臨戦態勢の #大和座り と 誠意の #正座 #3.3.23
爪先を立てた跪座ではなく、
足を重ねる正座でもない、
足を平行に伸ばした浮身の座法、大和座り。
京都三千院の阿弥陀三尊。『阿弥陀如来』(中央のご本尊)の脇侍である『観音菩薩』(向かって右)と『勢至菩薩』(同左)の座り方が『大和座り』である。
この大和座り、正面から見ると一見、正座に見えるが、脇侍の菩薩様は上体を一寸前に倒し、腰を浮かせて合掌し、娑婆から来る死者を「さあ今迎えに来ましたよ」と身を乗り出して浄土に向かう者を迎える姿を表しているという。
http://www.sanzenin.or.jp/guide/heritage.html
『勢至菩薩』
智慧の光で六道に迷う衆生を照らし救いの道を示す菩薩。来迎の際は観音菩薩が蓮台に載せて運ぶ魂に合掌します。
※来迎:往生の際に阿弥陀如来が観音とともに迎えに現れ、極楽浄土へ連れて行くこと
勢至菩薩の真言は
オン・サンザンサク・ソワカ
『観音菩薩』
慈悲を司り、衆生を教化する役割を持つ菩薩。多くは独尊で祀られますが、阿弥陀三尊として祀られる際は来迎を意味し、往生するものの魂を運ぶ役割を担います。両手のひらの上の蓮台に死者の魂をのせて運びます。
観音菩薩のご真言は
オン・アロリキヤ・ソワカ
武術と医術 人を活かすメソッド
甲野義紀、小池弘人 共著(集英社新書)のpp178に大和座りが紹介されている。
『「大和座り」をやると、不思議と下丹田に力が集まってきて、下腹がぐっとまとまってくる強さがハッキリ分かります。』と書かれている。
正座との違いはどこにあるのか?
ー『屏風座り』は『馬歩』と合わせて別の機会に考察したい。
下記の「正座のルーツ」
には、正座は相手の臨戦態勢を挫くものという趣旨の事が書かれている。
『徳川三代将軍家光は、家臣と対面する時にいつも「この者達が、いつ自分に斬りかかってくるか分からない。」という恐怖心を抱いていたそうです。そして、これを避けるために考えたのが「正座」という方法でした。
「家臣を正座させて長く座らせれば、足が痺れて直ぐには立てないであろう。」
と考えたのです。』と、、。
小具足腰之廻も居合も、正座から始めるよりは、跪座立ちから始める方が動きやすいが、
江戸時代という武家同士の争いを法によって律した時代背景の中で、生き残った武術の形の中にも、正座が取り込まれたと推察する事もできる。
われわれが居合や小具足腰之廻を稽古している時には、自然と「大和座り」に近い「正座」になっているかも知れない?と考えると、下腿の鍛錬の為にも「大和座り」に近づける意識をして「正座」を試みるのもひとつの稽古方法かも知れないと考える。
居合での正座の方法としても、足の親指は重ねず、いつでも動けるような状態の正座が望ましいからです。
もう一段階進めて考えると、正座は相手に対する誠意(敵意なし)を示すものであると心得る一方で、臨戦態勢で備えるためには、小具足腰之廻や居合も、跪座や立膝から始める事にも慣れておくように稽古しておく必要があると心得ておくべきなのかも知れない。
そう考えると、作州居合の『立膝』は、移動した場合に戻る為の便法としてではなく、初動の構えであり、立膝に構えることを型の中に織り込んで隠したとも考えられないか?などと想像が膨らむ。
その一方で、備中居合は、かしこまる型を避けて、蹲踞から始めるか、立った状態から始める型として敢えて残したのではないか?とも考えられる。