ちょっとした嫌がらせ
「じゃあルイス、留守を頼んだよ」
「なるべく早く帰ってくるから、口直しのワインを用意しておいてくれ」
「…承知しました。お気をつけて、お二人とも」
ルイスが不満げに、それでも了解の意を返せば、その声を合図に御者は馬を走らせていく。
段々とスピードを上げる馬車が見えなくなるまで門の前に佇み、すっかり見えなくなった頃を見計らってルイスはとぼとぼと屋敷の中に入っていった。
「…兄様、いつの間に辻馬車を呼んでいたのでしょうか」
いつもはウィリアム専用になっているソファに腰掛け、ルイスは肩を落として項垂れたようにポツリ呟いた。
月が丸く輝く今宵、モリアーティ家の当主たるアルバートは夜会の招待を受けていた。
伯爵たるアルバートさえいれば他者の参加も許可されており、珍しくウィリアムがアルバートに付き添い夜会に参加すると決めたのがつい先日のことだ。
日頃からルイスが夜会に参加することは滅多にない。
ゆえにルイスは二人の介添人として御者の役目を果たそうと考えていたのだ。
夕刻から身支度を始めた二人の手伝いをしつつ、そろそろ馬の用意をしようかとルイスがウィリアムの元を離れようとした瞬間、玄関ホールから呼び出しのベルが鳴った。
誰か訪ねてくる予定はなかったはずだが、管理する土地に住む人間が何かの用事を携えてやってきたのかもしれない。
ルイスは待たせまいと急いでホールへと向かい扉を開けたが、そこには見慣れた制服を着た男性と馬の姿があった。
どう見ても管理する土地に住まう人間ではない。
何用だろうかとルイスがぱちぱちと目を見開いていると、後ろからアルバートに穏やかな声をかけられた。
曰く、彼はアルバートが呼び寄せた御者であるらしい。
その制服と馬の存在を見ればルイスとてすぐにそれは理解出来たが、何故このタイミングで御者が屋敷を訪ねてくるのだろうか。
ルイスが疑問を抱きながらアルバートを見上げているとウィリアムも近付いてきて、何を言う隙もなく二人とも馬車に乗り込んでは屋敷を旅立ってしまったのだ。
ウィリアムとアルバートの介添人として御者の役目を果たそうと考えていたルイスは、出かける前からあっという間に出鼻を挫かれた。
「……はぁ…」
別に夜会に参加したかったわけでも、御者をやりたかったわけでもない。
ただウィリアムとアルバートの役に立てず、一人留守番を言い渡されたことが悲しいのだ。
どうして自分を連れて行かず、わざわざ市中の御者を呼び寄せたのだろうか。
何やら納得がいかないけれど、それがアルバートの意思ならばルイスはただ忠実に従うのみだ。
そう自分に言い聞かせてみるがもやもやは晴れなくて、ルイスは自室に戻り昼間交換しておいたシーツに埋もれてふて寝した。
「あーあーあー…」
意味もなく声を出してみたけれど反応してくれる人は誰もおらず、今この屋敷に一人なんだなぁと実感してしまう。
一人はあまり得意ではない。
生まれたときからウィリアムがそばにいてくれたし、アルバートが兄になってくれてからは彼もそばにいてくれたのだから。
けれど彼らのいない屋敷の留守を守ることは大切な役目なのだからと、ルイスは渋々ベッドにうつ伏せ二人の兄を思い浮かべた。
本当なら今頃二人のために馬を走らせて、どこぞの貴族が所有する煌びやかなホールに向かっている最中だったはずだ。
そういえば、どの貴族からの招待だったかすらも教えてもらえていなかった。
何か理由があるのだろうが、無性に仲間外れにされた心地がして心の中のもやもやが募っていく。
すぐ近くには待機中に食べようと用意しておいたサンドイッチの入った簡易的な容器がある。
帰宅してから夕食を摂るのでは遅くなるし、馬車の中で食べておけば帰ってすぐ自由になれるとわざわざ用意しておいたのに、これも結局無駄になってしまった。
