「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」1 パリ到着
「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」1 パリ到着
「汽車にて夕四時仏都巴里欺(パリス)へ着きぬ。・・・巴里都中央のカプシンヌ街なるガランドホテルに投宿せり」(『渋沢栄一滞仏日記』)
一行は、慶応2年3月7日(1867年4月11日)夕刻、横浜を発ってから56日目にパリに着く。宿泊する「グランドホテル」が建てられたのは5年前の1862年。第2回パリ万国博覧会に訪れる観光客を収容するのに既存のホテルでは間に合わないことに気づいたパリ市が、建設の決まったオペラ座のすぐ前のキャピュシーヌ大通りにオペラ座と見合うような大規模なホテルを建てることを決定。鉄道王ぺレール兄弟が経営する不動産会社にこの土地を割り当てた。ぺレール兄弟は、第1回パリ万博のさいに、ルーヴル宮殿の前にルーヴルホテルを建てた経験があったので、英米の観光客の喜びそうな快適で豪華なホテルを短期間のうちに建設した。
ちなみに、渋沢は残念ながらオペラ座の豪華な内部を見ることはかなわなかった。オペラ座の建設工事は1861年から始まったが、途中で地盤の悪さが発見され、工事完成は大幅に遅れた。ナポレオン3世は、1867年のパリ万博に間に合わせたかったようだが、結局、この年にはファサードが完成したにとどまった。オペラ座が完成するのは、ナポレオン3世が亡命先のロンドンで世を去った後の1875年のことである。
グランドホテルの立っていた「キャピュシーヌ大通り」というと、モネ「キャピュシーヌ大通り」が思い浮かぶ。1873年から1874年にかけて制作され、現在ネルソン・アトキンス美術館に収蔵されているものと、プーシキン美術館に収蔵されているものの2つがある。モネは、無数の人々が行き交う大通りの活気を表現しようとしたが、黒い単純な筆触で描かれた大通りを行き交う群衆の姿は「よだれの跡」と酷評された。1874年の第1回印象派展に出品されたプーシキン美術館の作品について『ル・シャリヴァリ』紙に掲載されたルイ・ルロワの記事(「印象派の展覧会」1874年4月25日)である。二人の登場人物の会話。
「絵の下の方でまるで涎のあとのように見えるあの無数の縦長の黒いものはいったい何を表しているか教えていただけんかね」「あれは、歩いている人ですよ」と私は答えた。「それじゃあ、わしがキャプシーヌ大通りを散歩しているときはあれに似ているというのか・・・・。このいかさま野郎め。きみは要するにわしをからかっておるんじゃろう」
少数派だったとは言え、エルネスト・シェノーのような肯定的評価もなくはなかったが。
「これまでこの素晴らしい『キャピュシーヌ大通り』ほど、埃と光の中のおびただしい数の群衆の動き、道路の上の馬車と人々の雑踏、大通りの木々の揺れ、つまりとらえがたいもの、移ろいやすいもの、すなわち運動の瞬間なるものが、その流れ去る性質のままに描き留められたことはかつてなかった。」(『パリ・ジュルナル』紙 1874年5月7日)
第1回印象派展が開催された場所は、このカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダールが使用していたアトリエであった。1860年当時のその建物の様子は、ナダールの写真に残されている。
ところで、19世紀フランスの美術批評家エルネスト・シェノー(1833-1890年)と言えば、時代美術を論じた人物としてよりも、日本美術を先駆的に論じた者としてよく知られている。1878年「パリの日本」“Le Japon à Paris”(美術史の専門誌『Gazet des Beaox-Arts』に掲載された論文)で、1867年の万博以前からの日本美術蒐集の実態とフランス美術に与えた影響について述べている。
「日本美術の趣味がパリに確実に根を下ろし、愛好家たちや社交界の人々に伝わり、その後工芸品に幅を 利かせたのは、わが国の画家たちを介してである。・・・・その熱狂は、導火線の上を走る炎のような素早さで、すべてのアトリエに広がった。人々は、構図の思いがけなさ、形態の巧みさ、色調の豊かさ、絵画的効果の独創性、と同時にそうした成果を得るために用いられた手段の単純さを飽くことなく嘆賞した。」
「グランドホテル」(現インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン)
大食堂 豪華絢爛な昔日の面影を残している
「グランドホテル」(現インターコンチネンタル・パリ・ル・グラン) 右がオペラ座
1873モネ「キャピュシーヌ大通り」プーシキン美術館
1874モネ「キャピュシーヌ大通り」ネルソン・アトキンス美術館
第1回印象派展が開催された、写真家ナダールのアトリエ 1860年
エドゥアール・ヴィルマン 「1860年のパリ」
1890年頃 グランドホテルとオペラ座広場