではないかと思っています。
とにかくそのような食生活だったので日本から送ってもらうインスタント食品や缶詰は貴重品でした。私は今でもインスタントラーメン、特に本格的なタイプではなく昔からあるサッポロ一番のようなのが大好きです(笑)
でも困ったことばかりでもなく、縁日や桜や、ピンクレディやドリフや、そしてクラスで浮いていた私となぜか一緒に遊んでくれた2人の男の子たちと過ごす時間のような楽しいこともいろいろありました。
また続き書きます♪