二人を待ちながら食べるつもりだったのに、何が悲しくて二人の気配漂う自分の部屋で二人を思いながら食べなければならないのだろう。
「…はぁ…無駄にするわけにもいかないし、食べなくては」
サンドイッチの具材は無意識に兄達の好物を思い描いていたようで、スモークサーモンの入ったものとキュウリの入ったものの二種類だ。
食べていると二人に置いていかれた事実をまじまじと思い知らされて何となく惨めになるし、ますますもって寂しくなる。
こんなことなら自分の好物を入れたサンドイッチを作っておくべきだったと後悔するが、元より自分自身にはっきりした好物などないことを思い出し、またもルイスは不貞腐れるのだった。
「さてウィリアム。今夜はどのようなプランを考えているんだい?」
「彼はあの日のことを覚えてはいないでしょうから、敢えて思い出させる必要もないでしょう。ここはひとつ、彼主催のパーティで一際惨めな思いをしていただくとしましょうか」
「それは名案だな」
「えぇ、そうでしょう?」
走っている馬車の中、アルバートとウィリアムは向かい合った姿勢で楽しげな表情を浮かべて会話をする。
その瞳は決して笑ってはいないのだが、互いに承知の上で形だけは朗らかな空気を纏わせていた。
二人の記憶には先月知り合ったばかりの次期伯爵たる一人の男性が刻み込まれている。
お前のような化け物が本当に招待されたのか?ハッ、物好きもいたものだな。
どうしても躱しきれなかった社交界にルイスを参加させたところ、同じ招待客であった彼は分かりやすくルイスを嘲笑した。
咄嗟にウィリアムがその背にルイスを隠したけれど、ルイス本人はいつものことだと慣れ切った様子で顔を伏せて平然としていた。
傷付きすぎて幾重もの壁の奥に隠されたルイスの心を暗示しているようで、ウィリアムが思わず眉を下げたけれど、そんな二人の様子に気付くことなく彼は周りを巻き込んでは口汚くルイスを罵っていく。
その状況に気付いたアルバートが前に出てその場を収めたけれど、あのとき受けた屈辱を忘れたことはない。
可愛い弟を侮辱されたのだから、兄が怒るのは至極真っ当なことなのだ。
私欲で悪を捌くなど絶対にしたくないしするべきではないが、それ以外での趣向返しならば許されるだろう。
あの日のことを忘れているのか、彼はのうのうとアルバート宛に夜会への招待を出したのだから都合が良い。
聞けば無類の女好き、パーティで見繕った複数の女性と関係を持っては嬲ることを気に入っているらしい。
そんな人間がわざわざアルバートを招待したのだから、おそらくはアルバート目当ての貴婦人を呼び寄せては奪うという目的があるのだろう。
随分とまぁ下衆なことだ。
だがそうであるならばウィリアムにとってもアルバートにとっても、実に都合が良いのだ。
「今宵はまた随分とお綺麗ですね、ミス・バーナム」
「あらお上手ですわね、アルバート様」
「おや、世辞だと誤解されるなど悲しいことだ。あなたの美しさはこれほど確かなものだというのに」
「まぁ…」
「ミス・ウェストン、あまり飲みすぎてはいけませんよ。私が今日言ったこと、酔って忘れられてしまっては困ります」
「ウィリアム様…」
「今宵、あなたほど魅力的な女性は他にいないでしょうね。いつ誰の牙があなたに届くか、私は気が気ではありません」
「まぁそんな」
煌びやかなパーティ会場に君臨する、若く美しい伯爵と天才数学者。
見ているだけで十分過ぎるほどに麗しい二人が、珍しく積極的に参加者たる貴婦人達をエスコートしている。
普段はあまり他者と関わることなく最低限の交流を持つ程度の二人が、幾人もの女性を褒めそやしては優しく微笑みかけているのだ。
結果として会場中の女性の視線は総じてモリアーティ家の当主と次男に向けられており、他の男性は不満げな様子を滲ませながらひたすらにアルコールを煽っていた。
当然、ホストである彼もその一人だ。
「っち…モリアーティの奴、何だってあんなにいけ好かねぇんだ」
男は苛立ったようにパイプを手に取り、肺の中全てを煙で満たすように大きく息をした。
本当ならば、ここで数人の女を見繕い部屋へと連れ込む算段だったというのにとんだ誤算だ。
モリアーティの名を出せば深窓の令嬢すら引き出せると知ったから招待したのだが、これでは意味がないではないか。
客寄せのために呼んだはずが計算違いだったかと、男が苛立たしげに舌打ちすれば、その様子に恐れた女性はますます彼から離れていく。
それが余計に苛立ちを煽り、男は逃げていった女をキツく睨みつけた。
「おや」
「あぁ?」
近くから声がしたかと思えば、目の前には苛立ちの原因であるモリアーティ家の伯爵たるアルバートと次男たるウィリアムがいた。
そばには彼らを取り巻くように幾人もの女性が戯れている。
胸糞悪いその光景に心の中で舌打ちをして、何の用だと男は二人の顔を見た。
恐ろしいほどに美しいその笑みは見惚れるどころの話ではない。
瞬間、ぞくりとするような恐怖を自覚してしまった。
「ホストであるはずのあなたが、何故このような隅に居られるのです?」
「ぇ…」
「気分でも悪いのですか?そうでなければこのような場所にいるはずがないでしょうから」
「い、や…そうではない、そうではないのだが…」
「では、こんなところで一体何をされているのです?」
主催ともあろう人が、まるで人望がないかのようにたった一人佇むなんて。
アルバートとウィリアムは男を見下して惨めだと憐れみながら、いかにも優しく手を差し伸べる。
けれどその目は決して笑っていないし、空虚な苛立ちに満ちていることがよく分かってしまう。
一人の女性も捕まえることが出来ず、むしろ逃げられているこの現状。
多くの視線を集めてはその美貌と優れた頭脳を見せつけるモリアーティ家の人間は、男にとって圧倒的な格上だった。
しかもそれだけではなく、二人からははっきりとした怒りを向けられている。
年はそう変わりないはずなのに、絶対に敵わないと突き付けられるようなひりついた感覚。
男はこの瞬間、自分が弱者なのだと唐突に理解してしまった。
「…失礼する。楽しんでいきたまえ、モリアーティ」
「えぇ。あなたも無理はなさいませんよう」
「お大事に」
ホストである人間がその場を後にしたというのに誰も気にかける様子がない。
可哀想なことだと、ウィリアムは心にもないことを思いながら顔色悪く裏へと下がっていく男を見送った。
彼が持つ男としての矜持に傷を付けることくらいは出来ただろう。
ルイスが無意識に抱いた傷はそんなものではすまないが、嫌がらせとしては上々だ。
あの男に嬲られる予定の女性を助けることも出来たのだから今日の成果は十分だろうと、ウィリアムはアルバートに目配せをしてこの場を退散すべく頭脳を働かせた。
(お帰りなさい、アルバート兄様ウィリアム兄さん!)
(ただいま、ルイス)
(変わりなかったかい?)
(はい。兄様の言いつけ通りワインを用意しております。付け合わせにはチップスとチョコレートの両方を用意しました)
(ありがとう、早速いただこうか)
(分かりました、すぐに準備します。…あの、今夜はどなた主催の夜会だったのでしょうか)
(大した家ではないよ、ルイスが気にすることでもない)
(…大した家ではないのに、お二人揃って出向くのですか?)
(少し用事があってね)
(用事とは?)
(ふふ、ちょっとした嫌がらせだよ)
(はぁ…?)